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ドライヤーガン戦士シリーズ六ホムラ 笑

ジリジリジリジリ!


「んん~……」


けたたましいアラーム音が響き、布団を被った塊がもぞりと動く。細い手が布団の中から幽霊のように出てきて、アラーム音を響かせる時計を止めた。


時刻は七時十五分前。黄緑色の瞳がじっと時計を見つめ、途端、みるみるのうちに見開かれた。


「うわぁああっ! ち、遅刻ーッ!!」


起きて早々、叫び声を上げた少女――紀眞ホムラは、布団を蹴とばす勢いで飛び出すと、ドタバタと荷物をまとめて部屋を出る。


洗面所で顔を洗い、肩口で跳ねる髪を整えて、騒がしさもそのままにリビングの扉を勢いよく開け放った。扉の向こうにいたのは、呑気にお茶を啜る父と母の姿。


「おはよう、ホムラ」


「おはよう。朝から元気だなぁ」


「二人ともおはよう! っていうか、起きてたなら起こしてくれてもよかったじゃん!」


「だってー、幸せそうに寝てたからぁ」


「ねー」と顔を合わせ微笑む二人に、ホムラはため息を吐いた。……仲睦まじいのはいいが、もう少し自分のことを気にかけてはくれないだろうか。今だって自分は遅刻寸前なのだから一緒に慌てて欲しいし、ランドセルもご飯も全部持ってきて欲しい。あわよくば、毎朝起こして欲しいくらいなのに。


(二人だけラブラブしちゃってさあー)


朝から寄り添っている両親を羨ましそうに見つめながら、ホムラは起きられなかった自分を心の中で盛大に棚に上げる。食卓にある自分の食パンをひったくって咥える。牛乳は流石に走りながらじゃあ飲めない。パンを咀嚼する合間に母へ「帰ったら飲む!」と叫んで、階段に投げ置いたランドセルを担ぎ上げた。ホムラは慌ただしく玄関へと向かう。靴を爪先にひっかけて、踵を押し込む。振り返れば、いつの間にか父と母がリビングから顔を出し、こちらを見ていた。ホムラは二人を見て、元気よく手を挙げる。


「いっへひまふ!」


「気を付けていってらっしゃ~い」


「車には十分に気を付けるんだよー」


最後まで呑気な両親の見送りをパンを咥えながら受けたホムラは、靴の踵を無理矢理押し込んで玄関を飛び出した。




――ホムラは遅刻の常習犯だった。


朝が苦手……というより、起きることが好きじゃないホムラは、とにかく走りながらパンを口の中へと押し込んでいく。育ち盛りでもあるホムラにとって朝ごはんを食べられないのは、地獄だと言っても過言ではない。ただでさえ苦手な勉強をしなければならないのに。


(でもパンよりおにぎりの方が好きなんだよなぁ)


ホムラは程よく焼けた、香ばしいパンを噛み締めながら、頭の中で白いお米を思い浮かべる。ホムラはどちらかといえばお米の方が好きだった。しかし、両親が洋食好きなため、朝はパンが出てくることが多い。もちろん、パンも好きであるホムラは文句はないものの、時折でいいからおにぎりが出ないかと最近は思うようになっていた。




ホムラはそんなことを考えているなんて微塵も思わせないような真剣な顔で、持ち前の足の速さで通学路を走り抜けていく。時折すれ違う人たちに元気よく挨拶をしては、話始めようとするおじいちゃんおばあちゃんに申し訳なさそうに断りを入れていく。その姿を彼等は朗らかに笑い、見送ってくれる。ホムラは声援を受けつつ、学校まで走り続けた。時間は七時五十四分。もう少しで校門が閉まってしまう。そう危惧したところで、丁度頭に描いていた校門が少し先に見えてきた。


(ラッキー!)


先生によっては早く閉まってしまうこともある門が、今日はまだ開いている。ホムラはそれを目ざとく見つけると、心の中でガッツポーズをとった。これは確実に間に合うだろう。――しかし、そう思ったのも束の間だった。


予鈴のチャイムが鳴り響き、誰かが門を閉めようと手を伸ばしているのが見えた。


「やばっ!」


ホムラは呟くと走る速度を上げた。


(間に合えっ!)


心の中で念じながら、閉まり始める校門の隙間を目掛けて足を進める。ホムラの存在に気が付いた先生が振り返り、薄くなった髪を風に靡かせながら驚く。


「ちょっと待ってぇええー!!」


「うおわっ!?」


薄い禿げ頭――否、教頭先生の脇をすり抜け、門の隙間に滑り込む。門を超えたのを確認したホムラはホッと胸を撫で下ろした。あと数十秒遅かったら完全に締め出されていた。


「コラァ! 危ないだろう!」


「すみませーん!」


教頭先生の怒号も他所に、ホムラは足を止めることなくそのまま昇降口へと向かう。自分の学年とクラスに割り当てられた下駄箱の前で靴を投げるように脱ぎ、上履きをひったくる。上履きに爪先を引っかけ、踵を踏んだまま階段を二段飛ばしで駆け上がり、ホムラは自分のクラスへ一直線。


(三年一組……三年一組……!)


行き慣れた教室の札を階段の途中から確認していたホムラは、白い扉に向こうから聞こえた「きりーつ」という声に、教室の扉を勢いよく開け放った。ガシャァンと派手に響く音に、クラスメイト達が驚いた顔で振り返る。しかし、仁王立ちをするホムラを見て『ああ、なんだ』と一瞬で元に戻った。


そんなことを知らないホムラは、時計を見る。本鈴が鳴る、十秒前……つまり。


「セーフ!!」


「全然間に合ってないわよ、ホムラさん。それと、廊下は走らない」


「あいたっ」


まるで漫画のように滑り込んできたホムラの頭へ、担任の出席簿が直撃する。例え薄いとは言えども、存外硬い素材で出来ている凶器は思っている以上に痛かった。


(何も叩かなくたっていいのにぃ……)


くすくすと笑うクラスメイト達を横目に、ホムラは自身で頭を撫でながら口を尖らせる。もちろん、遅刻しそうになった自分が悪いという思考は、ホムラの頭の中には存在していない。


「それと。上履きはきちんと履いて、廊下は走らないように」


「うっ」


「お返事は?」


「……はーい」


自分の席へと向かうホムラの背中に、担任の先生の注意が飛ぶ。席にランドセルを下ろして、まずは上履きをしっかりと履く。その上でほとんど中身のないランドセルの中から必要なものを取り出し、後ろのロッカーにランドセルをしまいに行く。ほぼ毎日のように行っている一連の動きを見送った先生は、やっと席に着いたホムラを見て安心したように表情を緩めた。そして、持っていた教科書を開き、チョークを取り出す。


「それでは授業を始めます」




(今日の給食はなんだろうなぁ~)


凛とした担任の声も虚しく、ホムラの思考は既に早速明後日の方へと向けられていた。


(今日も朝はパンだったし、出来ればお米がいいなあ。あ、あとお肉食べたい!)


ホムラはぼんやりと黒板に書かれる文字を見つめながら、数時間後の給食へ思いを馳せる。ユラユラと足を揺らしながら、鉛筆を手のひらの上で弄ぶ。元々座っているだけというのが苦手なホムラにとって、ただ話を聞いて書き写しているだけの科目の授業は最早『寝てくれ』と言っているようなものだと思っている。しかも今は国語の授業ということもあり、担任の声が子守歌のように静かに聞こえてくるのも、ホムラの怠惰を助長させる要因になっていた。


「ふぁ……っ」


大きな欠伸を噛み殺しつつ、ホムラは徐々に込み上げてくる眠気と静かな戦いを繰り広げていた。しかし、抵抗の意思が薄いホムラは込み上げる眠気に、素直に自身の腕で即席の枕を作った。ボフンと顔を埋めると、込み上げる睡魔はより大きくなっていく。


(先生のこえ、ねむくなるんだよねぇ……)


本人が聞いたらショックで泣いてしまいそうなことを考えつつ、ホムラは静かに睡魔に身を任せた。その頭を担任が仕方がなさそうに見つめていたことは、きっとホムラ以外が見ていたことだろう。




――結局、午前中の授業をほとんど寝て過ごしたホムラは、お腹が空いたのを感じて目を覚ました。


時計を見れば、時刻は十一時四十五分。そろそろ昼食になる頃だ。ホムラが起きた上、ソワソワとしだしたのをクラスメイトも先生も感じて、数人の口元に笑みが浮かぶ。そんなことを知らないホムラは、手持ち無沙汰だったのだろう。徐ろに黒板に書かれた文字をノートに雑に書き写しながら、チラチラと時計を見つめる。十一時五十分。五十五分。五十六……七……八……。


(あと、一分)


カチ、カチ、と進んでいく時計を無中で見つめる。熱心な視線は授業中には滅多に見られないもので、少しでもそれを自分の方へと向けてくれないかと担任は切に願った。


ホムラが「あと十秒……」と小さく呟き、きっかり十秒後。カチッと時計の黒い短針と長針が重なった。同時に外から昼を知らせるチャイムが鳴り出し、ガタンッと派手な音が響く。ホムラの椅子が思い切り後ろに下がった音だ。


「おひるだっ!」


「ホムラさん。お腹すいたのは分かったから、まずは授業をしっかり受けましょうね」


「あいたっ!」


チャイムと同時に立ち上がったホムラの頭に、再び衝撃が走る。今度は担任の持つ社会の教科書だった。


痛みにホムラが呻く中、耐えきれないとばかりにクラスに笑いが響いた。いつだってどこだって元気なホムラは、一年生の頃から変わらない。これで成績が悪くないのだから、不思議なものだと誰もが口を揃える。それどころか彼女が自分たちの中で一番だなんて……正直頑張っているのが馬鹿らしく感じてくるところ。


そんなクラスメイト達の気持ちも他所に、ホムラは恨みがましそうに教科書と時計を交互に睨みつける。


(せっかくお昼の時間なのにぃ……)


残りの十五分の授業時間を不貞腐れ、開いた教科書に頬をつけながら過ごしたホムラは、学校のチャイムの音に今度こそと勢いよく顔を上げる。紛れもない、お昼の時間だ。


日直の号令で授業が終わりを告げたのを聞いて、ホムラはほとんど使っていないノートと教科書を机の中へと押し込むと、隣の子と向かい合わせになるように席の形を変える。その時の素早さと言ったら、見ていた担任が毎度呆れてしまうほど。その食への情熱を、僅かでいいから勉強に向けて欲しいところだが、それが無理なのも一年生の時に嫌というほど学んでいた。




配膳係の生徒から順番に給食の弁当箱を受け取り、あちらこちらで「いただきます!」と手を合わせる声が聞こえた。ホムラも漏れなく弁当を手に入れると、両手を合わせた。小さなお腹は既に空腹でくるくると音を立てている。


「いただきます!」


クラスに響くほどの声で挨拶をしたホムラは、早速とお弁当の中身を口の中へ入れた。シャキシャキとしたサラダが美味しい。お弁当箱と一緒にもらったスープも、具だくさんで朝食をしっかりと食べ損ねたホムラの胃に優しく落ちていく。


「ん~! おいひぃ~!」


「ふふっ。ホムラちゃん、ご飯は逃げないからもうちょっとゆっくり食べなよー」


「だってぇ、お腹すいたんだもん~」


「もう、喉詰まらせても知らないよー?」


苦笑いした友人──ともちゃんの指が、ホムラの頬に付いた米粒を取る。それをホムラは当然のように受け取りつつ、もぐもぐとご飯を噛み締めていく。まるで姉妹のような二人を、他のクラスメイトが朗らかに見守る。ホムラがここまで自由に出来ているのも、クラスメイト達が幸いにもこの状況を受けて入れているからだろう。ホムラ自身、誰にでも分け隔てなく接する性格でもあるので、このクラスは男女ともに非常に仲がいい。


クラスの至る所で数々の会話が飛び交う中、ふとホムラの耳が興味深い話を捉えた。


「ねえ、知ってる? 中学生にすごい美人さんがいるって話!」


「あ、知ってる知ってる! この前見かけたけど、二人とも本当にかわいいよね!」


「お顔ちっちゃいし、アイドルみたいだよね!」


「わかる!」


とても楽し気に笑い合う二人の友人に、ホムラがゆっくりと振り返る。


話題を口にしているのは、ホムラとよく一緒に遊んでいる二人の女児――あっちゃんとゆうちゃんだった。 “中学生”という、自分にはあまり馴染みのない言葉に続く、“かわいい”と“びじん”の二つの言葉は、オシャレに敏感な年頃であるホムラの興味を惹くには十分だった。


(ウチも混ざりたい!)


ホムラは早々に空になったお弁当箱の蓋を閉めると、ガタリと席を立つ。声を上げるともちゃんを他所に、ホムラは二人の友人の近くへと向かうと席の近くでしゃがみ込んだ。向かい合う二人の机に手を乗せ、その上に顎を乗せる。突然近くに来たホムラの姿に、二人はびくりと肩を震わせ、目を見開いた。


「ねえねえ、二人とも何の話?」


「ホムラちゃん、もう食べ終わったの?」


「うん」


「相変わらず食べるの早いねー」


あっちゃんとゆうちゃんは、優しく微笑むとホムラの頭を撫出てくる。ともちゃんといい、二人といい。何かあればホムラを撫でることは、どうやら共通事項だったらしい。ホムラが嬉しそうに顔を緩めるのを見て、二人も嬉しそうに微笑む。


「それで、何の話してたのー? 可愛いとか聞こえたけど、もしかしてウチのこと?」


「あはは、ちがうよー! ホムラちゃんは確かにかわいいけど、さっきのは近くの中学生のお話!」


「そうそう」


ホムラの問いかけに、あっちゃんは笑い声を上げると眼鏡を指先でくいっと上げた。彼女のボブカットされた髪が風に揺られる。ホムラはやはり聞き馴染みのない“中学生”の話に、首を傾げる。




ホムラの住む蓮華市には第一から第四小学校があり、市の中央には蓮華中学校がある。


中学校までの距離はホムラの通っている第二小学校が一番近く、通学路でも中学生とよくすれ違うことも少なくない。自分たちよりもお姉さんである彼女たちを見て、憧れを抱くことはホムラ達小学生にとってはよくある事なのだが――。


「ウチ、中学生と会わないからよくわかんない」


「……ホムラちゃん、毎日遅刻寸前だもんね」


「あー、そういえばそうだったね」


朝は遅刻寸前。夕方は早く遊びたいがために走って帰ることも多いホムラは、中学生とすれ違うことがほとんどと言っていいほど無かった。ホムラは風に舞うセーラー服の裾をうっすらと思い出したものの、やはり二人の話す“中学生”に心当たりを付けることは出来なかった。しかし、こうも話に入れないのは……少し、悔しい。珍しく眉を寄せて難しい顔で首を傾げていれば、二人は顔を見合わせた。


「ねえ、ホムラちゃんは知ってる? 二人のお姫さまのお話!」


「お姫さま?」


「みんなかわいいって言うから、“お姫さま”って呼ばれるようになったんだよ」


「へぇー」


長い黒髪をお下げにしているゆうちゃんの言葉に、ホムラは感嘆の声を上げつつも、「うーん」と首を捻る。……やはり、どれだけ考えてもホムラの知っている人に“お姫さま”なんて言われる人は、中々思い当たらない。


もしすれ違っていたとしても、恐らく走っているホムラの目には黒い制服くらいしか映っていない可能性の方が高い。顔をまじまじと見つめる機会なんて無いに等しいわけだ。──つまり、噂を聞く機会も、その人物を見る機会も。ホムラは同級生に比べて圧倒的に少なかった。


「うーん……わかんないかも」


「うっそー! 有名な話なのに!」


「だってわかんないんだもんー!」


「まあまあ、二人とも」


わからないと騒ぐホムラに、ゆうちゃんは声を上げ、あっちゃんが窘める。休み時間も含めた時間ではあるものの、あまり大きな声で話していると先生に注意されてしまう。二人を見兼ねたあっちゃんは、ふと思い出したように声を上げた。


「そういえば、あの二人ってホムラちゃんと同じ苗字じゃなかった?」


「そうなの?」


あっちゃんの言葉に、ゆうちゃんが首を傾げる。どうやらその情報はあっちゃんしか持っていなかったらしい。


(同じ苗字ってことは、ウチのしってる人かも)


まさか自分と同じ苗字を持つ人が話題の中心だったとは、思ってもいなかった。ホムラは一気に自分の知っている領域に近づいたのを感じて、可愛らしいかんばせを輝かせる。


「ホムラちゃん、中学生の親戚とかいないの?」


「えー、何人かいるけど」


「ほんと!?」


「たぶんその中の一人だよ!」


ワーワーと騒ぎ始める二人に、ホムラは苦笑いを零す。……なんだか、有名人でも知り合いにいる気分だ。


(でもみんな美人だしなぁ……)


ホムラが思い出したのは、数ヶ月前のお正月のこと。親戚が集まると言えばその時が一番多い。もちろん、中学生である姉たちを一斉に思い出すこともできた。……しかし、全員美人と言っていい人達ばかりで、誰が話題の中心の人なのか、良くわからない。


隣の地区に住んでいるお姉ちゃんも、少し遠い所にいるお姉ちゃんも、中学受験をしたお兄ちゃんだって美人といえば美人である。そもそも、紀眞家の人間は総じて美形であることを、ホムラは知らなかった。


次々に思い出される人達全員に“美人”、“かっこいい”、“かわいい”とレッテルを貼って頭の中で仕分ける。だが、紀眞家はこの辺りでも一番大きな家であるため、親戚の数は底知れない。ホムラは絞り切れない人数になって来たことに気づき、頭を抱えた。


「うーん……多すぎる……!」


「あははは、ホムラちゃんの親戚は多そうだよねえ」


「確かに!」


ケラケラと笑う二人の声に、ホムラは苦笑いを零した。


(せめて名前さえ分かればいいんだけど……)


「ねえ、二人とも。その人たちの名前とかわかる?」


「「えっ?」」


「名前がわかれば、誰かわかるかも!」


ホムラの言葉に、今度は二人が揃って首を傾げた。顔を見合わせ、うーんと唸り出す。


「うーん……何だったっけ? あっちゃんわかる?」


「えっ。……わかんないかも」


「えぇ~」


顔を合わせて首を振る二人に、ホムラはがっくりと肩を落とした。……これでは”話題の中学生“の正体がわからないままになってしまう。それじゃあ、二人の話に入ることができない。それはちょっと、寂しい。


ホムラは二人を恨みがましそうにじっと見つめた。むぅっと唇を尖らせるホムラは一見拗ねているようにも見えて、あっちゃんとゆうちゃんは顔を見合わせる。ふわっと笑う二人の顔は、末っ子を微笑ましく見つめるお姉ちゃん達のようで。


「ホムラちゃんなら特徴とかで分かるかもね」


「え?」


「ほら、ホムラちゃん家って特徴的な髪色の人とか多いじゃん? ホムラちゃんだって私たちみたいな黒髪じゃなくて、黄色い髪だし」


「……たしかに!」


ゆうちゃんの言葉に、ホムラはハッとしたように顔を上げた。いいことを聞いた、とでも言いたげなホムラに二人は安心したように笑みを浮かべる。やっぱり彼女は笑っていた方がいい。


二人は顔を合わせるとこくりと頷いた。


「えーっと、確か一人はピンク色の髪で、片方にお団子でまとめてたかなぁ。いつも笑ってて、凄く優しそうな人だったよ!」


「ピンクの髪……やさしそう……」


「もう一人の子は水色の髪で、腰くらいまで長いよね! クールって感じで、すっごく美人さんだったよ!」


「水色の髪……クール……」


興奮したように話すあっちゃんとゆうちゃんの言葉を、ホムラはオウムのように繰り返す。ホムラの頭の中には、すぐに二人分の顔が思い浮かんだ。……まあ、どちらかと言えば、ホムラの持つイメージは逆だけれど。きっと間違いじゃないはずだ。


「あー! わかった!」


「「えっ、ほんと!?」」


「うん!」


ホムラが元気に頷く。二人ともまさかそんな早くわかるなんて思ってもいなかったのか、少し驚いたように目を見開いている。そんな二人を見て立ち上がり、得意げに胸を張ったホムラはふふんと鼻を鳴らした。


「ふっふっふ……ズバリ! ピンク色の髪の人の方がヤワラ姉で、水色の髪の方がチカラ姉だと思う!」


「ヤワラ姉? チカラ姉?」


「そう!」


繰り返し聞いてきたゆうちゃんに、ホムラは大きく頷いた。


「二人とも仲が良くってね、いつも一緒にいるんだぁ」


「へー!」


「ホムラちゃんも、二人と仲良いの?」


「うん! 小さい頃からずっとよく遊んでくれたよー! この前も遊んでくれた!」


「えー! いいなぁ!」


ホムラはあっちゃんの羨ましがる声を聞きつつ、数日前のことを思い出す。


数日前、たまたま本家に旅行のお土産を渡しに行くというミッションを熟していたところ、丁度二人と鉢合わせたのだ。なんでも、“けんきゅう”とやらに行き詰っていたらしい二人は「気分転換に一緒にお出かけしない?」とホムラを誘ってくれたのだ。日没までの短い間だったかが、街を歩けて嬉しかったのを覚えている。


「一緒にお団子を食べたりぃ、お洋服見たりしたよ!」


「そうなの?!」


「うらやましい~!」


声を上げる二人に、ホムラはなんだか鼻が高い気持ちになる。


――元来、褒められるのも目立つのも大好きなホムラ。二人の反応に優越感が押し寄せてくるのを感じていれば、不意にチャイムが響く。どうやらお昼の時間が終わってしまったらしい。慌てて自分の席にお弁当箱を取りに行ったホムラを追いかけるように二人が来て、ともちゃんを含め、いつものメンバーが揃った。この後は昼休憩だ。


今日は何で遊ぼうかと話をしていれば、ふとゆうちゃんが思い出したように声を上げる。


「そういえばさ、隣のクラスのカツラちゃんって子も、ホムラちゃんと同じ苗字だったよね? あの子も親戚?」


「えっ、あー……うん。そんな感じ」


「へぇー。従姉妹?」


「うん」


「いいなぁ。あたし一人っ子だし、親戚みんな年上だからうらやましいよ~」


そう言って笑うゆうちゃんの言葉に、ホムラはさっきとは違い、どこかぎこちなく笑みを浮かべた。……昂っていた気持ちが、徐々に萎んでいくのを感じる。


(カツラ……)




――紀眞カツラ。隣のクラスの、女の子……の、はず。


(でも、女の子って言うと怒るんだよね……)


どうしてか“女の子”であることを嫌う彼女は、残念なことにホムラにとっては唯一同じ歳で、同じ地区に住む子だった。それこそ、昔はよく遊んでいたし、顔を合わせることもあった。――しかし、小学校に上がると同時に、話すことも会うこともほとんどなくなってしまっていた。




そもそも、昔は遊んでいたといってもその実、ホムラがカツラを振り回していただけともいえる。家で本を読んでいたいカツラと、外で遊びたいホムラ。可愛いものを欲しがるホムラと、カッコイイものが好きなカツラ。二人の好みが噛み合うことは、小学生に上がるまで一度としてなかった。


(あの子、ちょっと苦手なんだよね……)


だからだろうか。年を追う事に、ホムラの中にはカツラへのぼんやりとした苦手意識が芽生えていた。嫌いとは違う感覚に、ホムラは三年生になった今でも戸惑っている。


「でもホムラちゃんがカツラちゃんと話してるところ、あんまり見ないかも」


「たしかに!」


「仲悪いの?」


「……そんなことないよ!」


ホムラは三人の友人の問いかけにからりと笑うと「それより、この前のテレビ見た?」とさりげなく話題を切り替えた。ホムラの差し出した話題は三人にも共通しているもので、そこからはもういつも通りだった。あの俳優さんがかっこよかったとか、あのアイドルの新曲が可愛かったとか。自分好みの話題に、ホムラはだんだんと気分が上昇していくのを感じる。……カツラとは一生かけても出来ない話題かもしれないと、頭の隅でホムラは思う。


(仲が悪いわけじゃない、はずなんだけど……)


ホムラは頭の隅でカツラの事を思い出す。いつだったか、彼女をひどく怒らせてしまったことがあった。原因は……些細な喧嘩だったと思う。ホムラ自身も頭に血が上っていたこともあって、何をどう言ったのかも覚えていない。いつもは静かで頷くだけのカツラが声を荒げたのは、その時が初めてだった。


『どうして俺は俺を選べないんだッ!!』


ホムラはそう叫んだカツラの言葉を、小学生になった今でも上手く理解出来ていなかった。


――彼女はなんであの時、あんなことを言っていたのだろう。


泣きそうに叫ぶカツラを思い出し、視線を下げる。あんなに悲痛な叫びを、ホムラは後にも先にも聞いたことがなかった。……同時に、あんなことを言えるカツラが、ひどく大人びたように見えた。


廊下を歩いていれば、ふと視界の端に見える姿に、ホムラは無意識に視線を向けた。友人も誰もいない。それでも、たった一人で颯爽と廊下を歩く姿に、ホムラは少しの間目を離すことができなかった。




いつも通りの一日を終えたホムラは、部屋でゴロゴロしていた。既に学校から出された宿題は終わっており、ホムラは手持ち無沙汰になっていた。漫画本を寝転がりながら読みつつ、香ってくる夕飯の美味しそうな匂いに息を大きく吸い込む。


(今日の夕飯は何だろう~?)


ふふふーん、と鼻歌を歌いながら足をブラブラと揺らしていれば、母の呼ぶ声が聞こえる。ホムラは跳ね上がるように起き上がると、るんるん気分で階段を下りていく。廊下に降り立てば、夕飯のいい匂いが大きくなり、ホムラの頬が緩む。リビングの扉を開けば、テーブルの上には既にたくさんの夕食が準備されていた。


「わあー! 美味しそ~!」


「あらあら。まずは手を洗ってきなさいな」


「はーい」


ホムラの言葉に嬉しそうに母が嬉しそうに笑う。母の言葉にホムラは一度リビングを後にし、洗面台へと向かった。洗面台への扉を開ければ、帰って来たばかりなのか、スーツを片腕に引っ掛けたままの父が先に手を洗っていた。ホムラの顔が花咲く。


「お父さん、おかえりなさい!」


「ただいま、ホムラ。夕食は何だった?」


「まだわかんない! でもおいしそうだったよ!」


「そうかそうか」


朗らかに笑う父の脇に立って、ホムラは自分の順番が来るのを待つ。それを父は微笑まし気に見つめていた。


父が蛇口から手を離したのを見て、ホムラは水流の中へ手を突っ込んだ。じゃぶじゃぶと手を洗い、父に差し出されたタオルで拭う。他愛もない話をしながら父と並び立ってリビングへと戻れば、母が笑顔で出迎えてくれた。丁度食事の準備が終わったらしい。母がエプロンを外すのを横目に、ホムラは椅子に座る。ホカホカのご飯が視界を彩り、ホムラはぐぅとお腹を鳴らす。


「それじゃあ、食べましょうか」


「そうだな」


「うん!」


「「「いただきます!」」」


家族三人、揃って両手を合わせる。その直後、それぞれの皿にそれぞれの箸が伸ばされた。


今日のメニューはホカホカの肉じゃがと小鉢に入ったほうれん草のお浸し、温かいお味噌汁とつやのある白米だ。ホムラはまず肉じゃがのじゃがいもを箸で掬うと、そのままパクリと口の中へと押し込む。自分の口よりも少し大きいじゃがいもは歯を立てればほろりと崩れ、沁み込んだ出汁がじゃがいも本来の旨さと一緒に、ホムラの舌の上に広がっていく。


(ん~! おいしい~!)


次いで白米を口に入れ、お味噌汁を啜る。どれもこれも、母の優しい味がしてホムラは満足だった。その様子を楽しそうに見ていた母は、ふと思い出したように声を上げた。


「あっ。そういえば今週末に本家に行くから、二人とも予定空けておいてね~」


「んえっ!?」


突然の申し出にホムラの手が止まり、驚きの声を上げる。その反応にいち早く視線を向けたのは、母だった。


ピシリと空気が張りつめる音がする。


「どうかした?」


静かに問いかけられた声に、ホムラは慌ててブンブンと首を振る。


「う、ううん! なんでも……」


「そっかぁ。それならよかったわ~」


ふわりと微笑む母に、ホムラは笑みを浮かべながらお水を口にした。……頬が少しばかり引き攣ってしまったのは、気のせいだろうか。


母は既にいつも通りのゆったりとした雰囲気に戻っており、ホムラは安堵に胸を撫で下ろした。……もう何度も経験していることなのに、一向に慣れない。


(さっき、ちょっと怖かった……)


基本的に穏やかな母だが、こと本家の事になるとまるで人が変わったようになる。ホムラはそれを去年、身をもって知ったばかりであった。


(よかった。遊びの予定入れてなくて)


以前、今日のように突然の呼び出しを受けた頃、ホムラは既に友達との遊びの予定を入れてしまっていたのだ。ホムラは素直に『遊びの予定があるからいけない』と言ったところ――母の様子が一変。いつもは微笑んでいる表情が能面のように削ぎ落され、瞬きすらしない目がじぃっとホムラを見つめていた。固まったホムラに対して、母は捲し立てる。「どうして」「本家様のいうことは絶対なのよ」「本家様よりも大切なことがあると思っているの?」と。まるで強迫観念にでも駆られているのではないかと思うほどの勢いで、淡々と、息を吐く暇もなく詰められたのを今でも覚えている。それがホムラにとってはトラウマにも近いものになっていた。




――後に聞いた話だが、父曰く、ホムラの母は所謂“箱入り娘”だったそうだ。


その影響か、実家の人間がやることは絶対だと家を出た今でも思っているし、実家の人間の言うことには必ずと言っていいほど従って来たらしい。もちろん、難しいことは難しいということも会ったそうだが、父が知っている中ではそれも一、二回程度。


「お父さんは、怖くないの?」


「怖くないよ」


「なんで?」


「母さんは、家族が大好きだから」


そう言って微笑む父の言葉に、ホムラはなんと言葉を返したのだったか。それはもうホムラの記憶にはうろ覚えになってしまっているが、ホムラ自身今更母を嫌いになることもできない。もちろん本家の人間を嫌ってもいないので、“怖い”という感情はいつの間にか薄れていた。……とはいえ、本家の話をすると瞬時に思い出してしまうことに、変わりはないのだけれど。


「……あの子も来るの?」


ホムラは少し緊張しつつ、母に問いかけた。本家に行くことに反対はしないが、本家に行ったら会ってしまうかもしれない。会う確立が高くなるかもしれない。……そんな思いを、ホムラは自分の心に押し込めて置くことができなかった。


「“あの子”?」


「ウチと、同じ学校の……」


「ああ~、カツラちゃんのこと。もちろん、来るみたいよ~」


母が頷くと同時に、ホムラは肩を落とした。


(やっぱり、いるよねぇ……)


ホムラは昼間の事を思い出し、内心でため息を吐いた。……いくら本家の人が『仲良くしなさい』と言っていたとしても、こればかりは一人の力じゃ出来ない。素直にあの時の事を謝ればいいのだろうが、あの時の何がいけなかったのか。何をしてしまったことを謝ればいいのか。ホムラは、未だにわかっていなかった。


「……嫌いなわけじゃ、ないんだけどなぁ」


「何か言ったかい? ホムラ」


「ううん、何でもない」


父の問いかけにホムラは首を横に振ると、再び食事に手を付けた。……何となく気が重いまま終えた食事は、味も曖昧になってしまい、ホムラは空になるお皿に小さく「もったない」と呟いた。……せっかく美味しい夕食だったのに、それを堪能できなかったなんて。




 


その日から、ホムラは出来る限り本家に行くことを考えないようにして過ごしていた。せっかくの美味しい食事を不意にしてしまう悲しさより、日々のさりげないことを楽しむことを優先したのだ。


「ふふふーん」


ホムラはその日、早めに終わった学校から一人通学路を通り、家へと向かっていた。まだ日の傾いていない青い空。白い雲。街に響く、お昼のチャイム音。それらを小さな体の全てで感じながら、ホムラは上機嫌に足を進める。先生の職員会議があると午前中で終わった学校は短かくて少し寂しかったものの、この後のたくさんの自由な時間を思い出しては、心が高揚していく。“やすみ”という言葉の、なんと甘美なことか。


「宿題やったらみんなのところに遊びにいこーっと!」


本当はみんなと一緒に帰りたいのだが、残念ながらホムラだけ別方向なのだ。仕方がない。「あっちゃんとー、ゆうちゃんとー、ともちゃんは宿題終わるかなぁ」なんて一人でも大きな声を出しながら歩くホムラ。その姿にすれ違う人達は微笑ましそうな視線を向けている。しかし、そんなことには目もくれず、ホムラは今すぐスキップでもしそうになりながら、足早に家へと向かっていた。ホムラが上機嫌にくるりと周り、走り出そうと足を踏み出した――その時だった。


「わっ!」


「きゃっ!?」


ドンッと重い衝撃が体を走り、尻もちをついてしまう。出来立てのコンクリートの上に着いたお尻を擦っていれば、ふと、目の前に手が差し出された。顔を上げれば、そこにいたのは見覚えのある女子中学生――ヤワラだった。


「すみません! 大丈夫……って、ホムラちゃん?」


「ヤワラ姉!」


痛みに歪んでいたホムラの顔が、一瞬にして華やぐ。差し出された手を掴み、よいしょとヤワラに起こしてもらったホムラは土ぼこりを払うと上機嫌にヤワラを見上げた。


「久しぶりだね、ホムラちゃん。それとごめんなさい、ぶつかっちゃって……怪我とかなかった?」


「ううん! ウチも前見てなかったし……ごめんなさい」


「ううん。私は大丈夫だよ」


「ホムラちゃんに怪我がなくてよかった」と、ふわりと笑みを浮かべるヤワラに、ホムラは小さく息を吐く。……ヤワラの優しい笑顔は、見た人を安心させる力があると、ホムラは本気で思っている。


(ヤワラ姉、今日もやさしいなぁ~)


自分も将来、こんな優しい人になりたい。そう思うホムラは、親戚の中でも特にヤワラの事を慕っていた。と言っても彼女は出会った当初からいつも忙しくしており、会うことができるのは本家に行ったとき。それも、“たまに”だけ。だからこうして道端で会うことができたのは、ホムラにとって宝くじが当たったかのような嬉しさを齎していた。


「ヤワラ姉はこんなところで何してるの?」


「うん? ああ、お昼ご飯を買いに来たの」


「おひるごはん?」


「うん。私とチカラちゃんの二人分」


ヤワラはそう言うと左手でピースを作った。遊ぶように指先を軽く曲げては伸ばしてを繰り返す彼女に、ホムラは目を輝かせる。ホムラの通う学校内では“美人”と言われている二人。その二人が、お昼ご飯に何を食べるのか。気にならない? ――否、気になるに決まっている!


「ウチもついて行っていい!?」


「えっ?」


「二人が何食べるのか、知りたい!」


ホムラは反射的にそう口にすると、驚いたように目を見開くヤワラの袖を引いた。「だめ?」と彼女を見上げて首を傾げれば、ヤワラは少し迷ったように宙を見つめる。しばらくして「……まあ、いっか」と呟いた彼女は、ゆっくりと頷いた。


「いいよ。一緒に行こっか」


「ほんとう!?」


ホムラの顔が瞬く間に輝いていく。それを見たヤワラも、一つ頷いて微笑んだ。


(やった! 二人の“お昼ちょーさ”ができる!)


これがもし成功に終われば、きっと明日の学校ではモテモテ間違いなしだろう。あっちゃんやゆうちゃんにだって自慢できるし、美味しいお店だったらともちゃんと一緒に来れるかもしれない!


(探偵ホムラ、たんじょーう!)


ホムラは昨日見たドラマの中に出てきた探偵役――チェック柄の服にサングラスをかけた装いを頭の中に思い浮かべると、一人小さく笑みを浮かべた。ヤワラが不思議そうに見ているが、ホムラの視界には入らない。


「ちょーさ開始ぃ~!」


「えっ、調査?」


「ほらほら! 早く行こっ、ヤワラ姉!」


グイグイとヤワラの腕を引っ張って、商店街のある方へと向かう。商店街には基本何でもあると、母が言っていた。ホムラは咎められないことをいいことに、ヤワラの手をグイグイと引っ張っていく。しかし、中学生であるヤワラが小学生であるホムラの歩幅に負けるわけがない。あっという間に追いついたヤワラがホムラの手を握り返し、隣に並び歩く。


「おにぎりっ、やきいもっ、あんぱーんっ!」


「ふふふっ。そんなに買えないよー?」


「いーの! これはちょーさだから!」


ホムラの言葉はヤワラにはわからなかったけれど、ヤワラは特に気にすることもなく、手は振られるがまま。足はホムラの赴くままにさせている。もちろん、道を外れそうになれば「こっちだよ」と案内してくれるが、それ以外はホムラの好きに探検させていた。


ホムラの大好きなおにぎり屋さんを超え、更にホムラの大好きなお団子屋さんを超える。そしてホムラの大好きな魚屋さんを超え――ヤワラが足を止めたのは、これまたホムラの大好きなあんこ屋さんだった。


「わあ~! おいしそう~!」


目の前に並べられる、あんぱんの数々。どれもお昼の売り時に合わせて焼き上げた物なのか、香ばしい匂いが店内に充満していた。まさかこんなところであんぱんが売られているとは。全然知らなかった。


目を輝かせるホムラを横目に、ヤワラがカウンターの中へと声をかける。


「おばちゃーん」


「はいはい。あら、あんたまた来てくれたのかい?」


「はい! ここのあんぱん、凄く美味しいので」


「そうかいそうかい」


嬉しそうに笑うお店のおばあちゃんとヤワラ。両者の顔を見比べていたホムラは、どうやら二人が頻繁に顔を合わせる中であることを何となく悟る。「おいものあんぱん三つください」と告げたヤワラに、お店のおばあちゃんは快く頷くと、あんぱんをトングで掴んで袋に詰め始めた。どうやらあんぱんにも種類があるようで。ホムラの目線より少し上のカウンターの机部分に『餡』『白餡』『芋餡』の三種類が書かれていた。まだ小学三年生であるホムラには少し難しい漢字だったが、お店のおばあちゃんが一番右から取ったのを見て、それが“お芋のあんぱん”であることは分かった。


「はい。芋餡三つ」


「ありがとうございます」


「それと、お嬢さんにはこれを」


「えっ?」


すっと差し出されたそれに、ホムラは目を見開く。カウンターの上に広がるパンたちと同じ包装紙。袋には入っていないものの、紙の袋が香ばしいパンを包み込んでいた。


「い、いいんですか?」


「おや、いらなかったかい?」


「う、ううん! いる! いります! ありがとうございます!」


「ふふっ。そんなに慌てなくても、ちゃんとあげるさ」


おばあちゃんの手から大事に大事にパンを受け取ったホムラは、その温かさに目を輝かせた。ずっしりとした重みに、中にどれだけのあんこが詰められているのかと考えると、お昼前のお腹がきゅうっと音を立てる。そういえばまだお昼を食べていなかった。


溢れ出る唾液をこくりと飲み込んで、その場ではむりとパンに大きくかぶりつく。小麦の香りが口の中に広がり、次いであんこの甘みが舌の上に広がっていく。


「う~ん! おいしい~!!」


「ふふっ、それはよかったよ。また今度買いに来てちょうだい。サービスするから」


「うん! 絶対に来る! ありがとう、おばあちゃん!」


「いいのよいいのよ」


優しく笑うおばあちゃんに、ホムラは大きく手を振るとヤワラと共にお店を後にした。出来立てのあんぱんにかぶりついては咀嚼し、再びかぶりつく。無心に食べていれば、隣からくすくすと笑う声が聞こえてきた。ホムラが不思議に思って顔を上げれば、笑っていたのはヤワラだったようで。


「ふふっ、ホムラちゃんは相変わらず食べるのが好きだね」


「うん! だって食べる時ってすっごく幸せな気持ちになるから!」


「確かに。人間食べないとやっていけないですもんね」


くすくすと笑ったヤワラは、ホムラの頭に優しく手を乗せる。「ホムラちゃんはいい子」と頭を撫でられ、ホムラは少し――否、とても嬉しかった。


「ヤワラ姉は食べないの?」


「んー? うん。チカラちゃんと一緒に食べようと思って」


「そうなんだ」


(あれ、でもさっき三つ買ってたような……)


――はて。チカラ姉以外にも人がいるんだろうか。


「そういえば、チカラ姉は何してるの? またけんきゅー?」


ふと、ホムラが思いついたことを口にすれば、ヤワラは少し驚いたように目を開いた。しかしそれも一瞬の事で。気が付けばヤワラの表情はいつものような朗らかなものに戻っており、問いかけに答える言葉を考えるよう少しだけ宙を見つめていた。


「うーん……そうだね。お陰でお昼も食べずに熱中しちゃって」


「へぇ! どんなことしてるの?」


「そうですねー……物を作ったり、繊維の強度を確かめたり。あと……放射線関係のこととか、いろいろと勉強しているみたい」


「“ほうしゃせん”?」


「ふふっ、わからないよね。私もよくわからないし……でも、簡単に言えば、“ビーム”で悪い人をやっつけるための研究、かな」


「ビームで、わるものを、やっつける……!」


ホムラの言葉にヤワラは頷き、片手で人差し指と親指を立てた。銃の形になった指で、銃の真似事でもするかのようにホムラに向け、「ばーん」と効果音を口走る。その行動に、ホムラは何となく鼓動が脈打つのを感じた。


「かっこいい……!」


実際のところ、ホムラは彼女の言ってることの半分ほどしか理解は出来ていなかったが、ヤワラの説明に『なんかすごいことをしている!』という認識ができたらしい。ホムラは目をキラキラとさせると、小さな体を興奮に震わせながらヤワラを仰ぎ見る。見られたヤワラはその視線に困ったように眉を下げた。


「そう、ですかね?」


「うん! すごく、かっこいい!」


たじたじになるヤワラに、ホムラはずんと一歩踏み出して詰め寄る。興奮が押さえきれないとばかりに彼女を見上げ、ヤワラの両手を取った。ぎゅうっと力強く握る。――だって。


「悪い人たちと戦うんでしょ?」


「え、う、うん。戦うかはわからないけど……まあ、そうなる、かな?」


「じゃあ二人とも“きしさま”だ!」


「き、きし?」


「うん!」


首を傾げるヤワラに、ホムラは力強く頷く。


――ホムラの頭の中に浮かんでいるのは、どこかの絵本に描かれていた、白馬に乗った一人の王子さま。彼は強く、剣を振るうたびに悪い奴らを倒し、お姫さまを守る存在。そんなかっこいい存在が、まさかこんなに近くにいただなんて。


「きしさまは強いんだよ! みんなの為にがんばるの! それでね、国のみんなを幸せにしてあげるんだよ!」


「へ、へぇ」


「だからね、ヤワラ姉もチカラ姉も、“きしさま”なの!」


ホムラの言葉に、今度はヤワラの理解が追い付かなかった。突然“きしさま”なんて言われても、ピンとくるわけもなく、ヤワラはホムラの話を聞きながら思考を巡らせていた。彼女のいう“きしさま”が、物語にいる“騎士”だということに気が付いたのは、それからたっぷり五分が経過してからだった。


「でも、騎士って男の人でしょう? 私たちは女の子だけど、それでもなれるの?」


「もちろん! “きしさま”はかっこいい人のことだから、女の子でもだいじょうぶ!」


「そっか」


ふふ、と笑みを零すヤワラに、ホムラは満面の笑みで返した。


――昨日の夜。ホムラがトイレに起きた時、たまたま目にしたドキュメンタリー番組に映っていたのが、西洋の騎士たちだった。戦いを繰り広げる人たちが少し怖くて震えていると、主役らしき女の子が立ち上がったのだ。彼女は屈強な男たちと一緒に剣を持ち、旗を振り、勇敢に戦っていた。今まで可愛い物や綺麗な物にしか興味のなかったホムラは、その姿を見て初めて思ったのだ。


(かっこいい……)


女の人だとか、男の人だとか。そういうものを飛び越えた、感動。それを初めてホムラは味わった。食い入るようにテレビを見つめていたホムラだったが、気づいて振り返った父に背中を押されてしまい、結局番組の最後まで見ることは出来なかった。しかし、その時の高揚感は今でも忘れられない。ホムラは今日一日中、そのことで頭がいっぱいだったくらいだ。あんぱんの誘惑には、負けてしまったけれど。


「あっちゃんもゆうちゃんもともちゃんも、かっこいいって言ってた!」


「そっか。そう言ってくれると嬉しいなぁ」


「うん! だから、ヤワラ姉は“きしさま”!」


「ふふっ。ありがとうございます、姫さま?」


ヤワラの手が、優しくホムラの頭を撫でる。その心地よさに目を閉じていれば、いつの間にか商店街を抜け出してしまっていた。ヤワラはこのままチカラの待つ“研究室”に向かうらしい。ホムラも行きたいと強請ったが、「研究室は危ないから。それに、ご両親が心配しちゃうよ」というヤワラの言葉に、しぶしぶ諦めた。


「けんきゅーしつ、見てみたかったのに……」


「また今度、安全な時にでもホムラちゃんを招待出来るよう、考えておくね」


「ほんとう?」


「うん」


「じゃあ約束!」


ホムラはずいっと自分の手を差し出すと、ヤワラの指に小さな小指を絡ませた。


「「ゆーびきーりげーんまーん、うそついたらはーりせんぼんのーますっ! ゆびきった!」」


二人の声が重なり、絡まっていた指が離れる。果たされるであろう約束を思い浮かべて、ホムラ達はどちらともなく笑みを浮かべた。──家に帰ったホムラは、玄関まで漂う昼食の匂いに愕然とした。頭を過ぎるのは道中で食べたあんぱん。重く膨れた小さなお腹は、到底昼食など入る余地はなく。


(お昼ご飯……忘れてた……)


ホムラは数分間に渡って母に言うための言い訳を考え……しかし、結局は母へ素直に謝ることにした。謝罪した後に見た、母の寂しそうな笑顔に、ホムラは今度から母に内緒で買い食いはしないでおこうと心に決めたのだった。






それから数日。一週間というものは存外早いもので、気が付けば両親と共に本家の門を潜っていた。自身の身長の三倍はあるであろう屋敷は広く、その大きさにホムラが目を輝かせる。


(おっき~!)


ついさっきまで車の中で感じていた緊張はどこへやら。壮観なまでの本家の佇まいに、単純なホムラは口を開けて視線を端から端まで向ける。小さな体に込み上げてくるのは、子供ならではの冒険心だ。


「あ! あっちに池がある! こっちの木もすごく大きい!」


あっちへこっちへと視線を向けるホムラは、好奇心の赴くまま奥へ奥へと足を進めていく。両親と少しずつ距離が出来てしまっていることに、その時のホムラは気が付くことができなかった。


屋敷の横を抜ける道を歩く。石でできた道は、ホムラの目には横断歩道の白い部分と同じようなものに映っている。黒い部分……つまり、土の部分を踏まないように、白い石だけを踏んで歩く。そんな遊びをしていれば、見えてくる謎の建造物。


「わあ! 何これ!」


小さな鉢植えに収まる、これまた小さな木々。それらがまるで展覧会のように木製の台の上にいくつも乗せられている様子は、ホムラの好奇心をより一層刺激した。一つ一つ違う形をしているのがまた面白い。二個、三個と目を向けていれば、ふとホムラの足元に何かがすり寄ってくるのを感じる。視線を外して足元を見れば――。


「猫ちゃん!」


「ナァ~」


鈴を鳴らす黒猫が、一匹。


ホムラの足首に頭を擦り付けていた黒猫は、もうひと鳴きすると家の裏の方へと向かって行ってしまった。ホムラは慌ててその小さな背中を追いかけていく。躊躇いなど微塵もない。


「待って猫ちゃん!」


「ナァ」


「え、あ! お魚さんが泳いでる!」


ふと、猫が立ち止まった石の向こうを覗き込めば、赤と白と黒の模様を持った魚が、楽し気に水中の中を泳いでいる。


「おっきい~! これってあれ……鯉? って言うんだっけ?」


ホムラがそう呟けば、泳いでいる鯉の中でも一番大きな子が近くへと寄って来た。水面から口を出しパクパクと開閉させているのを見て、ホムラは「ごめんね、今キミたちの餌持ってないの」と少し眉を下げた。普段から『野良猫や野良犬にむやみやたらと餌を与えてはいけない』と父から口を酸っぱくして言われていたホムラは、勝手に何かをあげてしまおうとは思えなかった。


しかし、比較的新しいマンションに住むホムラにとって、この家は何年経っても珍しいものに溢れていた。


広々とした庭に、大きな池。形の違う小さな木の展覧会に、夏ミカンや梅を実らせる大きな木。そして、人懐っこい猫。こんなに楽しい場所はそうありはしない。


ホムラは黒猫を抱きかかえると、そのまま更に奥の方へと足を向けた。屋敷の裏に面する場所だ。こうなったら全て探検しつくしてやる、と本来の目的も他所に一人意気込んでいれば、花壇の中で咲く色とりどりの花たちを見つけた。名前も知らないそれらを珍し気に見ていれば、大人しくしていた黒猫が突然暴れ出す。


「あっ、待って――!」


ホムラの制止も聞かず細腕から飛び出した黒猫は、一直線に草むらの影へと入って行く。慌ててその背中を追いかけて、ホムラは肩ほどまでに高い枝を避けつつ、その裏を覗き込んだ。


「猫ちゃーん、って……あ」


「……」


(やばっ)


振り返ったその人物と、目が合う。猫の穏やかな鳴き声が、二人の間に響いた。


――黄緑色の瞳。自分と同じ、黄色の鮮やかな髪。……間違いない。紀眞カツラだった。


(なんでここにいるの……!?)


ホムラは楽しかった気持ちが一気に急降下していくのを感じる。カツラの視線はホムラを見つめたまま動かないものの、どこか迷惑そうに細められていた。黒猫はカツラの足元にいた。随分と懐いているのか、彼女の手元でゴロゴロと喉を鳴らしていて、離れてくれる気配はない。


ホムラはどうしようかと考える。


(と、とりあえず、挨拶は大事……)


「えっと……久しぶり、だね?」


「……」


ホムラは続ける。


「えっと、その……猫ちゃん、好きなの……?」


「……」


(ねえ全然ムリなんだけどッ!)


ホムラは帰ってこない返事に、遂に視線を逸らしてしまった。会話すらできないこの状況に、ホムラは早くも逃げ出したい気持ちになっていた。


(やっぱりあの子苦手!)


ホムラは内心で叫ぶ。


――しかし、よくよく考えて。そもそもホムラがここまでして話をする必要が、果たしてあるのだろうか。挨拶だってしっかりしているし、話だってしようとした。それなのに彼女は挨拶もせず、ずっとだんまりを決め込んでいる。……彼女の方が失礼なのではないか。


(そうだよ! ウチのせいじゃないし!)


大体、疎遠になったのだってカツラがホムラを避け始めてからだ。ホムラは何も悪いことはしていない。


(そりゃあ、ちょっと強引だったかもしれないけど!)


ホムラは蘇る記憶に少しばかり分の悪さを感じたものの、それを吹き飛ばすようにブンブンと顔を横に振った。……そう。あの時は純粋に寂しかっただけで。




当時、ホムラはカツラに避けられ始めていることに勘づいていた。その理由まではわからないけれど、それでもずっと一緒にいた人間に突然避けられたら不思議に思うのも当然の事だと思う。だからホムラは言ったのだ。――「おひめさまごっこしよう!」と。


その頃から、カツラとは好みが合わなかったけれど、『自分の好きなものを一緒にやれば仲良くなれる!』とホムラは本気で信じていた。だからこその提案だったのだが、カツラはそれが嫌だったらしい。


「やらない」


まさに、一刀両断。付け入る隙もなく断られてしまったことが、ホムラは腹立たしくて――同時に悲しかったのだ。




――そうだ。そうじゃないか。


ホムラは込み上げてくる感情に、ふつふつと自分の怒りが上ってくるのを感じた。今も昔も。自分のせいじゃない。その気持ちはオドオドしていたホムラの背中を伸ばし、不安げにしていた顔は一変。自信あふれるものになっていた。カツラに向かい一歩踏み出したホムラは、彼女を見下げる。


「あのさぁ、挨拶くらい返したらどうなの?」


「……」


まただんまり。いっその事おちょくられているんじゃないかと思うほどの対応に、ホムラの気持ちは更にヒートアップした。


「ていうか、無視とかありえないんだけど! もしかして聞こえてないの!? それとも、返事もしたくないくらいウチの事嫌いなの!?」


「……ぃなぁ」


「なに? 聞こえない! はっきりしゃべって――」


「だから! うるさいって言ってんだよ! 少しは静かにできねーのバーカ!!」


「!!?」


不意に返された大声に、ホムラはビクリと大きく全身を震わせた。……無意識だったとは言え、大きくなっていた自分の声に負けず劣らずの大声が返ってくるとは、思ってもいなかった。しかし、その驚きも束の間。投げられた言葉の理不尽さに、ホムラの怒りは最高潮に達する。


「なにソレ! せっかく話しかけてあげたのに!」


「はあ? 頼んでねーよ、そんなこと!」


「そりゃあ頼まれてないけど、挨拶くらいするのがトーゼンでしょ!?」


「別にする必要ねーじゃん、知ってんだから!」


「はあ!? 人に会ったらまずは挨拶をしなさいって教わんなかったワケ!?」


「だからうるさいって言ってんだろ!? 静かにできないならどっか行けよ馬鹿!」


「ば、ばかぁ~!?」


ホムラは生まれて初めて浴びせられる暴言に、目を見開いた。


(さっきからバカバカバカ……! 人のことをなんだと……!)


わなわなと震える小さな手に、抱えきれないほどの大きな怒りが溜め込まれていく。その気配をいち早く察知したのか、黒猫はひと鳴きするとカツラの手元から走り去ってしまった。「あ」と小さな声が聞こえるが、ホムラにとってはそれすらも苛立ちの一端でしかない。


(むかつくぅ~ッ!)


自分よりも猫の方が大事なのか。そう言いたい気持ちが込み上げてくるものの、ホムラはそれを口にはしなかった。――否、出来なかった。ここまで大きな怒りを持ったのは、ホムラ自身初めてだったから。どう言葉にしていいのかわからなかったのだ。


むううぅっと口を尖らせていれば、カツラの視線がホムラに向けられる。じっと見つめてくる瞳に、息を吸い込んだ瞬間。


「ホムラー! ホムラー!! どこにいるのー!?」


「「!?」」


ホムラを呼ぶ声に、二人の身体がびくりと震える。いち早くホムラが振り返れば、慌てた様子の母が辺りを必死に見回していた。何かを探しているような素振りをする母に、苛立っていたホムラの思考が瞬く間に冷静の海へと引きずり下ろされる。


(やばっ!)


――そういえば、両親には黙ってここまできてしまったんだった。


そのことを思い出し、サァッと血の気が引いていくのを感じる。何も言わず出てきてしまったこと、こんな庭の裏手まで一人で来てしまったことなど。怒られそうな要因がホムラの頭の中を駆け巡った。……どうしよう。




ホムラの中で焦りが生まれる。さっきまでとは違う理由で回る思考が、解決策を見出そうと必死になる。


(そうだ! カツラがいるのを見れば怒られないかも……!)


仲良くしていたと思われるのは癪に障るが、怒られるよりは数倍もマシだろう。『名案だ!』と言わんばかりに振り返ったホムラは――しかし、そこにいたはずの影が無くなっているのを見て、ぎょっとする。


(エッ!? いない!? なんで!?)


一瞬目を離した隙に音も立てずにいなくなった彼女の存在に、ホムラの頭はさらにパニックになっていく。これでは言い訳のしようがない。母の声が近づく。カツラも猫も、もうそこにはいない。――言い訳をする材料は、もうどこにもなかった。


(もうこうなったら……っ!)


――出来るだけ早く出て、怒られる前に早く謝ってしまおう。


そう思い立ったホムラは、紫陽花の木の陰から顔を出すと、母の方へと走り抜けた。驚く母にホムラはすぐさま頭を下げる。ごめんなさい。勝手に一人で行っちゃってごめんなさい。と。


その甲斐もあってか、母はホムラの頭を撫でると一言二言を口にしたものの、すぐに笑って許してくれた。そのことに心底安堵し、ほっと息を吐く。


(あの子も、怒られればいいのに)


ふと頭を過る、呪いのような言葉。しかし、実際にはただ不貞腐れているだけの言葉。……だって自分だけ怒られるなんて、不公平だ。ホムラはカツラの存在を思い出しながら、唇を尖らせた。


――あの子だってきっと、両親と来ているはずなのだ。勝手に出てきて、勝手にここまで来たことを怒られてしまえばいい。できれば、それはもうこっぴどく。なんて子供染みたことを考えて、ホムラは忌々し気に鼻を鳴らす。……彼女が“何も言わずに勝手に”行動したかどうかは、今のホムラにとっては些細な問題であった。


ホムラは、母に手を引かれるがまま表門へと戻って行く。咲いていない紫陽花の枝が、一人寂しそうにホムラを見送っていた。




「こちらのお部屋になります」


そう言って足を止めたのは、伏と名乗った女性だった。案内役として配置された彼女は、足を止めた部屋の襖を音も立てず静かに開けると、一歩下がって深々と頭を下げた。その行動に、ホムラはキラキラと目を輝かせる。


(なんか、お偉いさんになったキブン!)


ホムラ達が通された部屋は、毎年正月に大人たちが宴会をする部屋だった。長机が二つ繋げられており、向かい合うようにして赤い座布団が計七つ。一つは上座にポツンと置かれ、両脇に三つずつ等間隔に並べられている。


(あの席、お誕生日席みたい)


今からパーティでもやるのだろうか。なんて考えていたホムラは、伏が立ち上がったのを感じて振り返る。目が合い、ふっと微笑まれる。


「どうぞ。中でお待ちください」


「ありがとうね、伏」


伏の言葉に、母は慣れたように返す。深々と再び頭が下げられ、ホムラ達が全員部屋に入り、座布団に腰を下ろしたのを見届けるのと同時に襖は閉じられた。しん、と静まる部屋。ホムラは手持ち無沙汰に部屋中を見回した。


(なんか……すごい)


ポツリと呟く。ホムラ達のマンションの高い天井とは違う、目一杯に映る広い天井にホムラは圧倒された。なんというか、こう……天井が広いのだ。今にも迫ってきそうな天井から視線を外せば、丁度良く「失礼します」と小さな声が聞こえた。次いで開かれる襖に――ホムラは声を荒げた。


「……あ」


「あ゛ー!」


障子の向こうから現れたのは――数十分前に忽然と姿を消したはずのカツラだった。声を上げるホムラを母が窘めるものの、その声はホムラの耳を通さない。


(な、なんでこんなところに……!)


両親と思わしき人と連れ立って部屋に入って来たカツラは、さっきと変わらず無表情……否、少しだけ嫌そうな顔をしている。先ほどはホムラの声にびくりと肩を震わせたものの、それ以外の反応をすることなく彼女は静かに座布団へ腰を下ろした。まるでこちらが見えていないと言わんばかりの態度に、ホムラはせっかく萎んでいた苛立ちが蘇ってくるのを感じる。あの時の暴言が、ホムラの頭をぐるぐると駆け巡っていく。


(あんなこと言って、謝りもしないなんて……!)


「ねえ――」


「失礼いたします。当主様がいらっしゃいました」


ホムラがカツラへと声をかけようとしたところで――伏の声が室内に響いた。


凛とした声と言葉に、ホムラを含めその場にいた全員の背筋が伸ばされた。ホムラはじっと部屋の奥にある襖が開くのを見つめていた。――入ってきたのは、本家の現当主だった。彼は動きにくそうな着物を身に纏っているのに、それを感じさせない動きで座布団へと腰を下ろす。静かに向けられる視線に、ホムラは息を飲んだ。


「――まずは、突然の呼び出しに応じてくれてありがとう。感謝する」


頭を下げた彼に、次いで自分とカツラの両親が揃って頭を下げる。ホムラは慌ててそれを真似たが、カツラは特に何もしなかった。


最初に問いかけたのは、ホムラの父だった。


「親父さん、話ってのは……」


「まあ、そう急かすな。少し込み入った話でもあるわけなんだが……できれば、食事をしながら話を進めたいと思っている」


「それは……構いませんが」


「君たちも好きに食べてくれて構わない。――伏」


「はい」


親父さんが声を上げると共に襖が音もなく引かれ、その向こうから次々と料理が運ばれてくる。いっそのこと手品なのではないかと思ってしまうくらいの手際の良さに、ホムラは心底驚いた。


瞬きを十回程度している合間に颯爽と準備は整い、ホムラ達の前には豪勢な夕食が用意される。……スゴイ。


「おいしそう……」


「はは。そう言ってくれると彼女たちも喜ぶよ。さあ、たんと食べてくれ」


親父さんは素直に感心しているホムラに朗らかに微笑むと、両手を合わせて箸を取った。それを見て、ホムラの両親も両手を合わせ、箸を手にする。


――『上の者が手を付けてからでなければ、下の者は手を付けてはいけない』。


そんなマナーを叩きこまれていたホムラは、全員が箸をつけたのを見て自分も両手を合わせてから箸を取った。……カツラも同じことをしていたので、そこはちゃんと教えられていたのだろう。


五分ほどの和やかな食事時間をし、親父さんは布でゆっくりと口元を拭う。――嗚呼、そろそろだ。


「急な招集で集まってもらってすまない。君たちに話しておかなければいけないことが出来てね」


「話しておかなければいけないこと、ですか」


ホムラの父が言葉を返す。隣で座る母はどこか落ち着き払っており、まるで今から告げられることを知っているかのように見えた。それは、カツラの両親も同じことで。


「――ホムラ、カツラ」


「は、はい!」


「はい」


「君たちには……実験のサンプルになってもらいたい」


周囲を観察していたホムラは、唐突に言われた言葉に面食らった。


(……え?)


――サンプル? じっけん? ……一体どういうことなの。


混乱するホムラに、親父さんは苦笑いを零す。こうなることを多少見込んではいたのか、静かに茶を飲むと淡々と言葉を続けた。


「そうだな。まずは、順を追って話そう」


親父さんの言葉に、ホムラ達は頷く。


――そして彼は語り出した。


この家のこと。紀眞家と匕背家との繋がり。サワラの能力のこと。そして――ヤワラの持つ、能力のこと。


「彼女は未来を視ることができるらしい。そして彼女の視る未来には――近々訪れる、この世界の危機が映っていたという」


……それから聞いた話は、まるでおとぎ話のようだった。


――“妄執”、“影”、そして戦う少女たちの存在。


自分たちと同じくらいの子供がそうして戦う未来が待っているなんて、考えたこともなかった。それどころか、話をされた今ですら実感が沸かない。頭の奥がぐるぐると回り、抱えきれないほどの情報量がホムラの身体の中へと雪崩れ込んでくる。


「そこで、物作りに関心のあったチカラに、武器の制作を依頼し、先日そのサンプルができたと報告を受けた。……ヤワラに確認を取ったところ、未来で持っていた武器と酷似しているそうだ。だが、この“先”に進むには、実験でのデータが必要不可欠になってくる」


「じっけん……」


「ああ。その実験に――君たちの手を貸して欲しい」


親父さんの言葉に、ホムラは大きく目を見開いた。


(ヤワラ姉の役に立てるかもしれない……!)


それはヤワラを慕うホムラにとって、朗報だった。がたんと勢いよく机に体をぶつけながら、ホムラが立ち上がる。


「やる! やります!」


「こらッ、ホムラっ!」


「おお、そうか。そう言ってくれると助かるよ」


父の制止を振り切って手を上げれば、親父さんはにこやかに笑みを浮かべる。「詳しいことはヤワラに聞くといい」と告げた親父さんに、ホムラはチカラ強く頷いた。先ほど告げられた『助かる』の言葉に、ホムラは胸の奥が熱くなっていくのを感じる。


(けんきゅーの、じっけん……!)


もしそれが上手くいけば、自分はもっと褒められるのではないか。父や母に。ヤワラ姉やチカラ姉に。そして――。


「あの、俺はやらないです」


(カツラをぎゃふんって言わせられるかも!)


拒否を示したカツラを見つめ、ホムラは「ふっふっふ……」と笑みを零す。――ドラマでも言っていた、『ぎゃふん』。それを言うカツラを想像し、ホムラは一人静かに笑みを深めた。


ちらりと盗み見たカツラはさっきよりも嫌そうな顔をしながら、大人しく座布団に腰を下ろしている。宣言通り、話に乗り気ではないらしい。――これでもし、自分が手柄を独り占めできたとしたら。


(今度こそ、ウチの勝ち……!)


勝負はそれまでお預けよ! と、カツラにとっては覚えのない勝負を始めたホムラの思考を、親父さんの咳が遮った。


親父さんを見れば『座って、話を聞きなさい』と視線で訴えられる。ゆっくりと腰を戻し、ホムラは小さく俯いた。……親父さん、怖い。


「そして、もう一つ。これもホムラ、カツラ。君たちに話しておかなければ……いや、君たち自身に決めて欲しいことがある」


彼の言葉に、ホムラは首を傾げる。カツラも同様に、小さく首を傾げた。


「“決めて欲しいこと”、ですか?」


「ああ。――君たちのどちらかに、匕背家との婚約をしてもらいたい」


「「こんやくッ!!?」」


今度は机の両脇からガタンッと激しい音が立ち、机の上の皿が大きく跳ねる。両親たちが声を上げるが、当の本人たちの耳には届かなかった。


(婚約って、なんで……!)


「こ、婚約って、結婚の約束をするってことですよね!?」


「ああ。そうだ」


「なんでウチらがっ!? 他のお姉さま方だっているじゃないですか!」


熱を上げて叫ぶホムラに、親父さんは僅かに顔を顰める。


……ホムラの言い分は最もだった。確かに紀眞家は古く、大きい家の一つだ。その分人数も多く、紀眞家の後ろ盾欲しさに政略結婚をしてくれと申し出てくる輩も多くいた。それらを選出し、自分たち子供にあてがう。それは今の時代決して珍しい話ではないし、数多くの兄や姉もそうやって嫁いで行ったり、もらい受けたりすることも多いのをホムラは知っていた。しかし、それが行われるのは十六歳になってから。――つまり、まだ適性年齢になっていないホムラやカツラに宛がわれる理由が、わからない。


親父さんは視線を彷徨わせると、大きくため息を吐いた。その声は、どこか諦めが含まれているようにも思える。


「……わかっている。だが、これは相手方の意向でな」


「“いこう”?」


「……“意向”。相手の気持ち。この場合条件って感じだろうな。そんなこともわからないのかよ、バーカ」


「な……っ!」


「カツラ。口を慎みなさい」


首を傾げるホムラに噛みついたカツラを、彼女の父親が窘める。突然のことに反応できなかったホムラは、わなわなと握り拳を震わせた。その様子を知ってか知らずか、彼女は「ハーイ」とわざと間延びした返事をする。それが余計に腹立たしかった。


(バカって何よ! バカって!)


そんなことわざわざ言わなくてもいいじゃない、と叫びたくなるのを、ホムラは必死に堪える。……それにしても、突然過ぎるのではないだろうか。今までも話に入ってこられるタイミングはあっただろうし、噛みついてくるタイミングだってもっとあったはず。それなのに、何故。


(ああもう! わけわかんない!)


今は婚約者の話をしなければいけないのに、何故カツラの事で悩まなくてはいけないのか。ホムラはブンブンと強く首を横に振ると、親父さんを睨みつけんばかりに見つめた。驚く親父さんはしばらくしてホムラの心境を察したのか、小さく咳をすると話を続けた。


「婚約相手は、匕背ヤカラ。匕背家当主候補だ」


「「えっ」」


「……どうした」


二人の驚きの声が同時に飛び出す。カツラと目を合わせた瞬間、バチッと火花が散ったような気がした。


それを悟った親父さんは、ホムラを見つめた。まるで『君が話せ』と言わんばかりに。


「あ、その……ヤカラさんって確か、今年三十歳になります、よね?」


「ああ、そうだな」


「なんで今まで婚約者を作んなかったんだよ? いくらでも作れただろ?」


次いで追い打ちをかけるカツラの言葉。それはホムラ自身も問いたいと思っていたことだった。


(――なんで、今更)


そう。何故、今なのか。そこが二人にとっては疑問で仕方がないことだった。二人のその心境を親父さんは理解していたのか、苦しそうに眉を寄せた。お茶を一口飲み、大きく息を吸い込む。


「……君たちの言う通りだ。今までサワラの事で精一杯だったあやつらは、ヤカラ自身の事を後回しにしていた。何度か注意はしたのだが……聞く耳を持たなくてな。彼を責めないでやってくれ」


大きな顔でため息を吐く親父さんに、ホムラは同情の気持ちが沸いてくるのを感じる。しかし、同時にヤカラと出会ってからの日々が頭を駆け巡り、心は同情じゃ変わらないほど一つに纏まってしまっていた。


(あんな男と、結婚?)


――絶対、嫌だ。無理。そんなの、考えただけで吐き気がする。


ホムラは両手を握りしめ、イヤイヤと首を振った。その様を見ていたのだろう。親父さんはわかっていたかのように眉を下げた。




――匕背ヤカラは、元々性格のいい人間ではない。


兄であるサワラが容姿端麗で性格も愛想も良く、運動以外であれば何でもできる人間だったからだろうか。小さいころから人の嫌がることばかりをする人間で、世話係にもひどく嫌われていると聞いたことがある。そんなのだから、彼よりも輪をかけて目が悪い兄が優先され続けた。しかし、サワラの目は一向に良くなる気配はなく、気が付けば手の施しようがないほどまでになっていたらしい。


それを聞いたヤカラは何を思ったのか、兄へのアタリを強めた。殴る蹴るは当たり前。口を開けば暴言ばかり。最近では更にひん曲がって、賭博や女性関係にまで手を出し始めているらしい。『女なら誰でもいい』と言っていたのを、ホムラたちは偶然聞いてしまった。それからか。自分たちへ向けられる視線にも、“嫌な感覚”が混じるようになったのは。




「なに、それ」


ガタンと派手な音が聞こえる。響いた声に、一瞬自分の気持ちが零れ落ちてしまったのではと思った。慌てて自分の口元を抑えたが――次いで聞こえた声は、ホムラ自身のものではなかった。


「お前ら全員、気持ち悪いんだけど」


そう吐き捨てた彼女は、嫌悪を隠しもせず顔に浮かべると、颯爽と部屋を出てしまった。「カツラ!」と彼女を引き留める怒号が響く。その様子を、ホムラはどこか遠くの事のように見ていた。


(何、いまの)


――すごく、かっこいいじゃん。


一瞬でも全てを飲み込もうとしたホムラと、全てを拒絶したカツラ。どちらも間違ってはいないが、どちらもきっと正解じゃない。それでも、自分の意見を隠さず言ったカツラは、ホムラにとってとてもカッコイイ存在のように思えた。


「全く、あの子は……」


「当主様、申し訳ございません。私どもの教育が行き届いておらず、このようなことに」


「良い。私は気にしていないからな」


「……ありがとうございます」


「ただそうすると婚約は――」


淡々と進んでいく大人たちの会話を横に、ホムラはぼんやりとカツラの出て行った襖を見つめていた。少しだけ開いた先には、外の青空がうっすらと見える。清々しくて、過ごしやすい日の下。散歩や遊び回るのにちょうどいい気温でもあった。


(……いいなぁ)


――あんな風に自分の意見を真っすぐ言えるのは、凄くカッコイイ。


そう思う反面、彼女の事が心配でたまらなかった。……きっと彼女自身、とてつもなく生き辛い日々を過ごしてきたんだろう。


(テキトーに頷いておけばよかったのに)


ああでも、それじゃあ本当に婚約しなきゃいけなくなっちゃうかも。なんて思いつつも、ホムラはカツラの学校での評判を思い出していた。


『話しかけにくい』『何考えているのかわからない』……そんな言葉たち。しかし、それを言われても仕方がないくらいには、カツラはコミュニケーション能力が著しく低いように感じた。


(どっちが“バカ”なんだか)


今どき、小学生だって知っている。周りに合わせることの大切さを。自分の意見を曲げることで得られるものを。……だからこそ、わかる。カツラは、とんでもなく生きにくい性格をしているのだと。


確かにカツラの言い方はきついし、すっごくむかつく。今でも何を考えているのか全く分からないし、正直さっきのだって頷いていればこの話し合いもすぐに終わってみんなで美味しいご飯を食べられたかもしれない。……でも、きっとそれは上辺だけのものになってしまう。それを、カツラは良しとしなかった。カツラ自身が、納得しなかったから。


(なにそれ、かっこいいじゃん)


ホムラは笑みを浮かべると、残った食事に手を付けた。大人たちの難しい話を聞いているより、カツラの事を考えていた方が楽しい。


(婚約の事は、またあとで考えよ)


面倒なことをさらりと後回しにしたホムラは、ホクホクと美味しい食事を平らげると、大人たちの話が終わるのを大人しく待った。しかし、授業中ですら起きていることができないホムラが、小難しい話をしている大人たちの声に眠くならないわけがない。


うつらうつらと遠ざかっていく中、聞こえた声はホムラの意識の奥底には辿り着けなかったようで。


「――それでは勝負の末、負けた方を匕背家へ献上することにしよう」


「「御意」」




ホムラは知らなかった。周りを囲む、親戚たちの声を。


ホムラは気が付かなかった。自分へと伸びる魔の手の正体を。


ホムラは見て見ぬふりをしてしまった。自身を守るはずの手がどれだけ心酔していたのかを。




ホムラは知らなかった。――紀眞家全体を包み込む、恐ろしいほどの“狂気”を。






あのまま眠ってしまったホムラは、後日学校へと向かう道でカツラを見かけた。


まだ三年生だというのにどこか薄汚れたランドセルは、嫌々彼女の背中に背負われている。ちぐはぐな背中にホムラは何となく首を傾げたものの、それよりもと自分の好奇心に従って駆けだした。


「カツラー!」


「……」


ビクッと大きく肩を震わせたカツラ。その肩を組んだホムラは、向けられた視線ににこりと笑みを浮かべた。まん丸に見開かれた黄緑色の瞳は、見れば見るほど自分のものと似ている。しかし、大雑把なホムラにとってはそんなことはどうでもよかった。


「ねえ、昨日のテレビ見た? って言ってもウチ、あの後寝ちゃって気づいたら朝だったんだけどー」


「……」


「そういえば、カツラは何の番組見てるの? ドラマ? お笑い? ニュースはウチついていけないけど、ちょこっとはわかるよ! お父さん、新聞読んでるから!」


「邪魔」


「えっ」


マシンガンのように話始めるホムラの言葉を遮り、パチンッと弾けた音が聞こえる。それと同時に自分の手が振り払われたのを、ホムラは遅れて気が付いた。……まさか自分の手を振り払う人間がいるなんて。


「カツ、」


「テレビなんて低俗なモン、俺が見るわけねーだろ。あと女がベタベタ触ってくんじゃねーよ。気持ちワリィ」


嫌悪をその目にありありと浮かべ、顔を全力で顰めるカツラに、ホムラはぽかんと口を開けていた。そんな顔を「バカ面」と笑ったカツラは、鼻を鳴らすと颯爽と校門の方へと足を向けてしまった。その背中は、まるで茨でも背負っているかのように刺々しく、『話しかけるな』と言わんばかりのオーラが滲み出ている。


「ホ、ホムラちゃん、大丈夫!?」


「手! ケガしてない!?」


「なにあれ! ひどいよね本当!」


どこから見ていたのか、あっちゃんやゆうちゃん、ともちゃんが駆け寄ってくるのを見ながら、ホムラの意識はカツラへと向けられていた。


(あー……ウチ、やらかしちゃったかな)


もうちょっと優しく肩に手を回すべきだった? もっとゆっくり話しかけた方がよかった? ああでも、朝は苦手なのかも。低血圧っぽいし。


次々と上がってくる疑問と反省に、ホムラはぼうっとカツラの去って行った方を見つめる。視線の先にはもうカツラはおらず、知らない生徒たちが不思議そうにこちらを伺い見ては首を傾げている。ポンと肩を叩かれ、ホムラははっとした。


「ホムラちゃん? 大丈夫?」


「え? 何が?」


「何って……聞いてなかったの?」


「え、あ」


心配そうに顔を覗き込んでくる友人たちに、ホムラはぼんやりしていた時のことを思い出す。みんな何かしら言っていたような気がするが……ダメだ。思い出せない。


「ご、ごめん」


「別にいいけどさぁー。っていうか、手、大丈夫だった?」


「え?」


「払われてたでしょ、さっき」


「ああ! うん、全然大丈夫だよ!」


ひらりと手を振るって笑えば、あっちゃんとゆうちゃんは「もう」と小さく口を尖らせて笑う。その表情に「心配かけてごめんね」と告げれば、二人ともにこりと笑ってくれる。その笑顔にほっと胸を撫で下ろしていれば、ふとその後ろでともちゃんが難しい顔をしていることに気が付いた。


「ともちゃん?」


「……あの子、なんかちょっと怖いんだよね」


「あの子って、カツラのこと?」


「うん」


ともちゃんは頷く。ホムラは何となくわかるような気がしていたが、それを口にすることはしなかった。ともちゃんはぎゅうっとランドセルの肩紐を掴むと、地面に視線を落としたまま小さく口を開いた。まるで内緒話でもするかのようだ。


「……あの子、いつもツンツンしてて話しかけられないって、同じクラスの子が言ってたんだよね」


「そうなんだ」


「それにあの子、自分の事『俺』って言うじゃん? だから一年生の頃、ちょっとからかわれてたんだけど。そしたらあの子、自分のランドセルを殴ったり蹴ったりしてて……」


「ええ!?」


「何それこわーい!」


「それでさ、あの子言ったんだって! 『みんながみんな、好きな自分で産まれて来てると思うなよ!』って!」


ともちゃんの言葉に、ホムラは何も言うことができなかった。――その叫びが、ホムラは以前カツラを怒らせてしまった時に聞いた言葉と、似たもののように感じたからだ。


(自分の好きな、自分……)


それは彼女が彼女自身を好きでいられていないということ。誰しもコンプレックスや、人にからかわれて嫌なことの一つや二つはあるだろうけれど、カツラほど自分を拒絶している人を、ホムラは知らなかった。


(カツラは……男の子になりたかったのかな)


言葉遣いとか、行動とか、服装だってスカートを履いていたところを見たことがない。それどころか、赤とかピンクとか、“女の子といえば!”というものを全部嫌っていたように思える。


(そういえば、部屋にいるのは好きだったけど、おままごととかしたことなかったような……)


「その点、ホムラちゃんはいつも優しいよね!」


「ねー! ホムラちゃんと同じクラスでよかったぁ~!」


「え、あ、あははは! ありがとう! ウチもみんなと同じクラスでよかったよ~!」


「もう~!」


三人の言葉に、ホムラは自分でも無意識に笑顔を浮かべた。そして、気が付く。――自分とカツラが、今無条件に比べられたのだと。そして、ホムラは上に、カツラは下に見られたのだと。


(ウチがカツラのこと気にしてあげなきゃ)


その事実はホムラの自尊心を撫で、大きく膨らませた。


まるでカツラの姉のような気持ちを抱えたホムラは、その日からより一層カツラのことを気にするようになった。時間があればカツラを探し、廊下でも下駄箱でも顔を合わせれば「おはよう!」「次の授業何?」「それパズル!? って真っ白じゃん! すご!?」などと話しかけては、騒ぎ立てている。その度にカツラからは「うるさい」「邪魔」などと辛らつな言葉を浴びせられ、時には心底嫌そうな顔で無視をされるほど。その度、クラスメイトや友人たちから心配の言葉を掛けられるものの、特にホムラは気にしていなかった。そして、そんな彼女の変わりように、カツラ以外の人間が慣れ始めてきた頃。


「ホムラ。明日は本家に行って来てちょうだい」


そう母が以前と同様、断ることすら許さないとばかりの空気を醸し出して言ってきた。ホムラは何となく嫌な予感がしつつも、カツラとまた会えるかもしれないという期待を前に頷く。


「わかった。行ってくるね」


――まさかそれが母との最後の会話になるとは、思ってもいなかったのだろう。


ホムラはにこやかに笑みを浮かべ、明日の夕食にハンバーグのリクエストを出した。デミグラスソースのたっぷりかかった大きなハンバーグを食べる夢に包まれ、ホムラは運命の時を迎える。






今日は両親もいない。門の前に立っていたのは、自分と予想通り来たカツラの二人だけだった。


「カツラー!」


「近寄んな馬鹿!」


「えー! ケチー!」


流石に毎日のように行われるやり取りにカツラの方も慣れてきたのか、飛びついてきたホムラの腕から颯爽と逃げると、ホムラを睨みつけ、威嚇する。まるで猫のような言動にホムラの口元は嬉しそうに引き上げられた。意識されているというのは、無視される数倍は嬉しいもので。緩みきったホムラの表情を見たカツラは、心底嫌そうに顔を歪める。


「お二人とも、お待たせいたしました。どうぞこちらへ」


門前で騒いでいたホムラ達へ声がかかる。振り返れば、そこにはいつだったかホムラたちを案内してくれた女性――伏が立っていた。


ホムラとカツラは、伏に案内されるがまま屋敷の中では無く、広く整備された裏庭の方へと足を進めた。小さな木が並ぶ棚を通り過ぎ、鯉の泳ぐ池を横切り、紫陽花を横目に歩いていく。


(なつかしいなぁ~)


ホムラはそれらを見送りつつ、二人の背中を追いかける。伏は裏庭を横断すると、端に置かれた倉庫へと向かった。


「えっ」


「どうかされましたか? ホムラさま」


「あ、ううん。何でも……」


伏の言葉に、ホムラは首を振る。ホムラは彼女の背中を見つめながら、心の中は不安でいっぱいだった。


――『裏庭の倉庫には近づいてはいけないよ』。


小学校に入る前、カツラとかくれんぼをしていた時、ホムラは親父さんにそう言われたのを今でも覚えていた。なんでも、子供が近づくと危ないからだそうで。


(大丈夫なのかな……)


ホムラはチラリと隣を盗み見る。……あの日から裏庭の倉庫には近づいたことがないホムラは、不安で仕方がなかった。一緒に話を聞いていたカツラなら同じように不思議に思っているかもしれない。しかし、そう思っていたホムラの淡い期待は、到着を報せる伏の声に遮られてしまった。


「こちらです。足元に気を付けてお入りください」


「えっ?!」


「……入ってもいいのかよ?」


「ええ。当主様からの指示です」


伏は頭を下げると、再び中へ入るよう視線で合図した。その様子にホムラは一緒に来ないのかと尋ねれば「私はここまでですので」と返されてしまう。


(倉庫の、なか)


ホムラは倉庫を見つめる。陽射しだって入っているはずなのに真っ暗な中は、まるで妖怪の口の中のようで気味が悪かった。ホムラが身震いをしてじっと倉庫を見つめていると、不意に彼女の横を誰かが通った。――カツラだ。


「俺が先に行く」


彼女はそう口にすると、ゆっくりと倉庫の方へと足を進めていく。その背中は正直……カッコよかった。


ホムラは慌ててカツラの後ろを追っていく。さっきまでの不安や恐怖が僅かに薄れ、ホムラはこくりと息を飲む。倉庫の入り口に足を踏み入れれば、古い床がギィと音を立てた。その音にビクリと肩を震わせれば、カツラの鋭い視線が突き刺さってくる。慌ててホムラが視線を逸らせば、カツラは再び倉庫の中へと進んでいく。倉庫の中を少し歩いて──カツラが足を止めた。その行動にホムラは首を傾げる。


「な、何かあった?」


「……階段」


「え」


「階段がある」


(階段?)


カツラの言葉に、ホムラはカツラの足元を覗き込んだ。……確かに、下へと向かう階段がぽつりとある。


「何これ!?」


「地下への入り口になります。昨日完成したばかりですので、安全性は保障いたします」


「伏さんっ?!」


「驚かせてしまい申し訳ございません。行くのを躊躇っているように見えましたので。急ではありませんが、お気を付けくださいませ」


伏はそう言うと再び深く頭を下げた。彼女のつむじを見つめながら、ホムラは頬をひきつらせる。


(そういう事じゃないんだけど……!)


ホムラは心の中で叫ぶ。もちろん、それが伝わることはなく。平然とした顔つきのままこちらを見つめる伏に、ホムラは諦めに近い気持ちで再び階段を見つめた。


(下りるしかない、よね……)


……正直怖いけれど、ここで踵を返すことは出来ない。後ろには伏がいるし、何より──カツラに負けていられないから


「……行こう」


「本気かよ」


「本気も本気! ちょー本気!」


「ていうかもう逃げられないでしょ!」とホムラは半ばヤケになって叫ぶ。カツラはそんなホムラを仕方なさそうに見ると、ため息を吐いた。


カツラが足を踏み出し、すぐにホムラも後を追いかける。階段を一歩、また一歩と降りていく。暗い階段は伏の言っていた通り、できたばかりのようで。所々に設置された照明の西洋風のデザインに、この家のイメージ違いを感じてしまう。


(なんか、急にお屋敷に来たみたい)


テレビや雑誌で見る、世界のお屋敷や外国の建造物。そこに使われていそうな鉄格子の照明はお洒落だが、この家には合わないだろう。古き良き日本屋敷なのだから。


地下への階段は、思いの外長かった。ホムラとカツラの静かな足音だけが響くこと数分。……否、僅か数十秒程度だったかもしれない。しかし、自分の家の階段よりは圧倒的に長い階段に、ホムラは転ばないように足元を見ながら、慎重に下りて行った。


「……明かりだ」


「え?」


カツラのぽつりと落とされた声に、ホムラは顔を上げる。今から数段下の、その先。そこに広がるのは、驚くほど明るい世界だった。二人は逸る足で残りの階段を降りていく。光の差す部屋へ足を踏み入れれば、あまりの明るさに目が眩んだ。


「っ、まぶし……」


光に照らされた世界に目を閉じる。ゆっくりと目を慣らしながら開けば、そこに広がっていたのはどこまでも真っ白な空間。


(ここって……)


「久しぶりだね。ホムラちゃん、カツラちゃん」


不意にホムラの思考を遮った声に振り返る。


白い部屋の中心。部屋を縦断する大きなガラスの前に立っていたのは、桃色の髪を片側で束ねて優しい顔で微笑む――ヤワラだった。


「ヤワラ姉!」


「ごめんなさい。突然こんなところに呼び出しちゃって。転ばなかった?」


ニコリと笑うヤワラに、ホムラは駆け寄ろうしてカツラに止められた。


「ちょっと、何すんの!」


「お前、バカだろ」


「はあ?」


ホムラはカツラを睨み上げる。ヤワラ姉を警戒しているようだが、何故そんなことをしているのか。


(ヤワラ姉が変なことするわけないじゃん!)


馬鹿なのは一体どっちなのか。そう言いたげにカツラを睨みつけていれば、カツラはあからさまにため息を吐いた。まるでこれ以上は言っても無駄だと思っているような顔だ。不躾にも程があるその視線に眉を寄せていれば、二人の様子を見ていたヤワラが小さく肩を揺らした。


「ふふふっ。やっぱりカツラちゃんはわかっちゃいましたか」


「……」


「そう睨まないでください。ここにいることは、おじさんもちゃんと知ってますよ。──そもそも、ここを作るようお願いしたのは私ですし」


「えっ?」


ホムラはヤワラの言葉に唖然とした。──待って。どういうことなの……?


にこりと笑うヤワラに、ホムラは視線を迷わせる。……いつもと変わらない優しい笑顔のはずなのに、ホムラは嫌な予感をひしひしと感じる。


(よく、わからないけど、なんだか……こわい、かも……)


ヤワラを怖がるなんて、と思っていたのがバカバカしく思えるほど、恐怖に体が震える。ずり、と後ろへ足が下がる。無意識に距離を取ろうとして――ヤワラと目が合った。『逃げることは許さない』といわんばかりの鋭い視線に、ホムラは息を飲んだ。


「この部屋には最高級の防弾、防音機能システムを施してあります。あなた達がどれだけ叫んでも暴れても、外にいる人間には何も聞こえませんし、害を与えることもありません。振動は少々感じられるでしょうが、それも可能な限り吸収できるよう周囲に工夫を施しているので安心してください」


「ぼ、ぼうだ……しんどう……?」


「つまり、特別訓練施設ってことです」


つらつらと連ねられる難しい言葉の数々にホムラが首を傾げれば、ヤワラは柔らかい声で説明をしてくれた。


(くんれん、しせつ……?)


ホムラが心の中で繰り返し──はっと思い出す。……そういえば、親父さんに実験を手伝って欲しいって話をされたような気がする。


もし。もしこれがその“実験”のテスターなのだとしたら。──否、間違いなくこれは実験なのだろう。そしてこの地下はそれを行う実験施設。


『詳しいことはヤワラに聞くといい』


親父さんの言葉を思い出したホムラに気づいたのだろう。ヤワラは静かに二人を見つめた。真っすぐ、偽りのない視線を向け、その整った唇を開く。


「おめでとうございます。お二人は正式に“ドライヤーガン テスター戦士”として選ばれました」


「はっ?」


「え?」


「お二人には――殺し合いを演じてもらいます」


「一緒に頑張りましょうね」と笑うヤワラに、ホムラは信じられない気持ちでいっぱいだった。


やけに鮮明に見える視界の中、見えたヤワラの瞳は――感情の見えない、黒い沼のような色が広がっていた。


(うそ、でしょ……)


──ねえ、ヤワラ姉。嘘だって言ってよ。




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