【アポリアの彼方1:第五章 魂の値段、風の記憶】
──この世界には、貨幣がない。 しかし、人々は“支払っている”。 命を。記憶を。魂の一片を。
秋月ユウトは、初めてそれを目の当たりにした。
風が吹き抜けた。その風は音を持たず、匂いも持たず、ただ“誰かの記憶”のように胸を掠めた。 村の市場。そこには品物も、金もなかった。だが、確かに“取引”は行われていた。
「……これが、彼らの“魔法”か」
彼の隣で、老いた長が微笑んだ。言葉ではなく、魂で語りかける。
──“価値”は、魂の揺らぎから生まれる。 ──“通貨”は、願いの断片。
そう、それは《願望媒介術:アンカー・ウィッシュ》。
ユウトの視界が歪む。空間が微かに脈打ち、視えない言葉が浮かび上がる。 彼は詠唱したわけではなかった。ただ、想った。
「もう一度、風の中で彼女に出会いたい」
アポリアの書が反応し、白い頁が開く。 風が流れ、過去と未来の境界が揺らぐ。
《願望媒介術:アンカー・ウィッシュ》発動。
その風の中に、誰かの声があった。
──“名前”を、呼ばれた気がした。
「……リリス……」
その瞬間、胸の奥に焼き付いていた記憶が淡く光り、そして霧のように溶けていった。
「……あれ、今……俺は……何を……」
ユウトは自分が何か大切なものを、たった今失ったことだけを理解していた。 その喪失感が、彼の中で魔法となった。
ザラム教国の密偵たちは、それを遠くから観測していた。
「魂を、通貨に変えている……」 「異端だ。これは、神の法への反逆だ」
ザラムが認識したのは、“魂の通貨”という構造そのもの。
経済と魔法、信仰と詠唱。
秋月ユウトの存在そのものが、“揺らぎ”の源になり始めていた。
──リリスとの出会い。名前を呼んだ、その感情。 どこかに在った確かな愛情が、ぼんやりと霞んでいる。
記憶を代償に、魔法が生まれる。 魂の奥底から湧き上がる風が、言葉にならない願いを空に運ぶ。
そして、アポリアの書が新たな頁を開く。
その頁には、こう記されていた。
──“命の価値は、忘却の中にある”。
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【アポリアの彼方1:目次】
◆プロローグ 名前を失った夜、世界が反転した
◆第一章 言葉なき地に降る名
◆第二章 名のない対話
◆第三章 ザラムの誓約
◆第四章 命の重さ、記憶の値段
◆第五章 魂の値段、風の記憶
◆第六章 夢より来たりし名
◆第七章 共鳴都市エンパシア
◆第八章 魂なき祝詞
◆第九章 虚ろなる鏡
◆第十章 名のない詩(完結)
──失われた記憶と、語られなかった名前の物語。