【アポリアの彼方1:第四章 命の重さ、記憶の値段】
──神は本当に、唯一なのか。 ──言葉とは本当に、祝福なのか。 ザラムの思想はユウトの魂を試す。
静寂の夜を越え、ユウトは再び歩き出した。 ザラム教国の厳格な秩序、律によって制御される祝詞型魔法、そのすべてが彼に「一なるもの」の重さと危うさを刻みつけた。
だが同時に、彼の中に芽生えた疑問があった。 なぜ、あれほどまでに“変化”を恐れるのか。 なぜ、“増殖”を拒み、“流動”を罪とみなすのか。
その答えを求めて、彼は“辺境”と呼ばれる地域に向かっていた。 そこには、かつて“貨幣”に似た概念が存在したという。 ただし、それは金でも銀でもなかった。
──魂を宿す力。
村人たちは「命のしずく」と呼んでいた。 それは、記憶の断片、感情のきらめき、そして“未だ言葉にならない願い”の集積。
この村では、人はそれを差し出すことで交換を行い、暮らしを成り立たせていた。 つまり、命の時間と記憶こそが通貨だったのだ。
ユウトが訪れたのは“ヴァレ・トゥルム”──“塔の谷”と呼ばれるその村だった。 かつて“観測者”を名乗る放浪者が残した古い碑文には、こうあった。
「命の値段は一日ずつ。 記憶の値段は一瞬ずつ。 魂の値段は、取り返せない。」
彼らの「貨幣」は、祈りにも似ていた。 市場では、交換所で“アストラルストーン”と呼ばれる輝く石に感情の欠片が封じられ、保存されていた。
石の輝きは人によって異なり、それぞれが持つ記憶と感情の強さによって価値が決まる。
ユウトが差し出せるものは、何もなかった。 いや──唯一、持っていたものがあった。
“書”。
アポリアの書が、ひとりでに頁をめくり始めた。
ページにはこう記されていた。
「魔術とは、観測と定義である。 だが、それを可能にするのは、観測者の魂が持つ“揺らぎ”である。 世界は、それを代価に変換する。」
──つまり、この世界の魔術は経済だった。
魂を媒介に、命を切り売りし、記憶を交換し、感情を流通させる。 そのすべてが、“価値”を形成していた。
ユウトは理解する。 あの祝詞では、決してこの世界を動かせない。 固定化された神の定義では、魂の重さは測れない。
だから彼は、書を手にして、呟いた。
「おまえは……誰かの涙だったのか」
その瞬間、アポリアの書が強く輝き、空気に“音”が生まれた。
誰かの悲しみが、風のようにユウトの頬を撫でた。
その感情は、交換されたものではない。 確かにそこに“生きていた”ものだった。
──世界は、名前ではなく、命で動いている。
そう気づいたとき、ユウトの中で“詠唱”が芽吹く。 彼自身の言葉ではない。 魂の奥底に残る、ある少女の声。
「呼ばれなかった想いよ、ここに在れ」
その瞬間、“魔術”が生まれた。 代償は、ユウト自身の“ひとつの夢”だった。
それでも彼は構わなかった。 この世界に“価値”を取り戻すためなら。
──第五章、開かれる頁には、新たな観測が記されている。
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【アポリアの彼方1:目次】
◆プロローグ 名前を失った夜、世界が反転した
◆第一章 言葉なき地に降る名
◆第二章 名のない対話
◆第三章 ザラムの誓約
◆第四章 命の重さ、記憶の値段
◆第五章 魂の値段、風の記憶
◆第六章 夢より来たりし名
◆第七章 共鳴都市エンパシア
◆第八章 魂なき祝詞
◆第九章 虚ろなる鏡
◆第十章 名のない詩(完結)
──失われた記憶と、語られなかった名前の物語。