【アポリアの彼方1:第八章 魂なき祝詞】
──ザラム教国の外縁部、共鳴障壁の“外” ユウトは、夢に導かれるようにして歩いていた。
意識と無意識の境界が曖昧なまま、彼はいつの間にか祝詞空間と呼ばれる、音も記憶も歪んだ領域へと足を踏み入れていた。
風が、吹いていた。 それは現実の風ではなく、感情と記憶の断片が混じった、“魂の風”だった。
──あの日も、風が吹いていた。
白昼夢が、彼を引き裂いた。
高校を卒業して間もない頃、ユウトは大学進学を控えていた。
東京心響大学・哲学思想学科に合格し、父親に車を買ってもらったユウトは、妹・遥香を迎えに行く途中だった。 助手席の遥香は、いつものように窓の外を眺めながら、片耳にイヤホンをして笑っていた。
その時、ユウトはスピードを出しすぎていた。 前方に現れた障害物を避けきれず、車はハンドルを切ったまま電柱に激突した。
光。 衝撃。 血の匂い。
耳に残るのは、妹の名を叫ぶ自分の声だけだった。 遥香は助手席で、虚空を見つめたまま動かなくなった。
「自分のせいで妹が死んだ」 その罪の意識は、彼の魂に深く刻まれていた。
母は激しくユウトを責めた。 「どうしてあんな無謀な運転をしたの!」 父は何も言わなかった。 ユウトと目を合わせることさえなくなった。
家族は崩壊した。 父と母は離婚し、ユウトは父の実家に引き取られた。 大学には進学せず、社会に出ることも拒み、彼は部屋に引きこもるようになった。
彼は、大人になることを拒んだのだ。
現代資本主義の中で必要とされる「魂の割礼」──個を手放し、名を与えられ、意味を持たされる通過儀礼。 それを、彼は受け入れることができなかった。
彼は永遠の子供として、時間の止まった部屋で、生きていた。 ある日、彼は過剰摂取により、自ら命を絶とうとした。
その時、彼の魂は境界を越え、アポリアへと転生したのだった。
──それでも、心のどこかで祈っていた。 妹がどこかで生きていてくれたらと。
その願いが、彼をこの世界へと導いたのかもしれない。
そして今、彼の魂は“誰かの魂”と呼応しはじめていた。
祝詞空間の奥で、リリス──ザラム教が魂を固定化するために与えた偽名を持つ少女の魂──の残響がわずかに震えた。
彼女の本当の名前は、もうユウトの記憶の奥に沈んでいる。 だがその揺らぎは、確かに知っているものだった。
それは、名前でも、言葉でもなかった。 ──ただ「誰かを想う」気持ちだった。
ユウトはそれを、無意識のうちに受け取った。
手が震えた。 涙が流れた。 自分でも理由がわからなかった。
「……はるか……?」
名を呼んだ。 口が勝手に動いた。 その名に込めた意味を、まだ思い出せないまま。
だが、魂は確かに答えていた。
共鳴が、始まりつつあった。 祝詞空間のひびが、静かに走る。
その破れ目の向こうから、誰かが“目覚める”気配があった。
ここまで読んでくださった方へ、心からの感謝を。
第七章「共鳴都市エンパシア」では、感情が価値となる経済圏――「共鳴通貨(エンパシアMP)」という仕組みを通して、「魂の取引」がもたらす倫理と歪みを描きました。
“名前を持たぬ想い”が、都市の中心で価値として流通している構造は、貨幣という幻想に縛られた現代社会への静かな問いかけでもあります。
続く第八章「魂なき祝詞」では、ザラム教国が持つ“言葉と秩序の暴力”を真正面から描きました。
リリスの力が、名も記号も持たない“無言の魔法”として再び動き出し、世界の価値体系が根底から揺らぎ始めます。
魔法とは詠唱ではなく、「誰かを想う祈り」であり、
祝詞とは律法ではなく、「誰かを忘れないという決意」であると信じて。
読者の皆さんが、この物語の“風”を感じ、ほんのひとときでも記憶の扉を開いてくれたのなら、これほど嬉しいことはありません。
次はいよいよ、終章に向かって走り出します。
最後まで、どうぞ物語の共鳴に耳を傾けてください。
シニフィアン
【アポリアの彼方1:目次】
◆プロローグ 名前を失った夜、世界が反転した
◆第一章 言葉なき地に降る名
◆第二章 名のない対話
◆第三章 ザラムの誓約
◆第四章 命の重さ、記憶の値段
◆第五章 魂の値段、風の記憶
◆第六章 夢より来たりし名
◆第七章 共鳴都市エンパシア
◆第八章 魂なき祝詞
◆第九章 虚ろなる鏡
◆第十章 名のない詩(完結)
──失われた記憶と、語られなかった名前の物語。