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ベタベタの千円札

掲載日:2025/05/13

 ベタベタになった千円札が、右ポケットの中にあった。

 全体がラー油のようなオレンジ色の油で汚れている。

 受け取った時に気付かなかったのが不思議なくらい、その札は醜かった。

 僕は見なかったことにして、それをポケットに戻した。


 灰色の地面を見つめて、橋までの道を歩いていた時。

 僕はふと、昔見たある映画を思い出した。


 年老いた男性教授が、教壇に立っているシーン。

 彼は10ドル札を取り出し、問うのだ。


「これが欲しい人?」


 学生たちは一斉に手を挙げた。

 教授は札をぐしゃぐしゃに丸めて、再び問う。


「これが欲しい人?」


 学生たちは、相変わらず手を挙げる。

 教授はしわくちゃになった札を地面に放り、激しく踏みつける。

 そして黒ずんだ札を指さして言う。


「これが欲しい人?」


 学生たちは互いに目配せし、眉を顰めながらも手を挙げる。

 それを見て、教授は言う。


「どんなに折れ、踏まれ、汚れても、君たちはこれが欲しい。10ドルの価値は決して失われないからだ」


 そして続ける。


「人も同様である」


 精悍な顔つきの老人は、口元の薄い髭を軽く撫でた。


「どんなに打ちのめされても、人の、君たちの価値は失われないのだ」


 自信に満ちた、迷いのない声だ。

 含蓄というのだろうか。

 歳相応、あるいはそれ以上の人生経験に裏打ちされた、芯のある低い声。

 それを聞けば、思考を放棄して「正しい」と思ってしまいそうな魔力がそこにはある。


 そんなワンシーンを、僕は思い出した。

 右の親指の腹と中指の側面を、付着した油を練るように擦りながら。

 右ポケットに手を入れるのはもうやめて、今度は左手を左のポケットに入れてみると、そこにもまた何かがあった。

 タバコだ。


「……」


 一本くらい吸ってからいくか。


 橋へ向かう途中には、小さなパチンコ屋が一軒だけある。

 その喫煙所に、僕はふらりと入った。


 知らないおばさんにライターを借りて、8ミリのタバコに火をつける。

 煙を肺へ深く吸い込み、ゆっくりと吐いた。

 そうしている間も、あの映画のセリフが、まるでとぐろを巻いているように、脳に居座って離れなかった。


──人も同様である


 本当に、そうだろうか。


──どんなに打ちのめされても


 例えば、この千円札のようにラー油でベタベタになっても、か。


──人の、君たちの価値は失われないのだ


 老紳士が踏みつけただけの札ならまだしも、である。

 僕のベタベタの千円札を欲しがる学生は、あの教室に何割いただろうか?


 あるいはもっと醜い、誰かの血で赤黒く湿った札なら。

 それか、ビリビリに破れ、数十個の紙片と化した札はどうだろう。

 それを綺麗に洗って、テープで貼り合わせて、元通りにして使ってくれる人間は、果たして何パーセントいるのだろうか。


 札の方も、果たしてそれを望んでいるのだろうか。


 分かっている。

 くだらない屁理屈だ。

 深い思考があるわけでもなく、道理を知らず知識も無い、ただ正論に疑問を持ち続けていなければどうにかなってしまいそうな、いや、ひょっとしたらもうどうにかなっているかもしれない、そんな馬鹿な男の屁理屈だ。

 どうしようもない男だ、僕は。

 そしてこの右ポケットで寂しげに丸まっているのは、どうしようもないお金だ。


 どうしようもない男の、どうしようもないお金。

 どうしようもない事に使ったって、構わないだろう。


 僕は喫煙所を出ると、一番近くにあったパチンコの台に座った。

 知らないアニメの知らないキャラクターが、僕を見ている。

 ベタベタの千円札を、左手で投入口に差し込む。

 札は意外にも、スムーズに受け入れられた。


 ああ、沢山の色、光、音。

 その全てを追う必要は無い。

 キャラクターのセリフを聞き逃し、演出を見逃し、ボタンを押し損ねても、誰にも責められない。

 ただ玉を目で追っている時間は、なんだか少しだけ気が楽だった。

 僕はそれから、しばらく無心で打ち続けた。


──30分後。


「勝った……」


 ベタベタの千円札が、綺麗な千円札四枚と、菓子二個に変わっていた。

 僕にはそれが、あのどうしようもない札が最後に見せた底力のように感じられた。


 川に面した歩道に出ると、四千円と菓子を左ポケットにしまう。

 水面を見た。

 それから、空を見上げた。


「良い天気だなあ」


 遥か西の雲が、オレンジ色に染まっていた。

 それはまるで、干乾びたラー油のような。


「もうちょっと生きてみるか」


 橋に行く理由はなくなった。

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― 新着の感想 ―
汚れた紙幣から、深い話になって、味わい深かったけれど、ラストでつながるように光ったというか、さらに深くなりました。 気持ちの方向のきっかけの小ささがリアリティあって、じんわりきました。前向きになれてよ…
店で使えば店員さんに嫌な顔をされそうなほどベタベタの1000円札が一人の命を救う。 温かな気持ちになる作品でした。 途中の教授のエピソードも印象的ですね。
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