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ドライヤーガン戦士シリーズ零コムラ前編


001


「おいで、アキラ」


優しい笑顔で小さな子供と老婆が抱き合っている。楽しそうに本を読んでいる姿を見ていたコムラは、ほっと胸をなで下ろしていた。


『よかった』


コムラは寄り添う老夫婦の背中を見て、静かに微笑んだ。








「はじめまして、私はコムラ。よろしく!」


――コムラがまだ四歳の頃。お盆前に紀眞家本家で開かれた、紀眞家と匕背家の会合で、コムラは初めてキヨシとタイラに出会っていた。


「僕はキヨシっていうんだ。よろしく」


優しく微笑む男の子──キヨシに、コムラは笑みを返す。キヨシはにこりと笑うと、視線をコムラの足元へと向けた。その視線に、コムラは苦い笑みを浮かべる。


[気になるよね、普通]


自分の足元には小さな女の子が不安そうに身を隠している。コムラにとってはついさっき会ったばかりの女の子だ。母親の仲がいいということで、会合に来て一番最初に紹介されたのである。そしたらどうしてか、こうして足元にべったりになってしまった。動きにくくてちょっと困るけど、小さな子だし注意も出来ない。それに、何より自分について回る女の子はとってもかわいい。とはいえ、コムラも小柄な子供だ。全身は隠せない。


コムラは首を傾げるキヨシにとりあえず、「こっちの子はタイラっていうの」と紹介をした。彼女は人見知りなだけで、別に話せないわけじゃない。さっきは自分で自己紹介していたし。


キヨシも何かを理解したのか、しゃがんでタイラと目線を合わせた。「よろしくね」と優しい声が響き、キヨシの手が差し出される。タイラはもじもじと迷った後、恐る恐る指先を握り返していた。その様子に、コムラはつい微笑ましくなって小さく笑みを浮かべてしまった。




――コムラとタイラの家の〝紀眞家〟と、キヨシの家の〝匕背家〟は、切っても切れない縁がある。


昔、陰陽師として栄えていた紀眞家は、とある時期から濃い遺伝子を欲するがあまり、どうにか自分たちの血を濃く残せないかと奮起していた。そこに天啓の呪として落ちてきたのが、〝禁忌〟である〝近親相姦〟である。その〝禁忌〟を犯したのは、匕背家だった。


近親相姦は濃い血を残すことができるものの、その分高いリスクを要するからだ。血が残っても、〝欠陥品〟しか生まれないのでは意味がない。そう思った紀眞家は、〝禁忌〟を犯した匕背家を脅し、数代にも渡る契約を交わした。お陰で両家は今でも存続し続けている。


紀眞家は女の子を、匕背家は男の子を迎える度に『婚約』をさせ続けていたのだ。




002


そこに大人たちのどんな思惑があるのか。どんな意図があるのかは、幼いコムラには分からない。それでも子供なりに思うことはあるのか、キヨシが自身の婚約者だと知っても駄々をこねることは無かった。


コムラはキヨシを見つめる。


[この人が、私の〝こんやくしゃ〟なんだ]


自分よりも少し上だろうか。コムラと身長はそう変わらないものの、そんな気がしていた。顔や声など、彼がどんな人間なのか、判断する材料は多々あるものの、コムラにとってはあまり興味のないことだった。


「こむらねぇ!」


ふと、タイラの声がコムラの意識を引き戻す。


ハッとして顔を向ければ、タイラのこぼれんばかりの大きな瞳が自分を見上げていた。いけない。ぼうっとしてたみたい。


「どうしたの、タイラちゃん」


「えーかきたい!」


「お絵描きするの? いいよー」


二歳になったばかりのタイラの小さな手が、グイグイとコムラのスカートを引っ張る。その力に、コムラは慌ててスカートのゴム部分を掴んだ。タイラは体が小さいわりに、結構力があるみたいだ。抑えていないとスカートがずり落ちてしまいそうだった。


[あぶないあぶない]


コムラは早めに、タイラから差し出されるクレヨンと紙を受け取ると、一緒に机に向かう。幼稚園で先生たちがやっていたのを真似して自分と机の間にタイラを座らせれば、キヨシが「何をするの?」と声をかけてきた。


「タイラちゃんがお絵かきしたいんだって」と告げれば、キヨシが「ふぅん」と呟く。自分から聞いたくせに興味は無いのかな、と思っていれば、キヨシがコムラの隣に腰を下ろした。どうやら気にはなっていたらしい。


「タイラちゃん、なにかいてるの?」


「おうまさん!」


「おうまさんかぁ! かわいいねー!」


「ねー!」


コムラの真似をしてこてりと首を傾げるタイラ。


[かわいい~!]


そんなタイラに、コムラは早速メロメロだった。舌っ足らずなのが余計に可愛らしい。クレヨンを握りしめて楽しそうに絵を描くタイラは、まさに天使だった。


どこかから大人たちの楽しそうな声が聞こえるが、どうだっていい。会合になれば、いつもの事だとコムラは思う。コムラたちのような着いてきた子供たちは、当主への挨拶が終わるなり『邪魔だ』と言わんばかりに離れに送られてしまうのだ。子供は子供同士で遊んでいろ、ということだろう。大人たちの難しい話を聞いているよりよっぽど楽しいから、コムラはそれでいい。


[今日はにぎやかだなぁ]




003


そんなことを考えながら、タイラを見つめる。ガリガリと描かれていく茶色い物体は、どうやら生き物らしい。


[犬かなぁ? それともラクダ?]


何の動物だろう。コムラが描かれていく生き物らしきものの正体を考えていれば、不意に伸びてきた手が黒いクレヨンを取った。黒はあまり使わないのだろう。一番長いクレヨンがキヨシの手に渡る。彼は「借りるね」とタイラに告げると、真剣な目でタイラの書いている紙の端っこにクレヨンの先端をつけた。何かを描き始めたらしい。だが、キヨシの手が邪魔で何を書いているのか分からなかった。


しばらくタイラと二人で首を傾げて入れば、「出来た!」と声を上げるキヨシ。コムラとタイラが覗き込む。そして、首を思い切り傾げた。


「……なあに? これ」


「何って、ネコさんに決まってるだろ!」


「「ええー……?」」




[猫……ねこ……?]


どこか引いた目でキヨシを見るタイラとコムラに、キヨシが「な、なんだよっ」と声を上げる。むすっとした顔に、もう一度彼の言う『ネコさん』を見るが、黒い線が何かを象っているのはわかるものの……それ以外はよく分からない。


[ぜんっぜんネコに見えないんだけど]


──キヨシくんって、絵、下手だったんだ。


コムラが頬を引き攣らせるのと同時に、タイラの「うっそだあ! ネコさんはもっとかわいいもん! これかわいくない!」という言葉が響く。キヨシもまさか『かわいくない』と言われるとは思っていなかったようで。心底ショックを受けて、項垂れる。うぅ、と肩を落とすキヨシに、コムラはなんだか可哀そうになって無言で肩を叩いた。


「そんなに気にしないで、ね?」


「コムラ……」


「私もあんまり可愛いとは思わないけど、好きな人はいると思うよ」


「それ、フォローになってないんだけど」


更に肩を落としてしまうキヨシに、コムラは首を傾げる。喜ぶと思っていたのに、どうしてそんな反応をするのだろう。わからない。わからないけど、そっとしておいた方がいいような気はする。コムラはキヨシに声をかけるのをやめた。




それから日が落ちるまで三人で遊んだコムラ達は、顔を合わせた時よりも随分と仲良くなっていた。しかし、楽しい時間は永遠には続かない。


日もとっぷり暮れ、気がつけば夜の足音が近づいてきていた。既に何人かの子達の迎えが来ては、名残惜しそうに帰っていく子供たち。そんな光景に三人の心に灯るのは、言葉にできない寂しさで。どんどん元気のなくなる二人に、コムラは何かを言いたくて、けれど何を言えばいいかわからなかった。モヤモヤした気持ちを抱えながら少ない時間を遊んでいれば、トントンとノックされる襖。開いた先にいたのは、コムラの母親──オケラだった。




004


「コムラ。私達も帰るわよ」


「う、うん」


母に呼ばれ、コムラは少しためらったものの、腰を上げようとして――襲い掛かって来た重さに、尻もちをついてしまった。痛む尻を擦りながら腹部を見れば、抱き着いてきたらしいタイラの小さな頭が見えた。


「こむらねぇ、かえっちゃやーあ!」


「た、タイラちゃん」


「あらあら。随分懐かれちゃったのねぇ」


腰に巻きついて「かえっちゃやーだー!」と声を上げるタイラに、コムラは苦笑いを浮かべる。


[こまったなぁ]


タイラの涙がコムラの服に染みていく。タイラの母親が慌てて駆け寄ってくるも、引き離そうとすれば途端泣き声が大きくなってしまった。コムラは年齢的に確かにお姉ちゃんではあるものの、タイラとは帰る家が違う。どうしたらいいんだろう、と困惑したコムラは、とりあえずと泣き止まないタイラの頭を撫でた。驚くタイラの目が大きく見開かれる。宝石のようなキラキラした瞳は、本当に可愛らしい。


鼻水をティッシュで拭ってやり、涙を優しく指先で拭う。


「また来年、会おうね」


「らいねん?」


「うん。タイラちゃんがいい子にしてたら、ぜったい会えるから。ね? 約束」


コムラはそう告げると、自身の小指を差し出す。恐る恐る差し出されたタイラの小さな指に絡めて、「ゆーびきりげーんまん」と歌い始めた。タイラの目から涙が消えていく。「ゆびきった!」と告げた時にはもう、タイラの顔には笑顔が映っていた。


「それじゃあ、またね。タイラちゃん、キヨシくんも」


「うん! こむらねぇ、またね!」


「うん。またね、コムラ」


手を振る二人に見送られ、コムラは母親のオケラと共に帰って行った。




それから半年。再び集まることになった両家の会合に、タイラとキヨシも参加していた。大人たちにお年玉を強請ったコムラ達は、再び過ごせる三人の時間を満喫していた。


「コムラ。ちょっと来なさい」


そんな時だった。コムラを呼ぶオケラの声が、離れの子供部屋に響く。タイラたちとおままごとをしていたコムラは首を傾げつつも、返事をして立ち上がる。不安そうな顔をするタイラに「すぐに戻ってくるからね」と告げて、母の元に駆け寄る。


「話しておきたいことがあるの」という母に連れられ、コムラが来たのは紀眞家現当主がいる部屋だった。大きな体をしている当主が怖くて肩を揺らせば、困ったように微笑まれた。


「怖がらせてすまない」


「う、ううん……」


「少し話をしたかっただけだ。そこの座布団に座ってくれるかい?」




005


できるだけ優しく言おうとしたのだろう。ぎこちない言葉にコムラは[こわい人じゃないのかも……]と指された座布団に腰を下ろした。隣に母も腰掛ける。他の大人たちはいないらしい。当主の後ろにはお手伝いさんらしき人が立っているが、大人は母を含めて三人だけだ。この三人なら、コムラも安心して話が出来るだろうという気遣いなのかもしれない。


コムラは姿勢を正すと、当主様を見つめた。


「突然すまないね。コムラに話しておかなければいけないことがあったんだ」


「私に?」


「ああ。――コムラが引き継ぐドライヤーガンと、妄執の話だ」


当主はそう告げると、何やら難しい話をし始めた。彼なりに砕きながら話してくれているのだろう。コムラでも何とか理解することが出来た。




妄執というのは、人間の負の感情から生まれたものであること。それを浄化するのにドライヤーガンが必要であること。それを扱えるのは、戦士となる紀眞家の女児だけであること。




「来年度からコムラは小学生になるだろう? そうしたら君は戦士になるための教育を受ける必要が出てくる。もちろん、学校に行きながらになるが、そのための先生は既に揃えているつもりだよ」


「先生がいるんですか?」


「ああ。とはいえ、実際にドライヤーガンを使った訳ではなく、戦いに心得があるだけだけれどね」


そう言った当主は、不揃いに生やしている髭を撫でた。白い髭は何となくおとぎ話の神様や仙人を思い起こさせて、コムラはじぃっとその仕草を見つめてしまった。それに気づいたのか、当主は髭を触る手を下ろし、再び話を始める。


「コムラにとっては凄く大変な日々を過ごすことになるだろう。できるだけこちらもサポートをさせてもらうが、何かあったらちゃんと言うように。いいね?」


「は、はいっ」


「いい子だ」


当主はそう言うと、コムラの頭を撫でる。大きな手はお父さんみたいでちょっとだけ安心した。


[なんか、ふしぎなひと……]


コムラはそう思ったものの、口には出さなかった。


オケラに手を引かれて部屋を出れば、空には夕焼けが走っていた。まだタイラやキヨシの遊べるかもしれない。しかし、そんな思いとは裏腹に、繋いでいたオケラの手がコムラを引き寄せた。


「お母さん?」


肩を掴まれ、目を合わせられる。母の目は今まで見てきたどの目よりも真剣な目をして、コムラを見ていた。その視線の強さに、コムラは少したじろいでしまう。しかし、オケラの手は緩むことはなかった。




006


「ねえ、コムラ。あなたは絶対にドライヤーガン戦士になるのよ。ドライヤーガン戦士になって、お母さんに楽をさせてちょうだいね?」


「えっ」


「ほら、お母さんと約束よ」


「う、うん」


差し出される小指に、コムラはぎこちなく自分の指を絡めた。ニコニコと笑みを浮かべる母の姿に、コムラは首を傾げる。


[私がドライヤーガン戦士になれたら、お母さんは嬉しいのかな?]


よく分からないけれど、そういうことなのだろう。母が喜んでくれる方が、コムラにとっても俄然嬉しい。コムラはぱあっと笑みを浮かべると、母の手を強く握った。


「私、がんばるね!」


「ええ、楽しみにしているわ」


ふふ、と笑ってくれる母に、コムラも笑みを浮かべる。当主にも言われたが、他の誰でもないお母さんが笑ってくれるなら頑張ろうと、コムラは子供心に誓った。




コムラが部屋に戻った時にはもう遅く、ほとんどの子供たちの迎えが済んだ後だった。コムラは帰ろうとする母に我儘を言って、部屋に帰ってきたのだ。


[タイラちゃんは!]


ふと周囲を見回すが、小さな女の子の姿は見当たらない。きっともうお迎えが来てしまったのだろう。


[直ぐに帰るって言ったのに……]


不安げな顔をするタイラを思い出し、コムラは小さい声で「ごめんね」と呟いた。キヨシも帰ってしまったようだし、二人がいないならコムラがここに留まる理由はない。


コムラは後ろ髪引かれる思いで母の元に戻ると、彼女の大きな手を両手で包み込んだ。ふわりと微笑む彼女に「二人とも帰っちゃったみたい。かえろ、お母さん」と告げて、コムラは屋敷を後にした。




そしてその日を境に、コムラの生活はガラリと変わった。妄執の弱点や、出やすい場所を覚える日々が始まったのだ。小さな体に叩き込まれていく知識に、コムラは毎日のように頭から湯気を出してしまう。


「もう覚えらんないよぉ……」


「こら。教科書を放り投げてはいけませんっ」


「うぅ……」


拾い上げられた教科書が、コムラの頭を叩く。渋々受け取ったものの、どうにも開く気にはなれなかった。どの教科書よりもくたびれたその本は、当主の言っていた『教育係』のお手製のものだった。


とはいえ、ちゃんと書くことは出来ないから隠語ばかりだし、言葉も難しい。コムラの耳を右から左へとすり抜けるには十分だった。


[全然おぼえらんない……]


むぅ、と口を尖らせれば、教育係として呼ばれた先生が呆れたようにため息を吐く。




007


その声を聞きながらも、コムラは出ないやる気を自分の心の内でこねくり回していた。母のためにもと思うのに、どうしても机に向かうのが苦手なのだ。


コムラがこうして教育を受けるようになってから、母はずっとニコニコしている。それはもう、怖いくらいに。いつもは怒ったり笑ったりと忙しい人なのに、最近はそれもない。


[がんばれって言ってくれるのはうれしいんだけどなあ……]


『お母さんが楽出来るように、コムラも頑張ってちょうだいね』


繰り返しそう告げる母に、コムラは何となく違和感を覚えていた。とはいえ、それがなんなのかコムラにはよくわかっていなかった。




――ドライヤーガン戦士。それは紀眞家が代々引き継いでいる役目みたいなものだと、先生たちは言っていた。なんでも、妄執を倒すための力を自分たちは持っているのだとか。それに選ばれることは名誉で、誉れで、凄いことなのだと。選ばれた子と選ばれなかった子とでは、紀眞家での扱いが変わってくる。その影響は本人に留まらず、家全体に関わってくる。本来は本家から近い順に選ばれるのだが、今回はコムラの代に他の子がいないということで特例が適用された。コムラの家は本家と遠くも近くもない分、恩恵は少ない。そこを、母は何かしら思っていたのだろう。


[私がドライヤーガン戦士になれれば……]


きっとお母さんは泣いて喜んでくれるかもしれない。褒めてくれるかもしれない。


「……よし!」


――そうと決まったら、頑張らなくちゃ!




自分の両頬を叩いたコムラはそう意気込むと、教科書を手に取った。急にやる気を出したコムラに先生はびっくりした顔をしていたが、特に何も言うことはなかった。代わりに始まった授業に、コムラは頭を抱えながらも懸命に立ち向かっていた。


もちろん、その間も訓練は欠かせない。小学校に入学すると同時に始まったそれに、コムラは友人と遊ぶ時間も削って訓練に励む。


「脇が甘いわ!」


「っ、!」


「転んでもすぐに立ち上がる!」


「は、はい!」


小さな体がじんじんと痛むのを感じながら、コムラは立ち上がる。最初は痛みに泣いていたものの、一週間も続けばもう慣れてきてしまう。先生は「コムラは痛みに強いのかもしれないね」と言っていたけれど、よくわからない。ただ、痛いのを忘れるほど地面に転がされたことだけを覚えている。


春を超え、夏を迎えたコムラは、その歳初めて会合に付いて行くことを拒否された。




008


「遊ぶ時間があるなら、お母さんのためにちょっとでも強くなってちょうだいね」


「……うん」


そう言い聞かせる母を、コムラはぼうっと見つめていた。頭に浮かぶのは、天使のようなタイラの笑顔と婚約者であるキヨシの顔。


[楽しみだったのにな……]


それも全部、ドライヤーガン戦士になるため。ドライヤーガン戦士になって、大好きな母を楽にしてあげるため。


「……早く、九歳になりたいな」


コムラは母を乗せた車が去って行くのを先生たちと一緒に見送りながら、そう呟いた。




それからコムラはただただ訓練に勤しむ日々を送っていた。しかし、日に日に強くなっていくのは戦士になりたいという気持ちよりも、あの時会えなかった二人に会いたい気持ちばかり。学校から帰る道で、こっちに行けば二人に会えるかも、と歩き出すのを何度堪えたかわからない。車で日帰りできる距離だとはいえ、コムラの小さな足で行けるような距離じゃない。コムラはそれを良く知っていた。


[お正月には、会えるかな]


タイラは泣いていなかっただろうか。寂しい思いをしていなかっただろうか。キヨシの絵は上手くなったのかな。――ああ。


「あいたいなぁ……」


コムラの呟きは、残暑の残る空に虚しく響いて行った。




秋が過ぎ、冬が来る。クリスマス用にと用意された小さなケーキを食べていたコムラは、ふと母の呟きに顔を上げた。


「お正月は行かないといけないわよねぇ」


「えっ」


「会合よ。お盆の時はあなたを連れて行かなかったけれど、先生たちもお休みだし、ご挨拶をしないわけにはいかないものねぇ」


はあ、とため息を吐く母。しかし、母とは裏腹にコムラの表情は徐々に笑顔を取り戻していく。


「……ほんとう? 私、一緒に行けるの?」


「ええ」


ぱあ、と華やぐ瞳は、淡々と訓練と学校を行き来していた時とはまるで別人のものだった。


[やった……!]


タイラたちと会うことが出来るんだ。そのことが嬉しくて嬉しくて、堪らなかった。コムラははしゃぎたい気持ちをぐっと堪え、母を見上げる。優しく撫でられた頭に、コムラはにこりと笑みを浮かべる。やけに慣れた笑顔だった。


数日後。車に揺られること二時間弱。やって来た匕背家のお屋敷は数年前と変わらない佇まいをしているのに、今のコムラにとってはお城と言っても過言ではない輝きを放っていた。タイラやキヨシに会えるからだろう。コムラは駆けだしそうになる足をぐっと堪える。




009


すぅっと大きく息を吸い込めば、肺に入ってくる冷たい空気。降り積もる雪によって冷やされたそれは、車の暖房で火照った小さな体には丁度良かった。


[やっと、二人に会える……!]


コムラはそわそわする気持ちを抑え、屋敷の中に入って行く。当主への挨拶を終え、親戚への挨拶を済ませ、母の「それじゃあ、コムラは離れで待っていてね」という言葉にコムラは飛び出した。離れへの道は以前来た時に覚えている。コムラは廊下を走るなという言いつけすら忘れて、走り出す。すれ違う大人たちも、正月だからか朗らかに走り去るコムラを見送っていた。お正月ってすごい。




コムラは見覚えのある障子を勢いよく開けた。中にいた子供たちが振り返ったが、どうでもいい。


「タイラちゃん! キヨシくん!」


「コムラねえ!」


「コムラちゃん」


――いた。会えた。名前を、呼んでくれた。


込み上げる歓喜に、コムラは涙を浮かべる。この日の為にどれだけ頑張ったか。しかし泣くわけにはいかない。だって自分はタイラのお姉ちゃんなのだから。


「久しぶりだね、二人とも」


「コムラ姉……!」


「ああもう。泣かないで、タイラ」


ブワッと涙目になるタイラに、コムラは愛おしさと嬉しさを込めた手で抱きしめた。気分はまるで生き別れになった姉妹のようだ。ぐすぐすと鼻を鳴らすタイラの頭を撫でる。前よりちょっとだけ大きくなっただろうか。子供の成長は早いって大人たちは言っているし、きっとそうなのだろう。タイラが元気に成長しているようで、コムラは嬉しかった。


感動の再会を果たしたコムラたちは、時間が惜しいとばかりに遊び始めた。お絵描きをして、本を読んで、ままごとをして。ほとんどタイラのしたいことばかりだったけれど、コムラは楽しくて仕方がなかった。


タイラが白銀の外を指差し、声を上げる。


「コムラ姉! ゆきがっせんしよ!」


「ええ? 外、寒いよ? 大丈夫?」


「だいじょーぶ!」


にへへ、と笑うタイラに、コムラは「じゃあ行こうか」と笑った。キヨシが慌てて持ってきた二人の防寒具に身を包み、コムラはタイラと共に外に出た。外はやはり寒く、つい身を震わせてしまった。しかし、子供というのは元気なもので。


「うさぎしゃん!」


「わあ! タイラちゃん、上手~!」


「ほんとだ。上手だね」


数分もすれば寒さなんて忘れてしまう。三人で雪だるまを作って、雪合戦をする。


[こんなに楽しいの、いつぶりだろ]


コムラはここに来てからずっと笑っている気がする。




010


小学校に上がってから訓練ばかりで、学校ではついて行けない授業に必死について行こうと頑張る日々。しかし、ここではテストの点数が悪くてお母さんに怒られることも、授業中に寝てしまって先生に怒られることもない。それどころか大好きな二人がずっと一緒にいてくれるのだ。こんなに嬉しいことはない。


「たのしいなぁ」


――こんな日がずっと続けばいいのに。


[でも、私が戦士にならないと、お母さんは大変なままなんだよね……]


コムラは自分の素直な気持ちと、やらなければいけない気持ちに板挟みになる。しかし、小さなコムラの未熟な精神ではそれを上手く処理することが出来なかった。悶々と悩むコムラに、タイラが首を傾げる。姉の様子がいつもと違うことに、子供心ながらに気が付いたのだろう。元気を出させようとコムラの膝の上に乗ったタイラの手が、コムラの頭を撫でる。手袋に包まれた小さな手で自身の頭を懸命に撫でる様に、コムラの頬が緩む。


「ありがとう、タイラちゃん」


「あい!」


えへへ、と笑うタイラに、コムラが頭を撫で返す。ふにゃりと笑みを浮かべる顔は、本当に愛らしくてたまらない。不意にタイラがくしゃみをし、三人は慌てて家の中に入ろうと玄関に向かう。玄関を開き、室内に入ろうとしたところで、背後で何かが倒れる音が聞こえる。振り返れば、全身を黒い服に包んだ人間が倒れていた。キヨシとコムラが顔を見合わせる。どうしよう、と目で問いかければ、キヨシがコムラの背中を押した。


「コムラとタイラはそこにいて」


「でもっ」


「大丈夫。ちょっと話聞くだけだから」


そう言って笑ったキヨシが、走り出す。その背中に、コムラは何とも言えない不安を感じていた。ぎゅうっとタイラを抱き締めれば、「コムラねー?」とタイラの舌ったらずな声が聞こえる。しかし、コムラはいつものように笑みを返すことが出来なかった。


[だめ……]


ガンガンと響く警鐘に、全身が震える。


「……まって、キヨシくん」


か細い声がコムラの喉を震わせる。本能が、直感が、告げていた。




――その人間に触っては、駄目だと。




キヨシの優しい手が伸びる。人間を纏っていた黒い影が、ゆらりと揺らめいた。コムラはタイラを抱えたまま、走り出した。


「キヨシくん! ダメ!!」


「え?」




瞬間、ブワリと広がる闇にコムラの目が見開かれる。振り返ったキヨシも驚きに目を見開き、同時に後ずさりをした。


「あ……ぁ……」


「っ、キヨシくん! こっち!」




011


コムラの手が、キヨシの手首を掴む。自身を飲み込まんばかりの闇の存在にキヨシの足がガクガクと震える。そんな彼をコムラが引っ張ることで、キヨシは襲い掛かる闇の手から間一髪逃れた。


ゆらりと影が大きく揺らめく。倒れていた人間が引っ張り上げられるように立ち上がった。まるで映画で見たゾンビのようだった。


「な、なんだよ、アレ!」


「わかんないけどっ、たぶんダメなヤツ!」


「それは見ればわかるけど!」


「とりあえず逃げなきゃっ!」


「っ、そうだね!」


まずは逃げてから。無事を確認してから。


そう頷く二人は、同時に駆けだした。庭を駆け回り、ぐるりと家を一周する。揺れる闇を横目に、コムラは必死に思い出していた。


[なんだっけっ]


何だったっけ。あの影の名前。先生が教えてくれていた。何度も何度も、「私たちには見えないけど、危ない物だから気を付けてね」って言ってくれた。何度も、何度も。


「あーもう! ぜんぜん思い出せなーい!」


「コムラ!? どうしたの?!」


突然叫び出したコムラに、キヨシがぎょっとする。しかし、その問いかけに答える間もなく、二人の間に黒い鞭のようなものが割って入って来た。勢いよく叩きつけられた鞭は地面を抉り、二人の足元にヒビを刻む。その様子に、コムラとキヨシはヒクリと口元を引き攣らせた。


[これっ、当たったら絶対ヤバイ……!]


小さな子供でも理解してしまう状況に、コムラは息を飲んだ。無理だ。このまま三人で逃げても逃げ切れる自信がない。


[それなら……!]


コムラは腕の中を見下げる。腕の中にいるタイラは、大きな目に涙を浮かべ、今にも泣きたいのを我慢している。思いっきり泣かせてやれない自分の情けなさと状況を理解できるタイラの賢さに、コムラは嬉しいような悲しいような、何とも言えない気持ちになった。コムラはキヨシに視線を向けると、彼の腕を掴んで、近くの物置きに駆け込んだ。驚くキヨシにタイラを押し付ける。


「キヨシくん、タイラちゃんをお願い」


「はあ!?」


「家の中に逃げれば、たぶん大丈夫だからっ」


そう言って外に出ようとするコムラの手を、キヨシが掴む。振り返ったコムラの視線に映ったのは、真剣な目をしたキヨシで。


「コムラちゃんは? どうするの?」


「……私は大丈夫だよ」


「コムラちゃんっ」


キヨシの手を、コムラが包み込む。ゆっくりと手を離させたコムラは、「タイラちゃんを、お願いね」ともう一度告げると、物置きを飛び出した。




012


黒い闇は白い雪に相反する色で、わかりやすい。人間の方は生きているのかすらコムラにはわからなかったけれど、触ってはいけないことは何となくわかる。


[どうにかして、二人を逃がさないと……!]


コムラは大きく息を吸い込むと、走り出した。


再び庭へと出たコムラは、あちこちに転がっている石を闇に向かって投げる。闇は一瞬怯んだ様子を見せたが、すぐにコムラを追いかけてきた。


「っ、しつこいっ!」


闇はうようよと漂いながら、コムラを追いかける。ふとコムラの耳が異様な音を捕えたが、それが何かはわからなかった。言葉のようにも、ただの唸り声のようにも聞こえた。とはいえ、止まって聞くわけにもいかない。


コムラは横目に建物の中に入って行ったキヨシたちを確認して、家の裏手へ駆け出した。


足はコムラの方が早い。一周回れば撒けるだろうという算段だった。コムラは震える足で駆ける。冬の冷たい空気が口の中を突き刺し、肺を攻撃する。全身が凍りそうな寒さだった。


時々落ちている枝や小石を闇に向かって投げながら、コムラは駆ける。先ほどやり過ごした物置き小屋が見えてきたことに安堵した――その時だった。


「ッ――!」


ぶわりと。


嫌な予感が全身を撫でる。コムラの小さな体が震え、警鐘が大きく鳴り響く。


[やばいやばいやばいやばい!]


コムラは隠れるのをやめて、走る足を全力で加速させた。僅かに空いている玄関を見て、転がり込む。途端、コムラを薙ぎ倒す勢いで黒い闇が眼前を通過した。


「ヒッ、!」


[なにこれ……なにこれ!?]


嫌な感覚が、コムラの手足を冷やす。手を付いた地面から込み上げてくる冷たさの原因は、きっと冬の気温だけじゃないだろう。


コムラはふらつく足で立ち上がると、振り返った。階段の隅でタイラを抱き抱えているキヨシと目が合う。


「コムラちゃん、今のは……っ」


「っ、上に行こう!」


「う、うんっ」


頷くキヨシを先に、二人は階段を駆け上がった。不安そうな顔をするタイラに、コムラが「大丈夫だよ」と声をかける。しかし、それが気休めでしかないことは、コムラにはよくわかっていた。


[どうしよう。どうしたらいい?]


笑いかけながらも、コムラの頭はぐるぐると記憶を模索していた。先生から教わったことはたくさんある。出来ることもきっと……数は少ないのだろうけど、いくつかあるはずだ。けれど、それを迷いなく実践するには、コムラ自身の経験が圧倒的に不足していた。


だが、迷っている時間はない。




013


ガシャンと背後で音がする。振り返れば、ガラス戸の玄関を、闇が何度も叩いていた。ヒクリと喉が引き攣る。いつ扉が破られるのか、怖くて怖くて堪らなかった。


「コムラちゃん、大丈夫」


「キヨシくん……」


「僕も、タイラちゃんもいるから」


一人じゃないよ、と言うキヨシに、狭まっていたコムラの視界が大きく晴れていく。


[そうだ。自分は、一人じゃない]


気付いてしまえば、重かった気分が一気に楽になっていく。大きく息を吸い込んで、気合を込めた。


「そうだね」


コムラがそう応えた瞬間、背後で聞こえた破壊音に二人は少し狭くなった二階の廊下を駆けだした。






真っすぐ走って、角を曲がって。三人が身を潜めたのは物置きにしては綺麗な部屋だった。


キヨシ曰く、少し前まで親戚の人が使っていた部屋だったらしい。物を置いたまま出て行ってしまったから、そのまま来客用の物を収めるのに使っているらしい。足元には座布団が重なり、押し入れからは布団の端がはみ出していた。棚には段ボールがいくつか積まれているものの、段ボールの置かれた机はしっかりとしたもので、きっと親戚の人が置いて行ったものの一つなのだろう。


「コムラねぇ……」


「大丈夫だよ、タイラちゃん」


不安そうな顔をする彼女の頭を撫で、額を合わせる。お互いの熱が少しだけ安心を運んでくる。


[コンキョなんてないけど]


――きっと絵本の中の王子様なら、こうするだろうから。


タイラの大好きな絵本に出て来る王子さまは、優しくて、強くて。きっとタイラを泣かせたりなんかしないのだろう。その強さがコムラにあるかはわからないけれど、真似てみれば少しは近づけるかもしれない。なんて。


[女の子の私じゃあ、王子様なんて一生かけてもなれないけど]


でもきっと、タイラにはいつしか素敵な王子様が現れる。何となく、コムラはそう思わずにはいられなかった。潤む大きな瞳に優しく微笑んで、コムラは立ち上がる。


正直、手は震えているし、足だってずっと震えている。逃げ出したいと思う気持ちは大きいけれど、同時に逃げられない理由がコムラの背中にはあった。


[絶対に、二人は助ける]




嫌な感覚がだんだんと近づいてくる。ギシギシと床が音を立て、コムラは息を飲んだ。


[来る]




「っ、ぐ……!」


「! キヨシくん!」


コムラの後ろでキヨシが呻く声がする。どうかしたのかと問えば、途切れ途切れの声で頭が痛いと告げた。




014


「っ、なんか、しゃべってる……っ、何言ってるか、わかんない、けど……っ、!」


「しゃべってる……?」


「ぐ、ぅう……ッ」


「キヨシにぃ!」


唸るキヨシに、タイラが駆け寄る。その様子を見ながら、コムラは流れる冷や汗を拭った。


[聞こえる……キヨシくんにだけ……?]


それが一体どういう意味なのか。何故自分には聞こえないのか。そんなことを考えている余裕もなく、痛みに頭を抱えたキヨシが蹲りだした。


「キヨシくんっ、大丈――」


ガタン。


「ッ!」


駆け寄る足が止まる。息を飲んだコムラが振り返った。


ガタン、ガタン。




ドン、ドンドンドン!




「ひっ!」


「っ!」


タイラの小さな悲鳴が響く。咄嗟にコムラが身構えると、扉を叩く音が消えた。そのことにホッとしたのも束の間。突然部屋に響き出した笑い声に、コムラは後ずさりをした。


「っ、なにこれっ、!」


「うわあああん!」


[あたま、われそ……っ!]


知らない人の笑い声に混じる、堪らず響くタイラの泣き声。キヨシは相当頭が痛むのか、苦悶の表情で蹲っている。コムラはどうしようもない状況に心底焦ってしまう。どうすれば、どうしたら。そんなことを考えても、どうしようもない。


扉が外れる。見えた闇はさっきよりも少し大きくなっており、彷徨っていた闇が少しだけはっきりとした実体を持っているように見えた。


「っ、なんで追いかけて来るの!」


コムラは叫ぶ。闇は応えるように揺れると、口らしき場所を動かした。


「ド、シテ……オレ、ハ……」


ユラユラと揺れる闇。不快な音だけだったものが、いつの間にか言葉に変わっていることに驚く反面、それだけ力が強いのだとコムラは理解する。


[言葉が話せるのは強いシルシだって、先生が言ってた……!]


コムラは小さな手を握り締める。タイラとキヨシを隠すように立ちふさがり、闇を睨みつけた。――嗚呼、そうだ。確かこいつらは。


「……妄執」


そう先生が言っていたのを、コムラはこのタイミングで思い出した。




――妄執。人の心の闇に巣食い、その力を集め、振るうことの出来る化け物。普通の人は見ることすらできないが、陰陽師の血を引く紀眞家は代々見ることができる。匕背家は見えない者も多いらしいが、見える人間もいる。とはいえ、普通の人間が見ることは禁忌ともされているので、匕背家で妄執が見える者は対価として視力を失っているらしい。先生は二人とも紀眞家との繋がりはあるが、匕背家とはあまり繋がりがないらしく、それくらいしか知らないと言っていた。コムラもそれ以上を聞くことはしなかった。二人とも匕背家への印象は良くないようだったから。




015


[でも、もうちょっと聞いても良かったかも……!]


キヨシが唸っているのも、もしかしたら匕背家の持つ血が原因かもしれない。妄執のせいもあるけど、はっきりしない事にはどうしようもない。


「でも、まずは妄執をどうにかしないと……」


コムラは小さく呟く。正体が分かったからと言って、退治するための武器を持っていないコムラにとっては、ハンデにすらならなかった。


[私がドライヤーガン戦士になっていれば]


もしかしたら勝てたかもしれない、なんてどうしようもない気持ちが込み上げてくる。自分があと二年、早く生まれていれば。きっとこの状況でも戦えたに違いない。


[私が、もっと強かったら――]




「うあああああ!」


「!」


耳を劈くような声に、コムラはハッとする。勢いよく振り返れば、タイラを抱きしめるキヨシが見えた。


「だ、めだ、タイラちゃん……っ」


「かゆいっ、かゆいよぉおお! はなしてぇええ!」


「キヨシくん! タイラちゃん!」


タイラの手が、キヨシの背中をガリガリと引っ掻く。タイラの小さな手が真っ赤に染まっており、キヨシの服に何本もの赤い線が出来ていた。同様にタイラの幼い小さな顔にはいくつもの引っ掻き傷が出来ており、自分で引っ掻いたのだと理解する。


[何がどうなって……!]


驚くコムラの横で、タイラがしきりに「かゆい」と叫ぶ。真っ赤になった顔をキヨシの服にこすりつけようとしているのを、キヨシが頭を押さえることで阻止している。そのキヨシも、未だ頭が痛むのか苦悶の表情を浮かべている。しかし、身を挺してタイラを守る姿は、傍から見てもカッコイイ。


[……私は、何をしているんだろう]


ドライヤーガン戦士になっていたら、なんて。


二年早く生まれていたら、なんて。


そんなことを考えて、たらればを流して。現実から逃げて。


「……駄目だな、私」


こんなんじゃ何も救えない。




「コムラちゃん!」


「!」


自嘲するコムラに向かって、黒い鞭が襲い掛かる。慌てて逃げようとしたのも束の間。振り上げられた鞭は囮だったらしい。横から薙ぎ払うように襲い掛かる鞭に、コムラの小さな体が吹っ飛んだ。


「ッ――!」


息を飲み、同時に背中が押し入れの襖に叩きつけられた。


[いたい]


痛い。痛い。痛い!


全身に響く衝撃に、空っぽの息が吐き出される。押し入れの中に入っているのが布団でよかった。クッションになったとはいえ、勢いよく吹き飛ばされた体は痛み以外の感覚がないくらいには衝撃でいっぱいいっぱいだった。




016


コムラが痛む体を叱咤しながら起き上がる。クラリとした頭に呻けば、タイラの声が響いた。


「キヨシにい!」


「!」


はっとして視線を向ければ、キヨシが妄執の闇に囚われ、全身を締めあげられているではないか。


[だめ]


「やめて!」


コムラの声が響く。妄執の視線が、僅かにこちらに向いた気がした。


[キヨシくんは、だめ!]


コムラが飛び出す。布団を足場にしたからあまり加速は出来なかったが、それでも走り出さずにはいられなかった。


キヨシの目がコムラを見る。辛うじて身を捩ったキヨシが渾身の力で足を振り上げ、妄執の闇を蹴り飛ばした。不意打ちだったのだろう。黒い闇がびっくりしてキヨシを締めあげていた力を弱めた。


拘束から逃れたキヨシを見て、コムラは標的を妄執に変えた。しかし、妄執は攻撃をしたキヨシに狙いを定めると、黒い鞭を振るった。


「避けて!」


「わわわ!」


不格好にも避けたキヨシに、コムラは安堵する。――そんな安心も束の間。もう一度キヨシを襲う鞭に、コムラは気づいたが追いかけるには間に合いそうになかった。


キヨシが寸前で避けたものの、鞭を叩きつけられた床が大きく破損する。たたらを踏んだキヨシの身体が、タイラにぶつかった。タイラの身体が――宙を舞う。




「ぇ」


「タイラちゃん!」


「タイラちゃんッ――!!」


外に投げ出され、宙を舞うタイラの身体に、コムラが手を伸ばす。子供が死ぬときは静かなのだと、誰かが言っていた。例えば溺れた時。例えばベランダから落ちた時。驚いて声も出ないのだと、夏休み前のニュースで大人たちは何度も言っていた。


声も出さないまま落下していくタイラに、コムラは伸ばした手をそのままに空中へと飛び出した。反射だった。


「コムラちゃん!」


落下していく体に、コムラはタイラを抱き締める。


[空、青い……キヨシくん、ずっと見てる。泣きそう]


そんなどうでもいいことが、頭を巡る。視界がクリアになり、全身を浮遊感が包む。鼓膜が風を切る音だけがうるさく響く。


不思議と、恐怖はなかった。伸ばされるキヨシの手を掴むこともせず、腕の中にある体温を強く抱きしめる。


[キヨシくんもタイラちゃんも、怖い思いをさせちゃってごめんね]


どうしてあそこに妄執が出たのかわからないけど、もっと早くキヨシを止められれば、きっとこんなことにはならなかったのかもしれない。……そんなことを考えても仕方ないのだけれど。


「タイラちゃん」


――しあわせになってね。




017


コムラの声が、風に攫われる。意識を失っているのだろう。タイラの目は閉じられ、コムラを見てはいなかった。それが少しだけ嬉しかった、なんて。




ゴッ。


重い重い音と共に、コムラの身体は地面に叩きつけられた。動かない体で見えたのは、青い空と逃げ出す妄執の影。


[……お母さん、ごめんなさい。私、戦士になれなかった]


でも、後悔はない。タイラを守ることが出来たのだから。ふと手の内にある体温が離れる。大きな瞳に浮かべた涙が、コムラの頬を濡らした。タイラが口を大きく開いて何かを言っているが、コムラの耳は何も捕らえることが出来なかった。コムラの鼓膜を有する耳は、既に使い物にならなくなっていた。


コムラはタイラの小さな頭を撫でると、逃げる妄執を睨みつけた。


[ぜったいに、ゆるさない]


大切な二人に怖い思いをさせたこと。大切な二人を追い回したこと。


[死んでも、後悔させてやる]


そう呟いた途端、コムラの意識がプツリと途切れる。




――紀眞コムラはこの日、その命をもってして妄執を追い払うことに成功した。










「あれ?」


目を覚ましたコムラが見たのは、夕焼けに染まる空だった。


[私、死んだはずじゃあ……]


ゆっくりと起き上がって、自分の両手を見つめる。


一瞬助かったのかとも考えたが、そんなはずはないと首を振る。――それもそうだろう。握った手の感覚がいつもと違うし、何よりコムラの身体が宙を浮いていたのだから。


「え、私おばけになっちゃったの?」


昔、お母さんが「死んだらユウレイになっちゃうんだよ」と言っていたのを思い出す。その時はよくわからなかったけれど、手足が半透明になった今では、信じざるを得ない。空中に浮いているのもあるし。


[おばけっていえば、足はなくって、透明で、壁もすり抜けられるんだっけ]


ふと足元を見れば、見慣れたお屋敷が見える。そういえば、自分は逃げてる最中に死んでしまったのではなかっただろうか。何から逃げていたのか、誰かと逃げていたのかはわからない。でも、大切な人だったと思う。


「――!」


「――~!」


「ん?」


ふと騒がしい声が聞こえ、足元を見る。見慣れた庭付きの一軒家には、全身真っ白な服を着た人たちが集っていた。どうかしたのか、と近づけば、どれもこれも見覚えのあるような顔が並んでいる。泣いている人もいれば、面倒臭そうにしている人もいて、コムラには何の集まりなのかを知ることは出来なかった。


[なんだろ。お祭りかな?]


白い和服を着ている人たちなんて、見たことがない。




018


もしかしたら祭事に協力してくれる演者さんなのかも、とコムラが思うのも無理はなかった。だからこそ、人々の波の先に着いたコムラは、広がる光景に愕然とした。


白い花に囲まれたモノクロの写真。重苦しい空気は正直その場にいるのを躊躇うほど、陰険で息がしづらかった。


「おそうしき……?」


少し前に、一度だけ見たことのある光景。目の前の光景はその時のものに酷似していた。コムラの脳裏にピリリと痛みが走る。


『私たち紀眞家は、お葬式のときは真っ白なお洋服を着るの』


脳裏に響く声に、コムラは頭を押さえる。覚えのある記憶が徐々にコムラの頭に浮かび上がってくる。


[理由は、確か……]


「『妄執を集めないようにするため』、だっけ」


脳裏の声とコムラの声が重なる。そうだ。真っ白な服は誰かを弔うために着る服だった。


誰か? そんなの、決まっている。


「……私だ」


モノクロの写真の中、笑顔で映っているのは間違いなくコムラ自身だった。その近くでは真っ白な着物に身を包んだ母が泣き崩れている。ハンカチを目元に当て、脇目もふらず涙を流す母は、見覚えのある女性に支えられている。しかし、その手を叩いた母が「触らないで! 人殺し!」と叫んでいる。周りの人たちが慌てて止めに入っているが、母らしき女性は見たこともない表情で暴言を捲し立てている。……あれが母親だなんて、信じたくない。


「子供も人殺しなら親も人殺しだわ!」


「オケラ! もうやめなさいっ!」


「私のかわいいコムラを返してちょうだい!」


泣き崩れる母親にコムラは背を向けて、部屋を後にした。




コムラはとぼとぼと廊下を歩きながら、自分の小さな足を見つめる。うっすらと薄れた体は、コムラにとってとても頼りなく見える。どうしてこんなことになったのだろう。

そう考えたところでどうしようも無いことは分かっているのに、考えずには居られなかった。


下唇を噛む。コムラはあんなに大事だと思っていた母の期待に沿うことが出来なかったのだ。それがひどく重く伸し掛ってくる反面で、どこか軽くなった気持ちに安堵していることに気づいた。


[私、お母さんのこと嫌いじゃなかったんだけどな……]


泣いている母を見て、コムラは自分がなんの為に頑張っていたのかが、わからなくなってしまった。──きっと、母の泣いている理由が自分の事でなかったから。自分のために泣いているのではないのだと理解してしまったから。






019


コムラはふよふよと覚束無い足取りで、廊下を歩く。処理しきれない感情が、コムラの存在を曖昧にする。幽霊体になったのだからわざわざ廊下を歩かずにいてもいいのだが、コムラは律儀に廊下を歩いていた。人間だった時の癖みたいなものだろう。




「……私は、なんなんだろう」


母に言われ、ずっと頑張ってきた。それがただの母親の見栄だと知って、コムラは自分のやってきたことの意義が分からなくなってしまった。同時に信じていたことが全部覆った今、コムラの生きる意味も意味がないものになってしまった訳で。


コムラはただだ、自分という存在が分からにくなってしまった。


ふと、見えた池にコムラは足を向ける。雪が積もる赤い橋は、あまり見る機会はなかったもののコムラの好きなもののひとつだった。寒いだろうにそんな感覚すらもない。雪の上に足を落としても、足跡ひとつ残されない。まるで自分がそこに居ないかのような気分になる。


[……私、本当に死んじゃったんだなぁ]


ゆっくりと橋を渡って、池を覗き込む。凍った池にすら映らない自分の姿に、コムラはどうしたらいいか分からなかった。


「どうしたらいいんだろう」


コムラはぼうっと空を見上げる。夕日に飲み込まれた空を見上げ、コムラは静かに息を吐いた。生きていれば出るはずの白い靄は、当然出ることはなかった。




それから数日。コムラは幽霊として家の周りを漂っていた。


最初はどこかに行こうと思ったものの、コムラが移動できるのは学校までの距離だけ。友人も同級生もいない日中では、コムラはただただ暇な時間を過ごすことになった。そんな中で見つけたのが、歩く練習だった。


幽霊になったことで足の感覚がなくなったコムラは、自分が上手く歩けていないことに気付いたのだ。暇を持て余していたコムラにとっては、まさに好都合でしかなかった。一日の数時間を歩く練習に当てたコムラは、最初はよちよち歩きだった足も、ここ数日で僅かだがしっかりと歩けるようになった。未だ気を抜けば足が浮いてしまうけれど。しかし、最初は怖がっていた宙を歩くような感覚も、最近になって楽しいかもしれないと思い始めてきている。


それと同時に、コムラは自分が今、どんな姿をしているのかを知ることが出来た。きっかけは取り壊し予定の家に、偶然自分の姿が映ったことにある。一瞬生き返ったのかとも思ったが、そんな都合よくはいかない。しかし、その家の窓や鏡には、時折自分の姿が映るのだ。



020



[この家も、死んじゃうってことなのかな]


自分と同じ存在、もしくは近しい存在になることで、自分の姿が映ったのかもしれない。そう思うと何だか壊されてしまうのが勿体なく感じた。取り壊さないでくれと頼みたかったけれど、コムラの姿が人の目に映ることは一度もない。故に、誰かに頼むことも出来なかった。




「暇だなぁ……」




コムラはごろりと寝転がって、空を見る。家の屋根の上は、今ではコムラの特等席になっていた。陽射しが直接当たって、温かい。夏は暑くなりそうだと思いながら、コムラは自分の服を摘まんだ。


死んだ時よりも大きくなった体は、思ったよりもコムラに馴染んでいた。歳にすれば、二、三歳分くらいだろうか。そうなれば、コムラは知らない間に小学三年生の身体に成長したというわけだ。生きてはいないのだけれど。


[死ぬ前に思ってたからかな?]


もしそうなのだとしたら、自分にはもっと凄い能力が潜んでいるかもしれない。……そんなことを思って、ついついはしゃいでしまったコムラだが、両手を出してもみんなの話していたヒーローのようにビームは出せないし、女の子の魔法使いのように魔法が使えることもない。似ていると言われれば、コムラのしている格好くらいだった。


生きている間、サイズを測って、制作途中だったはずのコスチュームを着ているコムラは、傍から見れば立派な戦う魔法少女だろう。可愛いフリフリのそれは、ドライヤーガン戦士になる子にだけ造られた、特注品なのだとか。細かいことは母が決めていたからわからないけれど、コムラにとっては実際には一度も手を通したことのない服だったので、正直着ていることに気付いた時は、驚いた。


「私、そんなに戦士になりたかったのかな」


否、なりたいと思っていたけれど、それは母の洗脳のせいであって、コムラ自身の気持ちかと言われればどちらなのか曖昧だ。でもタイラを守りたいと思っていたのは本当の事だし、きっとその気持ちが作用して、神様がコムラに形だけの力を与えたのかもしれない。……もしそうなら、自分じゃなくてタイラに力を与えてくれればよかったのに。生きているのは彼女の方なのだから。




「……そういえば、二人ともどうしてるんだろ」


自分が死んでしまってから一か月近くは経っている。キヨシもタイラも、自分たちの家に帰っているだろう。泣いてくれているのか、それともわからないまま日々を過ごしているのか。


[少しは悲しんでくれてると嬉しいなぁ]




021


でも、二人の泣き顔はみたくないな、なんて。きっと贅沢な悩みなのだろう。


コムラはくすくすと笑いながら、起き上がる。二人の事を思い出したのだ。せっかくなら少しでいいから顔を見てみたい。そう思ったコムラは、思い立ったが吉日と言わんばかりに自分の家の屋根をすり抜けた。無機物を通る感覚は身体が引っ張られるような感覚がしてあまり好きではないのだが、外から回るよりこっちの方がずっと早い。コムラは案外面倒くさがりだった。


屋根を通り過ぎ、屋根裏のネズミたちに挨拶をして、部屋の天井をすり抜ける。運よく自分の部屋に落ちてこられたらしい。最後に見た時と変わらない様子に、何とも言えない悲壮感を覚えつつ、コムラは母の部屋を目指した。


キヨシはともかく、タイラの家をコムラは知らなかった。遠方から来ていることは知っているものの、具体的にはどこから来ているのかもわからない。母の部屋に行けばそれがわかるかもしれないと思ったのだ。


「そういえば、タイラちゃんのお父さんもお母さんも、すごく独特なしゃべり方してたような……」


ああいうのを、確か〝ほうげん〟と言ったような気がする。でもどこの方言かはわからない。万一知っていたとして、未だ地理を習っていないコムラでは、その県がどの方角にあるかはわからなかっただろう。コムラはそれに気づかないまま、何か手がかりになるようなものが無いか一生懸命探していた。




「ぜんっぜん見つからない……」


しかし、結果は惨敗。どこにも手がかりを見つけることが出来ず、コムラは母の部屋を後にすることになった。


[これじゃあ、タイラちゃんと会えない]


その事実に打ちひしがれ、とぼとぼと廊下を歩いていたコムラは、ふと足元に複数の人間の気配があることに気が付いた。幽霊になって気配に敏感になったのだろうか。コムラは不貞腐れた表情のまま、床を撫でる。不意に聞こえてくる声が父と母以外の者であることに気付いて、コムラは迷いなく床に飛び込んだ。


床と天井の合間を抜け、やって来たのは一階。落ちてきたのは丁度大広間の場所だったようで、そこには大勢の大人が集結していた。そこにはコムラの母とタイラの母、そしてキヨシの父も揃っていた。


[おばさん……! おじさんも!]


あんまり話したことはないが、二人とも優しい人たちだったと思う。




022


コムラは自分が見えないことも忘れて、つい二人の周りではしゃいでしまった。母は相変わらず泣いているのか、泣き晴らした目でハンカチを目元に当てていた。心なしか、二人を睨んでいるようにも見える。


「さて。話を進めるとしよう」


口を開いたのは、紀眞家当主だった。


コムラに優しく話をしてくれた彼は、今は冷たいほどの無表情でみんなを見ている。コムラはあまりにも怖い顔をする彼に、悲鳴を上げてしまった。人知れず孫の一人に恐れられているとは露知らず、当主は話を続ける。


「先も言った通り、我が愛する孫のコムラを殺したのは、妄執だと判断した。とはいえ、証言者は小さなタイラしかいない上、大人たちも他の子達も見てはいないとなると、特定するのは難しいだろう」


「当主様! 何を仰っているんですか!? まさか私のっ、私の可愛い娘を殺した者を、見逃すというのですかッ!?」



「落ち着きなさい、オケラ。当主様はそんな事は――」


「いやよ、嫌! せっかく私の、私たち家族の夢が果たされるかもしれなかったのに!」


叫ぶのは母のオケラだった。みんなが哀れみの目を向ける中、当主と幽霊であるコムラだけがその姿をみっともないと思っていた。


[家族の夢って……私、そんなの望んだこと一回もないのに……]


いい暮らしをしたいとも、戦士になりたいとも言っていない。言っているとすれば、それは『母のため』という枕詞が付くだろうし、コムラ自身はどちらかと言えばひっそりと過ごしたい方だった。母であるオケラは『家族』という言葉で自分を守ってるのだろう。泣いているように見えて、全然コムラの事なんか考えていやしない。


[お母さんの事、嫌いになりそうで嫌だな……]


「オケラ、もしつらいのなら席を外しなさい。招集をかけたのは私だが、実の娘を亡くした者がいないことを咎める気はない。もちろん、話し合いの結果も後程伝えると約束する。ただ、ここにいることがお前の負荷になるのなら、一度退出することをお勧めしよう」


「っ、いえ、大丈夫です……取り乱してしまい、申し訳ございません」


「そうか。気分が悪くなったらいつでも言いなさい」


当主はそう告げると、妄執の話を勧めた。


当主曰く、穢れである妄執を持ち込んだ男はコムラたちが襲われた一日前に既に死んでおり、ここに来た時には既に体を操られている状況だったらしい。追いかけてきた時、映画のゾンビっぽいなと思っていたが、どうやら本当にゾンビだったようだ。




023


コムラはもしも捕まっていたら、と考えてブルリと体を震わせた。ゾンビに捕まれば最後。ウイルスに侵されて、同じようにゾンビになってしまうのだ。どの映画でも同じような感じだったし、きっと本当なのだろう。


[ゾンビにならなくてよかった……]


おかげでお化けにはなっているけれど、きっとゾンビよりはましだと信じたい。だってゾンビって臭そうだし。おばけはにおいとかないから、その点は安心できる。コムラは一人でウンウンと頷きながら、大人たちの難しい話を聞いていた。時々知らない大人が「男の身柄が~」とか「今後の対策を~」なんて話をしているけれど、コムラはよくわからず聞き流している。


[難しそうな話ばっかり……]


もっとコムラのわかる話をして欲しい。くわりと欠伸をして、コムラは口を尖らせた。タイラのこととか聞ければいいなぁ、なんて思っていたけれど、それも難しいかもしれない。コムラは当主の後ろでうつ伏せに寝転がりながら、静かに話を聞いていた。こうしていても誰も注意しないのだから、幽霊って面白いのか面白くないのか、微妙なところだ。


「妄執の対処については、匕背家の調査を待つとする。その間、紀眞家の者は情報収集の手助けをするように」


「承知いたしました。……ところで、匕背家といえば先の子供が死んだ際、一緒にいた者がおると聞いていますが、その者の処罰はどうなっているのでしょうか?」


「ああ。匕背キヨシの話ですかな」


[キヨシくんの話!?]


コムラは聞き覚えのある名前に勢いよく顔を上げた。キヨシの話となって、目を向けたのはキヨシの父だった。数年前に母親が死んでしまってから、キヨシは父親一人の手で育てられていると聞く。時々、父が忙しい時は祖母の家で預けられているようだが、すぐに迎えに来てくれるのだとキヨシは自信ありげに微笑んでいた。寂しくないの、と聞いたコムラにも「寂しいけど、僕にはお父さんがいるから」とキヨシは笑って答えていたのを覚えている。あの時は幼心なりに罪悪感を抱いたのを覚えている。


[キヨシ君、元気にしてるかなぁ]


優しい彼の事だ。コムラの事を抱えすぎて潰れていないと良いけれど。そう思いながら、コムラはキヨシの父を見た。だが、その顔色の悪さにコムラは驚く。まるで死人のような表情だ。目の下には大きな隈が住んでおり、前からほっそりとしていた頬が更にほっそりとしている。やつれている、と言っていいだろう。




024


キヨシの父はゆっくりと当主を見た。当主が頷く。


「……キヨシは、コムラちゃんが落下したところを間近で見ております。そのせいで、未だ気を失ったまま、意識が戻っていないのです」


「なんと」


「それは知らなかった」


「ですから、何か罰を与えるのであれば、あの子が目覚めた後にしていただけないでしょうか。もし今すぐをお望みであれば、あの子の代わりに私がその罰をお受けします」


深々と頭を下げて告げるキヨシの父に、周りはどよめいた。さっきまで囃し立てていた者たちが視線を向けられ、彼等は途端に誤魔化し始める。……なんだか喧嘩したクラスの男子たちを見ているようで、コムラはいい気分にはとてもなれなかった。


それよりも、コムラは目を覚まさないと言っていたキヨシの事が気になって仕方がなかった。


[キヨシくん、大丈夫かな]




死んでしまったことで少し記憶が曖昧になっているが、最後に見たキヨシの顔は今でも鮮明に思い出せる。泣きそうな顔をする彼を見たのは、後にも先にもあの時だけだったからだ。


[……お見舞いに行ったら、だめかな]


そう思うも、コムラはキヨシの家がどこにあるのか知らない。誰かに教えてもらえれば行く事は出来るかもしれないけれど、それもわからない。今のコムラは、行動範囲が決まっている。もどかしいけれど、仕方がない。


「静粛に」


凛とした声に、コムラは考えていた思考が一掃されるのを感じる。


[えっ、な、なに……?]


まるで一瞬だけ突風が吹いたかのような感覚だった。親戚たちのガヤガヤした声がなくなり、彼等は一点を見つめている。――当主だった。


正しく、鶴の一声。怒鳴るわけでもなく、その場を一瞬で納めた当主に、コムラは目が離せなかった。全身に巡る紀眞家の血が『見ろ』と言っていて、同時に『眼を逸らすな』とも言っている。コムラはその声に逆らうことなく、当主を見上げていた。彼は鋭い視線でコムラたちを一巡すると、口を開いた。


「次の話だが、コムラに任せる予定だったドライヤーガン戦士を、タイラへと変更することを決定とする」


その声に、一番最初に反応したのは、オケラだった。


「な、なんでですか!」


「何でも何も、コムラは死んだんだ。誰かに任せるしかないだろう」


淡々とした当主の声。しかし、オケラは叫ぶのをやめない。それどころか地団太を踏んだり、指を差して喚き散らすなど、見るに堪えない。




025


コムラはあれが自分の母親だったのか、と思うと同時に、あんな人の為頑張っていた自分が、やはり間違っていたのだと確信する。コムラの人生を否定したのは、他の誰でもない、自らの母親だった。


「静かにしなさい、オケラ。これは決まったことです」


「義姉さん!」


「そうだ。これは決定事項だ」


当主とその妻に言われたオケラはその勢いを徐々に落とし、最終的にはだらりと腕を下げ、俯いた。静かになった彼女を、近くにいた紀眞家数人で部屋から引きずり出す。コムラはその様子をただじっと見つめていた。衝撃的な光景のはずなのに、今のコムラにはさほど重要には見えなかった。


[でも、そっか……タイラちゃんが私の代わりになるんだ]


自分が死んでしまったお陰で、大変なことがタイラに降りかかることになった事実に、コムラは眉を寄せる。タイラに枷を強いてしまうことの方が、コムラにとっては心苦しいことだった。




コムラは話し合いをする大人たちを横目に、音もなく立ち上がると、静かに部屋を出た。無意識に廊下に出れば、ふと座り込んだまま動かない女性の姿を発見した。――母の姿だった。


茫然自失となった母、オケラは、正座をしたままぶつぶつと呟いている。胸に抱きしめているのは、コムラが練習で使っていたドライヤーガンだった。小さな機材に縋る姿は、コムラよりも幽霊らしい。


[……バイバイ、お母さん]


コムラは変わり果てた母の背中を優しく撫でると、母がいる方とは別の方へ歩みを進めた。


――自分が守りたかったのは、こんなものじゃない。


コムラは浮かぶ涙を拭い、家を飛び出した。今ならどこへでも行けるような気がした。








無意識に漂うこと、数日後。コムラは遂にタイラの家に来ていた。


何もすることがなく途方に暮れていたコムラだったが、偶然タイラの両親が歩いているのを見つけ、そのままついてきてしまったのだ。


「……タイラちゃん、いるかな」


迷惑になってしまうだろうか、とも思ったが、そもそもコムラは幽霊だ。迷惑も何もないだろうと気が付いて、コムラは勝手に家に上がることにした。




広々とした家はコムラの家とは違い、本家に近い和風の作りをしていた。部屋も床ではなく畳になっており、一室には火鉢が置かれていることろもあった。昔ながらの家に冒険心の芽生えたコムラは少しの間、家を探検することにした。


一回をぐるりと巡って、二階を覗き見る。物置き部屋で何か面白いものが無いかを探して、飽きたら屋根裏へ。





026


ポンと顔を出せば、コムラの視界の端を小さな生き物がかけて行った。何だろうと追いかければ、暗い中で光る目と視線が合う。――ねずみだ。


「きゃああっ!」


駆け寄ってくるねずみに、コムラは声を上げて頭をひっこめた。ぶつからないとはわかっていても、急に走って来られれば驚く。はあ、はあ、と肩で息をしたコムラは天井を見上げた。しかし、もう一度顔を出そうという気にはならなかった。


「あっ、そうだ、タイラちゃん……!」


コムラはふと思い出すタイラの存在に、慌てて体を持ち上げる。重さを感じないコムラの身体は壁や天井をすり抜け、タイラを探す。ここじゃない、こっちでもない、とタイラの姿を探していれば、居間に母親に抱かれたタイラの姿を見つけた。




嬉しくなって駆け寄れば、ひくりと小さな体が上下する。


「ひっく……ううっ……」


「? タイラちゃん、泣いてるの?」


コムラの問いかけに、タイラは応えない。それどころか、母親の胸元から顔を上げずに泣き続けている。ずっと泣いているからどんどんコムラも悲しくなってきて、今はない心臓がきゅうっと締め付けられる。しかし、幽霊体であるコムラに涙はもう、ない。


「泣かないでよ、タイラちゃん」


「うううっ」


「何で泣いてるの。コムラお姉ちゃんにおしえて?」


タイラは応えない。それどころか、コムラの声すら耳にすることは出来ない。


コムラは込み上げる感情に、胸元を抑えた。死んでしまうということは、大切な人に声一つ掛けられない事なのだと、コムラはこの時初めて理解したのだ。


どうすることも出来ず立ち尽くすコムラ。


[私は、何もできない……]


その事実に、コムラはタイラに背を向けた。ここにいても無駄だと言われているようで、悲しかった。――しかし、コムラは聞こえてきた会話に足を止めた。




「泣き止まないね」


「ええ。コムラちゃんがいなくなってからは、余計に……」


「えっ」


コムラは振り返る。タイラの両親が、悲しそうな目をしながらタイラをあやしていた。


[今、私のこと……]


「タイラはコムラちゃんに特に懐いていたから」


「ふふっ、そうね。会えない時もずっと「コムラ姉と遊びたい!」ってそればっかり」


「仕事に行こうとしたら僕の車に乗ってたのを見た時は、びっくりしたよ」


楽しそうに笑いながら話す二人の夫婦。その姿に、コムラは少しだけ心の奥が軽くなるのを感じた。


「コムラちゃんは、良いお姉ちゃんだったからね」


「僕らも、凄く助けになってたよ」




027


惜しみながらも、どこか懐かしむような声。


[……あったかい]


思えば、コムラが死んだことで母は精神を病んでしまうほどに悲しみに暮れていた。他にも、コムラを惜しむ声ばかりで、誰一人コムラとの思い出を口にした者はいなかった。ただただ、『悲しい』と訴えかけてくる感情の渦に、コムラは自分が飲まれてしまうんじゃないかとさえ思ったくらいだ。


だからだろうか。二人の声がひどく温かく感じるのは。


[私を、思い出してくれてるんだ……]


もしかしたらタイラも、時間はかかるかもしれないけど、思い出して笑ってくれる日が来るかもしれない。そう思うと、コムラの視野も広がるような気がした。


「……ごめんね、タイラちゃん」


コムラは泣き続けるタイラの頭を撫でる。感触のない空気を撫でているだけだが、それでもコムラは満足だった。


「悲しませてごめんね。お姉ちゃんがずっといるからね」


コムラはそう告げると、タイラの母親ごとタイラを抱き締めた。――ああ、そうだ。今度はこの温かい家族を守らなくちゃ。タイラが寂しくないように。タイラが一人にならないように。


「……お姉ちゃん?」


「あら。タイラが泣き止んだわ」




……いいなぁ。私も、こんな家族が欲しかった。






それからコムラはタイラを見守る事にしていた。四歳になったタイラだけれど、やはり危なっかしい。段差があれば転んでしまいそうになるし、何でも自分でしたがって危ないことをしようとする。その度にコムラが助けようとして、今では少しだけお化けの力が使えるようになっていた。


「だめだよ、これは危ないの!」


「わあ! ぷわぷわしてるー!」


「タイラちゃん聞いてる!?」


とはいえ、コムラの声が聞こえるわけもなく。


次々に起こる幽霊現象にタイラの両親がぎょっとするだけ。当の本人は手品を見るみたいに喜んで楽しそうだ。


[楽しませるためにやってるんじゃないんだけど……]


でもまあ、タイラが笑ってくれるならそれでいいのかも。結局、コムラ自身もタイラに甘いのだ。


タイラを見守っている中で、コムラはキヨシの入院している病院を知ることが出来た。未だ目を覚まさないキヨシの話を聞き、タイラがお見舞いに行きたいと言い出したからだ。……実際には、「キヨシ兄に会いたい!」という言葉だったけれど、それを本当の意味では果たせないことを知っているタイラの両親が、『お見舞い』という形で誤魔化したのだ。




028


それについて行くことで運よくキヨシの居場所を知ることが出来たコムラは、それから定期的にキヨシの病室へ忍び込んでいた。


「キヨシくん……」


ピクリとも動かないキヨシの手に触れようとして、すり抜ける。コムラはもどかしい気持ちに唇を噛み締めていた。




それから早一年が経ち、タイラが五歳になると、タイラたちは広島へと引っ越すことになった。理由はコムラの起こす幽霊現象ではない。寧ろ座敷童として両親には迎え入れられているくらいだ。


引っ越す理由は単純。広島にある紀眞家を管理する人間がいなくなってしまったから。


元々タイラの両親が二人ともそっちの出だったこともあり、紀眞家の家を管理する人間として派遣されることになったのだ。紀眞家としては、今残っている家を出来るだけ存続させたいという思いがある。


もちろんそんな思いなど、子供であり幽霊になったコムラが知る由もない。コムラはタイラの両親が引っ越し準備をする背中を見つめ、どうするべきか悩んでいた。


[タイラちゃんのところについて行きたいけど……]


未だ目を覚まさないキヨシが気になる。コムラは病室で眠り続けるキヨシの姿を思い出して、眉を寄せた。きっとキヨシが起きたところで、自分の姿を彼が見ることはないのだろう。しかし、目を覚ました時に誰もいないというのは、悲しいとコムラは思う。


「……どうしよう」


コムラは無意識に来てしまったキヨシの病室で呟く。実体のないコムラの声は部屋に響くことはなかったが、その言葉に空気が少しだけ冷えていくのがわかる。見舞いに来ていたキヨシの父が身震いしたのを見て、コムラは慌てて病室をでた。


[危なかった……]


病室を出たコムラは、ほっと息を吐く。


タイラを助け続けた結果、使えるようになった幽霊の力。しかし、それはコムラの意図しないところでも発揮されるようになってしまったのだ。例えば、コムラの気分が落ち込んでいたり、コムラが怒っていたりすると室内の気温が一度から二度ほど下がってしまう。逆に嬉しいとポルターガイストと呼ばれる、家鳴りをしてしまったり、びっくりすると物がふっとんだり。とにかく大変なのだ。


「気を付けないと」


こんな力で誰かを傷つけてしまうなんて、そんなの良くない。コムラは大きく息を吸い込むと「よしっ」と気合いを込めた。その時だった。




「こんにちは、お嬢さん」


「!」




029


不意に聞こえた声に、コムラは振り返る。立っていたのは女性と男性のペア。ニコニコと笑みを浮かべる二人に、コムラはホッと胸を撫で下ろす。


[なぁんだ。二人の話しているところを聞いちゃっただけか]


一瞬話かけられたのかと思って、驚いてしまった。


「もしもーし。お嬢さん、聞こえてますかー?」


「?」


「キョロキョロしないで。私は貴女に話しかけているの」


ふふ、と笑う女性に、コムラは目を見開く。――前言撤回。どうやら話しかけられていたと思っていたのは、本当の事だったらしい。


「って、えっ!?」


「どうしたの?」


首を傾げる女性に、コムラはぎょっとする。コムラの反応に、女性が反応した。


[夢!? 夢じゃない!?]


コムラは突然の出来事に心底動揺する。しかし、瞬きを繰りかえしても、頬を引っ張っても、女性の目がコムラから逸れることはない。それどころか「そんなに引っ張ったら赤くなっちゃうわよ」と微笑まれた。


「お姉さん、私が見えるの……?」


「ええ。ちゃぁんと、はっきり見えるわよ」


「ど、どうして……?」


「どうして? うーん、そうねぇ」


コムラの問いに、女性は首を傾げる。


「理由はわからないけれど、昔から見えるのよ。〝そういうの〟」


女性はそう言ってウインクすると、コムラの頭を撫でた。ちゃんとした感触があることに、コムラは驚く。なんで。どうして。そう問いかけたいのに、女性は唇に指を当てて黙ってしまった。これじゃあ聞けない。しゅんと肩を落とすコムラ。その様子に女性は苦笑いし、コムラの手を取った。顔を上げたコムラが、女性と目を合わせる。


「ねえ、お嬢さん。良かったら少し私とお話ししない?」


コムラは頷いた。






女性は自身の事を『宝希[ほうき]』、男性の事を『無空[むあき]』と呼んだ。男性は元々盲目のようで、コムラの姿を見ることは出来ないらしいが、その分聴覚が発達しているお陰で声だけは聞こえるそうだ。姿が見えないと言われ、落ち込んでいたコムラだったが、声が聞こえるということで喜びをあらわにする。嬉しそうなコムラを見て、女性――宝希は優しく微笑んだ。


「私たちはね、いろんなところを旅しているのよ」


宝希は話し始めた。彼女たちが海外から来た人間であること、自身の国を追われ、旅をしているうちにここまで来てしまったこと。とりわけコムラが興味を持ったのは、彼女たちが転々とした国々の話と、彼女たちの職業についてだった。




030


「私たちは〝錬金術師〟をやっているの。とはいっても、何かを一から生成することが出来るわけじゃなくて、悪いものをちょっとでも良いものに。壊れてしまいそうなものを、ちょっとでも長く持たせるために。そうやって動くことを私たちは〝錬金術〟と呼んでいるわ」


「れんきんじゅつ?」


「そう」


コムラは首を傾げた。難しい話ばっかりだ。頭から湯気が出そうなコムラだったが、宝希はそれを見てもなお、話を続ける。まるで理解されるとは初めから思っていないかのようだった。


コムラはじっと宝希の話を聞いていたが、難しい言葉の連鎖に途中で値を上げてしまった。


「金蚕蟲はね、王蟲と木霊や、山犬とリスザルで出来るの」


「ぅう……よくわかんない」


「ふふっ。ちょっと難しかったかしら。でもね、これは現実に生かすことも出来るものなのよ」


「?」


首を傾げるコムラに、宝希は鼻高々に口にした。コムラにはどうやればいいのか想像つかないが、彼女はそれをわかっているようだった。


人差し指を天に向けた彼女は、自信ありげに話始める。


「人間は食べ物を食べるでしょう?」


「え、うん」


なんでそんな当然のことを聞くんだろう、とコムラは思う。


「食べれば食べるほど大きくなる。身長が伸びたり、太ったりすることも、〝大きくなる〟という生物の本能に従ったものなの」


「う、うーん……?」


「でも、当然だけれど、人の内臓には限度がある。コムラちゃんも、食べ過ぎるとお腹痛くなったり、苦しくなったりするでしょう?」


「食べられないものがある人も、見たことない?」と続ける宝希に、コムラは目を輝かせて頷く。やっと自分がわかる話だ。コムラは昔、お腹を壊したことや、クラスメイトに食物アレルギーを持つ子がいることを思い出した。


――食べたいけど、食べられない。それは生物である人間にとって苦痛以外の何物でもないのだろう。


「私も、お寿司は大好きだけど、わさびが入ってると食べれないよ」


「ふふっ、そうだね。それは悲しい。でも、今回のお話とはちょっとズレてるかな」


「そうなの?」


コムラの問いに、彼女は笑う。優しい笑顔だった。


[ちがうんだ……]


やっとわかったと思ったのに、予想を外れてしまったコムラは肩を落とす。宝希はコムラの小さな肩を撫でながら、問いかけた。


「コムラちゃんは、〝第二の心臓〟って言われている場所は知っている?」


「だいにの、しんぞう?」


「そう。ココのこと」




031


宝希はコムラの脹脛を指した。心臓といえば胸の位置にあるものだと思っていたコムラは、意外な事実に驚く。


「ふくらはぎが、第二のしんぞうなの?」


「そうとも言えるし、そうじゃないとも言えるかな」


「?」


首を傾げるコムラ。彼女の問いかけや言葉は、まるで謎解きのようで難しい。


宝希は自分の足を持ち上げると、自らの脹脛を摘まんだ。柔らかい肉が彼女の指に摘ままれている。やっぱりもう一つの心臓の様には思えなかった。


「ここはね、実は人間の全身と繋がっているの」


「えっ!」


「特に、胃腸が悪いときは脹脛が固くなっていたり、血流が止まってしまっていたりするのよ」


ぐっと彼女の指が、自身の脹脛を揉む。柔らかい様子は、マッサージでもしているのだろうか。固くなっているようには見えない。


「血流――血の流れのことね。それが悪いと胃腸も弱って行ってしまうの。その中でも特に腸は弱りやすくて、腸内環境が悪いと食べたいものも食べられなくなる」


「お腹が空いているのにお腹が張って食べられないって、悲しいわよね」という彼女に、コムラはまたしても首を傾げる。幼いコムラにとって、胃腸を痛めることはほとんどなかった。さらに言えば、健康体であるコムラは〝お腹が張る〟という現象についても身に覚えがなく、感覚を理解することが出来ない。


「つまりね、腸の調子を整えるっていうのは、悪いものを吐き出していいものを取り入れることの出来るサインなの」


「いいもの?」


「そう。美味しいもの」


彼女はそう笑うとコムラの頭を撫でた。少しくすぐったかったが、コムラは目を閉じてそれを受け止める。久しぶりの人の体温だ。嫌なわけがない。


「コムラちゃんは何が好き?」と問われ、コムラは自分の好きな物の話をたくさんした。例えば、美味しいカステラのお店の話だったり、大好きなご飯の話だったり。それを分けてもいいと思える人が二人いることも、コムラは話した。それはもう、嬉しそうに。


「んじゃ、君はその人たちのためにも、間違った道を質さなきゃなんねーわけだ」


ふと、ずっと黙っていた男性――無空が言う。突然のことに驚いたコムラは一瞬戸惑ってしまったが、宝希の「そうね」と笑う声にはっとした。


[びっくりしたぁ……!]


突然しゃべったことも驚いたが、思ったより口が悪いことに何よりも驚いた。コムラはじっと無空を見つめる。視線を感じたのか、彼は「んだよ?」とコムラの方を向く。





032


「あっ、いえっ! 何でも……」


「言いたいことがあるならちゃんと言えや」


「ほ、本当に何でもないですからっ!」


「あははは!」


詰め寄る無空にコムラが慌てる。その様子を見ていた宝希は、堪えきれないとばかりに大きく笑いだした。腹を抱えて大声で笑う彼女に、コムラは面食らう。……まさかそこまで大笑いするとは思ってもいなかった。


「おい、なんで笑うんだよ」


「ふふふっ。だってそりゃあ、君が思ったより口悪いからびっくりしちゃったんだよ、コムラちゃんも。ねえ?」


「え、あ、あの……っ」


「うっせ。俺は下町育ちなんだよ。お前らみたいな上流階級と一緒にすんな」


不貞腐れたように口を尖らせる無空の子供っぽい仕草に、コムラは目を瞬かせる。


[なんか……変な人達だなぁ……]


でも、不思議と悪い人たちのようには思えない。言っていることは難しくてわからないことが多いけど、それでもコムラにも伝わるように説明してくれようとしているのがわかる。


[私も、こんな人たちみたいになりたいな]


まあ、もう生きていないんだけど。


二人はまるで姉弟のように言い争っている。コムラは『喧嘩するほど仲がいい』と、親戚の人たちが言っていたのを思い出した。まるで二人のための言葉の様で、込み上げる笑みに口元が緩んでしまう。


「ふ、ふふふ」


[いいなぁ、二人とも。楽しそう]


くすくすと笑うコムラに、宝希と無空は顔を見合わせる。目での会話は出来ない分、互いの雰囲気は誰よりも感じ取るのが上手いのだ。小さな少女の笑顔に、二人も笑みを零した。




コムラはひとしきり笑った後、次の予定の時間が迫っているという二人を見送る。


「またね、コムラちゃん。それまで元気で」


「うん! 宝希さんも、頑張ってください!」


「コムラ。とにかくお前は知らない人にはついて行かないように」


「もう、無空さんってば。私、そんな小さな子供じゃないんですからっ」


無空の言葉に、コムラは口を尖らせる。小学生に上がって、数え年では今年で九歳になる。生きていればドライヤーガンを与えれ、一端の戦士として戦っていただろう。


[つまり、私はお姉さんになるんだから]


そう胸を張るコムラに、無空は大きなため息を吐くと、コムラの頭を撫でた。宝希よりも乱雑な手つきに、コムラはむうっと頬を膨らませる。「そういうことじゃねーよ」という彼の言葉の意味は、コムラにはよくわからなかった。




033


二人を見送ったコムラは、なんだか少しすっきりしたような気持ちで空を見上げる。久しぶりにたくさん話したからだろうか。今まで滅入っていた気持ちが、どこか晴れやかになった気がする。


ふと、コムラは病院へ向かう。今日二度目のキヨシの病室に忍び込んだコムラは、随分細くなってしまったキヨシの手を取った。


「ごめんね、キヨシくん。私、タイラちゃんのところに行こうと思う」


宝希と無空に会って、コムラは考えていた。そして出した結論は――『タイラと共に、広島に行く』という選択だった。正直、生きている間でも行ったことのない距離を行くのだ。今は制限がなくなっているが、前に制限があった時を思い出してコムラは一抹の不安を抱えていた。しかし、その不安もやってみなくては拭えるかどうかわからない。


[今より、よりよいものに]


そのためにはきっと、行動を起こさなきゃいけない。


「早く起きてね、キヨシくん」


タイラの引っ越しまでは、あと二週間ほど。その間に出来るだけ来れるように頑張るね、と内心でキヨシに告げつつ、コムラはタイラの家へと戻った。







その日の夜のことだった。


幽霊になったコムラは特に睡眠などを必要としていないものの、人間だった頃の癖が抜けず、夜になるとタイラの隣で横になる日々を送っていた。時々起きるとタイラの足がコムラの頭をすり抜けていることがあって、コムラとしてはドキドキ感満載の時間なのだが、今日は違った。


[あれ、これって……もしかして、夢?]


コムラは幽霊になったというのに、夢を見ていた。手を握れば、柔い感覚だけがコムラに伝わってくる。まるで分厚い手袋をしているみたいだ。服装は幽霊の時と同じ、ドライヤーガン戦士のままで、体の大きさも変わってはいない。不意に、コムラの頭上からピンク色の何かが落ちて来た。


「さくら?」


頭上を見上げれば、桃色の花を満開に咲かせた気がコムラを覆っている。少し歩けば、桜の先には広い青空が拡がっていた。


「きれー……」


ポツリと呟いた言葉が、桜の花びらと一緒に足元に落ちる。ふとコムラが振り返れば、景色は一変。病室の中になっていた。驚く間もなく、コムラの視線の先には一つのベッドが現れる。そこに寝ているのは一人の女性。見覚えのある顔つきは、誰かに似ていた。


[いいや、よくわかんない]


コムラは首を振って考えるのをやめると、女性の元へと近づく。女性の隣には一人の男性が立っており、優しい顔をしている。




034


確か……アツシじゃないだろうか。目じりの下がり方が、何となく似ているような気がする。女性と涙を拭い合うアツシを見て、コムラは驚く。


[あれ、もしかしてアツシくん、大人になってない?]


今よりもずっと大きい身長で立っているアツシは、まるで大人の様だった。ということは未来なのだろうか。そう思ったコムラだったが、確認できる術はない。どうしたら声が届くのかもわからない。コムラは二人の姿をじっと見つめ、動かない。どうしたらいいんだろう。そんな不安と困惑に駆られていれば、女性の腕に抱かれている赤子がふえ、と泣き出した。


『名前は……そうだ。サクラにしよう』


『ふふっ。いい名前ね、サクラ』


「……サクラ」


どこからともなく聞こえる、二人の声。明らかになる赤子の名前。――それはコムラの頭上から降り注ぐ花の名前と、同じだった。


コムラが赤子の名前を呟くと、再び景色ががらりと変わる。よちよち歩きになったサクラが、コムラの目の前でコロンと転げる。転んだことに驚いたのか、だんだん込み上げてくる涙を見て、コムラはハッとした。


『うわああああん!』


「ど、どうしよう……!」


大泣きするサクラに、コムラがたじろぐ。しかし、すぐさまコムラの後ろから女性が駆け寄り、サクラを抱き上げた。よしよしと背中を叩かれ、宥められたサクラの涙が徐々に収まっていく。すごい、と見ていれば、泣いていた顔が笑顔に変わっていった。きゃっきゃっと笑う表情は、女性とすごく似ていた。


[かわいいなあ]


初めてタイラと会った時も、あれくらいの歳だっただろうか。コムラは懐かしそうに目を細めて、親子を見つめた。




再び、がらりと変わる景色。今度は公園だった。


呆然とするコムラの前を、サクラと見知らぬ子供たちが楽しそうに駆けていく。まだまだ幼く、コムラよりも少しだけ小さいサクラは、まるで純白の天使のようだった。可愛らしい笑顔に、両親と思しき男女が微笑ましそうに見つめている。


[楽しそうだなぁ]


コムラには無かった記憶だ。オケラに友人も選ぶようにと言われてきたコムラにとって、その光景はどれだけ望んでも手が届かないものだった。だからこそ、コムラが思い出したのはあの時タイラとキヨシと三人で遊んだ時の記憶だ。


たった三人だけだったけど、心底楽しかったのをコムラは覚えている。もしあそこにサクラがいたら、更に楽しかったに違いない。想像したコムラは、ついくすくすと笑ってしまう。




035


なんとも言えないほど暖かい気持ち。それと共に忍び寄ってくる寂しさに、コムラは目を細めた。コムラの視線の先には、楽しげに友人と笑い合うサクラがコムラはひどく眩しく見えた。




暗転。


視界がぐるりと回転したかと思えば、再び目の前に広がる光景に、コムラは視線を巡らせた。


「どこ、ここ」


真っ暗だ。木枯らしが吹き、秋の葉が宙を舞う。幽霊であるコムラは寒さを感じることはなかったが、しんと静まる周囲はどこか寂しそうに思う。コムラが足を出そうとするのと同時に、ドォンと激しい音がしてコムラは振り返った。


学校だ。誰かが出てくる様子もない周りに疑問を持ちながら、コムラは走り出す。校門に足を踏み入れると、コムラの目の前にべシャリと何かが落ちてきた。


「ひっ!」


真っ黒な影だ。コムラの脳裏にあの時の妄執の姿が過ぎる。しかし、目の前にいるそれは、記憶よりもだいぶ小さく、弱そうだった。コムラが影の顔を覗き込もうとすると、ずざ、と何かを引き摺る音が聞こえてくる。肩を跳ねさせ、警戒しつつも視線を向ければ──そこには小さな体を引き摺っているサクラがいた。


「さ、サクラちゃん!」


ゆらりと揺れる体に、コムラは慌てて駆け出す。抱き留めようとした腕はサクラの体をすり抜け、地面に落ちる。その光景にコムラは息を飲んだが、慌てて気持ちを持ち直した。ショックを受けている場合じゃない。早くサクラを助けなければ。


[でも、助けるってどうやって]


コムラはふと、自分の手を見た。死んでしまってから今まで、誰にも触れたことの無い手。すり抜けたのを見たのは見間違いなんかじゃあない。──自分ではサクラを助けられない。コムラはそう、気づいてしまった。


呆然とするコムラの前で、倒れたサクラの体がぴくりと震える。伸ばした手が何かを取ろうとしている。視線を向ければ、転がっているドライヤーガンがひとつ。コムラは試験でしか触ったことがないものだ。試験中、ドライヤーガンを外に出すことは禁じられている。それがここにあるということは、つまり彼女は既にドライヤーガン戦士として認められているということだ。


「戦ってたのかな……」


コムラは振り返り、灰になっていく妄執を見る。きっとサクラが戦って無事勝ったのだろう。コムラはサクラの頭に手を伸ばすと、透けない位置で小さく手を動かす。


「おつかれさま」


ふふふ、と笑みがこぼれる。まるでお姉ちゃんになった気分だった。



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