ドライヤーガン戦士シリーズ零コムラ後編
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036
コムラの後ろからバタバタと忙しない足音が聞こえる。紀眞家の迎えが来たのだと気づいて、コムラは安堵した。
そこは病院だった。
バタバタと忙しなく白衣を着た人物たちが、右往左往している。女性も男性もごっちゃ混ぜだった。みんなが慌てている方へと視線を向ければ、ベッドに横たわったサクラが目に入る。
「サクラちゃん……!?」
自分よりも随分と大きくなったサクラが真っ青な顔をしている事に、コムラは非常にショックを受けた。
駆け寄るコムラを透かして、大人たちはガラガラとベッドを押して行ってしまう。コムラはそんな中、泣き崩れる二人の男女に気が付いた。アツシと、その奥さんだった。
『ごめんね……サクラちゃん。ごめんね……!』
『マクラのせいじゃないよ』
マクラと呼ばれた女性は、顔を覆い、ひたすら泣いている。
[どういうこと?]
コムラは不思議そうに二人を見つめた。嗚咽に隠れた言葉を繋ぎ合わせて知ったのは、サクラの体が弱り始めている事だった。
緊急処置を終えたサクラが運ばれたのは、白い個室だった。その光景に、キヨシの事がコムラの中でフラッシュバックする。あの部屋とここは、別の場所なのに驚くほど似ている。
サクラはキヨシと同じ服を着て、同じように横たわっていた。違うことと言えば、目が開いているか開いていないかの違いくらいだろうか。隣に繋がれている機械の数を数えようとして、やめた。なんだかとても悪いことをしている気になったからだ。
医者とアツシ夫婦が何かを話している。難しいことはコムラには分からなかったが、医者曰く彼女の体には明確な病気はなく、なにか別のものが体を蝕んでいるのでは無いか、と言っている。別のもの、なんて言われてコムラが思い浮かぶのは、妄執くらいだ。
[妄執の毒、とかかな……]
妄執の能力は未だに全て解明されていない、とコムラは家庭教師から聞いていたのを思い出した。サクラの体に残穢を残す能力があってもおかしくない。
「お父さん、お母さん。大丈夫だよ」
サクラが気丈に笑う。その姿はやはり両親に似ている。コムラは縋り泣く三人の姿に、胸が締め付けられる思いになった。……まるであの日、泣き続けるタイラを見た時と同じ気分だった。タイラよりも随分と大きいサクラは、コムラも知らない立派なお姉さんになっていた。
瞬きをすると、今度は知らない部屋に移動していた。
037
書斎のような場所に物珍しそうに目を走らせたコムラは、机の前に座るアツシを見付けた。その手には一通の手紙が握られており、アツシは大事そうに折り畳み、引き出しに入れた。ちょっとだけ見えた引き出しの中には、似たような形の手紙が数枚入っている。誰かと文通でもしているのだろうか。可愛らしい便箋だった。
『うッ……!』
「アツシくん!?」
頭を押さえ、椅子の上で蹲るアツシに駆け寄る。どうしたの、何かあったの、と問いかけるが、もちろん彼の目にも耳にも、コムラの存在は届かない。
歯痒い思いに、コムラは強く手を握る。爪が手のひらに食い込んでもお構いなしだった。それよりも、無力で心配することすら出来ない自分自身が、嫌でたまらない。幽霊になったからと言って、どうしてこんな思いをしなくてはいけないのだろうか。
[――おばけだから]
自分が死んじゃったから。きっとそれは正しいことなのだろう。わかっては、いるけれど。
『はあ……はあ……』
自責の念に駆られるコムラの横で、アツシは大きく息を荒げながらさっきとは違う引き出しから薬を取り出した。いくつか吟味して飲む彼。真っ青な顔つきだったが、徐々に効いてきたのか荒い息が落ち着いてきた。アツシの手が湯呑を手にし、茶を全て煽る。大きく息を吸って吐き出せば、さっきよりも随分と落ち着いた表情になっていた。その様子にほっと息を吐いて、同時に首を傾げる。
[でも、いきなりなんで]
アツシを見る。もしかして、知らないうちに病気になっていたのかもしれないと思ったが、そうでないことはコムラの記憶が気づかせてくれた。
昔、タイラと会う前にアツシと一度だけ、顔を合わせたことがあった。遊びに誘ったコムラに、彼は『絵本とかままごとなら』と答えていた。理由は分からなかったが、コムラとしては遊んでくれる人がいるだけで嬉しかった。だが、それが最初で最後だった。今考えれば、もしかしたら体が弱かったのかもしれない。双子の弟であるキヨシでさえ、中々会えないと言っていたし。
コムラはアツシの手に自分の手を重ねる。当然、触れることは出来ず透けてしまうが、そうでもしないとコムラの気が収まらなかった。
机の上には、コムラの読めない複雑な書類が綺麗に整えられて置かれている。家とか、土地とかの文字が多いことから、難しい仕事をしているのだとわかった。
『……二人のためにも、頑張らないとな』
小さく呟く声が聞こえる。
038
アツシの目はじっと机の向こう側を見ており、そこには家族三人で撮った写真が飾ってあった。……きっとアツシは家族を守るために、自分の身体を押して頑張っているのだろう。働かざる者食うべからず。昔からあるその言葉は、コムラですら聞いたことがあった。
「がんばって、アツシくん」
コムラはアツシの肩に触れると、離れて行った。
それから、コムラは各々で頑張る三人の家族を見守っていた。順番はバラバラだったし、何を伝えたいのかもコムラにはわからなかったが、目を離すことは出来なかった。サクラが結婚し、アキラを身ごもった時は、アツシとマクラと一緒に大騒ぎをしたものだ。
たった一つの家族。三人だけの小さな家族が運命に抗おうとしている様は、縛り付けられるだけの人生だったコムラにとって、ひどく美しく映ったのだ。
そして、時は満ちる。
一度回復の見込みを見せたものの、そこから悪化の一途を辿ることになったサクラは再び病床に伏してしまった。話すことも出来ず、呼吸を繰り返すだけのサクラ。その隣にはマクラが寄り添い立っていた。
[あれ、アツシくんは?]
いない姿に、コムラは首を傾げる。いつもサクラの見舞いに来るときは二人で来ていたのに。何かあったのだろうか、と首を傾げるコムラに、サクラのか細い声が響いた。
「……おね……ちゃ……」
「……え」
コムラは振り返る。それはマクラを表す言葉でも、看護師を表す言葉でもない。サクラが初めて口にする呼び名だった。
振り返ったコムラの目に、サクラが映る。小さな瞳に映る自分の姿を認識した瞬間――コムラの中に記憶のようなものが流れ込んできた。
「あ……ああ!」
痛い。痛い。頭が割れそうだ。
流れ込んでくる光景は、コムラの見れなかった、彼女たちの〝闇〟。その中にいるアツシは、コムラの知っているアツシとは別人だった。常に苛立ちを隠さないアツシが、書斎を壊す姿。調子が良くなり、帰省を許されたサクラが道中で会った、アツシと知らない女性の姿。その雰囲気に、何があったかなんてわかり切っている。女性はタイラやサクラと似た顔をしており、アツシとキスをしていた。名前も知らない女性はサクラの方を見ると、笑みを浮かべたような気がした。
勘違いだと自分に言い聞かせ、家に帰ったサクラ。『お父さんに似た人が駅前にいたんだよね』と誤魔化し笑うサクラに、両親の能面のような顔は答えを言っているようなものだった。サクラは察する。
039
父であるアツシが自分たちを裏切ったのだと。
サクラは後々その女性が〝紀眞ホコラ〟という名前であることを知った。彼女の知り合いが、看護婦内にいたのだ。サクラの事を大声で「可哀想だ」と嗤う彼女に、サクラは苦い思いを噛み締めていた。それを皮切りに、サクラの体調は一気に落ち込んでいった。
コムラの意識が戻ってくる。サクラの目がコムラを捉え、細く涙を流している。
[こんな……ことが……]
コムラは信じられなかった。自分が見ていたのは光の部分だけで、闇の部分で彼女たちは傷つけられていた。コムラの思う〝理想の家族〟は、ハリボテだったのだ。
唖然とするコムラにサクラの口がゆっくりと動く。声も出ていない小さな動きだったけれど、コムラにはわかった。
「……私のほうこそ、ありがとう」
その日を境に、サクラは昏睡状態になった。
コムラは心の中でアツシへの恨みを募らせる。どうして裏切ったのか。みんなの為に頑張っているんじゃなかったのか。
ふと窓の外を見る。病院の駐車場ではなく、住宅の広がる方だ。そこに見える米粒のような姿に、コムラは目を見開いた。――アツシだった。涙を流して、こちらを見上げている。その表情に、コムラは苛立ちを爆発させた。
「何しに来たの」
サクラ裏切って、マクラを裏切って。何で泣いてるの? 貴方は加害者で、この子たちは被害者なのに。
「アンタに泣く権利なんてない」
コムラの周りに絶対零度の吹雪が舞う。アツシが驚いた顔をしているが、そんなのどうでもよかった。コムラはアツシの方に向かおうとして、手が引っ張られる。振り返った先にいたのは、マクラだった。
「……どうして」
コムラの問いに泣きながら首を振るマクラ。自分に触れていることも、コムラが見えていることも。不思議でたまらないけれど、それよりも。
[なんで庇うの]
コムラはじっとマクラを見つめる。マクラは涙を流しながら、それでも手を離さなかった。アツシを見る。この状況を見て、彼はどんな顔をしているのか、コムラはそれを見てやるつもりだった。――しかし、見えたのはアツシの後ろにある黒く、大きな影。にちゃりと笑みを浮かべるのは、妄執だった。
[もしかして……!]
――あの裏切りは、妄執のせいだとでもいうのか。
コムラが振り返る。マクラは悔しそうにコムラの手を離した。……嗚呼、そうか。彼女も紀眞家の人間。アレが見えていないわけがない。
040
それでも退治出来ていないということは、彼女は戦士にはなれず、またこの家族の周りに退治出来る戦士がいなかったということ。
コムラは脱力した。そんなコムラ達を、妄執は嘲笑っていた。
その後、ひとり、またひとりと三人は崩れていった。マクラは心身共に病んでしまい、妄執の呪いと戦うサクラをサポートできなくなってしまった。同時に、コムラはアツシと件の女性――〝紀眞ホコラ〟の間に子供ができたことを知った。紀眞家はその存在を良しとはせず、匕背家の人間として迎え入れられるらしい。その決定にコムラは複雑な心境だったが、大人たちの決めたことだ。子供のコムラには何も言えない。
[でも、サクラちゃんにも言うのかな]
それよりも、コムラはサクラの精神が心配だった。コムラは経験したことはないが、自分の父親の不貞を知るのは良くないことはわかる。ベッドに横になっていたサクラは、ただただ懸命に命を繋ぐことに必死になっていた。その姿にコムラはほっと胸を撫で下ろしたが、サクラの容態は悪化の一途を辿るだけだった。
そんなとき、一組の老夫婦がサクラの前に姿を現した。
動かないサクラの名前を呼び、自分たちがサクラの養父、養母になることを告げる。その姿は、コムラにとって懐かしい姿だった。
「キヨシくん、タイラちゃん……」
二人がどこにいたのかはわからない。けれど、幸せそうな顔をしていることに、コムラは心底安堵した。
[あの泣き虫なタイラちゃんがねえ]
ふふふ、と笑みを浮かべるコムラ。キヨシの婚約者ではあった身だが、キヨシへの感情が育つ前に自分は死んでしまった。羨ましいと思うことも、ずるいと嫉妬することもない。ただただ幸せそうな二人に、心から祝福を送っていた。
サクラは二人の元で妄執と戦っていたが、その抵抗も虚しく、サクラは息を引き取ってしまった。追いかけるように発狂していたマクラと自我を半分以上無くしたアツシが亡くなった。二人とも、亡くなったのは別の場所だったという。運命に抗った家族は、運命に勝てなかった。
[私、助けてあげられなかった]
声をかけることも、触れることも出来なかった。裏切られた二人の心を救うことも出来なかった。コムラはどこまでも無力だったのだ。
――コムラの意識が本当の意味で戻ったのは、それから少ししてからだった。
ハッとしたコムラは、きょろきょろと周囲を見回す。そこは知らない家の、小さな一室だった。
041
コムラは起き上がると、窓から差し込む月明かりに顔を上げた。空が澄んでいて、月が大きく見える。星がキラキラと光っており、コムラは少しだけ安堵した。
再び部屋の中を見渡すと、所々見覚えのものが置いてあった。ランドセルがあることから、きっと小学生の部屋なのだろう。知らない人の部屋に勝手に入っちゃったかもしれないことに、内心申し訳ないと思いつつもコムラは机に置きっぱなしになっているノートを手に取る。
「紀眞、タイラ……?」
ノートの表紙に書かれた名前。それは間違いなくタイラの名前だった。コムラははっとして窓から外を見る。タイラが大きな荷物を抱えて走っていく姿が目に映った。
[どこに行くの!? こんな夜中に!]
コムラは慌てて追いかけようとして、足を止める。ベッドの上に置いてあったのは、一通の手紙。触れればコムラの中にタイラの記憶が流れ込んできた。
コムラへの懺悔と妄執への復讐心を抱えたまま、戦うタイラ。そんな彼女が選んだ道。それがキヨシと逃げることだというのなら、コムラは止めることは出来ない。それがコムラに出来る、最大の恩返しだった。
「……私がいなくなったことで、タイラちゃんにはたくさん苦しい思いをさせちゃったんだね」
ごめんね。たくさん苦しんだ分、たくさん幸せになって欲しいな。
コムラはタイラの背中に手を振った。――嗚呼、自分は結局彼女を幸せにすることはできなかったのだ。幽霊だから仕方ないのかもしれないけれど、すぐにそう割り切れるほどコムラは大人にも幽霊にも、なり切れていなかった。
「……これからどうしよう」
コムラはズルズルと壁伝いに座り込むと、茫然と宙を見つめた。これから一体どうしたらいいのか。ずっとタイラに引っ付いていたから、全然思いつかない。二人を追いかけても邪魔になるだけだしなあ、と呟いて、ハッとする。
[そうだ、アツシくん!]
一片を思い出せば、流れ込んでくる記憶。寝ている間に見た記憶は、きっと未来に起こる本当の出来事なのだろう。もう二度とあんな悲劇を繰り返さないために、コムラにも何か出来ることがあるかもしれない。
「よし!」
まずはアツシに会いに行って、どうにかして気づいてもらわなくちゃ。
コムラはさっきとは違い軽い身体で立ち上がると、まずはキヨシのいる病室へ向かおうと思った。どれだけかかってもいい。コムラにはたくさんの時間があるのだから。そう決心した時だった。
「――え」
042
何かが一気に光を帯びて、部屋を照らす。コムラが振り返った先にはランドセルがあった。なんでランドセルが光ってるのだろうか。コムラは惹かれるように手を伸ばした。
[ちがう]
光ってるのはランドセルじゃなくて、中に入っている――ドライヤーガンだった。
「これ、私が使ってた――――!」
コムラの言葉を飲み込むように、光はどんどん大きくなり、やがてコムラ自身を飲み込んだ。再び目を覚ましたのは、知らない少年の部屋だった。
「うわあ!」
どすん。
派手な音を立てて、少年が尻もちを付く。目を見開いた少年の姿にコムラは数回瞬きを繰り返すと、「あ!」と声を上げた。
「アツシくん!?」
「な、なぜ私の名前を……!」
「わあ! アツシくんだ! 久しぶりだねえ~!」
キヨシに似た顔だからか、久しぶりだというのについつい砕けた口調になってしまう。しかし、コムラはそんなことはどうでもいいと言わんばかりにアツシに抱き着いた。尻もちを付いたままのアツシの顔が真っ赤に染まる。ドクドクと忙しない心音が聞こえる。ぎゅうぎゅうと抱きしめるコムラにアツシは慌てて声を上げた。
「ちょっ、ちょっと、なにして……!」
「はっ! そうだった! こんなことしてる場合じゃない!」
しかし、コムラには聞こえていないようで。
バッと体を離したコムラは、真剣な顔でアツシを見下げた。コムラよりも大きい身体をしているアツシは彼女の突拍子もない行動に「えぇ……?」と眉を寄せている。不審そうな視線を向けられつつも、コムラは気にすることなくズンズンとカレンダーが飾ってある壁の方へ向かった。年数が戻っている。コムラは驚いた顔でカレンダーを撫でた。
「あ、あのっ、君は一体どこから……というか、何故私の名前をご存知なんですかっ」
「ねえ。アツシくんって今何歳?」
「話聞いてます!?」
アツシの叫び声が聞こえる。コムラのマイペースさに、完全に振り回されていた。コムラにもう一度問われ、アツシはため息を吐いた。転がり落ちた本を回収しながら「……十二歳ですけど」と答えるアツシ。十二歳ということは、小学六年生の歳だ。彼の言葉通り、机の隣には黒いランドセルが引っ掛かっていた。新品のように綺麗なのは、彼が体が弱く、あまり学校に行けなかったからだろうか。でもそうすると、コムラは三年前に戻って来たことになる。
さっきまでいた世界ではタイラが小学三年生で、キヨシとの年齢差は九つ。
043
その時点で、キヨシは十五歳にまで育っていた。アツシとキヨシは双子なので、同じ年になるはず。
[今度は過去に来た、ってこと?]
未来に行ったり過去に行ったり、大忙しである。コムラの頭もそろそろ混乱してきた。コムラは再びアツシを見る。コムラの知らない姿。幼少の頃に遊んだ時の姿でもなく、大人の姿でもない彼は腕に包帯を巻いていた。注射の後を隠すためだろうか。それほどまでに体調が悪くなっているのかもしれない。
コムラの憶測が飛び交う中、アツシが声を上げようとして――突然咳き込み始めた。苦しそうに胸元を抑えるアツシに、コムラは慌ててアツシの元に向かう。
「薬! 薬はどこ!?」
「ごほっごほっ、! ら、どせ、っなか……っ、ゴホッ!」
「ランドセルの中ね!」
コムラはアツシの言葉を拾い、ランドセルに駆け寄る。蓋を開けようとして――しかし手は見事に空ぶった。それどころか、自分の手がランドセルを下から上に透けたのを見て、息を飲んだ。さっきアツシに触れていたから忘れていたが、コムラは幽霊。物に触れることの出来ないのだ。
[なんで、こんな時に……!]
神様は非道だ。こんな時にすら、コムラに奇跡を起こしてはくれない。否、起こし過ぎたからこそ、試練を与えているのかもしれない。
コムラの中に焦燥が走る。これじゃあアツシを助けられない。どうしよう。どうしたら――――。
「坊ちゃん!」
「!」
バンッと扉を開けたのは、お手伝いさんだった。彼はアツシに薬の在処を聞くと、立ち往生していたコムラをすり抜けた。ランドセルを開け、中から薬を取り出し、アツシの元に持っていく。コムラがしたかったことを、彼はあっさりとやってのけたのだ。
コムラは愕然と立っている事しかできなかった。
「けほっ。はぁ……はあ……助かりました。ご迷惑をおかけして、すみません」
「いえ。これが私の仕事ですから」
お手伝いさんは頭を下げると、アツシをベッドに運んでいく。その姿をコムラは自分の無力さを痛感しながらも、安堵の目で見ていた。
[……よかった]
もうダメかと思った。
アツシは容態が落ち着くと、コムラを見て眉を寄せた。その視線にドキリとする。嫌な予感がコムラの中に走る中、アツシはお手伝いさんに「もう大丈夫ですので」と告げると退出を促した。お手伝いさんは反論することもなく「わかりました」と告げると、仰々しく頭を下げ、部屋を出て行った。足音が遠くなる。コムラは向けられる視線にはっとした。
044
振り返れば、アツシが上体を起こしてコムラを見つめている。
「……ちょっと、お話をしましょうか」
「う、うん」
コムラは立ち上がると、アツシの寝ているベッドへと近づいた。さっきまで高揚していた気持ちは、少しだけ落ち着いていた。
ベッドに座るアツシと、立っているコムラ。座ってもいいと言われたが、座布団も椅子も貫通してしまう為、コムラとしてはこうして宙に浮いてる方が楽なのだ。大丈夫、と首を振るコムラに、アツシは眉を寄せつつも納得してくれたらしい。
「一つ、お伺いしたいのですが」
「は、はい」
「あなたは幽霊様なんですか?」
――〝幽霊様〟。
初めて聞く言葉に、コムラは数秒面食らうと「ぷはっ」と吐き出した。
[ゆーれいさまって!]
「ふ、ふふふっ、!」
「……ちょっと。こっちは真剣に聞いてるんですよ。笑わないでください」
「ふふっ、ごめんごめん。そうやって言う人、初めて見たからっ」
くすくすと笑うコムラに、アツシは眉をぎゅっと寄せる。不機嫌、というよりは恥ずかしがっているのだろう。焼けていない肌が赤く染まっている。コムラはひとしきり笑うと、小さく咳をした。スカートの裾を掴み、足を半歩引く。友達が好きだったお話の女の子がこんなポーズをしていたなぁ、と思い出しながら、頭を下げた。
「はじめまして、私はコムラ。死んでからおばけ……じゃなかった。ユーレイやってます。よろしくね」
アツシの目が大きく見開く。それもそうだろう。三年前死んだはずの人間が、ここにいるのだから。しかも幽霊となって。普通なら信じられない状況だろうが、コムラは実際にここにいるし、アツシも熱烈なハグを受けたばかり。疑うには証拠が揃い過ぎている。アツシはコムラの話に真偽を問うことはなく、口を開いた。
「……なんで英国風の挨拶なんですか?」
「? エーコクフー?」
「いえ。何でもありません」
アツシの言葉に首を傾げれば、首を振られてしまった。なんだったんだろう。
腑に落ちないコムラに、アツシは「次はこちらですね」と告げると、ベッドの上で正座をした。両手を付いて、綺麗な所作で頭を下げるアツシにコムラはぎょっとする。
「私は匕背アツシと申します。歳は十二。病を患っていますが、他人に感染するものではないのでご安心ください」
「以後、お見知りおきを」と口にするアツシ。その言葉は勉強をまともにしてこなかったコムラにとっては難しすぎたようで。
[イゴオミシリってなに……?]
045
ピヨピヨとひよこたちがコムラの頭上を回る。難しい言葉ばかりで目が回りそうだ。実際は頭も含めて全身が回っているのだが、コムラは無意識らしい。その様子を見ていたアツシは面食らい、ふっと小さく拭き出した。その声にコムラは回っていた体を止め、「え」と目を見開いた。
[笑った]
さっきまで怒ったりびっくりしたり、そればかりだったのに。コムラは込み上げる喜びに緩みそうになる口元をきゅっと引き結んだ。嬉しい。自分に向けられる本当の笑顔を、コムラは久しぶりに体感できたのだ。こんなに嬉しいことがないわけがない。
むふふ、と込み上げる笑みを口元で噛み殺していれば、アツシの目が突き刺さってくる。どこか不機嫌そうな視線に、コムラは慌てて姿勢を正した。その様子を見ていたアツシは、ため息を吐く。呆れたような仕草は、小学六年生にしては大人びた仕草だった。
「それで、色々と聞きたいことがあるのですが……君、幽霊なのに私に触れるんですか?」
「えっ」
「え?」
きょとんとするアツシに、コムラは大きく瞬きを繰り返す。自身の両手を見下ろし、近くの椅子に手を伸ばす。スカッと掠る自分の手。何度か確かめるように繰り返し、再び自分の手を見つめる。アツシを見上げて手を差し出せば、何かを察したように手が伸ばされた。ピトリと触れられる指先。熱は感じられないものの、やはり触れることは出来る。
[な、なんで]
「つめたっ」
「え?」
ぴゃっと引っ込んでしまうアツシの指に、コムラは目を見開く。何も感じないと思っていたのは、どうやらコムラだけだったらしい。アツシは指を掴んで、びっくりした顔をしていた。
「どういうこと……?」
「私の方が聞きたいんですけど」
首を傾げる二人。しかし、答えを知っているはずのコムラが知らない以上、どうしようもない。アツシはコムラの顔を見つめると、はあ、とため息を吐いた。
「それで、どうしてここに来たんですか? 帰る方法はあるんですか? というかその格好は……」
「待って待って! 一気に言われてもわかんないよ!」
矢継ぎ早にされる質問に、コムラはストップをかける。そんなに一気に言われた所でコムラの小さな脳みそでは処理がしきれない。アツシは頭がいいとキヨシも言っていたし、あれくらい簡単に言えるのだろうけれど、コムラはどちらかと言えば勉強が苦手な方だ。もう少し手加減して欲しい。コムラはとりあえず最初から話を始めることにした。
046
夢を見てから、ここに来るまでの事を話したコムラは、使い過ぎた頭が痛くなるのを感じる。中身はもう入っていないはずだが、人間の時の記憶がそうさせているのだろう。
話を聞いていたアツシも、突飛でもない事の連続で驚いているのだろう。どこかで見た銅像と同じ格好で頭に手を当てている。俯いたつむじを突っつきたい気持ちになりながら、コムラは夢でのことを思い出す。
[どうにかしたいと思って来たけど、グタイテキにどうしたらいいんだろ]
難しい言葉を話すアツシに釣られてか、コムラはふと大人たちの使っていた言葉を頭に思い浮かべた。
「……つまり、君は未来の私がその、モウシツ? に憑りつかれて、大切な人を失くしてしまうっていう話でいいんですかね?」
「そう! そうです!」
「何で君まで敬語になってるんですか」
くすくすと笑うアツシに、コムラは胸が温かくなるのを感じる。
[伝わってよかった]
それもこれも、アツシが真剣に話を聞いてくれたから出来たことだ。コムラは死んでからというもの、人と話すことも、自分の話を誰かに聞いてもらえることもなくなっていたからか、それがとても嬉しかった。笑みを零すアツシに、コムラはハッとした。妄執に憑りつかれて大切な人を失ってしまうのなら、妄執に憑りつかれない方法を考えればいい。
「そうすると、対策としては私が妄執に憑りつかれない方法を探せばいいんでしょうか」
「それだあ!」
「!?」
自分と同じ考えを持っていたアツシの言葉に、コムラは声を上げる。――そうだ。それがいい。
「アツシくんを強くして、妄執に勝てるようになれればいいんだよ!」
「え、ええ?!」
アツシが驚く。コムラが来てからアツシは驚いてばかりだ。
コムラはアツシの目線よりも上に浮き上がると、仁王立ちになり腕を組んだ。じとっとした目を向けるアツシに、コムラは鼻を鳴らす。母親であるオケラのせいでストイックになったコムラは、容赦がない。腰に手を当て、アツシに指先を向ける。こうなったらとことんだ。
「アツシくん! 私と一緒に強くなって!」
「コムラちゃんも強くなるの?」
素朴なアツシの疑問に、コムラは「いいから!」と声を上げる。そういうまともな言葉は今求めていない。求めているのはやる気と勢いだ。
コムラはフンと鼻息を吐くと、アツシをみる。彼はじっとコムラを見ると、顔の前で大きな手でバッテンを作った。え、とコムラの声が零れる。アツシの顔は真顔だった。
047
「お断りします」
「な、なんで!?」
「何でもです」
えええ、と声を荒げるコムラ。その姿を見てもアツシの気持ちは変わらないのか、作ったバッテンは崩れなかった。
それから必死に説得をするコムラに、中々アツシは靡かなかった。それどころか、警戒心は募っていく一方だ。
「ねえアツシくん、がんばろうよぉ~!」
「ダメ。やりません」
「なんでさあ!」
「なんでって……何回も言ってるじゃないですか」
アツシの足に縋り付くコムラに、アツシは困ったように眉を下げる。――そう。アツシはここ数日間、コムラに何度も断りの理由を告げていたのだ。例えば体が弱いから出来ないのだとか、そもそも危険を察知できたのだから、それでどうにかなるんじゃないかとか。だがコムラにしてみればそんなので防げるとは到底思えなかった。
[アツシくんにはキキカン? がたりない!]
そう思ってもそれをどうやって伝えたらいいのか、わからない。ぐぬぬぬ、と唸るのもこの数日で何回目だろうか。コムラはアツシの足を離すと、そのままベッドに埋もれてしまった。一瞬になって暗くなった視界に慌てて顔を上げた。びっくりしたぁ。
「……コムラちゃんこそ、なんでそんなに私に拘るんですか?」
「えっ?」
「だってそうでしょう」
未来を変えたいのならアツシを変えなくとも、マクラとの婚約を阻止すればいい。マクラはまだ三歳だが、もしかしたら後々コムラを見ることが出来るかもしれない。もちろん、それが出来なかったとしても、他に方法はいくらでもあるとアツシはいう。その言葉に、コムラはずるずると滑り落ちた。
「……ないよ」
「え?」
「他の方法なんて、ないよ」
今まで誰にも認知されなかったコムラだ。夢の中で起きたことだって、あれはコムラの夢の中だったからであって現実では一度もない。ただ浮遊するだけの自分がどれだけ虚しかったことか。……寂しかったことか。
[マクラちゃんが私を見ることが出来なかったら? アツシくん以外の何も……誰にも触れないんだよ、私]
きっとアツシはそれを知らない。知らないからこそ、言うことが出来る。少なくともコムラはそう思ってしまった。そしてそれは、間違いじゃない。
「妄執はね、心を攻撃してくるんだよ。アツシくんがどれだけ気を付けてても心が弱かったら、心が弱ってたら戦うことも出来ないの」
「心が……?」
「そう。だからさ。飲み込まれないように、がんばろうよ」
そう言ったコムラの声は少しだけ震えていた。
048
気丈に振舞って来たけれど、自分を認識してくれる人がいるだけで――独りぼっちじゃないだけで、コムラの心は救われるのだ。きゅっと握ったアツシの手。冷たいからと振り払われることが多かった手は、今回ばかりは振り払われなかった。
長い、長い沈黙が落ちる。居た堪れない気持ちになりながら、コムラはアツシを盗み見た。無言のまま考えを巡らせているらしい彼は、しばらくすると大きくため息を吐くとコムラの頭を撫でた。
「そこまで言うんなら……仕方ないですね。私の未来の事ですし、ちょっとは協力してあげます」
「ほんと!?」
「ちょ、ちょっとですからね!?」
アツシの声も聞かず、コムラは両手を上げ跳び上がった。
[やったあ!]
これでマクラもサクラも守ることが出来る。みんなで楽しい時間を失わなくて済むようになる。そのことがコムラは嬉しくて仕方がなかった。
「それじゃあ早速やろう!」
「えっ、今ですか?!」
「今!」
コムラはイヤイヤと首を振るアツシの肩を押すと、ベッドの上に倒した。真っ赤に顔を染めるアツシ。跨るようにして座っているコムラはにこにこと笑みを浮かべていて。
「お、女の子がなんてかっこ……! はしたないですよ!」
「そんなの良いから、集中して!」
「っ、集中って……!」
コムラはアツシの目を隠すと、何かを呟いた。
アツシの意識が刈り取られていく。まるで闇に落ちていくかのような感覚に、アツシが最後に見たのは笑みを浮かべ、手を振るコムラだった。
「ここは……」
アツシは周囲を見回した。ダンッと聞こえる音にアツシは振り返る。そこに広がっていたのは、懐かしい体育館だった。
[なんで、私は……]
『アツシ!』
「!」
パッと放たれたボールが、アツシの胸元に来る。反射的に出した手で受け止めれば、懐かしい顔が笑顔を見せる。
『何ぼーっとしてんだよ、行くぞ!』
「う、うん!」
そう言ってアツシの肩を叩くのは、かつてのクラスメイトだった。
アツシの大好きなバスケットボール。アツシはその夢を早い段階で諦めざるを得なかった。理由はもちろん、体の弱さだった。しかし、この夢の中ではどれだけ動いても苦しくならないし、足がもつれることもない。こんなに清々しい気持ちで走るのは、何年振りだろうか。
[たのしい!]
楽しい。このままずっとここでバスケをしていたい。そう、思ってしまった。
入るゴールに、ガッツポーズをするアツシ。よっしゃあ、と声を上げ、歓声が響く。ああ、気持ちがいい。
049
『アツシ! 何ぼーっとしてんだよ、行くぞ!』
「え」
ふと、顔を上げた瞬間見えた光景に、アツシは驚いた。肩に感じる衝撃に、アツシは足を踏み出した。
[さっきと、同じ]
体が勝手に動く。ドリブルをして、一人、二人と抜かしていく。パスをして、パスをもらって、シュート。再び時間は戻り、同じことを繰り返す。それがループになっているのだと気づいたのは、三回目のシュートが入った時だった。
「なんで……」
こんなに自由に動けるのに、こんなに全力で動けるのに――これじゃあ何にも楽しくない。
『アツシ!』
「……」
アツシは遂にパスを受け取らずにいた。過っていくボールを目で追うが、足で追いかける気にはならなかった。しかし、ボールは強引にアツシの手元に戻ってくる。放置していても勝手に手に吸い付いてくるのだ。こんなの、バスケをしているとは言えないだろう。
[こんなの、いらない]
アツシはボールを手にそう呟く。と同時に、頭に浮かんだのはコムラの姿だった。いってらっしゃい、と手を振る彼女の言葉が少しずつ思い出されていく。……嗚呼。確かにこれは特訓に最適かもしれない。
とはいえ、どうしたら目覚めることができるのだろうか。夢からの脱出の仕方なんて、わからない。アツシは周囲を見る。どこかにヒントがないかと視線を走らせるが、中々見つからない。
[こうなったら――!]
強引に突き破るのも大切だ。アツシはパスで受け取ったバスケットボールを大きく振りかぶった。その先は体育館ではなく、外だ。驚くクラスメイトの声を無視して、アツシはボールをぶん投げた。外に向かって行ったはずのボールは、ガシャンと空中で突き刺さり、ヒビが入る。刹那、ぐにゃりと歪む夢にアツシは目を閉じた。足元に転がって来たバスケットボールを拾うことは、しなかった。
「ぅ、ぅう……っ」
「頑張って、アツシくん」
夢の中に入って行ったアツシを見下げ、コムラはガッツポーズを作る。アツシの見ている夢はコムラにはわからない。眠らせれば夢を見るだろうと思って行動をしてしまったが、寝かせてから気づいた。……悪夢を見ていたらどうしようと。しかしもう寝てしまったのだから仕方がない。出来るだけ早く帰ってくるように願いながら、コムラはアツシの手を握っていた。
そんな時だった。パリンと響く高い破裂音に、コムラが振り返る。見えた光景にコムラは目を見開いた。
「!?」
──何あれ。
050
白い純白の塊が天井に空いた穴から落ちてくる。コムラが驚いたのも束の間。どすん、と派手な音がしてそれは床に転がった。えっ、と声を上げるコムラ。しかし、その驚きを吹き飛ばさんばかりに甲高い声が部屋中に響きだした。コムラは慌てて駆け寄る。
「びゃぁあああ~!」
「こ、子供?」
甲高い声の主は、小さな女の子だった。純白のドレスのような服装をした女の子は、痛かったのだろう。わあわあと泣いている。反射的にコムラは女の子を抱きしめ、宥め始める。赤ん坊よりも重い体を抱き上げることは出来なかったから、膝立ちで背中を撫でる程度だけれど。
「よしよし、びっくりしたね~いたかったね~」と言いながら、コムラは小さな背中を撫でる。子供は次第に泣き止んでいき、ひっくひっくと喉を鳴らしている。その姿はまるで初めてであった頃のタイラとそっくりだった。コムラは泣き止んだ子供の頬に付いた涙を拭ってやる。ふっくらとした頬は柔らかく、愛らしい。まん丸い大きな黒い瞳がコムラを見つめる。高い位置で二つに縛られた髪がひょこりと動いた。
「おねぇちゃ、だぁれ?」
こてんと傾げられる首。その様子にでれぇ、とコムラの頬が緩んだ。
[か、かわいい~!]
ちょっと舌っ足らずなのがかわいい。にへにへと笑ってしまうコムラを、女の子はじっと観察するように見つめてくる。空から降ってきたのがどうでも良くなるくらいの可愛さだった。柔らかい頭を撫でながら、コムラは「お姉ちゃんはねー」と自己紹介をしようとして──ふと、起き上がっているアツシと目が合った。
「……誰ですか、その子供は」
「あ、アツシくん」
じっとりとした目が、コムラの腕の中に注がれる。コムラは何となくバツが悪くて「あははは……」と誤魔化すように笑ってみたが、残念ながらアツシには通用しなかった。鋭い視線を向けてくるアツシの圧に、女の子は再び大きな声で泣き出してしまった。
泣き止んだ女の子は、ひくひくと喉を引き攣らせると眠そうな目でコムラに寄りかかってきた。ムッとしているアツシに苦笑いしつつも、コムラも女の子を追い出す気は無いのか、ぎゅうぎゅうと抱き締めている。
女の子の名前は『まくら』というらしい。彼女の襟の裏に『おのれいま まくら』と名前が書いてあった。アツシは知らない様子だったが、コムラはその名前に思い当たる節があった。
[『マクラ』っていったら、サクラちゃんのお母さんで、アツシくんの奥さんだよね]
051
何故その子が突然落ちて来たのか、何故こんなに小さな姿なのかはわからないけど、きっと何か理由があるのだろう。既に散々不思議な状況に振り回されてきたコムラは、多少のことに驚くことは無くなっていた。
話を聞いたアツシはあんぐりと口を開ける。そして、冷静すぎるコムラをなんとも言えない顔で見つめていた。しかし、コムラは気づくことはなくマクラを見つめている。なんだか懐かしさを感じる。優しい目をするコムラに、アツシが眉を寄せた。アツシのぶっきらぼうな声がコムラを呼ぶ。
「それで。その子、どうするんですか。というか、なんで君はその子に触れているんですか?」
「えっ」
アツシの言葉にコムラは目を見開く。……確かに。普通なら透けてしまうはずなのに、マクラは今、コムラの腕の中ですやすやと寝ている。何気なく頭を撫でたり、涙を拭ったりしていたが、本来ならおかしい事だ。
驚くコムラにアツシがため息を吐き、ベッドから下りる。首を傾げるコムラを他所に、寝ているマクラに手を伸ばせばふわりと柔らかい前髪が手のひらに触れた。そのまま優しく撫で、コムラと目を合わせる。
「触れた」
「……触れますね」
二人で顔を見合せ、もう一度マクラを見る。視線を感じたのか、長いまつ毛がふるりと震え、ゆっくりと目を開けるマクラ。起こしてしまったかと身構える二人をマクラの大きな目が見つめ、ふにゃりと笑みを浮かべた。
「おはよぉ。おにぃちゃん、おねぇちゃん」
[かっ……!]
「かわいい~!」
あまりの可愛さにコムラはマクラを抱きしめる。アツシは口元を押えてプルプルと震えている。むぎゅうっと柔らかい頬を押し潰されながら、マクラは上機嫌に笑っていた。もうこの際、なんで触れるのかとか、なんで落ちてきたのかとかどうでもいいと思うコムラは、アツシのわざとらしい咳に渋々抱きしめていた腕を解いた。
まずは名前と歳を確認しよう、とアツシがマクラに問いかける。マクラは嬉しそうに笑うと「きま まくら! さんさいでちゅ!」と笑う。可愛い。立てている指が四になっているのも含めて、全てがかわいい。悶えるコムラを横目に、アツシは続いてここに来た理由を問いかけた。アツシの難しい言葉に最初は首を傾げていたマクラも、何となく彼の言いたいことを悟ったのか「あのね」と話し始めた。
「おねがいされたんでちゅ」
「お願い? 誰に?」
「おにぃちゃんに」
お兄ちゃん、と言ってマクラが指したのは、アツシだった。
052
驚きに目を見開くアツシに、コムラが頼んだのかと問いかけるが、「そんなわけない」と否定されてしまった。しかし、マクラはアツシに頼まれたと言っている。「勘違いじゃないのか?」と問いかけるアツシに、マクラはムッとするとアツシの手を噛んだ。痛そうな悲鳴をあげる彼に、コムラはつい笑ってしまいそうになった。なんというか、この二人は見ていて飽きない。
「でも、アツシくんはマクラちゃんに会ったことがないんだよね?」
「いつつつ……会ったことがないというか、そもそも紀眞家にマクラなんて子はいなかったと思いますが」
「えっ」
「本当ですよ」
言外に嘘なんて付いていない、と言うアツシに、コムラは目を瞬かせる。マクラはアツシの言葉に反応することなく、じっとコムラたちを見ている。その目は、アツシは間違ったことを言っていないと言っているようで、コムラは余計に分からなくなってくる。
[それじゃあまだマクラちゃんは生まれてないってこと?]
コムラの見たマクラは確かに大人だったが、年齢まではわからない。もしかしたらすごい歳の差結婚だったのかも。
「うーん。やっぱりよくわからないなぁ………」
「そうですね」
コムラとアツシはそう言い合う。仕方ない。マクラのことを考えるのは後回しにして、今はできることをするしかない。
コムラはアツシに夢の中でのことを聞いた。最初は言い淀んでいたが、アツシは夢でのことを話してくれた。アツシ自身が諦めた夢を知り、コムラは胸が痛くなった。
「……やめる?」
「何故ですか」
「だって……」
あんまりにもつらそうだから。
コムラは視線を下げる。後々はアツシのためにもなるとはいえ、嫌々付き合ってもらっている自覚はあるのだ。無理を強いてアツシを困らせたいわけでも、傷つけたい訳でもない。俯くコムラの頭に、アツシの手が乗る。不器用に撫でてくる手のひらの温度に、コムラは顔を上げた。
「君は、本当に……」
「?」
「なんでもありません」
アツシはふると首を振ると、コムラに次の訓練を申し出た。「私を救ってくれるんでしょう?」と笑う彼に、コムラは少しだけ考えて頷いた。
「訓練は一日一回。お昼ご飯の後にしよう」
翌日。コムラはそう告げると、ベッドの上でぐったりとしているアツシを見下げた。ポンポンと布団の上から腹を軽く叩いていれば、「子供扱いしないでください」と真っ青な顔で言われてしまった。
053
コムラはその声を聞かなかったフリをして、ポンポンとお腹を叩く。
あの後、もう一度夢の中に行ったアツシは、無事帰って来ることは出来たものの熱を出してしまったのだ。元々体が弱いのに慣れないことをして、負荷をかけすぎたせいだろう。慌てるコムラとマクラを横目に、アツシは「こんなの寝てれば治る」と言い張った。しかし、日を跨いでも容態は良くならず、先程医者に診てもらっていた。解熱剤を飲んだとはいえ、絶対安静を言い渡されたアツシは、今コムラたちの目の前で格好悪くも横になっている。
[強がっちゃって]
パニックになったコムラ達を安心させるための強がりなのだろうとは分かっていたが、だからと言って無理をして欲しい訳では無い。コムラは自警の念も込めて、先程の言葉を口にしたのだ。
アツシはぼうっとしながら、コムラを見つめる。どこか思い詰めたような視線の理由が自分であることは分かっている。多少の無理さえ聞いてくれない自分の体に苛立ちを覚えながら、アツシは昨夜見た悪夢を思い出していた。
『すごく良かったよ! これでデビュー作は完成ね!』
「ありがとうございます」
自然と口から出る言葉に、アツシは疑問を持つことすらなかった。目の前にいるのは顔も分からぬ人。服装からして女の人であることは分かるが、それ以外はよく分からなかった。
アツシの体が勝手に動く。人が行き交うオフィスを通り過ぎ、広いエントランスを抜ける。扉を押し開き、振り返れば『出版社』という看板が見えた。その上の文字は何故か読むことが出来ず、アツシは自分の手元を見る。黒いバッグの中には先程女性から返された原稿用紙が入った封筒が入っている。それが何なのか、アツシには記憶がなかったが、何となく小説の原稿用紙であると理解していた。
家に帰れば、机の上に置かれた雑誌が開かれている。そこには小説の新人賞の文字が書かれていた。受賞者の名前に自分の名前を見つけ、気分が高揚する。自分はこれに受かったのだと、なんの根拠もなく理解した。
書いた作品は全て飛ぶように売れた。大型新人として名を馳せ、生み出した作品が多くの人に愛されるのだ。嬉しいこと極まりない。
だがふと、アツシの脳裏を過ぎる光景に、ペンが止まる。女の子だ。小学校低学年くらいの女の子が、満面の笑みで自分の名前を呼ぶ。その度に心臓がどきりと音を立てる。知らない子のはずなのに、その子を知りたいと思ってしまう。
054
ペンが止まる。新作を書こうとする度、彼女の夢がチラついて集中出来ない。
[誰なんですか]
その言葉に、誰も答えてはくれない。それが苛立たしくて、腹立たしくて、作品だけを褒め称える奴らにアツシは次第に嫌気が差してくる。
彼らが自分の何を知っているんだ。いい事ばかりを告げ、誰もダメ出しをしてくれない。そんなの愛されているのではなく、ただ皆が口を揃えているだけだ。自分に興味を持ってくれているわけでも、本当に作品を愛してくれている訳でもない。
「私は、そんなの望んでいない」
反面、夢の中の名前のない女の子は自分を叱ってくれる。驚く私をからかってくる。寂しそうな顔を見せてくれる。心配そうに覗き込んでくる。
彼女は──コムラは、アツシ自身を見つけてくれる。
パリンと空間が割れる。その光景にアツシはハッとした。ああ、そうか。これは夢だったのか。
仮初の幸せをぶち壊すように、アツシは割れた空間に思い切りペンを突き刺した。
夢から脱出したアツシは、一番最初に全身を蝕む熱さに気がついた。慣れた感覚に自分がオーバーヒートしているのだと理解する。
「アツシくん!」
泣きそうな顔で自身を呼ぶコムラに、アツシは強がって笑みを浮かべる。心配してくれるのがこんなに嬉しいなんて。
[泣かないでください]
そう思ったアツシは、熱で浮かされる腕を上げ、コムラの頭を撫でた。
強がったのも束の間。体は思った以上に回復に時間を要した。
熱が下がったのはあれから三日後で、訓練を再開しようと告げるアツシに、コムラはもう一日休むように告げた。彼女なりに責任を感じているのだろう。マクラと二人、ずっとそばに居てくれた。
[そんなの、考える必要なんてないのに]
やっぱりコムラは優しい女の子だ。アツシはきゅうっと締め付けられる胸元を握りしめる。この感情が何なのか、体感するのが初めてだったとはいえ、博識であるアツシが知らないはずもなかった。
しかし、同時にこの気持ちの行方が一方通行であることもまた、分かってしまう。コムラは幽霊で、アツシは人間だ。コムラは既に死んでしまった過去の人で、自分はまだこの時を生きている。トクトクと心音を奏でる心臓がアツシにはあるが、コムラにはないのだ。
[もしこれが無くなれば、彼女と同じ世界に行けるのでしょうか]
アツシはそう考えて、思考を振り切るように首を振った。コムラが何故自分に会いに来てくれたのか、アツシはちゃんと理解している。
055
そして自分が死んだ時、その理由が同時になくなってしまうことも。
[……まだ]
離れたくない。その気持ちで生きていることを、彼女は許してくれるだろうか。
マクラと楽しそうにおままごとをしているコムラを見つめ、アツシは自分の胸元にこっそりと爪を立てた。自分はなんて卑怯なんだろう。
「コムラおねぇちゃんのおようふく、かわいいー!」
「えへへ、そうかな?」
ふと、自己嫌悪に浸るアツシの耳に、二人の会話が入り込んでくる。ベッドの上から見れば、おままごとをしていた二人はいつの間にか抱き合ってゴロゴロとしている。……病弱で非力だとはいえ、一応男の部屋にいるのを忘れていないだろうか。無防備なコムラの背中を見つつ、アツシは眉を寄せる。なんだろう。意識されていないのが丸わかりで、すごく、腹が立つ。
アツシの葛藤も知らず、二人は立ち上がり、自分たちの服を見せ合うようにその場でクルクルと回る。マクラが回れば純白の布が、コムラが回れば紫に染まった布が宙を踊る。
[……かわいらしい]
口に出そうになった言葉を、アツシは慌てて飲み込む。
「おねえちゃんは、むらさきがすきなの?」
「えっ。うーん、どうだろ。どう思う? アツシくん」
「……なんで私に聞くんですか」
突然振られた会話に、アツシは戸惑いつつも言葉を返す。コムラがいたずらっ子のような笑みを浮かべ「何となく」と笑うと、心臓がどくりと音を立てた。アツシは慌てて視線を逸らす。気づいた瞬間これだ。もう少し余裕があるものだと思っていたけれど、そんなことは微塵もなかった。本の中で恋に溺れた人たちが馬鹿なことをする様子を今まで鼻で笑いながら見てきたが、もう笑うことは出来なさそうだ。アツシはぐるぐると回る思考で、頑張って考えてみる。
[その色が好きだったとか、いや違う。好きなら好きだって本人が一番最初に言ってるはずだ]
なら、なんだろう。わからない。わからないけど、敢えて表現するのであれば。
「えっと……幽霊だから、ですかね?」
「えぇ? どういうこと?」
「幽霊は、血がなくて体温がないので、唇とか肌が真っ青になるじゃないですか。でも、〝青〟って感じじゃなくって、紫っぽいですし……」
アツシは言いながらふと思った。これは流石に……女の子に対して言うセリフではなかったかもしれない。似合っているからとか、イメージがそうだからとか言っておけばよかったのに、馬鹿正直に答えてしまい、アツシの背中に冷や汗が流れる。嫌われたらどうしよう。
056
アツシはチラリとコムラを見る。驚いたように目を見開いている。あ、と口を開きかけた瞬間、コムラは「ぷふっ」と吹き出した。
「あはは! なにそれ! もうちょっといい感じのあったじゃん!」
「わ、わからなかったんですよ! だいたい、コムラちゃんとはその姿でしか会ったことないでしょう!」
「ふふっ、そうだったっけ」
くすくすと笑うコムラに、アツシは顔を真っ赤にして「そうです!」と声を荒げる。彼女の術中にはまってしまっていることはわかるが、それでも叫ばずにはいられなかった。からかわれたことにむっと口を尖らせていれば、「ハイ!」とマクラが手を上げる。コムラも面白がってマクラを名指しした。まるでテレビで流れるクイズ番組みたいだ。
「コムラおねーちゃんだから!」
「うん?」
「は?」
「こむらって、あし、いたたってなっちゃうやちゅでちょ?」
マクラの舌ったらずな言葉に、コムラとアツシは何のことかと首を傾げた。
[足? こむらって……]
「まさかこむら返りのことですか?」
「うー?」
「……わからなさそう~」
アツシの言葉に、マクラは首を傾げる。とりあえず言葉を促せば、その時の足は紫色に染まっているから、コムラの衣装も紫だと思ったそうで。
[私よりひどいですね]
子供だからか、それともマクラ自身が変に大人びているのか。名前が一緒だからって怪我と一緒にされるなんて、たまったものじゃないだろう。ましてやコムラは女の子だ。泣くこともあり得るんじゃないか、と彼女を見れば、微妙な顔で苦笑いを浮かべていた。ほらみろ。もう少しましな答えがあっただろうに。
「ふふふ。マクラちゃんは物知りだね~」
「えへへへ」
しかし、コムラはマクラを褒めると彼女の頭を撫でた。マクラはそれを嬉しそうに受け取っており、アツシとしては面白くない。
[私のことは笑い飛ばしたくせに]
この扱いの差は一体何なのか。わかりそうでわかりたくなくて、アツシは二人から視線を逸らした。
「それじゃあ、今日の訓練を始めよっか!」
「ハイハイ」
楽しい話が出来て満足したのか、コムラは突然切り替えるようにそう告げてきた。アツシはため息を吐きつつも、それに応える。目を閉じたアツシの目元に、コムラの手が触れる。ふっと意識が軽くなり、アツシは夢の中に溺れて行った。
その日見た夢は、詐欺に遭いそうになる夢だった。特に大したこともなく、切り抜けたアツシは、目を覚ますと同時にコムラに報告をする。
057
次の日も、その次の日も。その繰り返しだった。
基本的にはアツシの実体験を元にした夢が多かったが、時々とんでもない内容を見せられることもあった。裏切りにあったり、陰口に心が痛んだり。その度、ヘビーな内容に何度も熱を出して苦しむこともあった。しかし同時に、良い夢も同じくらい見た。ペンギンになって世界を回ったり、ウイルスに脅かされた世界でコムラと二人、逃げ延びたり。そういった面白い夢は、コムラに報告しながらも二人で笑い合う。辛いことばかりではやっぱり気持ちも荒んでしまうし、その点を考えれば不思議なことに悪夢と吉夢の塩梅は良かったと思う。
[コムラも楽しそうですし]
これは後から聞いた話だが、コムラは幽霊の能力としてアツシを寝かせることは出来ても、何の夢を見させるかを選択することは出来ないらしい。夢を見るという仕組みも、コムラの力が弱いお陰で半覚醒状態で寝かせることが出来、夢を見るための浅い眠りであるレム睡眠を引き出せているのだとか。ほぼコムラの感覚なので本当かどうかはわからないが、アツシとしては既に体感しているのだから違うとは言えないだろう。
そして、コムラの課した訓練は順調だった。
夢から覚める時間も早くなり、以前よりも人の機敏にも聡くなった。前はなんで自分だけがこんな目に、と体が弱い自分を呪ったりもしていたが、今では視野も広がり「あんな悪夢達よりはましだ」と思えるようになってきた。
「夢の中での訓練は、これが最後だね」
そうコムラが言ったのは、アツシが訓練を始めてから十日が経過した頃だった。考えてみればあっという間の時間だったと思う。しかし、アツシの体感では夢の中でのこともあってか随分と長く感じられた。
[これで……]
アツシはコムラの顔を見つめる。……もし。もしこの訓練が終わったら、彼女はいなくなってしまうのだろうか。自分はおいて行かれて、コムラはまた独りぼっちになってしまうのだろうか。アツシはきゅっと口元を結ぶ。「目を閉じて」と優しく伝えて来るコムラの手を、無意識に掴んでしまった。
「あ、アツシくん?」
「……あ」
何を、しているんだ。自分は。
アツシは慌てて手を離すと「すみません」と口にした。首を傾げるコムラに、アツシはバツが悪くなって視線を逸らす。
[我儘は言えない]
もう既にここまで手伝ってもらっているのだ。これ以上コムラに負担をかけることは出来ないだろう。
058
ずっと考えてきたが、アツシ自身コムラの為に死ぬことは出来ないし、コムラが生き返ることもない。この恋の行方は、どうしてもバッドエンドにしかならないのだ。だからこそ、最後の最後までコムラの望む〝匕背アツシ〟という人間でありたいと思う。
「何でもありません。最後の訓練、お願いします」
「う、うん」
後ろ髪を引かれる思いを断ち切るように、アツシはベッドに横になったまま目を閉じた。コムラの温かい手がアツシの目元に翳される。
[……これで]
これで、最後だ。その緊張感が、アツシの全身に走る。だからだろうか。
――その日見た夢の内容は、今のアツシにとって残酷で、ひどく甘い夢だった。
「アツシくん!」
「コムラちゃん」
パタパタと駆け寄ってくる小さな女の子。流行の服に身を包み、えへへへと笑みを浮かべる彼女は、アツシの隣に来ると「遅れちゃてごめんね」と笑う。その笑みに首を横に振って、アツシは手を差し出した。小さな手が重なり、握り返される。
[あたたかい]
コムラの手のひらから感じるぬくもりに、アツシは心の奥に熱が灯るのを感じる。嬉しい。楽しい。幸せだ。
「見てみて、アツシくん!」
「何してるの?」
「もう、アツシくんってば」
アツシの隣でコロコロと表情を変える彼女は、相変わらず愛らしい。ふふふ、と笑えばコムラも楽しそうに笑う。一緒にいるのが楽しい、と呟く心に寄り添うように、コムラはどこまでも一緒に着いてきた。
行ったことのない水族館も、小さなころ行きたがった遊園地も、乗りたがった観覧車も。写真でしか見たことのない海外の図書館だって、コムラは一緒に来てくれた。一緒に笑って、時には泣いて、怒られて。それでも繋がれたままの手が離されることはなかった。
「大好きだよ、アツシくん」
「私も、好きです。コムラちゃん」
「えへへへ」
嬉しい、と笑う彼女は、ひどく幸せそうで――――けれど、アツシはこれが夢であることを既に知っていた。知っていて、どうしても手放せなかったのだ。
[もうすこし]
もう少し、この甘い夢に溺れていたい。このまま、大好きな子と一緒に、好きだと言い合って生きていきたい。……どうせ現実では、絶対に叶わないのだから。
「アツシくん?」
「……コムラちゃん」
心配そうに顔を覗き込んでくるコムラ。彼女の小さな手が頬に触れ、温かさに目を伏せる。
優しくて、甘くて、温かい夢。手放し難い、夢。
「……私は、卑怯者ですね」
「え?」
「コムラちゃん。少しだけ、お話しませんか?」
059
そう告げるアツシの顔は、彼女にどう映ったのだろうか。自分にはわからないけれど、泣きそうだったのを必死に堪えていたから、どうせ格好悪い顔をしていたのだろう。わからないけど、わかる。
アツシは柔らかいコムラの手を掴んで、歩き出した。コムラは何も言わなかった。
公園のベンチへと向かったアツシは、コムラを先に座らせると、近くの自販機で飲み物を買ってから隣に腰かけた。不思議と無くならないお金は、夢の中だからとふんだんに使ってやった。どうせ最後なのだから、少しくらい贅沢してもいいだろう。
ペットボトルを山のように持ってきたアツシに、コムラは心底驚いていた。中々見ることの出来ない表情にしてやったりと思いながら、アツシは「好きなもの飲んでください」と告げた。アツシは現実では飲めなかった炭酸のジュースを手に取った。早速飲んでみたけれど、やはり夢の中だからか感覚がいまいちぴんと来ない。それもそうだ。生きている時に飲んだ経験が無いのだから。
コムラは好きそうなココアを手にすると、蓋を開ける。こくりと一口飲んで、すぐにキャップを閉めた。
「それで、どうしたのアツシくん。急に。らしくないよ?」
そう言ってくるコムラに、アツシは苦く笑う。ああ、そう言われるだろうと思っていた。
「コムラちゃんは……強くて、優しくて、可愛くて……私にはもったいないと思っていました」
「えぇ? 本当にどうしちゃったの?」
「私がコムラちゃんを好きだって話ですね」
アツシの言葉にコムラが照れくさそうに笑う。その仕草の可愛らしいことと言ったら。コムラが「私も……好きだよ」と応える。その返事に今までは喜んでいたのに、今は――今だけは、どうしても喜べなかった。
[私が、望んでるから]
今の彼女はきっと、アツシの望んだとおりの言葉しか発さない。わかっている。夢はなんて甘くて、残酷なんだろう。アツシは震える唇で笑みを浮かべた。
「だから、もう、終わりにしましょう」
「えっ」
アツシの言葉に、コムラが目を丸くする。これでいい。これでいいんだ。
「私は、君を言いなりにしたかったわけも、自分の物にしたかったわけでもないんです。ただ……ただ、一緒の時を過ごしていたかった。一緒に居たかった」
「い、いるじゃん。今。なんでそんなこと言うの?」
「私が望んでいるのは、〝君〟じゃないんですよ」
アツシは笑う。
060
今目の前にいるのは〝コムラ〟であって、〝コムラ〟ではない。自分の作り出した、自分に都合のいい幻覚だ。そんな子に好かれた所で、アツシは嬉しくとも何ともない。
「でも、君と一緒に居られた時間は……楽しかったです。だから、これでもう、終わりにしましょう」
アツシはコムラを抱き寄せた。キツく、キツく抱きしめる。コムラの足が浮き、細い身体が軋む。痛みに呻く声が聞こえ、それがコムラとは思えないほど歪で、アツシは怖かった。でも、やめる気にはならなかった。
「ア、つし、く……っ、くる、し……!」
「……ありがとうございます」
こんな自分に一時でも、夢を見させてくれて。
アツシはポケットからナイフを取り出した。ここは夢だ。願えばなんでも手に入ってしまう。それがいい物でも、悪い物でも。
コムラの手が強く抵抗する。最早抱きしめているのが本当にコムラの夢なのか、それとも別の物なのかわからなかったけれど、アツシのやることは変わらない。高らかに上げたナイフ。逆手に持って、自分たちに刃先を向ける。
「大好きです、コムラ」
その言葉を最後に、アツシは自分の夢にナイフを突き立てた。
「ッ――――!」
ガバッと勢いよく起き上がる。荒い息が肩を上下させ、額から湧き出る汗を拭った。
[いまの、ゆめは……]
「アツシくん?」
「!」
「大丈夫?」
コムラの顔に、アツシは驚いて飛び起きる。はあ、はあ、と息を再び荒くしてコムラを見つめた。首を傾げるコムラに、アツシは自分の手を見つめる。そこにはナイフも炭酸ジュースもなかった。コムラは相変わらず紫色のワンピースを着ているし、心配そうにしている表情も夢の中より甘さがない。
[現実、なんですよね]
アツシはコムラをじっと見つめる。夢の中では愛らしそうに顔を染め、首を傾げていたが、今のコムラは心底心配している様子しか見えなかった。
「アツシくんってば」
「あ、ああ。すみません。大丈夫ですよ」
コムラの問いに、慌てて答える。「本当に?」と告げてくる彼女に「本当です」と応えれば、むすっとしたまま離れていく。夢の中では満面の笑みで納得していたのに、明らかに認めていない表情はアツシの想定とは違い、そちらの方が愛おしく感じてしまう。アツシはコムラの形をした人形ではなく、コムラ自身をちゃんと好きなのだと少しだけ誇らしかった。
不貞腐れるコムラに、アツシは今回の夢を話そうとして、止まる。
061
いつもならすぐに報告するアツシが報告しないことに、コムラも疑問を覚えたのだろう。急かすような視線にアツシはさっと目を逸らすと、「そういえば」と話を切り替えることにした。
「今回、私は目覚めるまでどれくらいかかっていたんですか?」
「えっ」
「え?」
「あ、ううん。何でもない」
えっとね、と時間を見るコムラに、今度はアツシが首を傾げる。空を見る限り、寝てからあんまり経っていないように見えるけれど、どうだろうか。コムラは気まずそうに視線を彷徨わせると、小さな声で呟く。
「……くらい」
「? すみません。聞き取れなくて。もう一度言ってくれませんか?」
「っ、えっと、だから――丸一日、くらい、かな」
えへ、と笑うコムラに、アツシは頬が引き攣る。本気ですか、それ。
アツシはどっと押し寄せる疲れに、ベッドに倒れ込む。コムラが慌てている姿を見て、何とも言えない気持ちで彼女の頭を撫でた。
[まさか最後の最後で最長記録を更新してしまうなんて]
コムラも考えていなかったのだろう。気まずそうな視線が周囲を彷徨う。そんな彼女の頬を撫でて、アツシは徐々に上がってくる熱を感じた。嗚呼、久しぶりの発熱だ。アツシは押し寄せる身体の重さに、徐々に瞼を閉じていく。不安げな顔をするコムラに大丈夫だと告げたが、それもちゃんと音になったかどうか。
[やっぱり、これが現実ですよね]
アツシは落胆と久しぶりのような感覚に小さく笑みを零して、意識を手放した。最後に見えたのは、泣きそうなコムラの顔だった。
アツシの意識は低迷した。ウトウトとするような、浅い位置で意識が前後する。今が朝なのか夜なのかもわからない。意識が浮上しても、どうやっても起きられないのだ。目を空ければ眩暈がして、全身を寒気が覆う。今までの疲労が一気に体を蝕んでいるのか、今まででも一番キツい発作がぐるぐると体の中を回っていく。
意識を手放してから、どれくらいの時間が経っただろうか。
次に目を覚ましたのは真っ暗な部屋の中だった。
[よる、か……?]
豆電球さえつけられていない部屋を、カーテンを透かす月明かりだけが照らしている。体を動かすと大きく脳が揺れる。吐きそうになりながら、アツシはゆっくりと寝返りを打った。
「!?」
瞬間、目の前にいた人物に、アツシはぎょっとする。息が止まり、眩暈がするのも余所に飛び起きた。
「ッ……!」
ぐわんと脳が揺れ、頭を押さえる。吐き気を飲み込んで、息を吐き出した。
062
深呼吸を繰り返し、アツシは再びそこにいた人物に目を向ける。暗い部屋でぼうっと立っていたのは――マクラだった。
[びっくりした]
心臓が止まるかと思うほどに驚いた。暗い部屋の中で純白の服を纏った少女がじっとこちらを見ていたら、当然だろう。しかも無表情だ。能面みたいで余計に恐ろしい。
「ど、どうしたんですか、マクラちゃん」
「……」
マクラは応えない。いつもの明るいマクラとは違う雰囲気に、アツシは息を飲む。ドクドクと早鐘を打つ心臓が煩い。耳元まで聞こえてきそうだ。
[どうして、こんなところに]
そうだ。コムラは。彼女はどこにいる。
「ダメ」
「え」
「探しちゃ、ダメ」
淡々とした声で告げる彼女に、アツシは目を見開く。しかし彼女は何度も繰り返した。
ダメ。探したらダメ。見つけたらダメ。望んだらダメ。
繰り返される言葉に、アツシは恐怖に心臓が揺れる。何より〝なにを〟と言わないのが、余計に不気味だった。まるで、その名前を出してはいけないかのような。
「どう、して」
「未来を変えてしまうから」
「はっ?」
マクラは告げる。
「このままでは、貴方は未来を変えてしまう」
「未来をって……それが目的じゃないですか。私が、過ちを犯さぬよう。だからこうして訓練を――」
「ダメ」
だめ? 何故? コムラがそう言っていただろう。
アツシの目が鋭い物に変わる。見極めることが大切なのだと、アツシはこの数日で嫌というほど教わっていた。
「……どういうことですか」
マクラは冷静なアツシを見ると、少しだけ目を見開いた。しかしそれも束の間。彼女は見た目のたどたどしさを失くした口調で、話し続けた。
曰く、アツシの過ちを失くしてまえば、〝匕背モミジ〟という子が生まれなくなってしまうと。
曰く、ここで変わってしまったら、〝紀眞アキラ〟の未来を変えてしまうと。
曰く、とある老夫婦の行く末が残酷なものになってしまうと。
「過去を変えることは、未来を変えること。貴方の不幸で成り立つ幸福があるのなら、貴方の幸福で生まれる不幸もある」
「私の幸せが、誰かの不幸に……」
マクラは俯くアツシに、何も言わなかった。
アツシは葛藤した。今までやって来たことは、紛れもなく自分の、ひいては後々生まれるはずの子供の幸福のため。そして、それを望んでいるコムラのためだ。けれど、それをすることによって、本来は生まれるはずの命がなくなり、本来受けるべき幸福が水泡となってどこかに行ってしまうのだとマクラは言っている。
063
――それは〝ダメ〟なのだとも。
[自分の幸せか、他人の幸せか]
選ぶべきはもちろんわかっている。顔も知らない人間の為に、自分の幸福を犠牲にするなんて、そんな馬鹿馬鹿しいことがあってたまるか。しかし、マクラの表情は変わらない。ただ事実を告げる彼女は、アツシにとって大きな迷いを生んだ。
「考えて。そして、お願い。――あの子達の未来を、潰さないで」
「っ……」
マクラの言葉に、息を飲む。自分の存在がそこまで大きなものになっているとは、思ってもいなかった。だからと言って、自分の幸福を――コムラの意志を潰す決意を出来るかと言われれば……すぐには無理だった。
いつの間にか居なくなっていたマクラの姿に、アツシは全身から気が抜け、どさりとベッドの上に崩れ落ちた。眩暈がひどい。頭が痛いのは体調のせいか、それともさっきの話のせいか。
[決まってる]
はあ、と大きくため息を吐いて、アツシは文字通り頭を抱えた。自分は、一体どうしたらいいのだろう。考えても考えても、答えは出なかった。アツシは不意に襲い来る眠気に逆らわず、目を閉じる。コムラやマクラよりも年上だとはいえ、アツシも未だ小学六年生の子供だった。
アツシはその日からずっと考えていた。自分はどうしたらいいのか。コムラの為に出来ることは何なのか。
[わからない]
そんな中でもコムラから与えられる訓練を止めることはせず、アツシは夢を見ては目覚めるためにどうするかを悩み続けていた。あの日、夢の中から出ることは出来たものの、丸一日は時間の掛け過ぎだということで、もう一度体を慣れさせるのが必要だとコムラは判断したらしい。その判断を、アツシは肯定することも拒否することも出来ず、ただ流されるがままになっていた。
しかし、不幸なことにアツシに迷いがあるからか、タイムは縮まらないまま何日もが経過してしまった。ついには夢から覚めることが出来ない、つまり失敗するなんてことも起きてしまい、訓練はすぐさま中止になった。
「本当に。どうしたの、アツシくん」
「……いえ。すみません」
「すみませんじゃなくって」
コムラの目に焦りが映る。このままではいつ襲われるかわからないと言いたげだ。だが、本来であればそれが本当の自分の未来で、歩むべき道で。でも、それをしてしまったらマクラもコムラも、まだ見ぬ自分の子供も苦しめることになる。
[……纏まらない]
考えが散らばって、どうすることもできない。
064
そんなアツシを見かねてか、コムラは「ちょっと、休憩しようか」と笑う。散歩に行ってくると告げる彼女に手を伸ばしかけて、戻した。
呼び止めてどうなる。これ以上迷惑をかけるのは御免だ。アツシは大きく深呼吸を繰り返すと、ベッドから立ち上がる。自分も少しだけ外の空気が吸いたくなった。
片手に本を持ちながら襖を開ければ、すぐそこに庭が見える。大きな庭は手入れがされており、綺麗だ。庭師のおじさんに会釈をして、アツシは本を読み始めた。内容は、病で恋人を失くしてしまう、悲恋を描いた恋愛小説だった。
「こんなところで寝たら風邪ひいちゃうよー」
「!」
ふと、浮上する意識にアツシは飛び起きる。ふよふよと浮くコムラがしたり顔で自分を見下げており、その顔の近さにドクンと心臓が跳ねた。
[寝てた、のか]
アツシはゆっくりと体を起こし、周囲を見回す。明るかった空はいつの間にか夕焼けに染まっており、空気も肌寒くなってきている。庭師のおじさんはいつの間にかいなくなっていた。ひゅうっと冷気が吹いてくる。ブルリと体を震わせれば、「早く中に入ろ!」とコムラに急かされた。仕方ないので中に入れば、ベッドの上でマクラが蹲って寝ていた。コムラと顔を合わせ、くすりと笑う。きっと誰もいないことに不貞腐れて寝てしまったのだろう。
[子供ですねぇ]
まあ、実際子供なのだけれど。
これまた仕方なしに、アツシは座布団を引き寄せ、座る。すると隣にコムラも座ってきた。いつもなら楽しそうに浮遊しているのに、珍しい。
「ねえ、アツシくん」
「何ですか」
「言いたくないならいいんだけどさ。……もしかして、何か悩んでる?」
コムラの言葉に、アツシは視線を向ける。臆病な目が小さく揺れている。
[……不安にさせてしまっているんですね]
アツシは苦く笑う。しかし、答えの出せていない今ではどう相談したらいいのかわからない。アツシは何かうまいことを言おうとして、けれどやはり正直に伝えることにした。
「悩んではいます。が、どう相談すればいいのかわからないんです」
「どう?」
「表現がわからないというか……なんて言えばいいんでしょうかね」
苦笑いを浮かべるアツシに、コムラは何も言わずただ待ってくれている。そんな彼女に愛おしさが募ると同時に、それならばいっそと今まで疑問に思っていたことを開け放つことにした。
「ちょっと質問なんですが、コムラちゃんは、何のためにここまでするんですか?」
「えっ」
065
アツシの言葉に、彼女は素っ頓狂な声を上げる。――そう。違和感は最初からあったのだ。
そもそも未来を視て同情したからと言って、コムラが動く必要はないはずだ。大好きだって言っていた〝紀眞タイラ〟の話も、マクラが来てから聞いていない。それに、そもそも〝紀眞タイラ〟の為に動くのなら、注意すべきは〝匕背キヨシ〟の方であって、双子の兄である自分ではないはずだ。
「私のする〝過ち〟と、彼女たちの幸せが関係あるのならわかりますが……その様子だと、なさそうですね。それとも、私の不幸の上に成り立つ〝幸福〟を、彼女たちは手にするんでしょうか」
「ち、ちがっ」
コムラは真っ青な顔で否定をしようとして、けれど続きを紡ぐことはなかった。それが、答えだ。
顔を真っ青にするコムラ。小さく呟く声は、〝紀眞タイラ〟と〝匕背キヨシ〟への謝罪だろうか。「ごめんなさい」なんて、そんな顔で言って欲しくなかった。
[彼女の一等大切なものは……きっと彼女たち、なんでしょうね]
自分ではない。わかっていた。わかっている、つもりだった。
込み上げる感情に、涙が浮かぶ。どうしても報われないのだと、この気持ちは無駄なのだと、突き返されている気分だった。棘になった感情がアツシの心を傷つける。現実は残酷で、どこまでも非道だ。
「考えたんです」
「な、にを」
コムラの手を取る。指先は冷たくて、氷みたいで。
けれど離す気にはなれなかった。
「君が本当に守りたいものを、私も守りたいと。そのために犠牲に出来るものは、何でも犠牲にしましょう」
「ッ――!」
「だから、教えてください。君の大切な人の幸せは、どこにありますか?」
アツシは静かに問いかける。コムラは答えない。答え、られない。
[それが、答えであると彼女は知らないのでしょう]
でも、アツシの気持ちは固まった。どうせ報われないのなら、どうせこの感情を捨てるしかないのなら。
[みんなには、本当に申し訳なく思うけれど]
それでも、自分の命の使い道くらい、自分で決めたいと思う。その思いを、これからの子供たちの為、という隠れ蓑を使ってでも遂行させたいと思う。
[私は……傲慢ですね]
傲慢で、欲深くて、笑えるほど人間らしい。ならば、最後の最期まで、人間らしく欲深くいようじゃないか。それが例え、世界の道化だったとしても。
アツシは笑う。嗤う。
「安心してください、コムラちゃん。私は君の為に死ぬわけではありません。ただ、自分の道を自分で決めただけ」
066
「アツシ、くん」
「もう、大丈夫ですよ」
コムラの目から涙が零れ落ちる。泣かないでとは、言わなかった。自分の為に流される涙がこんなにも綺麗だと、アツシは初めて知ることが出来て心底嬉しかったのだ。
アツシはコムラの涙を拭おうとして、手を引っ込める。代わりに丸い額にキスを落とした。
「すみません。勝手に決めてしまって。でも――会えて嬉しかったのは本当ですよ」
「ひっぐ、ぅ、わ、わたしもっ、アツシくんとあえてっ、ふ、ぐっ……う、うれしかったっ」
「……そう言ってくれたことが、私の何よりの宝物です」
ボロボロと涙を流すコムラに、アツシは微笑む。愛おしさと覚悟をしかと混ぜ合わせた笑顔だった。
コムラはアツシの首に手を伸ばす。ぎゅうっと抱き着けば、アツシの手が背中を軽く叩いた。まるで宥めるような仕草にコムラはしゃくりを上げながら「子供扱いしないで」と笑う。「してないですよ。たぶん」とからかう声が響き、部屋の中に落ちる。
限界まで泣いた彼女は、ゆっくりと離れていく。冷たい身体が惜しく思ったけれど、アツシは自らの手が悴んで上手く動かなかった。こんなに長く触れ合ったのは初めてだった。
「アツシくん」
「何ですか」
「……幸せになってね」
コムラの声が震える。難しいとわかっていても、優しい彼女は願わずにはいられなかったのだろう。それが愛おしくて、堪らない。
「出来る限り、頑張ります」
「ふふっ。なんかカタイ」
「そんなこと言われても」
くすくすと笑うコムラに、アツシが唇を尖らせる。
――もし。
もし、二人が出会うのがもっと早かったら。
もし、違う立場で出会えていたら。
もし、強固な運命に抗おうと思うほど馬鹿であれたなら。
二人一緒にいる未来もあったかもしれない。
でも……これでいい。これが、自分たちらしいとさえ、アツシは思う。
「……さよなら、コムラちゃん」
「うん。ばいばい、アツシくん」
透明になっていくコムラに、アツシは自ら別れの言葉を口にした。コムラも同じように笑う。
ベッドを見れば、マクラも同様に体が透けていた。コムラはマクラの手を握ると、「ちゃんと連れてってあげるからね」と笑った。彼女ならきっと、ちゃんとした輪廻の環にマクラを案内してくれることだろう。マクラがいなければ、アツシの物語は始まらない。
コムラの身体が消えていく。冷たい温度も、触れていた感覚も、全部。
「アツシくん!」
「!」
「だいすき!」
にこりと笑みを浮かべるコムラに、アツシは目を見開く。
「っ、私も――」
大好きでした。
067
零れ落ちた涙と共に、意識が浮上する。
アツシは周囲を見回し、自分の手を見つめた。管の繋がった腕はきっと痛々しく映るのだろうけれど、アツシにとってはなんて事のない日常の一ページだった。
[いま、なんじ]
アツシの目が時計を見る。針は二時五十分を過ぎていた。室内が暗いから、きっと夜なのだろう。
[……懐かしい夢を見ましたね]
今でも忘れたことのない、一時の夢。長いようで、あっという間だった夢は、アツシの大切な人と共に消え去ってしまった。けれど、今でもそれを後悔したことはない。寧ろその夢を幻覚でも見ていたんじゃないかと思ってしまうのが、怖くて仕方がなかった。
また、これは虚ろな意識の中で知ったことだが、自身の部屋には見張りが常に立っていたらしい。言われてみれば、コムラが来る前は見張りの人と良く会話をしていたのを思い出す。そのため、中で行われた会話はほとんどが筒抜けだったらしい。つまり、アツシは『幻覚を見るほど精神的に追い詰められている』と思われていたらしい。体調が急に悪くなったり、急に眠くなったり睡眠時間が長くなったりしたのも、その際に投与された精神安定剤の効果だったのかもしれない。
[信用ないですね、本当]
結局、コムラたちがいなくなるのと同時にアツシは病院に移された。気が付けば中学生に上がって三年目になる歳になっていたものの、そんな感覚は全くと言っていいほどない。枝のように細い腕を見て、自嘲する。こんな貧相な人間が男子中学生だなんて、おかしいだろう。これじゃあ好きな人、一人抱きしめられないじゃないか。
アツシはふと腕から力を抜く。天井を見上げていれば、看護婦が深夜の見回りで入って来た。目が覚めているのを見るなり、慌てて声を掛けられながらナースコールが押される。カラカラに乾いた喉が張り付いてしゃべりにくい。水をもらったアツシは、そのまま脈を計られ、走って来た医者に痛みがないか、苦しくないかなどと診察を受けた。
随分軽くなった体で質問一つ一つに答えていれば、夜中だというのに父さんが姿を現した。久しぶりに見る姿は、少しやつれていて涙を浮かべている。
「アツシ……!」
「おはよう、父さん」
遠慮なく抱き締めて来る父に「痛いよ」と笑えば、謝罪と共にすぐに抱きしめる腕に力が抜ける。
すぐに寝るかと問われたが、流石に寝すぎたのか全く眠気がない。出来れば少し話をしたいと告げれば、医者も気を利かせて三十分程の許可を出してくれた。
068
父さんは今までの事を簡単に話してくれた。相槌を打つことしかできなかったが、今のアツシにとっては十分だった。何より、先日キヨシが目を覚ましたのだと聞いた時は心底驚いた。そして、キヨシが記憶喪失になってしまっていることで、キヨシの事を考え広島へと引っ越そうと思っているということも。
「本当はお前も連れて行きたいんだが……」
父さんの視線が彷徨う。言いたいことはわかる。自分の身体が引っ越しに耐えきれるかわからないのだろう。
[気にしなくていいのに]
キヨシだけでも大変なのだ。自分のことなんて放っておけばいいのに。そう思うが、優しい父の事だ。どうしても考えてしまうのだろう。
しかし、どうせ自分は一緒には行けない。ここから回復することはとある少女から聞いているが、だからこそ、ついて行くことは余計に出来ない。約束したのだから。
「……大丈夫。キヨシのこと、おねがい」
「っ、アツシ……」
父さんの涙がアツシの頬を濡らす。アツシは笑みを浮かべていた。
[大丈夫、寂しくはない]
あの日、交わした約束があるから。
アツシの脳裏を過る、一人の女の子の姿。記憶は少し薄らいでしまったけれど、あの時交わした約束だけははっきりと覚えている。
口元が緩む。そろそろだ。そろそろ、マクラが生まれる。そうすれば、アツシの物語がやっと幕を開ける。これ以上に楽しみなことはないだろう。
病室を出て行く父に手を振り、アツシは静かに目を閉じた。高揚感に跳ねる心臓でどうにも寝れそうにはなかったけれど、それでも不思議と体は元気だった。
それから数年後。アツシは大人になった。
[そろそろ、コムラちゃんが言っていた歳になりますね]
自分はきっと過ちを犯してしまうのだろう。自分が間違うことを知っていて何もしないのは、不思議な感覚だ。アツシは苦く笑みを浮かべ、キヨシから送られて来た手紙を封筒に仕舞う。送付元のない手紙が来るようになったのはいつからだろうか。不定期に来る手紙の中には、キヨシの字で自分たちは元気でやっていることと、ちょっとした雑談が書かれている。
アツシはペンを執る。便箋にペン先を付けて、アツシはキヨシへの返事を書いていく。返送先がわからない手紙ではあるが、アツシは書かずにはいられなかった。律儀に返事を書いて、封をした手紙を送られて来たものと一緒に引き出しに入れた。それを懐かしそうに見つめ、アツシは引き出しを閉めた。
風が吹く窓を見つめる。
069
カーテンが風に靡き、アツシの髪を攫う。
あの日から、アツシはしっかりと眠ることが出来なくなっていた。お陰で夢を見ることも少なくなったが、その分体が脅かされているのを感じる。
[……コムラが見た〝私〟も同じだったんでしょうか]
自分じゃない自分を気にするなんて、変な感覚だ。
思えば、あの時の時間はアツシにとって不思議な時間だった。
〝幽霊〟なんて非科学的なものを信じて、触れて、話して、恋をした。それだけ聞けば、まるでドラマの一ページじゃないか、と笑ってしまいそうになる。『事実は小説より奇なり』なんて言葉もあるくらいだ。
[そう考えると、何が起きてもおかしくないものですね]
一人の執務室に、アツシの笑みだけが零れる。微笑ましさを押し殺したような笑みだ。
アツシは再びペンを執る。手に取ったのは、真っ白い封筒と新しい便箋の一枚。ついさっき『匕背キヨシへ』と書いた部分には何も書かず、アツシは便箋にペン先を置いた。
書き連ねるのはこれから自分がやってしまうこと。未来の自分を書くなんて、やっぱり不思議な感覚だ。アツシはコムラから聞いた自分の事を書いていく。あやふやなところは多少誤魔化しを入れて、時々自分への苛立ちを隠して。アツシは全てを書いていった。
「こんなものでしょうか」
アツシは出来たものを揃えて、空白の白い封筒に入れる。封筒の宛名には、将来出来るであろう不義の子の名前を書く予定だ。これがいい方向に行くのか、それとも悪い方向に行くのかは、アツシにはわからないけれど。きっと知らないより知っていた方がいいだろう。
[無知は、罪ですから]
アツシは封筒の封をして、お気に入りの本に挟んだ。アツシは大きく息を吐く。
……きっと、この手紙はアツシが死んだ後にでも誰かが見つけてくれるだろう。そうすれば、悪いのは全部自分になる。巻き込まれてしまうマクラとサクラ、そしてこれから先に犠牲にしてしまうホコラとその子供には、とても申し訳ないと思う。正直胸が千切れるほどの想いだ。――それでも、アツシはコムラとの約束を破ることは出来なかった。
[せめて、二人の心の傷が少しでも軽くなりますように]
そう考えること自体烏滸がましいのだろう。でも、アツシにはそう思う以外、どうしたらいいのかわからなかった。
だからこそ、出来る限り二人に尽くしてきた。夫として、親として。愛情を注いできた。
070
傷つけるとわかっているのに、関りを増やすのはどうかと思った時期もあったが、それでも二人を目の前にしたら、そうせざるを得なかった。
[本当に私は、自分勝手ですね]
アツシは一人、自嘲する。何もかも勝手な自分が、どうしてこんなに幸せな人生を歩んでいるのか。わからない反面、神様を呪いたくなってしまう。――けれど、それもそろそろ終わりだ。
コムラの言っていた事象がどんどん近づいてくる。聞いたことが一つ一つ積み重なって、本能がそろそろだと騒ぎ立てる。自分を追い込んでいるのがわかる。
アツシは震える手を握り締め、息を吐き出した。途中、咳き込んでしまった喉を潤すように水を飲み、薬を取り出す。体調の悪化を抑える薬だ。それと、少しの精神安定剤。アツシはその小さな錠剤たちに込み上げる不安と自身の思いを託すように、大きく飲み込んだ。
息を吐き出して、震える手を抑える。発作が来る度、少しばかり情けない姿を見せてしまうのが、恥ずかしいような悔しいような気がしてしまう。
「……大丈夫。私は、世界で一番の悪党になるって決めていますから」
アツシは小さく呟いた。その言葉はどこか震えて、泣きそうにも聞こえているのだろう。本当に、情けない。
こんなの、他人が聞けば、きっと笑われてしまう思いだ。もしかしたら、『そんなものを目標にするなんて』と怒られてしまう思いかもしれない。それでも、アツシにはその目標が自身の心の支えになっていることは、事実だった。
[だいじょうぶ]
忍び寄る影に、アツシの手が震える。震える手を合わせて、大きく深呼吸をすれば、少しだけ落ち着いてきたような気がした。……この先、何が起こるかわかってはいても、やっぱり怖いものは怖い。――でも。
[……見ててください、コムラちゃん]
――きっと、僕は一番の悪党になって、君の元に向かいますから。
その時は一目でもいい。会ってくれませんか。恋に焦がれた憐れな一人の男として。
アツシは気丈に笑う。その笑顔は自嘲でも苦笑いでもなく、まるで世界に挑戦をする勇者のようだった。
さあ、悪党になるまで自分は自分の人生を謳歌しよう。泣き言なんて言っていたのがコムラにバレたら、恥ずかしくてたまらない。折角地獄で会っても、視線さえ向けてくれなくなってしまうかもしれない。そんなのは、嫌だ。
[大丈夫]
コムラの声が脳裏で反芻する。
彼の背後に立つ影が伸ばす手が、アツシに触れるまで、あと、少し――――。
了 美少女[ドライヤーガン]戦士完結
24.09.16.完成 コムラ
24.07.10.完成 タイラ
24.01.29.完成 カツラ
24.01.18.完成 ヤワラ ホムラ
23.12.29.完成 チカラ
21.11.27.完成 キヨラ
22.02.17.完成 タカラ
21.07.13.完成 サクラ
19.05.30.完成 アキラ
壱喜 弐怒
参哀 四楽
五嬉 六笑 七怒 八罵
九愁 零無
西暦
1946年オケラ朮小3
1962年ヤワラチカラ小3
1967年ホムラカツラ小3
1978年コムラ小3
1981年タイラ小3
2010年サクラ小3
2028年アキラ小3
2045年キヨラマモル小3
2054年タカラ小3
現在過去を交錯しながら十巻まで完全完結です。
漫画原作と漫画原作本目指してます。著作権保持者宝希☆(家鴨乃尾羽)が、激しい病人の為、編集部への持ち込み不可能です。
すみませんが、スケベでないプロ漫画作画家かスケベでないプロ漫画編集者の皆様、気軽に声かけてください。25.05.06.宝希☆(家鴨乃尾羽)




