【アポリアの彼方1:第二章 名のない対話】
──言葉がなければ、心は通わないのか?
秋月ユウトは、音のない村の朝を迎えていた。 鳥は空を舞い、畑には朝露が降りている。 だが、やはり音はなかった。無音の世界は静謐であると同時に、どこか不気味だった。
彼が目を覚ましたのは、小さな茅葺きの家の中だった。 昨夜、言葉を発したことで村の者たちから隔離され、この家に“置かれた”のだ。 外に出ると、何人かの村人が畑を耕していた。年老いた女が、無言のまま彼に一つの籠を手渡す。
──働け、ということだろう。
ユウトは無言で頷き、畑に入った。 言葉が通じない。それでも、人は生き、働き、助け合っていた。 彼は、籠に野菜を入れながら、昨日の“あの光景”を思い出していた。
記録を喰らう者。 黒い影。顔を歪め、過去の記憶を貪っていた異形。 あれは、何だったのか? なぜ、自分の声に反応し、アポリアの書が発動したのか?
──あの書は、俺の何を見て開いた?
畑の隅で、一人の少年が彼を見ていた。 髪は白く、瞳は琥珀色。 彼は、ユウトに近づくと、手のひらで土をすくい、そこに一本の指を滑らせた。
砂の上に、簡単な絵が描かれていく。 それは、人間の姿。棒人間のようなものが、一冊の本を開いている。 その上に浮かぶ、“光る輪”。
──アポリアの書だ。
ユウトは思わず頷く。 少年は、さらに描く。今度は、黒い影。その影が人を飲み込み、周囲が崩壊していく様子。
──観測と記録の喪失。
それが“あの化け物”の正体なのかもしれない。 記憶を喰らう、ということは、存在そのものを曖昧にするということ。
そして、少年は最後に、一本の線を描いた。 その線は、彼とユウトをつないでいた。
──繋がっている。
「……ありがとう」 思わず漏れた言葉に、少年は笑った。 その笑みは、確かに“心”が通じたことを示していた。
その夜。 ユウトは一人、焚き火の前でアポリアの書を開く。 白紙だったページに、何かが浮かび上がる。
《言葉なき者たちは、名を持たぬがゆえに穢れなき魂を保つ。 だが、名を持つ者だけが“問い”を発する。問いは観測であり、観測は世界を定義する。 そして、定義は必ず“代償”を伴う。》
火が揺れた。 木々のざわめきが──音になった。
ユウトは、目を見開く。 世界が、少しずつ“音”を取り戻し始めていた。
そして、その音の彼方から、低い呻き声が聞こえた。
──記録を喰らう者は、まだ終わっていない。
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【アポリアの彼方1:目次】
◆プロローグ 名前を失った夜、世界が反転した
◆第一章 言葉なき地に降る名
◆第二章 名のない対話
◆第三章 ザラムの誓約
◆第四章 命の重さ、記憶の値段
◆第五章 魂の値段、風の記憶
◆第六章 夢より来たりし名
◆第七章 共鳴都市エンパシア
◆第八章 魂なき祝詞
◆第九章 虚ろなる鏡
◆第十章 名のない詩(完結)
──失われた記憶と、語られなかった名前の物語。