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ドライヤーガン戦士シリーズ九タイラ前編


001


「てん、こう……?」


「ああ」


静かに頷く父に、僕はただ瞬きを繰り返していた。


「どうして? 僕、もう学校に行けるんじゃないの?」


「……」


「ねえ、お父さん。僕、友達に会いたいよ」


周囲を囲む白い部屋。繋がれた管。白い布団。記憶よりちょっと高くなった、窓の外の木。――少しだけ痩せた、父の姿。


「ねえお父さん! やだよ! 転校したくない! 僕は――!」


「キヨシ」


強い力で掴まれた肩に、僕は肩を跳ね上げる。お父さんの目が、僕を映した。


[……なんで]


「いいから、言うことを聞きなさい」


――なんでそんな悲しそうな顔をするの、お父さん。


「いいね?」


「……うん」


お父さんの寂しそうな顔に、僕は小さく頷く。大切なお父さんを、困らせたくなかったから。






「おはようございまーす!」


「はい、おはよう」


「校長せんせー!」


「ははは、今日もぶち元気じゃのぉ」


きゃあきゃあと子供特有の甲高い声が響く。その中をキヨシは一人、俯いたまま歩いていた。


――白い部屋から帰って来たキヨシは、東京からうんと西の広島という場所に来ていた。


そこは目に入るものすべてが目新しく、久しぶりに外に出たキヨシにとっては刺激的なことがたくさん存在していた。その中でも一番驚いたのは、言語の独特さだった。


「君がキヨシくん? うちゃここの校長をしとる高橋じゃ。よろしゅうねぇ」


「え、ぁ」


転校する前日。


顔合わせと称して行った先で、初めて会った校長先生の言葉にキヨシは何も返すことが出来なかった。それどころか、何を言っているのかもわからない。校長の顔は朗らかに笑っているのに、言葉がわからないだけでとてつもなく怖くて堪らなかったのを、キヨシは今でも覚えている。


「……帰りたいなぁ」


ぽつり。呟いた言葉が、足元に転がり落ちる。


青空の広がる、清々しい夏だというのに、キヨシの顔は浮かない。それどころか、大きな背中からはキノコまで生えてきそうだ。


「おはよう、キヨシくん!」


「お、おはよう……」


「ねぇねぇ! 昨日のドラマ見た? すごいえかったよね!」


「へ、へえ」


「えー! それよりドキュメンタリーの方がえかったよ! 警察の人が格好良うて!」


「そ、そうなんだ」


「ドキュメンタリーなんてキヨシくんは見んよ! ドラマの方が楽しいもん! ね、キヨシくん!」


「そんなんないもん!」


「え、えーっと」


[ど、どうしよう]


突然言い合いを始めてしまう二人の女子生徒に、キヨシはおろおろとした。




002


宙に浮かせた手が行き場を失い、彷徨う。しかし、名前も知らない女子生徒たちを宥めるのはキヨシにとっては難しく、上手く踏み切ることができない。それどころか、「キヨシくんはどう思う!?」という二人の問いかけに答えることが出来ない始末で。


[だ、誰か助けて]


「あんた達、何やっとるの?」


「!」


透き通るような声に、キヨシは顔を上げた。


[――誰?]


キヨシの目に映ったのは、一人の少女だった。


飛びぬけて綺麗な顔立ちに、艶のある黒髪を高い位置で二つに結んでいる。頭のてっぺんから足の先まで真っ黒な彼女は、その強すぎる印象とは違い、柔らかく微笑んでいる。


「タイラちゃん! こ、こりゃあ違うの! この子が昨日のドキュメンタリーを馬鹿にするけぇ……」


「馬鹿になんてしとらん! ていうか、話しに割り込んできたなぁそっちやけぇ!」


「割り込んでなんか!」


「はいはい。わかったけぇ。喧嘩せんで。ほら、キヨシくんも困っとるよ?」


「「あ……」」


少女に言われ、ハッとする女子生徒たち。申し訳なさそうな視線がキヨシに向けられた。


「ご、ごめん、キヨシ君」


「ごめんね」


「う、ううん。僕は、大丈夫」


「うんうん。これで仲直りじゃのぉ」


「えかったえかった!」と満足そうに笑う少女に、彼女たちもほっと安心したような笑みを浮かべる。


[……すごいなぁ]


――まさに鶴の一声だった。


たった一言で、あんなに賑やかだった教室が一気に静まったのだ。


[あれ、でもあんな子教室に居たっけ?]


未だ名前を覚えきれていないとはいえ、初日に先生と共にこのクラスメイト達の前に立ったのだ。あんなに綺麗な子であれば、目立たないはずがないのに覚えがない。


チャイムが鳴る。みんなが席に着き、先生が入ってきた。


「あ……」


キヨシは名前を聞くタイミングを完全に失ってしまった。


[名前、聞けなかった]


項垂れるキヨシ。しかし、ずっとこうしているわけにもいかない。授業を受けるためにペンを持てば、こつりと椅子が蹴られた。驚いて振り返れば、さっきの子と目が合った。


「ごめんねぇ、キヨシくん。もうちいと屈んでもろうてもええじゃろか?」


「あ、う、うん」


にこりと笑うタイラに、キヨシは顔が熱くなる。


[すごく、かわいい]


まるで天使のような笑顔に、キヨシの心臓がバクバクとうるさく脈を打つ。服の上から手で抑え込めば、少しだけ収まったような気がした。


[……やっぱり、後で名前聞いてもいいかな]


キヨシはそう思いながら、黒板を写していく。先生の話は、頭に入らなかった。




003


――キヨシの後ろの席の少女は、名前を紀眞タイラというらしい。


キヨシが転校してくる前日から風邪をこじらせてしまい、一週間ほど休んでいたのだと、クラスメイトが教えてくれた。


クラスメイトとはあれ以来、少しずつだが歩み寄ることが出来ているとキヨシは思っている。まだ強い方言には慣れないものの、教室がわからず困っていると声をかけてくれるし、通じない言葉をどうやって言い換えればいいのか一緒に悩んでくれる子もいる。


[みんな優しいなぁ]


それもこれも、タイラと出会ってから変わったような気がする。


女学生と楽しそうに話しているタイラを盗み見て、ぼうっとそんなことを考えていれば、後ろから肩を叩かれた。


「なーに見とんの?」


「あ、いや」


「おっ、タイラちゃんかぁ! 自分、見る目があるのぉ!」


バシバシと背中を叩かれ、視界が揺れる。


よしきは楽しそうに笑うと、女子生徒と楽しそうに話しているタイラを見つめた。


「タイラちゃんはかわゆうて優しゅうて、このクラスのマドンナ言われとるんじゃ」


「“まどんな”?」


「ほら、タイラちゃんってかわええじゃろー?」


「ま、まあ」


よしきの言葉に、キヨシはタイラを見る。


艶やかな黒髪に、整った顔立ち。可愛らしい小さな体で精いっぱいに動く様は、癒しを感じる。


[たしかに、人気者だ]


まるでアイドルみたいだと、キヨシは思う。最近テレビで流れるようになった、可愛らしい女の子たちの歌手。その子たちの中にタイラがいたとしても、きっと違和感はないのだろう。


「タイラちゃんの前の席なんて、ええなぁ~」


「う、うん。でも、黒板見えないからいつも大変そう」


「あー、われ、でかいもんなあ」


よしきの言葉に、キヨシは眉を寄せた。




――キヨシの身長は百六十を優に超えている。


対して、タイラの身長は百十前後らしい。席を変えるよう先生にお願いをしてみたが、叶わなかった。


[タイラちゃんの迷惑になってなければいいけど]


しかしその分、ノートを見せ合ったり、先生の言っていたことを質問し合ったりと、タイラと過ごす時間は少しずつ増えているのも事実。マドンナとわざわざ理由を作らず話せていることに、優越感を覚えないわけがない。


[なんて言ったら、みんなに怒られちゃいそうだけど]


じっとタイラを見ていれば、目が合う。えへへ、と向けられる笑顔はやっぱり可愛くて。


「やっぱええなぁ~!」


「……」


よしきの嬉しそうな声に、キヨシは赤くなった顔を隠すように俯いた。






004


「キヨシくんってげに背が高いのぉ」


「え、ええっと」


「ウチらみたい方言も使わんけぇ、言葉もきれいじゃし!」


「そ、そう、かなぁ?」


「「そうそう!」」


満面の笑みで話しかけてくる女子生徒に、キヨシはたじたじになりながら返事をする。


[だ、だれだったっけ……]


キヨシは口に出来ない問いを内心で呟いた。


おかっぱ頭の女の子を中心にした四人組は、このクラスでリーダー的グループだった、と思う。活発な子で、誰とでも仲良くする彼女は、よくタイラとも話をしていたはずだ。全然思い出せないけど。


「ほうじゃ! キヨシくんってお野菜すき?」


「え、や、やさい?」


「うん! うちのおじいちゃんが農家やっとって、よけりゃあ今度の日曜に持って行ってくれんかなぁ思うて!」


「あ、ずるーい! うちのおじいちゃん、大根作ってるけぇ、よけりゃあうちにも来て!」


「うちもうちも! 夏だけど、スイカやら作っとるけぇ食べに来てよ!」


キヨシの手が一人の少女に握られる。小さくて柔らかい手にドキリとするものの、今は混乱の方が強い。


[野菜をくれるなら持ってきてくれればいいのに]


でもなんだか嬉しそうだし……行った方がいいのかな。


「こらこら。みんな、そろそろ先生来てしまうよー?」


「えっ、もう!?」


後ろからかけられた声に、パッと手が離される。


慌てた少女たちが自分たちの席に戻って行くのを見送り、振り返る。


「あ、ありがとう、タイラ、ちゃん」


「ふふ。タイラでええよ」


ひらりと手を振って笑う彼女。その笑顔に、自分の強張った顔が少しだけ緩んだ気がした。


「そういや、キヨシくん」


「な、なに?」


「実はさっきの授業でわからんところがあってのぉ。キヨシくんならわかるかなって思って」


「えっと、どこ?」


「ここなんじゃけど」


タイラの言葉にキヨシは差し出されたノートを覗き見る。「ああ、これは」と教えるキヨシの声を、彼女は真剣に聞いていた。顔を盗み見て、息を飲む。


[……やっぱり、かわいいなぁ]


キヨシはそう呟く。


もっとタイラとの時間が欲しくて、『まだ鳴らないでくれ』なんて願ったのは、初めてだった。


「ありがとう、キヨシくん!」


「どういたしまして」


キーンコーンカーンコーン。


ああ。終わってしまった。後ろ髪を引かれる思いで、キヨシは前を見る。つまらない授業もタイラのためだと思えば、頑張れるような気がした。




005


「なあなあ! サッカーやろうぜ!」


「いやいや! キヨシは身長が高いんじゃし、バスケじゃね?」


「え、ええっと」


授業を全部終えて、放課後。あちらこちらから響く誘いの言葉に、キヨシは目を回していた。


[ど、どうしよう]


正直、スポーツはあんまり得意じゃない。でもみんなとわいわいするのは楽しいから、断ることも出来なくて。


「まあまあ。そんなんよりキヨシくん、わしと将棋やらん?」


「しょうぎって……僕、ルールわからないよ?」


「できそうな顔しとるし、イけるじゃろ!」


「ええ?」


男子生徒の言葉に、キヨシは堪らず吹き出した。誘い文句にしては、あまりにも雑だ。


[でもやっぱり、誘ってくれるのはうれしい]


くすくすと笑うキヨシに、誘いを掛けた男子たちは笑顔で「はよはよ」とキヨシの腕を引っ張った。


そこには、方言に気圧されていた時のキヨシは、もういない。――いつしか、キヨシはタイラと並ぶほどの人気者になっていたのだ。




キヨシが転校してきてから二か月。キヨシは校長に呼び止められた。


「匕背くん、ちいとええかな」


「僕、ですか?」


「ああ」


こくりと頷く彼に、キヨシは不安が募る。


[僕、何かしちゃったかな……]


そんな不安を他所に、一緒にいたよしきたちが校長先生に一気に駆け寄っていく。


「あ、校長先生! 元気しとったー!?」


「なーに? 校長先生、キヨシに何か用があるんか?」


「こーら。君たち、目上の人にゃあちゃんと敬語を使いんさい」


「「はーい」」


けらけらと燥ぐ男子生徒たちに、笑顔で注意を促す校長先生。


不安げな顔をするキヨシに、にこりと笑みを浮かべた。


「そがい緊張せんで。君にちぃと話しときたいことがあるんじゃ。着いて来てくれるかい?」


「は、はい!」


「ほいじゃあ、先に行っとるのぉ、キヨシ!」


「ええなぁ、授業サボれて!」


「匕背くんはサボりじゃないぞ。それより次ん君たちのテスト結果、楽しみにしとるからなぁ」


「「げぇっ!」」


よしき達の嫌そうな声が聞こえる。途端、蜘蛛の子を散らすように彼等は走り去っていった。その様子を見送った校長先生は「ほいじゃあ、私たちも行こうか」と告げると、歩き出した。その背中をキヨシはほとんど変わらない歩幅で追いかける。




彼に連れられてきたのは、この学校の中で一番偉い人の部屋――『校長室』だった。


大きなテーブルと挟むように、二対のソファが置かれている。棚に入ったトロフィーには、難しい漢字がたくさん書かれている。壁の上部には、歴代の校長の顔写真が飾られていた。




006


[なんか、すごい]


さっきまでとは空気さえも違うような気がして、キヨシは緊張に背筋を伸ばした。その様子を見た校長は朗らかに笑うと、キヨシの背中を軽く撫でる。


「そがいに緊張せんでね。さ、座って座って」


「あ、ありがとうございます」


緊張にガチガチになっていたキヨシは、小さく息を吐き出すと、指されたソファに腰を掛けた。校長はキヨシの向かいに座ると、キヨシを見て近くのポットからお茶を淹れながら笑みを浮かべる。


「突然すまんね。私の事はお父さんから聞いとるかい?」


「は、はい。お父さんの、親戚の人、ですよね」


「そう。関係は君から見ると叔父に近いじゃろうか。とはいえ、私は婿養子なんじゃけどのぉ」


ほっほと笑う校長に、キヨシは小さく息を吐く。


[やっぱり、怒られるわけじゃなさそう……?]


朗らかに話す彼に、キヨシは少しずつ体が解れていくのを感じる。彼はしばらくすると、膝の上で手を組んだ。


「ああ、すまない。話し過ぎてしもうたね。そろそろ本題に戻ろう」


「ほんだい?」


「ほうじゃ。君を呼んだなぁ他でもない。――君のお家について、話しとかにゃあいけん」


「僕の、いえのこと?」


校長は頷くと、静かに話始めた。




──キヨシの家である匕背家は、今や東京などの中心都市では有名な家の一つであった。


『役立たずの家』


『未完成の家』


『お荷物の家』


聞けば聞くほど“良い”とは言えない蔑称。しかし、匕背家はそれを甘んじて受けている。──否、否定することなど出来なかった。そのどれもが、今の匕背家を評するのに適していたからだ。


「匕背家は元来武士の家柄じゃったんだ。昔はそりゃあもう強う、御上からも頼りにされとったんだが……今はもう、その面影はない。──紀眞家と出会ってしまったからじゃ」


匕背家を語るのに、欠くの出来ない存在──紀眞家。その存在は東京の名家の中でも上位に位置し、恐らく上の人間ならば知らない人は居ないだろう。


「紀眞家は長年、陰陽師として御上に尽くしてきた。じゃけぇこそ、紀眞家は怖かったんじゃろう。その血が途絶えることが」


「こわい?」


「そうじゃ。他の血を入れることで薄うなる自分たちの血統。それにより力を失うことを、彼らはぶち、恐れとった」


校長のいうことは、まだ幼いキヨシにとって理解のできるものではなかった。


しかし、何となく自分の家が特別であることはわかる。




007


「その点を恐れとったなぁ、何も紀眞家に限った話では無いんじゃ。君の家……匕背家も同じじゃった。そして、両家は出会うてしもうた」


校長先生の声に、こくりと息を飲む。


「両家は考えた。自分たちの優秀な血を途絶えさせんためにゃあどうするかと。そがいな中、匕背家に不幸が舞い降りてしもうたんじゃ。血が薄うなるのを恐れた分家のひとつが、つまらんことをしてしもうたんじゃ」


「つまらんこと?」


「身内間で子供を作ってしもうたんじゃ」


「えっ」


「近親相姦は、世界的にご法度……ダメなことなんじゃ」


だめ、という言葉にキヨシは体を揺らす。


難しい言葉だったけれど、キヨシは本能的に理解してしまった。校長は続ける。


「その子供は当然、障害を持って生まれた。目が見えんかったんじゃ。しかし、濃い遺伝子を持った彼は、先代を並べたとしても一番の力を持っとった。目が見えんのを補うても余りある成果じゃった」


「目が……」


「だが、身内間で子を生したことを知られては、匕背家は立場を失うてしまう。幸い、知っとる人間は少のう、赤子の処分なんぞたやすい。匕背家は事実を隠蔽することにしたんじゃが……紀眞家はそれに気づいとった」


「えっ」


「紀眞家は匕背家を脅し、今後産まれてくる子供をすべて紀眞家へ嫁がせることを約束さしたんじゃ」


「すべてって……!」


「もちろん、キヨシくん。君もだ」


悲しそうに眉を下げる彼に、キヨシは何を言ったらいいのかわからなかった。


[そんな……]


――なら、僕の未来は全部決まっているということ?


「同時に、匕背家が他の家と血を混じえることを禁止したんじゃ。……生まれてきた子供を、全面的に紀眞家が保護するという約束を取り付けてな」


匕背家から産まれてくる子供たちはみんな、主に視覚を欠いた状態で産まれてくる。もちろん、キヨシも例外じゃない。今度病院に行って眼鏡を買う予定だ。


「私が嫁いだのは、彼女が紀眞家の中で番える人間が一人もおらんかったけぇ。私が紀眞家の遠縁であったのもあるのぉ。……もしそうでなけりゃあ、私は今ここにはおらん」


「っ、それじゃあ!」


「だが、君が逃げるなぁ難しいじゃろう。紀眞家がおるこの学校に転校させるように言うてきたなぁ、本当は君のお父さんじゃあない」


そう告げた校長は「すまんのぉ」と小さく呟いた。その言葉に、キヨシは理解する。理解して、しまった。


[そういう、ことだったんだ]


タイラが優しくしてくれたのは、きっと彼女がこのことを知っていたから。自分が逃げないように、居心地のいい場所だって思わせるためにしてたんだ。




008


『本家には、逆らっちゃだめだよ』


両親からずっと言われてきた言葉。どんなわがままでも聞いてくれた優しい両親が、唯一口を酸っぱくして言っていたこと。


「じゃあ、僕はタイラと?」


「……そう、聞いとるよ」


校長の言葉に、キヨシは僅かな希望すらも打ち砕かれたような気分だった。


[タイラを好きだと思う僕の気持ちは本物で、でもタイラの優しさは偽物で……]


グラグラと回る視界に気持ち悪くなって、咄嗟に口元を抑える。しかし、回り始めた思考は止まらない。あれもこれもそれも。全部嘘だったのか。


[ううん、タイラはそんなことしないっ]




――本当に?




「ちいと、長話が過ぎてしもうたね」


「……」


「……すまんのぉ。力になれんで」


「……いえ」


キヨシはふるりと首を振る。まだ、考えは纏っていなかった。


何が本当で、何が嘘なのか。キヨシにはもうわからない。落ち込んだ様子が見て取れたのか、校長は「ちいと待っててね」と言って席を立つと戸棚を漁った。奥に隠すようにして置かれていたのだろう。ゆっくりと取り出したのは、緑色の缶だった。


「これを、キヨシくんにあげよう」


「これは?」


「玉露いうお茶でな。ちいとお高いんじゃけど、キヨシくんにゃあ特別じゃ」


「みんなにゃあ、秘密じゃよ」と口元に指を当て笑う彼に、キヨシは躊躇いながらも缶を受け取った。


[はじめて見た]


――玉露。高級なお茶として、有名なそれ。


土産で持っていくことはあっても、貰うことはなかったお茶だ。少し晴れたキヨシの顔を見て、校長先生が頭を撫でる。その手付きは優しくて、まるで父に撫でられているようだった。


「少しでもええ。君のしたいことをしんさい」


「私は応援しとるよ」と校長は微笑む。その顔に、キヨシは心から安堵した。


[よかった。校長先生は優しい人のままだ]


じくじくと痛む胸に、缶を押し付ける。少しだけ痛身がなくなったような気がして、小さく息を吐いた。




「あ! キヨシくん!」


「!」


ぱあっと華やぐ笑顔で振り返った彼女に、キヨシは目を見開く。


[どう、して]


よりによって、君がここにいるのか。


「帰ってくるの遅かったけぇ、心配したんじゃ。校長先生に怒られてしもうた? しゃーなかった?」


「……」


「キヨシくん?」


「……」


「も、もしかして校長先生にぶち怒られてしもうた!?  し、しゃーなーよ。そりゃあ校長先生は怒るといびせーけど、本当はぶち優しい人じゃ。じゃけぇ、ほら。そがいに落ち込まんで? ね?」


[これも全部、演技なのかな]




009


キヨシは撫でられる背中が途端、気持ち悪く感じてしまった。タイラに優しくされるたび、泣きそうになる。


家のために。自分たちが生きるために。タイラは自分に嘘の気持ちを吐いているのだろう。


[……好きだったのに]


──信じていたのに。




気がつけば、キヨシの手はタイラの手を払っていた。


「触らないで!」


「き、キヨシくん?」


パシンっと乾いた音が響く。チクリと胸の奥が傷んだが、騙されていたと知った時ほどでは無い。


驚いた顔をするタイラを横目で睨みつけ、キヨシは自分のランドセルを机の上からひったくった。誰かが乗せておいてくれたらしい。教科書の入った鞄は重たかったが、それよりもさっさとこの場を去ってしまいたかった。


[これ以上、タイラに嘘をつかれたくない]


……これ以上、彼女を疑いたくない。


「き、キヨシくん!」


「ご、ごめん。でも、もう僕に優しくしなくていいよ。タイラだって、やりたくないことやるのは嫌でしょ?」


「えっ」


「僕は、大丈夫だから」


目を見開いたタイラを見て、キヨシは視線を下げる。震える手で、ぎゅっと自分の服を掴んだ。


「それじゃあ」


「っ、ま、まって、キヨシくんっ!」


キヨシはタイラの声も他所に、駆けだした。ランドセルを背中に背負いながら、溢れる涙を乱雑に拭う。


[もう、嫌だ……っ]


大切な友達だったのに。


とっても好きな人だったのに。


すごくすごく、優しい人だったのに。


ぼろぼろと落ちていく涙。何度拭っても落ちてくるそれは、拭う袖口を濡らしていく。


ぐちゃぐちゃになった感情は、鋭い棘を持ってキヨシの体の中を突き刺す。こんな思いをするくらいなら、ずっと一人でいた方がよかった。


[こんなことなら、タイラを好きにならなければよかったッ!]


溢れる感情に、唇を噛み締める。キヨシは止まらない涙を必死に拭った。頬が痛くて痛くて、堪らなかった。






――その日から、キヨシの世界は一変した。


「キヨシくん! みんなで外にサッカーしに行こうでぇ!」


「う、うん」


にこやかに話しかけられることにホッとする反面、どこか心の中で壁を感じてしまう。眩しいくらいの陽射しも自分を責め立てているように感じて、うつむく。


[みんな、本当は僕の事なんか……]


そう浮かぶ思考を、キヨシは頭を振ることで吹き飛ばした。せっかく優しくしてくれているのに、こんなことを考えるなんて失礼じゃないか。


[でも、もし本当だったら]




010


疑心暗鬼に、心が軋む。息をするのがどんどん苦しくなって、キヨシは息苦しさに小さく息を吐いた。キヨシの精神は、崩壊寸前だった。


「キヨシくん。次の授業、理科室なんじゃけど、場所わかる?」


「……」


「もうー、無視せんでよー!」


ぷうっと口を膨らませながら、パタパタと後ろを走って追いかけてくるタイラに、キヨシは眉を寄せる。


[……来ないでよ]


そう思っても、彼女はいつものようにキヨシに駆け寄ってくる。何度も。何日も。


キヨシが振り返れば、合う視線。途端、タイラの顔が笑顔に輝いて「やっと目が合うた!」と嬉しそうに言う。その眩しさに、キヨシは泣きそうになる。


[あんなひどいことをしたのに]


まだ優しくしてくれる。それもきっと家のためなのだと思うと、心臓が痛くてたまらなかった。


「タイラちゃーん、キヨシくーん! はようはよう!」


「先生来てしまうよー!」


「わわわわっ! 早ういかにゃあ!」


女の子たちの声に、彼女は慌てたように声を上げる。その背中を、キヨシは罪悪感で軋む心で静かに見ていた。しかし、それも一瞬のことで。


「キヨシくんも、はよう!」


「――!」


何の躊躇いもなく伸ばされる手が、キヨシの手を取る。先日手を振り払われたことなんて覚えていないんじゃないか。そう思うほどいつも通りな彼女は、そのままキヨシを引っ張っていく。


[どうして]


「……なんで、優しくなんかするんだよ」


「え?」


「何でもない」


ポツリと零れ落ちたキヨシの声は、幸か不幸かタイラには届かなかった。つないだ手が、泣きそうなくらいに、あたたかい。






011


――初めて見た彼は、大きな体を思い切り縮めて、息苦しそうだった。


「なあなあ、キヨシくんは好きなものないのー?」


「え、えーっと……いちご、大福?」


「本当!?」


「いちご大福かあ!」


「うまいよねー!」


もじもじと机の下で動く指先。クラスメイト達に向ける表情はどこか硬くて、緊張している。


長い足が机の下で窮屈に絡んでいるのを見て、タイラは放っておけない気持ちになった。




匕背キヨシくんが来たのは、一週間前のこと。


熱で寝込んでいる間に来た彼は、まさしく借りてきた猫のよう。


[おっきいなぁ……]


彼を見たタイラが一番最初に思ったのは、それだった。


幸か不幸か、タイラの席はキヨシの後ろの席で、話しやすそうだと思ったのも束の間。黒板が全然見えない。先生の姿すら見えない状況に、タイラは笑うしかなかった。


[これじゃあ、授業も受けられそうにないのぉ]


――つまり、言葉を返せばサボりたい放題なわけだ。


タイラは鉛筆を放り出すと、キヨシを観察することにした。黒板が見えないんだから仕方がない。


[席を決めた先生のせいじゃし]


ゆっくりと上半身を机に任せた。ぼうっとしながら、先生に怒られたときの言い訳でも考えるとしようと思っていれば、ふとキヨシが振り返る。


「……」


「?」


何かを気にしているらしい。


どうかしたのか、と声を掛けようとして、彼が縮こまらせている体を更に小さくして、少しだけ左側に寄ったのを見た。まるで体を避けているかのよう。


[ああ、なるほど]


見えないだろうと思って気を遣ってくれたのだろう。優しい行動に思わず笑ってしまう。


[ええ人じゃけど、見えんのよねぇ]


ふふっと笑うタイラを、彼は不思議そうな顔をしてみる。どうやらタイラが笑っている理由がわからないらしい。


[仲良うなれたらええなぁ]


込み上げる温かな気持ちを抱えながら、キヨシの黒い後頭部を見つめる。――彼と仲良くなるのには、どんな話がいいだろうか。なんて。




「コラァ! 紀眞タイラ! 授業中にぼけっとするんじゃない!」


「あいたっ!」


バコンッと勢いよく頭に落ちてきた教科書に、雑念に塗れていたタイラの頭が一瞬でクリアになったのは、言うまでもない。








「キヨシー! 今日一緒に虫取りしようでぇ!」


「えっ、む、虫取り?」


「われ、まだ虫取りするにゃあ時期が早いじゃろー。そんなんより川で遊ばん?」


「か、かわ!?」


[キヨシくんは今日も人気者じゃなぁ]


あたふたとするキヨシが珍しいのだろう。




012


あっちはどうだ、こっちはどうだと、キヨシを連れまわしているらしい男子たちは、今日も懲りずにキヨシを誘っている。大きな図体を持ちながら、存外その心は小心者らしい。虫やザリガニを見ると驚く様が面白いのだと、男子たちが言っているのを聞いたことがある。




――キヨシが転校してきてから早一か月。


蛙の大合唱が響いていた季節が、いつのまにか蝉の大合唱に変わり、鬱陶しかった雨の代わりに今は暑い日差しが降り注いでいる。タイラは最近、あまり話せなくなったキヨシを自分の席からじっと見つめていた。


クラスに馴染んでいくキヨシを見るのが嬉しい反面、自分から離れていくのが少し寂しく感じる。


[ええなぁ……]


自分も、キヨシと遊んでみたいと思うのは、一度や二度ではない。遊べない理由が、タイラにはあったのだ。




「タイラ」


「わぁっ!?」


ぽんと肩を叩かれ、タイラは驚きに飛び跳ねる。振り返れば、さっきまで男子たちに囲まれていたキヨシが驚いた顔で立っていた。


「び、びっくりした……キヨシくんじゃったか……」


「ご、ごめん。そんなに驚くとは思わなくって」


「う、ううん! こっちこそすまんのぉ」


キヨシの言葉に首を振って、問いかける。


「それより、どしたん? 何かあった?」


「あ、うん。次、音楽だから一緒に音楽室いかないかなって思って」


「そうじゃった!」


キヨシの言葉に声を上げ、タイラは慌てて席を立つ。考え事に必死過ぎて忘れてしまっていた。時間を見れば、予鈴が鳴るまであと一分もない。


慌てて教科書とリコーダーを取り出し、椅子を直す。


「お待たせ! ほいじゃ、行こっか」


「うん」


頷くキヨシに、タイラは自然と頬が緩んでしまう。


[まさか、声をかけてくれるなんてなぁ]


さっきまで囲まれていたし、てっきりその子たちと一緒に行ってしまうものだと思っていた。だからこうして声をかけてくれて、嬉しかったのだ。


「タイラ、なんかご機嫌だね」


「んふふ。そう?」


「うん。ニコニコしてる」


キヨシの言葉に、タイラは「そうかも」と笑って返す。優しいキヨシの視線が、タイラを包み込んだ。


[なんじゃ、人気になるのもわかるのぉ]


キヨシが人気なのは、何も男子だけではない。例えば、あの時ドラマとドキュメンタリーで喧嘩をしていた少女たちなんかは、キヨシに想いを寄せる筆頭になっていた。


[まあ、背が高くて頭が良うて、運動は……びみょうだけど。そこも、ミリョク? らしいからのぉ]




013


この前の体育で派手に転んでいた姿は、まだまだ記憶に新しい。そんな彼が、自分を少しだけ周りよりも特別に扱ってくれるのが、タイラは嬉しくてたまらない。


「いま、ぶち嬉しいんじゃ!」


「う、うん? そっか」


「うん!」


タイラの言葉に首を傾げつつも、頷くキヨシは何か言いたそうだったけれど、タイラは聞こうとは思わなかった。


ふんふんと鼻を鳴らし、音楽室に向かう。チャイムが鳴る前に滑り込んだタイラたちは予定通り授業を受けることが出来た。それもこれも、あの時声をかけてくれたキヨシのお陰だ。


[ありがとうのぉ、キヨシくん]


「あのさ……ずっと思ってたんだけど」


「うん?」


「ぶちって、なんか犬の名前っぽいよね」


「え?」


放課後。一緒に帰ろうと誘ってくれたキヨシに応じて、帰路を一緒にしていた時だった。


突然言われた言葉に、タイラは目を瞬かせた。はて。突然何をいいだすのか。


「い、犬……?」


「うん。かわいいなって思って」


そういうキヨシに、タイラの心音が少しだけ跳ね上がる。まるで、さっきの言葉が自分に言われたように感じて――。


[ちがうちがう! キヨシくんはそがいなつもりで言うたんじゃないもん……!]


カァッと赤くなる頬に、タイラはブンブンと顔を横に振った。キヨシがぎょっとする。


「ど、どうしたの、タイラ」


「な、なんでもない! それより、ぶちって確かにわんちゃんとか、ねこちゃんに付けそうなお名前じゃな!」


「あ、うん。でしょ?」


「まあ、犬も猫も、僕は飼ってないんだけど」と恥ずかしそうに笑うキヨシに、タイラは苦笑いをする。自分も犬や猫は好きだが、飼ったことはない。何なら当主がひどい猫嫌いで、飼う時は犬しか許されていないのだ。


[それにしても、キヨシくんってたまにタラシっていうか……ウチがびっくりすること言うんよねぇ]


心臓に悪いったらありゃしない。


タイラはそう苦言を心の内に吐くと、タッと駆けだした。


「あっ、ま、待ってよタイラっ」


「はようはよう!」


パタパタと夕日の沈む町を二人で走る。初夏の暑さが吹き飛ぶほど楽しくて、タイラは込み上がる笑みを抑えられなかった。……そんな何でもない日々が続くことを、タイラは一度も疑わなかった。






「触らないで!」


「!」


パシンと軽い音がし、自分の手がジンジンと痛む。


[……え]


一瞬、何が起きたのかわからなかった。しかし、キヨシの目と表情、そして上げられた手を見て、タイラは察する。――嗚呼。これは、もしかして。




014


[……うち、嫌われてしもうた……?]


愕然とした。キヨシの言葉が遠くに聞こえるほど、タイラは驚きを隠せなかった。


[なんで。どうして]


何か嫌なことをしてしまっただろうか。それとも何か嫌なことを言われたのだろうか。


「タイラだって……やりたくないことやるのは嫌でしょ?」


「えっ」


「僕は……大丈夫だから」


そう言って振り切るように走り出したキヨシを、タイラは追いかけることが出来なかった。嫌われたかもしれないという事実が、タイラの小さな足をその場に引き留めたのだ。


[キヨシくん……]


肩を落として、タイラは俯く。窓を見た先で校庭を走り去るキヨシの背中が見える。タイラは強く拳を握りしめた。……振り返って欲しい、なんて願いもちっとも叶わなくて。


ヒリヒリと痛む手を胸元で抱きしめる。泣きそうになりなる心をぎゅっと抑えて、タイラは静かな教室で立ち尽くしていた。――誰かに好かれることはあっても誰かに嫌われることなど、初めての経験だったのだ。




「……どうしよう」


翌朝。タイラは寝不足な眼を擦りながら、学校へ向かっていた。昨日のキヨシとのことが頭を過っては、中々寝付くことが出来なかったのだ。お陰で目の下にはクマが生まれ、タイラの可愛らしい顔もいつもよりくすんでしまっている。


[仲直り……できんかったらどうしよう……]


そもそもなんで喧嘩になったのかもわからないのに、仲直りなんてできるのだろうか。だんだんと不安になって来たタイラは、あの時の事を思い出した。


[えっと確か、授業にキヨシくんがおらんで、聞いたら校長先生に呼ばれたって言いよって……一緒に帰ろう思うてキヨシくんを待っとったら、暗い顔で帰って来て……]


心配でつい手を伸ばしたら、手を払われてしまったのだ。赤くなった手の甲を思い出す。


「……キヨシくんは怪我しとらんかったかな」


どうだろう。わからないけど、傷ついていないといいな。




「おっはよー! タイラちゃーん!」


「きゃあっ!?」


ドンッと衝撃が走り、慌てて足を踏ん張る。


何が起きたんだと振り返れば、隣のクラスの女の子――まりんと目が合った。


「お、おはよう、みよちゃん」


「もー、今日もあっついのぉ!」


「あはは。そうじゃのぉ」


彼女の溌剌な声に、タイラは笑う。


彼女とは一年生から二年生までの二年間、一緒のクラスだった。今時珍しく特徴的な名前をしている彼女はいわば親友ともいえる子で、家も近いから、朝はこうして一緒に登校することが多い。




015


[ちょぉーっとだけ天然が入ってるんじゃけど]


「あれぇ? タイラちゃん、もしかして体調悪いのぉ?」


「えっ!?」


「目のしたにクマぁできとるよー?」


にょきりと顔を覗かせるまりんに、タイラは目を見開いた。


「そ、そがいにわかりやすいかのぉ?」


「えっ。うーん……わからんけど、疲れとる~って顔しとるかな」


「……わかる?」


「うん」


しっかりと頷いたまりんに、タイラはつい苦笑いを浮かべてしまった。まさかこんなにすぐバレてしまうなんて。


まりんはタイラの背中から降りると、軽い身振りで隣に立った。


「なにか悩みごとぉ?」


「うーん。悩みごと、ってわけじゃないんじゃけど……」


何といえばいいのかわからず唸るタイラに、まりんが首を傾げる。純粋な黒い瞳がタイラを見つめる。タイラは少し考えると、静かに口を開いた。


「……みよちゃんはさ。友達とケンカしてしもうたとき、どうやって仲直りするんじゃ?」


「えっ。タイラちゃん、誰かとケンカしちゃったの?」


「ええーっと、ケンカっていうか……なんていうか?」


「うん?」


「ウチもわからんのじゃけど、そがいな感じになってしもうて」


タイラは唸りながらも言葉を絞り出した。


「えー! タイラちゃんが誰かとケンカなんて、めずらしいー!」


「ちょっ、声大きいっ」


キラキラとした目で見てくるまりんの大きな声を、タイラの手が塞ぐ。周りを見ればまりんの大声に驚いた子たちが、タイラたちを物珍しそうに見ていた。


[目立っとる……!]


視線の多さにタイラは多少怖気づいたが、まりんは特に気にした様子もなく顎に手を当てた。


「うーん、仲直りかぁ」


「そのまま進めるんか」


「うーん」


「聞いとらん……」


まりんは小さく唸る。簡単に「あやまれば?」と言わないところを見るに、一応真剣に考えてくれているらしい。タイラは視線を下げると、小さな声で呟いた。


「……うち、誰かとケンカしたことないけぇ。どがぁしたらええかわからんで……」


「そっかそっか。そうよね~!」


「わかる! 仲直りするのってやねこいもんねー」と笑うまりんは、腕を組んでウンウンと頷いている。真剣に悩んでくれているのが、タイラは心底嬉しかった。


[持つべきは友達じゃなっ]


嬉しそうに笑うタイラに、まりんの真面目な目が向けられる。


「うーん。でも仲直りする方法って、うちあんまりわからんかも」


「え?」


「だってうち、気づいたら仲直りしとるもん」


「えっ」


予想外の言葉に、タイラは声を上げた。




016


[気づいたらって、ドウイウコト?]


「学校着いたらごめんなさいするし、そーしたら仲直りじゃろ?」


「えっ。そ、そんなことでええの?」


「うん! てか、〝それで〟ええんよ!」


ニコッと笑うまりんに、タイラは目を瞬かせた。


[げに、それでええの……?]


嘘のように簡単で、単純な話にタイラは一瞬疑ってしまいそうになる。けれど、同時にまりんの屈託のない笑みに、疑うのも馬鹿らしく思えて。


「そっ、か」


「うん!」


タイルは頷いた。きっと、彼女がそう言うなら、そうなのだろう。


「ふふっ、ありがとのぉ。頑張ってみるけぇ!」


「うん! 応援しとるけぇ!」


晴れやかな彼女の笑顔に、鬱屈していた気持ちが少しだけ明るくなったような気がした。抱き着いてくるまりんを抱き留めて、タイラは笑う。


[まずはキヨシくんに謝るところから始めよう]


そう決意をしたタイラは、まりんと一緒に学校へと向かった。




教室に入れば、いつもと変わらない景色、いつもと変わらない風景、いつもと変わらない挨拶を、友達と交わす。――しかし、キヨシだけはいつもと違った。


「はあ……」


大きくため息を吐いて、机に突っ伏す。


黒い髪が机に散らばって、ノートを埋め尽くす。邪魔そうな髪をぼうっと見つめながら、タイラはここ数日の事を思い出していた。


[謝ろう思うても、キヨシくんに避けられてちゃあ、どうしようもないんじゃが……]


――ここ数日。


タイラはキヨシに徹底的に避けられていた。


休み時間になればキヨシは姿を消し、移動教室も他の子と一緒にいっちゃうし。昨日なんかは帰るのも早くて、思わずびっくりしてしまった。


「……つらいなぁ」


[みんなたぁいつもと変わらんのに……!]


クラスメイト達といつも通りに接しているキヨシを思い出し、タイラは口を膨らませる。だからこそ、自分にだけ違うということを突き付けられて悲しくなってしまうのだ。


[もうキヨシくんなんかしらん!]


「キヨシー! 今日、図書館で宿題せん?」


「うん、行く!」


「ほな、学校前集合なぁ!」


友達と約束をする声を茫然と聞きながら、タイラは反対側を向く。窓の外には沈むタイラの気持ちとは裏腹に、大きな白い雲と広い青空が拡がっていた。


[……ええなぁ]


――自分も、行きたい。キヨシと一緒に放課後を過ごしたい。仲良く、したい。


でもきっと自分が行くと言ってしまったら、キヨシは来なくなってしまうだろう。何となく……そんな気がする。




017


クラスメイト達との関係は邪魔したくないし、このまま謝ることが出来ないのも嫌だ。それと同時に――キヨシに嫌われてしまったかもしれないと考えるのも、いやだ。


「……キヨシくんのばか」


「え」


「……あ」


ふと。顔を上げた瞬間、目が合う。ポツリと小さく呟いただけの声が、まさか本人に届いてしまうなんて。


[ていうか、今、うち〝ばか〟って言うてしもうた……!]


怒られちゃう、と身構える。自業自得なのはわかっているが、だからと言って別に怒らせたいわけでもなかったのに。


「キヨシー? はようせんと置いてってしまうぞー?」


「あ、うん。……今行く」


「……っ」


さっと去って行ってしまうキヨシ。その背中に咄嗟に手を伸ばしたが、タイラの指先は彼の服を掠めることなく、宙を掻いた。


楽しそうに笑うキヨシを見送って、タイラは静かに手を下げた。


[……もう、むりなのかも]


何度も何度も待ち続けたチャンスが今、目の前で無くなったのを肌で感じる。……きっともう、謝れるチャンスは来ないのだろう。


「はあ……」


深い、深いため息がお腹の底から吐き出される。


[夏休みまであと一週間しかないのに]


これじゃあ、休み中キヨシと一緒に遊ぶことも、謝ることも出来なくなってしまう。そんなの嫌だ。……そう思っても、折角のチャンスを逃した後じゃあ、希望も持てなくなってしまう。


椅子に座り、再び机に突っ伏してしまうタイラ。その様子を、クラスメイトの何人かが見ていた。


「ねえねえ」


「んー……なあに?」


「タイラちゃんってさぁ、キヨシくんのこと好きなん?」


「ブッ!」


「ちょっ、タイラちゃん!?」


隣の隣の席にいたあやの言葉に、タイラは思わず吹き出してしまった。


[す、すすす、すきって……!]


「そ、そがいなわけ……! ていうか、なんでそう思うんじゃ!?」


「えー? だって最近のタイラちゃん、ずっとキヨシくんのこと見よるし、さっきもさみしそうな顔しとったけぇ、好きなんじゃろうかって思うて」


「あー! それ、うちも思うとった!」


「うちもうちも!」


「うちはもう告白したもんかと思うとったよ」


「う゛っ……そ、それは、その、違くてっ」


やいのやいのと集まってくる女の子たちに、顔が真っ赤になっていくのが自分でもわかる。


「そがい恥ずかしがらんでもええじゃろ~」


「「そうじゃそうじゃ!」」


[ち、違うのに……!]


そう言っても、きっと囃し立ててくる子たちの耳には届かないのだろう。




018


それどころか、最近一緒にいないことを「付き合うたから、どがぁしたらええかわからんのじゃないかと思うとった」なんて言い出す子まで出てきてしまった。


「そんで? 本当は?」


「す、好きやらそがいなんじゃないけぇ……!」


「えー? でもタイラちゃん顔真っ赤じゃー?」


「もしかして、〝つんでれ〟やらいうやつじゃない? 東京で流行っとるっていう」


「「ああ~!」」


「ぜ、全然ちがーーーうッ!」


どんどん大きくなっていく話に、タイラは思わず声を荒げてしまった。しかし、やはり彼女たちには恥ずかしがっていると思われているようで。……向けられる視線が、生暖かい。


[そんなんじゃないのに……!]


タイラのキヨシへの想いは、みんなと変わらない、友愛だ。そりゃあ、ちょっと特別に見ている部分もあるかもしれないが、だからと言って彼女たちの言うような感情ではないことは、わかっている。


「まあまあ。本人がちがう言うんじゃけぇ、違うんじゃ。きっと」


「あやちゃん……」


「でもそれならなんで急によそよそしゅうなってしもうたのか、不思議じゃ」


「それは……」


「みんな心配しとるよー?」


あやの言葉に、その場にいた子たちも全員頷く。タイラはその事実に少なからず驚いた。


[みんな……心配してくれとったんじゃのぉ……]


じんわりと感じる優しさに、タイラは内心泣きそうになっていた。――それもそうだろう。初めての喧嘩に初めての仲直り。それなのに全然上手くいかなくて諦めようとしていたところだったのだから。


[みんななら……]


もしかしたら力になってくれるかもしれない。


自分を心配してくれる優しいみんななら。それに、みんなもしょっちゅう喧嘩と仲直りを繰り返しているのを、よく見かけるし。


その点を考えれば、きっと自分よりもずっと先輩なのだろう。


「……ねえ、みんな」


「? なあに?」


「……仲直りってどがぁしたら出来るかのぉ?」


「……やっぱり、付き合うとるの?」


「じゃけぇ付き合うとらんってば!」


「あはははっ! ジョーダンじゃ!」


――前言撤回。あやはちょっと意地悪なのかもしれない。


なんて、タイラは随分と軽くなった気持ちでそう思った。




「タイラちゃん、ちゃんとやるんじゃ!」


「う、うん……!」


あれからみんなで話し合った結果、みんなで協力してやることになった作戦――『キヨシとの仲直り大作戦』。





019


最初はあやと数名の生徒だけだったのに、あれよあれよと人数が増え、気が付けば男子も巻き込んだクラス全員が参加する盛大なものとなっていた。


そして今。――今日一日をかけて練られた素晴らしい作戦の元、タイラは覚悟を決めた顔で席に座っている。


[き、きんちょうする……っ]


タイラは小さく息を吸うと、そっと吐き出した。……作戦はこうだ。


まず、キヨシが帰らないように男子が足止めをする。そして、他の生徒は一目散に帰り、キヨシを引き留めていた男子たちも急いで帰る。教室に一人きりになったキヨシの元に、先生に呼ばれていたタイラが帰って来る。そして仲直りをするという作戦だ。


[まさか先生まで協力してくれるなんて]


先生は堅物で、こんなこと許してくれなさそうだったのに「クラスの雰囲気が良うなるならええよ」と引き受けてくれた。


「そろそろじゃの」


「う、うんっ」


「そがいきんちょうせんで! いつものタイラちゃんで大丈夫じゃけぇ!」


「そう、だね……!」


隣の席の子と一時的に席を交換しているあやに励まされながら、タイラは胸元でガッツポーズを作る。


[みんながここまで協力してくれんさってるんじゃ。ちゃんとやらにゃあ!]


みんなの励ます声や顔が、タイラの頭に浮かぶ。ちゃんとやって。ちゃんと成功させなければ。


[みんなの、ためにも]


キーンコーンカーンコーン。


「!」


「じゃあ、がんばって!」


「うん!」


チャイムが鳴る。それを聞いた瞬間、クラス中の空気が一変した。


先生の号令で挨拶が終わり、先生はタイラを呼びつけた。返事をしながら席を立てば、同時に男子たちがキヨシを取り囲む。他の生徒たちはそそくさと帰りの支度をしており、早い子だともう教室を出ようとしていたくらい。


[み、みんな早い……!]


タイラは教室から少し離れた場所で、先生と一緒に柱に身を隠していた。


「あんたを引き留めるなぁ三分くらいでよさそうね」


「は、はい」


「……」


「……あのー?」


じっと伺うようにタイラを見つめる先生。


眼鏡越しに見える少し茶色がかった瞳は、少しして小さく細められた。


「……がんばってね」


「! はい!」


ふっと微笑み、告げられた言葉に少し驚いたものの、タイラはとても嬉しかった。


[カタブツ先生なんて呼んどってごめんなさい……!]


そう内心で謝罪をしながら待つこと丁度三分。先生に「いってきなさい」と背中を押され、タイラは駆けだした。




020


教室の扉の隙間から中を覗けば、男子たちがキヨシと楽しそうに話しているのが見える。その光景に少しだけ羨ましさを感じたものの、それを表情に出すことはしなかった。


[気づいて~!]


タイラはまるで念を送るようにじっと男子たちを見つめる。すると、不意に男子の一人と目が合った。慌てた表情に、彼がこちらに気づいたことを察する。


「ほ、ほいじゃあ、わし先に帰るわー!」


「えっ」


「最近遊びすぎてなぁ、「帰りが遅い!」って母さんにどやされてしもうて」


「あ、そうだったんだ」


「あ、あー! わ、わしも! わしも怒られてしもうたわー!」


「わしは買い物頼まれてもうて」


「わ、わしは、えっと、妹……そう! 妹の世話があるんじゃ! じゃけぇ先に帰るわ!」


[みんなわかりやすすぎん!?]


あはははー、と棒読みのような笑い声を上げる男子たちに、タイラは予想外の冷や汗をかくことになった。――まさかみんながここまで嘘が下手だったとは。


[こがいなの、キヨシくんにバレてしまうんじゃ……]


「そっか。みんな忙しいんだね。頑張って」


「お、おう!」


「キヨシも気ぃ付けて帰れよ!」


「うん。みんなも気を付けて」


[嘘!? 通じたの今の!?]


ブンブンと手を大きく振って、足早に教室を後にする男子たち。その顔はあからさまにほっとしており、わかりやすいったらありゃしない。あとで後ろの壁の影から見ているあやにどつかれていそうだ。


[って、他人の事ばっか考えとる場合じゃない……っ]


タイラは遂にやってきたこの時間に、こくりと生唾を飲み込んだ。


男子たちががらりと開けた出入口とは違うところに立っているタイラは、扉へと手を伸ばした。


「……いかにゃあ」


小さく呟く声が震えている。扉に掛けた手も、喉の奥も。緊張に足が進まなくて、心の奥に焦りが募る。


[こわい……けど、仲直り、せんと]


自分の為にも。みんなのためにも。


「……そんなところで何してるの?」


「!」


掛けられた声に、ハッとする。ガラガラと開かれた扉が、手をすり抜けていく。


「き、よし、くん……」


目の前に立っていた彼の姿が、ひどく懐かしかった。




「……」


「……」


「……何か用?」


「! あ、えっと」


久しぶりに見た、キヨシの真っすぐ立つ姿に茫然としていると、ふと不機嫌そうな声がかけられる。ハッとしたタイラは慌てて言葉を紡ごうとして――しかし、頭に言葉が浮かんでこないことに気が付いた。


[えっと、仲直り、するためのことば、は……]


えっと。ええっと。……あれ。




021


「な、なんじゃっけ……?」


「は?」


「あっ、な、何でもない! 今のは聞かんかったことにしといて!」


怪訝そうな顔をするキヨシに、慌てて首を振るタイラ。目線は定まらず、両手はバタバタと忙しなく宙を掻いている。「あ、えっと、あのね」と言葉にならない言葉を繰り返すその様子は、どこからどう見ても不自然で。


[ど、どどど、どう、するんじゃったっけ!?]




――タイラは完全にパニックになっていた。




[なにかゆわんと……! あ、あれ!? ちがっ、え、謝るんが先だっけ? ああもうっ! せっかくみんなに協力してもらったんに……!]


頭の中に浮かんでは消えていく言葉の数々。それと同時に増えていくのは、みんなの顔で。


「……用事がないんなら帰るけど」


「っ、待って!」


「!」


キヨシの言葉に、咄嗟に言葉がタイラの口を突く。


勢いよく出た声にキヨシは少し驚いたようだが、動く気配はない。……どうやら待ってくれるらしい。そのことにほっと胸を撫で下ろして、タイラは息を吐く。


[キヨシくんは……やっぱり優しいのぉ]


そんな彼と、やはりこのままというのは嫌だ。仲良くしていたいし、一緒に勉強も運動もやりたい。――怖がってる場合じゃ、ない。




「キヨシくん」


「なに?」


「ごめんね」


「えっ」


キヨシが驚きに声を上げる。その声を聞きながら、タイラは静かに目を伏せた。


「ウチ、知らん間にキヨシくんを傷つけることをしてしもうたみたいで……じゃけぇ、ごめん」


「ぁ」


「でも……わがままかもしれんけど、うちゃ前みたいにキヨシくんと仲良うしたい。こがいな……避けられるのも、嫌じゃ。じゃけぇ……もっかい、お友達になってくれんかな?」


声が震える。声が尻すぼみになっていってしまうのを、必死に堪える。……嫌だと言われたら、なんて考えはいつの間にか頭の隅からどこかへ飛んで行ってしまった。


タイラはキヨシの手を取るときゅっと握り締めた。


「――ウチ、キヨシくんと仲直りしたい」


まるで、懇願するかのように絞り出した声。目を閉じ、キヨシの手を額に当てた。


数秒……否、数十秒にも感じられる時間が流れる。握った手に力を籠めれば、ピクリと指先が動いた。そして――――。


「……はあぁあぁあああ」


……深い深いため息が、頭の上から降り注いできた。


それはどう頑張ってもいい方向に受け取れない反応で、タイラの胸に棘を持って突き刺さる。


[やらかしてしもうた、かな]




022


みんなはああいってくれたけど、もしかしたら自分は本当に嫌われていたのかもしれない。それで避けていたのに、図々しくこんなことまでされるなんて……キヨシからしたら迷惑甚だしいはず。


「……ごめん。ウチのわがままじゃったね。もう近づかんようにするけぇ」


タイラは耐えきれず、口早にそう告げる。


キヨシからゆっくりと離れて、手を離そうとして――その手をキヨシが取った。


「え」


「ごめん」


キヨシの手が、強くタイラの手を握り締める。


驚いて顔を上げれば、泣きそうなキヨシと目が合った。途端、ぽろりと落ちる涙にタイラはぎょっとする。


[な、なんでキヨシくんが泣いとるんじゃ!?]


「き、きききキヨシくん!?」


「ごめん……ごめんね、タイラ」


「ちょ、えっ」


ぽろぽろと涙を流すキヨシ。あまりにも予想外の出来事に、タイラはその様子を棒立ちで見ていることしかできなかった。


「僕っ、ずっとどうしたらいいのかわからなくって……っ、タイラはそんなことするはずないってわかってたのに……ごめん。本当にごめんね」


「え、えっと?」


「だから、タイラは悪くないんだ」


「悪いのは僕なんだよ」と笑うキヨシに、タイラはもう思考が追い付かなかった。


とりあえず誰かに見られると恥ずかしいだろうからと教室に入ることにした。教壇の段差に二人で腰かけて、タイラはキヨシの背中を落ち着かせるように撫でる。


大きな背中が今は小さく屈められている。しかも泣いているということで、大柄な彼が更に小さく見えてしまう。しかし、逃げる様子がないことから、自分が嫌われて避けられていたわけではなさそうだ。


[よかった……]


ズビッと鼻を啜る彼にちり紙を渡せば、嬉しそうに微笑む。……やっぱり、嫌われているようには見えない。


「ごめんね。つらいのはタイラなのに、僕ばっかり……」


「ううん。気にせんで。それより……話、聞いてもええかな?」


「……うん」


タイラの問いかけにこくりと頷いたキヨシは、鼻をかむと静かに話し始めた。


「あの時……校長先生に呼び出された時、聞いたんだ」


「何を?」


「僕と――タイラの、家のこと」


キヨシの言葉にタイラは目を見開く。そして、その言葉一つで何となく自分が彼に避けられていた理由を察してしまった。


「タイラは、初対面の僕にすごく優しくしてくれたでしょ?」


「え? うーん……そうじゃったっけ?」


「そうだよ」


くすくすと笑うキヨシに、タイラはほっとしつつもキヨシと初めて会った時のことを思い出した。




023


[そういやあ、喧嘩しとった二人を止めたような……?]


だけどそれは人前で喧嘩するのが見ていられなかっただけで、キヨシの為にと思ってやったわけじゃない。と、思う。


[あの時は反射的にやっただけじゃけぇ、しっかりと覚えとらんのよねぇ]


「僕はそれが結構嬉しかったんだ。だから……それが、家のための演技なんじゃないかって思っちゃって……タイラはそういうことをする子じゃないってわかってたんだけど」


どんどん弱くなっていくキヨシの声。その声は未だにどこを目指せばいいのか迷っている子羊のようで。だからだろうか。


「……ウチ、姉さんが二人おったんじゃよね」


「えっ?」


「というても、一人はおばさんなんじゃけど。お姉ちゃんゆわんと怒られてしまうけぇ、お姉ちゃんって呼んどるんよ。……まあ、もう、怒ってくれはせんのじゃけど」


「!」


つい、口が滑ってしまったのは。


目を見開くキヨシに、タイラは続ける。どこか寂しい声をしていることに、本人も気が付かないまま、ただ静かに。


「オケラ姉は今は病院に入院しとって、もう一人の姉さん――コムラ姉は……殺されたんじゃ。妄執に」


「もう、しつ……?」


キヨシの声が、静かな教室に響く。蝉の声すら、今の二人には聞こえていなかった。


二人だけの空間が、切り取られていく。タイラはそう感じた。




――妄執。


人の感情を溜まり場として棲みついてしまう、害悪。


人間の感情に敏感で、マイナスの感情ばかりを持っている人間は普通の人間よりも付け込まれやすい。見た目は影のような形をしており、それが濃厚になればなるほど、妄執は大きく、かしこく育つと言われている。


そんな化け物と戦う使命を、紀眞家は遠い昔から受け継いできた。もちろん、姉さん二人もそうだ。……最早、自分たちは妄執と戦って死ぬことが運命なのかもしれないと思うほどに。




「……人間、生まれ持った役割からは逃れられんのかも」


「タイラちゃん……?」


「ううん。何でもない!」


首を振ったタイラは、再び話を続ける。


「お姉ちゃんは二人とも、ええ人じゃった。特にコムラお姉ちゃんは明るうて優しゅうてね。二人とも、こまい頃はよう遊んでくれんさった」


「こまい……?」


「えーっと、ちいさい頃?」


「ああ、なるほど」


頷くキヨシ。彼と話していると、自分の予想外のところで方言を使っていることがわかる。聞き返されると大人たちはあんまりいい顔はしないけど、自分はそういうのがわかるのは楽しいと思う。




024


[キヨシくんも、コムラ姉と会うとるんよね]


本人は忘れてしまったのだろうけど、きっと本当はとても大切で、大事な人だったはず。


[大丈夫……ウチが思い出さしちゃる]


――だから、安心して。


「じゃけぇ、ウチは復讐しよう思うとるの。妄執に。お姉ちゃんたちの仇を討とうって」


「!」


「ばかよね。キヨシくんみたいに体も大きゅうないし、子供なのにさ。でも、このまま知らんぷりなんてできん。しとうないんじゃ、ウチは」


タイラはそう告げると、静かに目を伏せた。


瞼の奥には、あの時の光景が今でも鮮明に浮かび上がる。まるで、昨日のことのように。


[あの時、うちゃ何も出来んかった……今も、変わらんかもしれんけど]


それでも、この志は曲げられない。これは――自分の生きる理由でもあるのだから。


「ふふっ。まあ、キヨシくんにゃあ、関係ない話かもしれんけどのぉ。さえん話をして、すまんのぉ」


自嘲気味に笑って告げれば、ぽつりと何かが落ちてきた。顔を上げれば、キヨシの大きな身体がタイラを優しく包み込んだ。


「……そんなことない。そんなこと、ないよ」


「キヨシくん……」


「ごめん。僕、何も知らないで……本当に、ごめんね」


優しく温かい手が、タイラの背を撫でる。慈しむような、懺悔するような手は、少しだけ震えている。


[なんで、キヨシくんが泣きよるんじゃろう]


彼には関係のない、タイラ自身の感情。家とは関係なしに、自分が決めた、自分だけの目標。それを、キヨシが背負う理由はないはずなのに。


「……キヨシくんは、優しいなぁ」


「優しくなんかないよ」


「ううん。優しいよ。……コムラ姉がね、言いよったんだ。『人にゃあ優しゅうしんさい。きっといつか大切な人を守るときに必要になるけぇ』って。おばあちゃんの受け売りだ言いよったけど、うちにとっては、コムラ姉の言葉じゃけぇ」


「そうなんだ」


「だからね、ウチゃウチの為にキヨシくんとお話ししたいし、仲良うしたい思うとる。家も……今はまだ、離れられんけど、でも関係ないよ」


タイラの小さな腕が、キヨシの背に回される。震える大きな背中は小さな手じゃあ支えきれないけど、少しでも彼の悲しみが和らげばいいと、タイラは思っていた。――他人の為に泣いてしまう、大きな男の子の気持ちを、少しでも自分が救えるように願って。




それからしばらくして、キヨシの涙が止まったのを感じる。震えも無くなり、抱きしめていた手も、ただ温かいだけ。




025


ゆっくりと離れる大きな体。バツの悪そうな顔をするキヨシは、どこか頬を赤くしたまま、視線を逸らした。図体に似合わず、可愛らしい反応をする彼に、タイラは少しだけ笑ってしまった。


「……ごめん。突然」


「ううん、気にせんでええよ。それより、えかったぁ。てっきり嫌われたんじゃないか思うとったんじゃ」


「そ、そんなことないよ! 嫌うなんてするわけない!」


「ええ~? ほんとにぃ?」


「し、しないしない! 本当に! 絶対にタイラちゃんを嫌いになるなんてありえないから!」


ブンブンと首を振るキヨシ。その顔は明らかに必死な顔つきで、嘘を吐いているようには到底見えない。


[こがいなところで、仕返ししていかにゃあね~]


疎遠にされていた理由は分かったけど、だからと言って寂しかった時間が消えたわけじゃない。心に空いた大きな穴を埋めるには、こうしてちょっとずつからかって、心の栄養を補うしかないのだ。


あわあわと周囲を見回したり、行く手のない手をブンブン振り回したりしているキヨシの姿に、込み上げる笑いを噛み締める。タイラは手を差し出した。


「ほいじゃあ、仲直りじゃのぉ」


「う、うん」


キヨシが握れば、唐突に開かれる扉。


「「「えかったぁ!」」」


「うわぁっ!?」


「きゃあっ!」


雪崩れのように入り込んできたのは、先に帰ったはずのクラスメイト達だった。


「げにえかったよ~!」


「ありがとのぉ、みよちゃん。でも、顔凄いことになっとるよ?」


「余計なことゆわんの! こっちは心配しとったんじゃけぇ~も~!」


「いたたたっ! ご、ごめんごめん、みよちゃん。心配してくれんさってありがとの」


ぎゅうぎゅうと抱きしめてくる友達に、タイラは苦く笑う。他にも何人もの友達が抱き着いてくるのを、タイラは順番に受け止めていた。


[ていうか、なんでクラス違う子までいるんじゃ……?]


みよといい、クラスが違うのにも関わらず馴染んでいる子たちを見て、タイラは頬が引き攣る。しかし、みんながみんな優しい顔をしていて、彼女たちも自分たちの事を心配してくれていたのがわかる。……正直、悪い気はしない。


「えっ、ちょっ! み、みんな先に帰ったんじゃなかったの?」


「われら二人が明らかにおかしいけぇ、みんな心配しとったんじゃ!」


「そうそう! 教室でて、向こうの角の方でずーっと確認しとったんじゃ!」


「そ、そうだったんだ」


「それにしても、キヨシは相変わらず泣き虫じゃのぉ! 男じゃろー!?」


「う、うるさいなぁっ! 別にいいだろっ」




026


[キヨシくんもキヨシくんで囲まれとるみたいだし、心配ないかな]


友人たちと楽しそうに話しているキヨシを見て、タイラはホッとする。


今回の作戦は、自分にとっては賭けに近いものだった。もし本当に嫌われていたらどうしようもなかったのだから。


「みんな、本当にありがと!」


タイラの笑顔に、その場にいたみんなが笑顔になる。それはキヨシもだった。その事が心底嬉しくて、タイラは歯を見せて笑った。


わーわーと騒いでいた教室に先生が来たのは、それからすぐ後のことだった。






家に帰ったタイラは、充実した顔で自分の部屋に帰って来た。干したての布団にぼふりと顔を埋める。嬉しさに緩む頬が抑えられない。


「本当に、えかったなぁ」


高い空を見つめ、タイラは笑う。キヨシと仲直り出来たことが、心底嬉しかったのだ。


もしあのままだったら、きっとキヨシとは疎遠なまま終わっていただろう。次に顔を合わせるのは婚姻式の時になっていたはずだ。


[キヨシくんに、これ以上悲しい想いはさせられんもん]


タイラは脳裏を過る〝あの日の出来事〟に静かに目を閉じた。


――あの痛ましい事件から六年。自分も少しは強くなれたかな、なんて。


「ウチも婚約者として、頑張らんと」


両家の決めた代々受け継がれてきたルール。血を薄くしないための儀式。互いを裏切らないと誓う為の、式。


[……コムラ姉がやるはずじゃった、大切な役目]


それを果たすのは、今は自分しかいない。タイラはゆっくりと沈む意識に、目を擦る。今日はいろいろあって疲れてしまったらしい。ひどく、眠い。


[お風呂、はいらんと……あと、しゅくだい、も……]


ゆっくりと沈んでいく思考。夢の中へと旅立つ体を、タイラは静かに手放した。






トントン。


「はい」


「入るぞ」


声に答える間もなく引かれる襖。


ランドセルを手元に置いているタイラがハッとし、顔を上げた。同時に惹かれた襖の先にいたのは、見上げるほど大きな体躯の男。


「お、お父さん? どうしたんですか」


「タイラ。ちょっと来なさい」


「は、はい」


厳つい顔をピクリともさせない父に、タイラは慌てて腰を上げる。


[めずらしい……]


タイラはきょろきょろと周囲を見回しながら、父の後を着いていく。冬の冷たさがタイラの小さな足をチリチリと焼いていく。庭を見れば、白い雪が積もっていた。


[さむいなぁ……]


まさか雪が降るなんて思わなかった。小さな両手にはあっと息を吹きかけて、はたと足を止める。


「――ゆき?」




027


視界に映る庭に積もる白。それはどこからどう見ても雪に違いない。


[な、なんで]


今はたしか、夏だったはず。毎日暑くてたまらないくらいの猛暑で、一歩外に出れば汗が噴き出る、そんな季節。それが今は、指先を凍えさせるほどの寒さだ。おかしい。


「タイラ。早くしなさい」


「あっ、ご、ごめんなさいっ」


父の声が響き、タイラはふっと意識を引き戻される。父の鋭い視線に肩を跳ね上げ、慌てて足を進める。寒さに気付いてからは一段と感じる冷えに、足を擦る。


[……どういうことじゃ?]


父の背中を見上げても、正解は出ない。壁を触ってみるが感触はなく、感じるのは寒さだけ。


[もしかして、これは夢……?]


季節といい、滅多に会うことのない父といい。きっとこれは夢の世界なのだとタイラは思うことにした。そうじゃなきゃ、父はわざわざ離れの自分の部屋にまで来ないし、季節だって暑い夏のはずだ。


すっと音もなく襖が引かれる。中は囲炉裏の置かれた居間だった。久しぶりに来たここに少し驚いていれば、父が上座に置かれた座布団に腰を掛けた。


「座りなさい」


そう言われて差されたのは、下座の座布団。タイラはそこに腰を下ろした。


パチパチと火鉢が音を立てる。タイラは弾ける小さな火花を見るのが好きだった。とはいえ、囲炉裏なんて時代遅れなものがある家なんて、ここくらいなんだけれど。


「タイラ。お前も、もうすぐで小学三年生になるな」


「は、はい」


「学校はどうだ」


「え?」


「なんだ。上手くいっていないのか。成績には影響はないだろうな?」


「あ、はい。それは、大丈夫です」


威圧感のある父に、タイラは心底驚いていた。「元気にやっています」とだけ答えて、タイラは父を盗み見た。


[本当に、どうしたんじゃろう]


いつもなら自分に学校の事を尋ねる事なんかしないのに。父の興味があることは、本家との繋がりと紀眞家の行事くらいで、自分に関心なんてないはずなのに。


父は「そうか」と告げると自らの手で茶を注ぐ。これまた珍しい光景に、タイラは息を飲んだ。――そして、思い出す。


「タイラ、よく聞きなさい」


「!」


「お前の婚約者が決まった。名は、匕背キヨシ。お前もよく知っているだろう」


[――ああ、これは]


あの日の、記憶。


タイラはこれが夢であることの確信と一緒に、この状況が半年前の出来事であることに気が付いた。


[まあ、本当は呼んできたなぁお手伝いさんの佐藤さんじゃったし、父のお茶を淹れたなぁうちだけど]




028


ともかく、これはキヨシが転校してくる前の記憶だ。ここから先のことは、いやでも覚えている。


「年齢は十五だったか? 何にせよ、この間目が覚めたらしい。記憶はないが、意識は混濁していないし、日常生活にも問題はない。自分を九才だと思い込んでいるが……まあ、子は成せるだろうとの判断だ。どうせいつかは気づくだろう」


淡々と告げられる言葉。父はどこか面倒くさそうな顔をしていたのを、タイラは覚えている。


[でも、本家からのお話じゃあ、お父さんは断らんもんね]


本家の為に。本家との繋がりを保つために。父はいつだって必死だった。


「とはいえ、流石に周りの目もある。社会に復帰させるにも、順を追って行こうということだ。そこで、分家である我々の方へと来ることになった。こちらにも匕背家の分家はあるからな。都会じゃなく、田舎の方が何かと都合がいいんだろう」


「……」


「いいか。特段、仲良くする必要はない。どうせ匕背家の中でも末端の人間だ。だが利用価値はある。修復できない関係にはするな。わかったな?」


「……はい」


「以上だ」と締め括った父は、さっさと立ち上がって居間を後にしてしまった。タイラの意見なんて、興味はないのだろう。……昔からそうだ。気にすることじゃあ、ない。それより。


[コムラ姉……]


タイラが気になるのは、婚約の話のほうだった。




――最初にキヨシと婚約を結んでいたのは、タイラの三つ上の従姉――紀眞コムラだった。二人はお互いに思い合っていたはずなのに、コムラが死んでしまい、結果として自分が婚約相手になってしまった。


[うちがもろうてしまう形になるなんて……コムラ姉、どう思うんじゃろ]


わかっている。そんなことを考えても仕方がないことくらい。コムラは既に死んでしまったのだから。それでも――。


「……わかっとっても、わからんもん」


コムラとキヨシのあの楽しそうな顔を見ていたら、割り切れるわけがない。タイラは言葉に出来ない気持ちを抱える心臓を、服の上から握り込んだ。


シンと静まる部屋で、タイラが一人蹲る。流れ落ちた涙がビー玉のようにコロコロと畳の上を転がっていく。それは幸か不幸か、誰にも見つけられないまま、溶けて消えてしまった。まるで、雪のように。






「っ――!」


ガバッと飛び起きたタイラは切れる息で周囲を見回した。


ミーンミーンと響く蝉の声。縁側に取り付けられた風鈴の音。扇風機の回る風の音。どれもが今の季節を夏だと証明している。




029


「げん、じつ……?」


タイラは自分の手を見つめ、拳を作っては開くという作業を繰り返してみる。壁に触れれば、さっきは感じなかった冷たさがタイラの皮膚を伝ってくる。


[ほんものじゃ]


さっきまでの事を思い出して、タイラは大きく息を吐いた。どっと押し寄せてくるのは、言葉に出来ない安堵の色。


「びっくり、したぁ」


まさかあんな夢を見るなんて。バクバクと煩かった心臓が、少しずつ落ち着いてくる。しかし、冷静になればなるほど、タイラは今の状況に追い詰められているような気分になる。


[キヨシくんと仲直りはできたけど]


未だキヨシは、タイラが婚約者だとは知らないだろうから。知っていたらきっと、あんな喧嘩じゃあすまなかっただろう。


「でも……いつか、ゆわんといけんよね」


キヨシにも……コムラにも。


タイラは自分の心に巣食う感情を抑え込む。胸元に手を当て、この感情が出てこれないように息を少しだけ止めて。


[ごめんね、キヨシくん]


――ごめんなさい。コムラ姉。


タイラは心に浮かぶ懺悔の気持ちを、静かに自分の胸の内に秘めた。夏なのに冷える足を折りたたんで、タイラは小さく体を丸める。ああ、どうか。


[これからもずっと、みんなが笑っていられますように]






タイラとキヨシが仲直りを果たしてから一週間経たず、夏休みはやって来た。


「こんにちはー」


「あらぁ、こんにちは。タイラちゃん」


「今日も来るなんてえらいわねぇ」


「えへへへ」


この夏から町の調理クラブに入ることになったタイラは、夏休みであることをいいことに、料理の修行に励んでいた。所謂花嫁修業だ。家でやりたくないと言い張ったタイラに、家政婦の晶子が提案してくれたのがこのクラブだった。


外なら誰かと一緒に出来て楽しいだろうし、町のクラブだから父の為にもなると言われ渋々始めたのだが、これが予想以上に楽しかった。父の言いつけにより、中々友人と遊ぶことが出来ないタイラにとって、誰かと何かを一緒にするという経験は貴重なものだったのだ。


[クラブの先生も、おばさんたちも、みんな優しいし]


何より失敗しても怒られないのだ。――そう。


「タイラちゃん! 火! 火!!」


「えっ?」


「真っ黒こげになってるわよ!」


「うわわわっ!」


「あらあら。元気ねぇ」


――どんな失敗をしたって、優しく包み込んでくれる。


「また失敗しちゃった……」


「まあまあ。初めから上手くいくものじゃないわよ。根気強く頑張りましょう?」


「先生……はい……!」




030


にこやかな先生に、タイラは勇気づけられた。両手に小さな握り拳を作ったタイラは、黒焦げになってしまった料理を睨みつける。


[キヨシくんの為にも頑張らんと……!]


こんな墨をキヨシに食べさせるわけにはいかない、とタイラは意気込む。そうして毎日通うことになったタイラだったが――。




「タイラちゃん! 煙出てる!」


「へぁッ!?」


……結果は、芳しくなかった。


和食も中華も洋食も。どんな料理でも真っ黒こげにしてしまうタイラ。その料理音痴ぶりに、最近では先生すらも頬を引き攣らせている。お陰で〝黒ちゃん〟なんてあだ名まで付いてしまったくらい。


「黒ちゃん、二週間毎日来てるからすごく上達したわねぇ。サラダは」


「そうねぇ。飾りつけもかわいらしいし、すごくおいしそうだわぁ。サラダだけは」


「本当に! 私なんてとうに抜かされちゃったんじゃないかしら。サラダだけ」


「えへへへ~」


「「「〝えへへへ~〟じゃないわよ!」」」


涙目になりながら嘆く先生に、タイラは最早苦笑いする他ない。


[なぁんで出来なんじゃろ]


数々の黒炭を思い出してため息を吐く。途端、お前がするなと言わんばかりに視線が向けられたが、タイラ自身、何時まで経っても上達しない事に、ほんのちょっぴり申し訳なく思っているのだ。本当に、ほんのちょっぴりだけど。


「でも、サラダは綺麗に作れるようになったよ、先生!」


「ほんとうね! サラダだけは素晴らしいわ! サラダだけは!」


「サラダは栄養豊富ですよ!」


「ええ、そうね。でも、サラダだけ食べよっても、いつか死んでしまうわ。それに、殿方はお肉が好きよ」


「うっ」


「もう一回、頑張ってみましょうね」


「……ゴメンナサイ」


「わかりゃあええんよ」


優しく微笑む先生。しかしタイラの肩に添えられた手は力強く、目は笑っていない。上達させねばという熱意がひしひしと伝わってくる。


[い、いびせぇ……]


カタカタと震えるタイラに気付くことなく、先生は次の作業を説明する。その背中を見上げ、タイラは密かに項垂れた。……怒られることもあるが、基本的には優しい人なのだ。こんな自分にも根気強く教えてくれるし、よく声もかけて来てくれる。そんな人の気持ちに報いたいと思うのは、当然だろう。


「なにか、簡単に上達できる方法があればええんじゃけど……」


「なあに? お料理が上達する方法?」


「あ、みつおばさん」


にこやかに問い返したのは、みつこさんだった。クラブの中で一番年上で、いつも誰かに教えている人。




031


生徒でいる必要はないんじゃないかと思うくらい料理の上手い人だが、生徒として来ている。


「うーん、そうねぇ。例えば、料理を食べさせたい恋人とか、家族とか。そがいな人を思い出しながら作ると、上手くいくよ。誰かの為に作る料理は、自分の為に作るものよりもずっとうまいものが作れるんよ」


「だれかの、ために……」


「そう。タイラちゃんなら、お父さんやらお母さんやらかなぁ」


「……」


みつの言葉に、タイラは目を瞬かせる。そして静かに目を伏せた。


[お父さん……は、絶対に食べてくれんよね]


父の顔を思い出し、タイラは首を横に振る。あの人が自分の手料理を食べるところなんて、想像がつかない。万一食べてくれたとしても、誰が作ったかなんて気にしないだろう。


[こいびと……はおらんから……]


あ、そうだ。


「ねえ、先生。恋人じゃないけど、好きな人……じゃったらええの?」


「うん? うん。必要なんは、誰かの為に作るってことじゃけぇ」


「そっかぁ」


タイラは静かに一人の男の子を思い浮かべた。自分よりも大きい身体をしているのに、笑う時はちょっとだけ可愛い人だ。


「って、もしかしてタイラちゃん……好きな人がおるの!?」


「え、あ」


「だれだれ!?  教えてよー!」


輝いた目でタイラを見た先生に肩を掴まれ、ガクガクと前後に揺らされる。前後する頭で、首がもげてしまいそうだ。


[いたたたっ! 目がっ、目が回る!]


「すっ、好きっていうかっ、婚約者がおるっていうか……」


「こ、こんやく!?」


「せ、先生?」


急に動きを止めた彼女に、タイラは本能的に嫌な予感を嗅ぎ取った。一歩、二歩と後退し、逃げようとするが――がしりと肩を掴まれる。ヒク、と頬がヒクついて、恐る恐る顔を上げれば――まるで般若のような顔と目が合った。


「ひっ!」


しまった、と思ってももう遅い。


「うちなんてまだ恋人もおらんのにっ、こ、婚約者じゃなんて!」


「あ、えーっと」


「タイラちゃんの裏切り者ぉ! 先生の恋を応援してくれる言うたのにぃ!!」


わっと泣き出す先生に、タイラは何とも言えない気持ちになった。自分が撒いてしまった種だけに、何だか申し訳ない気持ちになってしまう。


「そ、そない泣かんで先生!」


「ぅううっ、タイラちゃーん!」


慰めれば急に抱き着いてくる先生。相変わらずの代わり身の速さに、最早尊敬すらしてしまいそうだ。


とにもかくにも、どうにか先生を宥めることが出来たタイラは、次は料理ではなくお菓子作りに挑戦することになった。




032


何でも、先生の見立てでは男性がもらって嬉しいのは手作りのお菓子だそうで。


「うまいお菓子を作って、うちもええ彼氏ゲットするんじゃけぇ! やるでぇ、タイラちゃん!」


「お、おー!」


タイラは小さく腕を上げる。


[習いたいなぁお料理の方なんじゃけどなぁ]


でもまあ、先生が楽しそうだし、いいか。


タイラはそう思うことにすると、その日から数日間、お菓子の作り方を学ぶこととなった。




それから数日が経った。今日は学校の登校日だ。


「久々の学校じゃー!」


「そうじゃのぉー!」


両手を振り上げ、笑うまりんに笑みがこぼれる。タイラも、久々に学校に来るのを楽しみにしていたのだ。


[キヨシくんやみんなは、なしとるじゃろうか]


夏バテなんてせず、元気にしてるといいけど。そう考えていれば、まりんが「そういやあ」と声を上げた。


「タイラちゃんは知っとる? 今学校で流行りよる怪談!」


「かいだん?」


「そーそー!」


「あっ、いびせー話のほうね!」と笑うまりんは、どこか上機嫌だ。


知らないと首を振れば、彼女はふふふとわざとらしく笑みを浮かべると、小さな体を寄せてきた。口元にはコソコソ話をするかのように手が添えられている。


「これね、委員会で六年生から聞いた話なんじゃけど──」




夏休みが始まるとさ、みんな結構ハメ外すじゃん? ほら、お母さんに頼んでお化粧してもろうたり、髪染めてみたりさ。今年の六年生、派手好きな人がおおいじゃろ? 先生も目ぇつけとるらしいし! それでこの前、六年生達が肝試しをしたんじゃって。浴衣着てきたり、すっごいオシャレしてきた人もおったって聞いたなぁ。


でね、最初はみんなで肝試しを楽しんどったみたいなんじゃけど、教室に入ったらとつぜん! 一人の女の子が顔を掻きむしり始めてしもうたんじゃって! そりゃあもー、見よる方が痛うて泣いてしまいそうなくらい! そしたら次々別の女の子達が同じように顔を引っ掻いてしもうたり、寒気がするって逃げてってしもうたり! 散々じゃったんだって!




「いびせーよねぇ!」


「そうじゃのぉ」


「こらぁ! タイラ、ノリ悪いよぉー!」


「ごめんごめん」


むうっと口をとがらせるまりんに、タイラは苦笑いをする。別に、まりんの話に興味がなかったわけではない。しかし、怖いかと言われれば、内容は確かに怖いのだけれど……なんというか、まりんの話し方じゃあ怖くないのが本音だ。


[でもそがいなの言えんしなぁ]




033


タイラは苦笑いをすると、軽く笑い飛ばした。それを見て、まりんは追撃を試みる。


「でもでも、一番いびせーなぁこっからでの!」


「う、うん」


「実はその被害にあった子達は、みぃーんなお化粧をせん子じゃったんだって! 普通逆じゃ思わん!?」


「確かに、お化粧が原因じゃ思うとったけど、違うの?」


「そーみたい!」


「なんでじゃろー?」と首を傾げる彼女に、タイラは同じように首を傾げた。そんなことを言われても、噂自体初めて聞いたタイラには知りようがない。しかし、確かに気になる。


[ていうかこがいな話、前にどっかで聞いたような……]


うーん、と唸りながら歩く。と、ドンッと何かにぶつかってしまった。


「わわっ、ご、ごめんなさい!」


「こっちこそごめん。よそ見してて……って、タイラじゃん。おはよう」


「き、キヨシくん!」


覚えのある声に顔をあげれば、これまた覚えのある人物と目が合い、タイラは素直に驚く。まさかこんなタイミングでキヨシと出会うとは思っていなかった。


「元気にしとった?」


「うん。元気元気! 昨日は父さんと海釣りに行ってきたくらいだし!」


「へえ、そりゃあ楽しそうじゃのぉー」


「行くまでは長くてヒマだけど。夏休み中はよしきくん達に誘われて、川とか駄菓子屋さんに遊びに行ったり、あ、そうだ。ザリガニも釣れるようになったんだよ」


「そうなんじゃ! じゃけぇ、そがいに日焼けしとるんじゃのぉ」


「あはは。やっぱりバレちゃう?」


「バレバレじゃ」


黒くなったキヨシの腕に触れれば、彼は恥ずかしそうに眉を下げた。その笑顔は以前よりも自然体で、タイラは少しだけ彼の友達を羨ましく思ってしまった。


キヨシに「タイラは?」と聞かれ、慌てて自分の休日を掻い摘んで話す。とはいっても、まりんと家の中で一緒に遊んだこととか、図書館で勉強してたことくらいしかないんだけど。


「図書館で勉強なんてすごいね! 僕、なんもしてないなぁ」


「宿題があるけぇ仕方のうじゃ。っていうか、キヨシくん、宿題しゃーなの?」


「あっ、いやっ、だ、大丈夫大丈夫! ほら、僕っ、やれば出来るタイプだし?」


「そりゃあやってから言うセリフじゃろー」


もうっ、と呆れた目でキヨシを見れば、彼はバツが悪そうに頭を搔いた。キヨシなら遊びながらも宿題のことは気にかけているんだろうと思っていたが、どうやら違ったらしい。


[キヨシくんも、意外とおっちょこちょいじゃのぉ]




034


「ふたりともー。イチャイチャするなぁいーんだけど、そろそろ行かにゃあ遅刻してまうよー!」


「なっ……!」


「い、イチャイチャなんてしてないよ!」


「えー、 そーぉー?」


ニヤニヤと笑うまりんに、タイラとキヨシはお互い真っ赤にした顔で「してないから! ちがうから!」と叫んだ。しかし、変わらずからかうような目をむけるまりんに、タイラはむっとして早足で歩き出した。その後ろをまりんとキヨシが小走りで追いかける。


「ごめんごめん! じょーだんだって。そがいに怒らんでタイラちゃん!」


「ふん。まりんなんて知らんもんっ!」


「そんなんゆわんでさ~」


謝りながらも、着いてくるまりん。その顔はどこか楽しそうで。


タイラが本気で怒っていないことをわかっているようだった。実際、タイラは怒っていないし、拗ねてもいない。ちょっとした仕返しだ。しかし、キヨシにはそうは見えなかったようで。


「け、ケンカはダメだよ、ふたりとも」


「ケンカじゃないもん。キヨシくんのばかっ」


「それ、キヨシくんにだけは言われとうなかったなぁ」


「なんで僕!?」


慌てるキヨシに、タイラとまりんは目を合わせた。そして、どちらともなく吹き出す。突然笑い出したタイラたちに、状況の整理が追い付かないのか、キヨシは目を丸くして二人を交互に見ていた。それがおかしくて、余計に笑ってしまう。笑いが収まった時にはもう既に時間はギリギリで。


タイラ達は走って学校に向かった。誰が一番早く辿り着くか、競争しながら。




勝負はキヨシの勝ちで終わった。完全に足のリーチの差だと思う。


喜んでいる間もなく、隣のクラスであるまりんとお別れして教室に駆け込めば、同時にチャイムが鳴った。「危なかったね」と二人で顔を合わせて、それぞれの席へと腰を下ろす。先生が来る前に息を整えなければ。


[そういやあ、夏休み明けって席替えするんじゃっけ]


新学期の始まりにする、恒例行事。今までは楽しみにしていた行事の一つなのだが……タイラはなんだか素直に喜べないでいた。


[席替えかぁ……]


前にすわる、大きな背中を見る。きっと彼は身長が高いから、次は絶対に一番後ろになっちゃうんだろう。自分がもし前の方の席を引いてしまったら、離れ離れは確実だ。


「……離れたくないのぉ」


まさかそんな思いが零れてしまうとは知らず、タイラは慌てて口を塞いだ。振り返ったキヨシが、不思議そうに首を傾げる。タイラは何でもないと首を横に振ると、先生の合図に席を立った。




035


話は聞いていなかったが、どうやらこれから全校集会をやるらしい。タイラたちは男女に分かれ、背の順で並ぶとそのまま体育館へと向かった。タイラはクラスでは小柄な方だが、キヨシはもちろん一番後ろ。いつもなら気にしないのに、ついさっきまで席替えのことを考えていたからか、少し寂しくなってしまった。


体育館に辿り着き、前から順に座っていく。少しして生徒たちが集まり、始まった全校集会。――しかし、そこに六年生の姿は一人も見当たらなかった。






「……行ったかな?」


タイラは教壇に置かれた机の下で、ホッと息を吐いた。


小さな身を乗り出し、周囲を見ながら這い出る。タイラがいたのは、六年五組の教室だった。


「もう、だあれも来んよね」


タイラはこっそりと扉の向こうを覗き見る。


全校集会が終わった後、すぐに生徒たちは帰された。先生たちも足早に帰っていくのを見かけたし、きっとこの校舎に残っているのは、自分と少ない先生たちだけだろう。ついさっきも、六年生の担任の先生が忘れ物を取りに来たのを見送ったばかりだし。


[見つからんでえかったぁ]


タイラはほっと胸を撫で下ろした。ここに来た理由はもちろん──あの噂の真実を確かめるためだった。




全校集会で見かけることのなかった六年生の姿。我慢できずに先生に話を聞けば、あっさりと教えてくれたのだ。きっと優等生であるタイラになら話してもいいと思ったのだろう。まりんの言っていた噂は本当のことで、今は六学年全員にお休みを出している。つまり、学年閉鎖だ。


しかしそこまで話しても晴れない先生の顔に「先生?」と問いかければ、彼女は随分と悩んだ後「これはみんなには内緒にしておいて欲しいのだけれど……」と念頭を置いて話し始めた。


「実は他にも困った事があってね」


「困ったこと?」


「そう。なんでも、男子の中で悪口を言うた人がおるやら、いじめが起きとるやら。みんなやっとらん言うんじゃけど、聞こえたって言いよる子が不登校になってしもうて。それも何人も」


「そんな……」


「みんな仲がえかったのに、なしてかしら……残念だわ」


そう言って苦く笑った先生はタイラに「内緒ね」と念押しをする。その顔はどこか疲れていたように見えた。


[先生、大丈夫じゃろか……]


もしかしたら事件のことで、あまり休めていないのかもしれない。そう思ったら、タイラはいても経ってもいられなかった。


[先生は、キヨシくんとの仲直りに協力してくれんさったもん]



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