【アポリアの彼方1 :第一章 言葉なき地に降る名】
──言葉を持つ者は、呪われる。
秋月ユウトが目を覚ましたのは、夜の匂いが染みついた土の上だった。雨のあとか、朝露か、草の先端には透明な雫が残っている。
──ここはどこだ?
問いを発した瞬間、自分の声に驚いた。 静かすぎたのだ。 風の音も鳥の声もない。生き物のざわめきが一切なかった。
彼はゆっくりと起き上がり、周囲を見渡した。目の前には奇妙な集落──村のようなものがあった。石造りの建物、畑、木造の小屋。 だが、人影があるのに、誰一人として喋っていなかった。
──音が……ない?
彼が一歩踏み出した瞬間、空気がピンと張り詰めた。 何人かの村人がこちらを見た。目は合ったが、何も言わない。
彼は反射的に言った。 「……すみません、ここは……」
その瞬間。
風が止んだ。村人たちがいっせいに彼を見た。まるで、異物を見つけたような視線だった。
「名を持つ者よ──」
声が頭の中に響いた。口ではない。思考とも違う、もっと深い場所からの響きだった。
老いた長が、杖をついて近づいてくる。
「ここは、“言葉なき者たち”の地。名を語ることは、死と同義」
老人の言葉は、声ではなく、心に直接響く“共鳴”のようなもので伝わってきた。
「この星では、“名”を持つことが魂の固定を招く。記号化された魂は、やがて“死”へと沈む」
それは、逆説だった。
──名とは力であり、呪いである。
彼の名は秋月ユウト。
彼は名を持っていた。だからこそ、この世界の掟において、彼は“異端”だった。
だが、それでも彼だけが“アポリアの書”を開いた。
◇
村に身を寄せながら、彼は徐々に理解していった。 この地では「言葉を使わない」。いや、使えない。音を発すると、魂が“捕捉”されてしまうからだ。
人々は記憶を石に刻み、感情を振動で伝え、意思を視線と所作で交換する。
それは、ある意味では“高度な沈黙”の文明だった。
──けれど、彼は名前を呼ぶ存在だった。 彼は、異物であり、観測者であり、起動者だった。
◇
そして“それ”は現れた。
記録を喰らう者。
それは墨のような影だった。 他人の顔を模しながら、その“記憶”を貪る獣のように。
村の誰も、動けなかった。誰も“言葉”を持たなかったから。 言葉がなければ、魔法も、意思の伝達も、戦いもできない。
その時、ユウトは叫んだ。
「やめろ! 俺たちは──生きてるんだ!」
その瞬間。
アポリアの書が白く輝いた。 ページが開き、空に“文字”が現れた。
名が降った。
──その名は、リリス。
彼の叫びが、世界に“観測”をもたらした。 言葉なき世界に、初めて“名前”が生まれた。
同時に、空気が震え、風が吹き、鳥が羽ばたき、火が爆ぜた。
それは、この星の再起動だった。
◇
だが、その問いの答えは、この世界の奥深く──ザラム教国と呼ばれる一神教の地に隠されている。
一神教とは、自らの存在の奥に「変化しないもの」「生成しないもの」を見出す思想。 それは魔術や偶像の否定であり、記号と象徴の制御であり、貨幣と信仰の結合だった。
神の名を持つことは、同時に呪われることであり、祝福されることでもあった。
秋月ユウト──名を持ち、書を開き、言葉を呼び起こした少年。 彼の存在が、この世界の“矛盾”を揺り動かす鍵となる。
まだ彼は、その意味を知らない。
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【アポリアの彼方1:目次】
◆プロローグ 名前を失った夜、世界が反転した
◆第一章 言葉なき地に降る名
◆第二章 名のない対話
◆第三章 ザラムの誓約
◆第四章 命の重さ、記憶の値段
◆第五章 魂の値段、風の記憶
◆第六章 夢より来たりし名
◆第七章 共鳴都市エンパシア
◆第八章 魂なき祝詞
◆第九章 虚ろなる鏡
◆第十章 名のない詩(完結)
──失われた記憶と、語られなかった名前の物語。