ドライヤーガン戦士シリーズ五ヤワラ 嬉
「うわあああ――――っ!」
耳を劈くほどの絶叫が飛ぶ。怯えた色に染まった声は、古い日本屋敷全体に響き渡った。騒がしい足音が屋敷を縦横無尽に駆け回り、複数の怒号が上がる。
「押さえろ! 押さえろ!」
「何をしているの!? 早く落ち着かせて!」
「うわああっ! 来るな! 来るなァッ!!」
叫び、暴れる男を数人の大人たちが取り押さえる。駆け寄ってきた白衣を着た男は、手にした注射器を男の腕に刺した。中身を押し入れ、徐々におとなしくなっていく男。
静かに寝息を立てる男を見て、周囲の人間が押さえる手を離していく。取り押さえられていた男はさっきの喧騒とは違い、静かになっている。
「……落ち着いたか」
「全く……どうしたっていうんだ」
――今までこんなこと、一度もなかったのに。
困惑に満ちた人間たちは、いくつか会話をすると数人を残して部屋を出た。険しい顔を宿したまま。
「……暇だなぁ」
見つめた青い空に、呟いた言葉が吸い込まれていく。温かい日差しに、ついこのまま眠ってしまいそうだ。
――二学年が修了し、学年が変わった春。世間的には春休みなんて言われるこの時期。本来なら宿題や友達と遊ぶのが普通である中、少女――紀眞ヤワラはただ一人、ぼうっと空を眺めていた。
(今日は習い事もありませんし……)
常にやっている算盤や生け花などの習い事は今日はなく、学校から出された宿題なんてものはとうの昔に終わっている。友人がいないわけではないが、突然誘って遊べるような間柄の人間は残念ながらヤワラにはいなかった。
(本も、読み飽きてしまいましたし)
もう何度も読んだ本を見下げる。内容はすでに一言一句逃さず頭の中に入っていて、再び読む気にはなれなかった。何をしようかと考えつつ、ぼんやり日向ぼっこをしていればバタバタと騒がしい足音が家の中を駆けていく。
(なんだか最近は家の人間も忙しそう)
あちらこちらで聞こえる足音を聞きながら、ヤワラはつまらなさそうにため息を吐いた。
――一昨日の朝方から騒がしくなった家に気が付かないほど、ヤワラは鈍感ではない。焦燥に駆られる家人の様子に、付き人の紗枝に何事かと問いただせば、「ヤワラ様には関係のないことですので、お気になさらず」と言われて知ることを絶たれてしまったのが、一昨日の昼の事。とはいえ、紗枝の言う通りに気にしないで生活していられるほど、図太い神経もしていない。
「……落ち着きませんね」
一昨日よりも随分と落ち着いたものの、いつもなら一緒にいるはずの紗枝がいない上、どこか重々しい空気のままでいる自分の家にいつもの安心はやってこない。今日だって、いつもなら誰かに声をかけて手伝いの一つでもしようかと思うけれど、それも家の人たちの必死な顔を見てしまえば幼心でもやろうとは思えなかった。
ぼうっと空を見上げているのもそろそろ飽きて来たヤワラは、手に持った本を縁側に置き、庭の池に向かった。池の中には三匹の鯉が泳いでおり、優雅に自由に池の中を泳ぎまわっている。勝手に餌をやると怒られてしまうけれど、眺めているだけなら大丈夫だろう。ヤワラが近づけば、鯉たちは彼女に気が付いたのかスイスイと近寄ってくる。
「りんさんは今日もいいツヤしてますね。あかさんは今日も元気いっぱい」
指を差し出せば、餌を食むようにぱくぱくと口が動く。りんさん――もとい、赤いツヤのある鯉は、ヤワラが来たのを嬉しそうにしており、パシャリと水面を動かした。あかさん――もとい、小さくて赤ちゃんみたいな鯉は、そんなりんさんの周りを楽し気に回っている。ちなみに我関せずと池の端で眠っているのは、黒い模様をその身に持っている――くろさんだ。
(かわいいなぁ……)
癒される感覚に綻ぶ頬。人間の慌ただしさなんかどうでもいいとばかりに泳ぐ鯉たちは、自由で心底羨ましい。
――パチッ。
「……?」
不意に視界の端が瞬いた。何かを感じ取ったのか鯉たちが激しく跳ね、ヤワラを心配そうに見上げる。
(だめ、さわいじゃ――)
宥めようとするものの、視界の中で弾ける火花はどんどん数が多く、大きくなっていく。くらりと頭が揺れた瞬間、ひと際大きく視界が弾けた。目の奥を包む白い光に、思考が全て引きずられていく。
――気が付いた時には、ヤワラは自分の知らない世界にいた。
「……どこだろう、ここ」
知らない建物、知らない物があちらこちらに見える。大きな空を劈くように聳え立つのは、鉄の建物達。周囲を歩く人々は揃って知らない装いをしており、カラフルな色に目がチカチカとしてしまう。
(夢、かなぁ……)
それにしてはしっかりとした感覚に、夢であるとは到底思えなかった。周囲を見渡せば、突然ピヨピヨと音が聞こえる。まるでヒヨコが鳴いているかのような声は、どこか機械的で本物とは程遠い。しかし、それが響くと同時に人が波のように流れ込んできた。
「わ、わわ……っ!」
ドンと人にぶつかり、慌ててすみませんと頭を下げる。しかし、ぶつかった人は縦長のものを見つめたまま、一つ会釈をして歩いて行ってしまった。
(な、なんだったんだろう)
プップー!
「!」
「オイコラ、邪魔だ! 轢かれたいのか!」
「す、すみませんっ!」
けたたましいクラクションと怒声に慌てて歩道まで駆け抜ければ、自分がさっきまでいたのが大型交差点の真ん中だったことに気が付いた。振り返れば見覚えのない車がびゅんびゅんと走り去っていく。そのどれもが見たことがないデザインばかりで、自分の知る車よりもどこか頑丈そうに見える。
顔を上げれば、そこには空にかかる橋と、信号機。橋にはたくさんの人が歩いており、右に行ったり左に行ったりと大忙しである。
(ここは、本当に……――――)
「どこ、なの」
小さく呟いた声は、街の中の喧騒に空しくかき消されていく。
――結局、帰り道もわからないまま。とにかく人の流れに沿って行こうと歩いていれば、大きな門に阻まれた施設が見えてきた。その立派な建物をぼうっと見上げ、近くの黒い看板に目を向ける。
「小、学校……?」
上の方の漢字はまだ読めなかったが、自分も通っている施設と同じ名前を持つ部分だけは読むことができた。
(私のところとはちょっと違うみたいだけど……)
柵の向こうにはまるで貴婦人のような、高そうな帽子を被った自分と同じくらいの背をした子供たちが、先生と一緒に歩いてくる。慌てて離れれば、ガラガラと開かれる門。怖いくらい硬い雰囲気を持つそこは、同じ小学校のはずなのに、自分の知っている柔らかい雰囲気の場所とは違って見えた。
「さよーならー!」
「はい、さようなら。気を付けて帰るんだよ」
しかし、施設の雰囲気とは別に、先生と生徒たちの明るい声を聞き、少しだけほっとする。……よかった。自分の知っている世界と同じ光景に心が少しだけ軽くなったような気がした。
(それにしても、まるで外国のお屋敷みたいですね……)
門の端っこからそろりと顔を覗かせて、中を見る。中には大きな建物や広い校庭らしき場所が見える。案外中はそう変わらないのかもしれない、と思ったヤワラだったが、ふと顔を上げた瞬間――息を飲んだ。
「な、なに……あれ……」
まるでこちらを伺い見るように、首を長く落としている黒い影に、ひくりと喉が引き攣る。お化け? それとも妖怪? ……どっちにしろ、ああいう存在は初めて見たことに変わりはない。ぎょろぎょろと目のようなものが動き、子供たちを見つけてはじっと獲物を見定めるように見つめていく。
(ど、どうしよう……!)
誰かに相談した方がいいのだろうか。でも、誰かにって……誰に? 大人も子供も、まるで影など見えていないように振舞っている。影の身体を通っていく子供たちだっていた。つまり、人間には通常見えない生き物ということで――――。
「どう、したら……」
そう静かに呟いて、ヤワラは後悔した。――さっきまで子供たちを見ているだけだった影の目が、ぎょろりと落ちてくるようにこちらを見たからだ。
「ひっ……!」
影の腕らしきものが上がる。細く長い、まるで刃物のような腕が。
(なんで……どうして……)
あいつは何者なの。なんていう妖怪で、どんな化け物なの。
恐怖と疑問が綯い交ぜになって、ヤワラの小さな頭の中を支配していく。恐怖で打ち止められた口から言葉を発することも、踵を返して逃げることも、できない。
影はじりじりとヤワラの方に寄ってくる。しかし、周囲の人間は誰も助けてくれる気配はなく、それどころかヤワラを変な子を見るような目で見ては、何も言わず通り過ぎていく。さっき交差点で怒鳴られた時には、しっかりと人々の目に映っていたはずなのに。
「やだ……だめ……」
ヤワラの拒否する声なんぞ、影には聞こえていないのだろう。……否、聞こえていても、通じていないのかもしれない。ぎょろりと回る目が、ヤワラをじっと捉える。口のようなものが大きく開き、牙のようなものが見えて――影は襲い掛かってきた。
「危ないッ!」
「っ!?」
恐怖のどん底にいたヤワラに聞こえた、女の子の声。はっとした瞬間、突然体が宙に浮き、視界から影の姿が無くなった。代わりに目の前を過ったのは、黒く太いナニカ。
「ひぇっ!?」
「歯食いしばって! 舌嚙まないように!」
「は、ハイッ!」
背後から聞こえる声に、歯を噛み締める。ひゅんと風を切るようにして、彼女たちの身体が宙を舞う。その度、影の腕が眼前を通り過ぎていくのを感じ、たまらず目を閉じた。しかし、耳や皮膚から感じられる情報はなくなりはしない。それどころか目を瞑ったことでよりしっかりと感じ取れるようになってしまったようで、身体が見知らぬ女の子と一緒にぐるぐると宙を舞っては着地し、再び宙を舞っては衝撃に方向が変わる感覚を、ヤワラはより鮮明に感じ取ってしまっていた。
(何なんですかこの状況は……!)
怖い。恐い。苦しい。逃げ出したい。
目を開いて見えた黒い大きな影が夕日を背にしている光景を見てしまい、ヤワラはついそう願ってしまった。いつの間にか周囲には人はおらず、いるのは自分と知らない女の子、そして化け物だけ。
彼女の身体能力で逃げられているものの、防戦一方なのは何となく察しており、それ故にいつまで持つのか……いつ、化け物に食べられてしまうのか、怖くて怖くて仕方がなかった。
「動かないで!」
「きゃっ……!」
恐怖に逃げ出そうとした自分を、女の子の声が叱咤する。しかし、彼女の言う通りにじっとしていることはヤワラにはできなかった。
「っ、後ろっ!」
「!」
襲い掛かってくる黒い腕が、ヤワラの顔のすぐ横を走る。女の子が大きく目を見開き――そこからは世界がスローモーションに映った。
女の子の身体が吹き飛び、その衝撃で投げ出された自分。宙をゆっくりと落ちていくのが全身でわかる。
(もう、だめ――)
方向を変え、自分に襲い掛かる黒い腕を見て、ヤワラは静かに目を閉じた。
「……ま……ラさま…………ヤワラ様!」
「――!」
呼ばれる声に目を覚ます。飛び起き、周囲を見渡したヤワラは、見慣れた世話役のさえの顔を見てほっと息を吐いた。
(夢……だったんだ……)
どっと込み上げる疲労感に、肩を大きく落とす。吐き出した息は緊張に張り詰めており、夢の中の恐怖が未だ背後に迫ってきているような気持ちになる。
そんなヤワラを心配そうに眉を寄せて顔を覗き込むのは、世話係の松だった。
「大丈夫ですか、ヤワラ様」
「あ、う、うん……」
大丈夫と呟きながらも、ヤワラの顔は晴れない。その表情に、松も更に眉を下げた。幼い頃から母親同然のようにしたってくれていたヤワラが庭で倒れているのを見た時は、心底驚いた。何かあったのでは、と慌てて駆け寄ればヤワラはただ静かに寝ているだけに見えた。しかし、胸を撫で下ろしたのも一瞬。ヤワラの息が上がり始めたのだ。急いで他の人間に医者を呼びに行かせ、ヤワラの身体を部屋へと運ぶ。
布団を敷き、その上に彼女の小さい体を横たえ――今に至る。
「失礼します。お医者様がご到着なされました」
医者を呼ぶよう頼んだうちの一人が、頭を下げながら襖を開ける。彼女の後ろには白衣を羽織った初老の医者が立っていた。松が場所を譲り、彼はヤワラを診る。数分後、特に問題はないと判断され、その場にいた何人かが息を吐いた。
「きっと日頃の疲れが溜まっていたのでしょう。今日はちゃんと休んで、体力を回復するんだよ」
「あ、ありがとうございます」
初老の医者の優しい言葉に、ヤワラは頭を下げる。医者が部屋を出ていくのを見送ったヤワラは、自分の手を見下ろすと開いたり閉じたりを繰り返した。
(夢の時と、あんまり変わらないかも……)
爪が掠る感触も、掌の温度も、夢と今にそんな変わりはない。バクバクとうるさかった心臓も、今は元に戻っている。しかし、夢とは思えないほどの緊張感ははっきりと覚えているし、見知らぬ光景は未だに目に焼き付いている。……ただの白昼夢、というにはリアルすぎる体験に、ヤワラは頭を抱えたくなった。
(……どうしよう)
どうしたらいいんだろう、こんなの。誰に相談したらいい? そもそもとして、話して信じてくれるのかも分からないのに。
「ヤワラ様?」
「……いえ、なんでもありません。行きましょうか」
顔を覗き込んでくる松にぎこちなく笑って、ヤワラは再び体を横たえ、布団の中に戻った。強く握られた手は、そのままで。
――その日を境に、ヤワラは何度か似たような夢を繰り返し見るようになった。
内容は決まってあの女の子に出会い、影から逃げるだけというもの。しかし、その度に受ける恐怖や緊張感はヤワラの精神を的確に蝕み、歪ませ、彼女へと降り掛かっていた。
(最近全然寝れてない……)
込み上げる欠伸を噛み締め、ヤワラは終わった宿題をランドセルに仕舞う。どれだけ眠れなくても、やらなきゃいけないことはいっぱいある。立ち止まっている時間は、ない。
トントン。
「ヤワラ様。そろそろお夕食のお時間ですよ」
「あっ、はい! 今行きます!」
襖が叩かれ、掛けられた声にヤワラは慌てて立ち上がる。机の電気を消して部屋を出れば、松が出迎えた。
食卓に向かえば、珍しく父と母が揃っていた。最近は本当に忙しそうだったのに。落ち着いたのだろうか、と考えながら、椅子に腰をかければまだ温かい料理が机いっぱいに広がっていた。
「それじゃあ食べるとしようか」
「ええ」
「「「いただきます」」」
三人揃って両手を合わせる。箸を手にして早速メインディッシュのハンバーグを割れば、柔らかくほろりと崩れた。一切れ食べて、染み出す肉汁にほっぺが落ちそうになる。うーん、美味しい。
付け合せのポテトサラダやスープなど、バランスよく食べていれば父と目が合った。柔らかく微笑む瞳に、首を傾げる。
「お父さん?」
「いいや……ああ、そういえば学校はどうだ? 新しいクラスには慣れたかい?」
「はい。みんな仲が良くて、いいクラスですよ」
「そうか。それは良かったな」
ぎこちない父の反応にどうしたのかと首を傾げつつ、ヤワラはご飯を頬張る。それを見た母が「ゆっくり食べなさい。ご飯は逃げたりしないわ」とくすくす笑って言う。その言葉に少し恥ずかしくなったヤワラは、箸を置いてお水を飲んだ。
僅かな恥ずかしさを残しつつ、さっきよりもゆっくりと食事を進める。楽しそうに話をする両親を見つつ、ヤワラはここ最近見かける夢のことを思い出していた。
――見たことない建物ばっかり。
知らない人達。知らない服装。知らない機械。どれをとっても、ヤワラには理解できないものばかりで溢れている世界。現実とは思えない、けれど現実みたいな世界。それはまるで、この先の未来を見ているかのようで――――。
(……もしかして)
「……未来、だったり……?」
いやいや。そんなわけがない、なんて頭を降っていれば、ふと視線が突き刺さるのを感じる。顔を上げれば、心配そうな顔をした父と母と目が合って。
「どうしたの突然」
「熱でもあるのか?」
「あ、いえ。何でもありません」
父と母の言葉に首を振り、ニコリと笑う。二人は少しの間心配そうにヤワラを見つめていたが、再び箸を動かす彼女を見て安堵したのだろう。再び優しい雰囲気が漂う食卓で、ヤワラは両親との時間を過ごした。
──しかし、部屋に帰ったヤワラを待ち受けていたのは、抱えきれないほどの不安と恐怖だった。
(こわ、こわかった……っ)
カタカタと震える体を引き寄せ、扉の前で体を縮こませる。ヤワラはずっと我慢していたものが一気に吹き出してきたのを感じていた。早く一人になりたいと願う反面、一人は怖いと叫ぶ心を抱きしめるように、膝を引き寄せる手に力を込めた。
──頭を再び過ぎる“可能性”。それは優しいヤワラにとって見て見ぬふりができるものではなくて。
……もし。もし本当に自分の見ている世界がこの世界の未来だというのなら。
きっとそれは、とてつもなく大変なことだ。それはもう、世界を揺るがすくらい、大きな出来事。
黒い影の存在を思い出し、ヤワラは身震いする体を抱きしめる。涙が溢れ、零れてしまうのを堪えることにヤワラは必死になった。触れた肌は鳥肌が立っており、肌寒さに手を擦り付けた。なんでもいい。少しでも自分が安心出来るものが欲しかった。
「あんな化け物……勝てっこない……っ」
何度も何度も引っ張られた足。何度も何度も引きずられた手。薄い腹だって、何度串刺しにされたか分からない。
ヤワラが影に触れた回数だけ、守ってくれていた女の子たちが無惨にも薙ぎ払われる。そのままピクリとも動かなくなった子だっていた。立ち上がり、叫んでくれた女の子だっていた。それでも、自分は一度としてそれに応えられなかった。
無防備な自身を何度も貫いてきた影は、ヤワラの中で完全なるトラウマと化していた。
「もう、見たくないです……」
それはずっと感じていて──けれど、ヤワラが初めて口にした弱気だった。
回数を重ねていく事に徐々に鮮明になっていく光景は、時折自分が本当にそこにいるかのように錯覚してしまうようになる。女の子に触れる感触も、打たれ宙を飛ぶ感覚も、刺された時の痛みも。──まるで本当のもののように感じてしまう。……夢であるはずなのに。恐怖も痛みも、幻であるはずなのに。それはヤワラのことを的確に、確実に、蝕んでいく。
(どうしたら、いいんでしょうか……私は……)
最早夢の中で終わる出来事ではない。寝ている間、授業の合間、ご飯の時、お風呂に入っている時──いつでも、どこでもやってくるその時間が、怖くてたまらない。いつか自分がどっちにいるのかわからなくなってしまうのでは無いか。いつか自分の体が本当に動かなくなってしまうのではないか。いつか本当に死んでしまうのでは…………。
(だめっ、弱気になっては)
ヤワラは落ちそうになった思考を、首を振って必死に引き止める。気持ちが落ち込むと、嫌なことばかり考えてしまう。嫌なことを考えれば、それが現実になってしまうことだってある。
「大丈夫……だいじょうぶ……」
ヤワラは何度も自分に言い聞かせた。しかし、ヤワラはまだ子供である。……そう簡単に、自分の感情を切り替えられるわけがなかった。
(……きっと、私じゃなかったら)
自分みたいな弱い人間でなく、もっと強い人がこの力を持っていたなら、きっとこんなことにはなっていないのだろう。夢は夢だと、現実は現実なのだと、しっかりと区別して生活が出来る人であれば。
「……だれか」
──たすけて。
そう動いた唇は音を発することなく、ヤワラの部屋にゆっくりと溶けていった。
「……ヤワラ、大丈夫ですか?」
「ぁ……」
ふと飛んだ意識を引き戻す。隣を振り返れば、心配そうにこちらを見つめるチカラと目が合った。ふわりと風に揺れる白い髪は彼女に似合っていて、とても綺麗だ。
「本当に? 本当に大丈夫です?」
「ふふっ、本当ですよ」
「それなら、いいんですけれど……」
ヤワラの言葉に、再三心配の声を投げかけていたチカラは、ゆっくりと視線を外した。歩き出す彼女の隣を一緒になって歩きながら、ヤワラは自己嫌悪に陥っていた。
(……ダメですね、私)
いくら寝不足だからって人様に心配かけてしまうなんて、情けない。これでは紀眞家の娘として、恥ずかしいと思われてしまう。自嘲するように笑みを零せば、いつの間にこちらを見ていたのか、チカラと目が合った。なんだか罰が悪くなって、つい視線を逸らしてしまう。それがわかりやすさを助長していると知っていても。
「何か、悩みごとでもあるんですか?」
「えっ」
「あんまり、寝れてないみたいだから……」
おずおずと、心配そうに話しかけてくれるチカラに、ヤワラは目を見開く。気を使われているのが分からないほど、ヤワラは鈍感ではない。何とも不甲斐ない気持ちを隠すように、苦笑いをこぼした。
「……わかる?」
「はい。……僕だけかも、しれないけど」
「そっかぁ」
(まさか見破られちゃうなんて)
ぼーっとしちゃっていたのはともかくとしても、寝れていないことに気づかれるとは思っていなかった。
とはいえ、バレてしまった以上仕方がない。それに、誤魔化して納得してくれる子じゃないことは、よく分かっている。伊達に従姉妹をやっていない。
(……話してみても、いいかもしれない)
もし信じてくれなくても冗談だと笑い飛ばせばいい。そう思うくらいには、ヤワラは疲弊しきっていた。
「……私、今変なこと言うかもしれないけど、いいですか?」
「! もちろんです!」
握り拳を作って頷くチカラに、少しだけ安心して息を吐く。ヤワラはゆっくりと足を止めると、「どこから話そうかなぁ……」と呟いた。休憩の行き渡っていない頭の中は、言いたいことが上手く纏まらなくて大変だ。
うーん、うーんと何度か唸って、ヤワラは殊更ゆっくりと口を開いた。もう順番に話せばいいよね、と。
「私、最近変な夢、っていうか……未来が見えるみたいなんです」
「みらい?」
チカラの驚く声に苦笑いをして、ヤワラは視線を下げる。……そうだ。その反応が普通なんだ。受け入れられなくて当然だと何度も心に言い聞かせて、ヤワラは目を閉じた。思い出すのは、未来かもしれない景色の数々。
「知らない世界の話を見るんです。知らない人、知らない服、……知らない、私たちくらいの子供がいて」
「……」
「その子たちが変な人たちに怖い目にあわされて……私も、何回も泣きそうになって……」
怖い黒い影に追われる夢は、いつしか人の形を持ってヤワラの前に現れた。例えば筋骨隆々の男であったり、例えば棒のような手足でフラフラと歩く女であったり。上手く見えない顔は影のように真っ黒だけれど、彼らがどんな表情をしているのかは何故か分かってしまって、それが余計に恐ろしかった。
子供達はそんな彼等を真っ直ぐ見つめ、苦悩し、闘い、抗う。そんな子達にヤワラは何度も胸を打たれ、何度も力になりたいと願った。――――しかし、最初は触れられた彼女たちにも、回数を重ねる毎に触れられなくなってしまった。伸ばした手が何度も空を切る。掛けた声が透明の膜に弾かれ、自身の頭を割れんばかりに刺激する。
「何度も何度も助けようって思って……でも出来なかった。私には、彼女たちを助けることなんて出来なかった」
そう言って笑うヤワラの、何と儚いことか。今にも壊れてしまいそうな彼女に、チカラは心を痛めた。チカラはヤワラが日に日に疲弊していくことに、少し前から気がついていた。けれど、話そうとしない彼女に聞いてもいいのかな、なんて二の足を踏んで、踏んで。気がつけば彼女の限界はすぐそこまで迫っていた。
――ずっと隣にいたのに、今日になるまで声をかけられなかったことに、言葉に出来ないほどの罪悪を感じる。
彼女は語る。知らない人間の悪意に巻き込まれる日々。どこにも隙のない、悪意と邪心に息が苦しくなる毎日。それは彼女たちにとって、どれだけ恐ろしい時間なのだろうと。そして、彼等に立ち向かうために振り絞る勇気は、一体どれだけのものなのかと。
「……でも、あの子たちは凄いんですよ。私と変わらないのに何度も悪い人を追い払って……」
「……」
「すごいよね。……私には、きっと出来ない」
ヤワラの静かな声に、チカラはじっと彼女を見つめた。その視線に、ヤワラはぎこちなく笑みを浮かべた。自身の不甲斐なさを自嘲するような笑顔だった。
「……そうですね。でも、それなら僕たちにも出来ることを、探してみてもいいと思いませんか?」
「えっ」
チカラの言葉に、今度はヤワラが声を上げる。予想もしていなかった提案に、ヤワラは首を傾げる。――今の言葉、まるで自分の言っている“未来を見ている”という主張を、受け入れているように見えるんだけれど。
「信じて、くれたの?」
「? 嘘じゃないんですよね?」
「う、うん」
「なら、信じます」
にこりと笑みを浮かべたチカラに、ヤワラは驚きを隠せない。どうせ笑い飛ばされてしまうだけだと思っていたのに。
(そんな、簡単に……)
思ってもいなかった状況に、ヤワラはひどく混乱した。しかし、チカラはそんな彼女を他所に、「できること……できること……」と小さく呟きながら宙を見ている。上を見ながら呟くのは、彼女が本気で考えているときの癖だと、従妹である自分は知っている。本気なんだ、とわかった瞬間。ヤワラの小さな体に、溢れんばかりの歓喜が一気に込み上げた。信じてくれた嬉しさや、一緒に考えてくれる頼もしさが一緒くたになってヤワラの世界を照らす。……ずっと一人で闘っていたのが、馬鹿みたいだった。
「うーん……そもそも、その“悪い人たち”って、誰なんでしょうね」
「え?」
ふと、チカラが呟く。
「ただの人間なのか、それともその影の化け物が人間に変装とかしているのかも……。そしたら弱点とか倒す方法とか、変わっちゃうんじゃないかなって」
「……確かに。そうかも」
「それに、ホラー映画とか大丈夫なヤワラが怖いっていうの、珍しいなあって」
「そう、かな?」
チカラの言葉に、柔く言葉を返す。確かに怖いものとか平気だけど、だからと言って全部が大丈夫なわけではない。もちろん、突然の音に驚いたりもするし、本当にあったら怖いんだろうなって思うこともヤワラにはある。――ただそれが、人間相手ではなく、動物相手に限っているというだけで。
(でも、言われてみれば、相手のことなんて全然知らないですね……)
「ふっふっふっ……これは気になりますね」
「えーっと……チカラちゃん?」
「その“悪い人たち”が何なのか、探ってみませんか?」
「ええっ!?」
ぐいっと顔を寄せ、キラキラと輝く瞳が向けられる。深い青色の瞳は、まるで夜空みたいに綺麗で、ヤワラはつい吸い込まれてしまいそうになる。
(って、そうじゃない!)
頷きかけたヤワラが、慌てて正気を取り戻す。流されたらダメ。
「ち、チカラちゃん、なんか人が変わってない? それに、わざわざ自分から調べるなんて、危ないですっ」
「そんなことありません!」
「あるよね!?」
意気揚々と言われたチカラの言葉に、つい全力で突っ込んでしまう。いつもは御淑やかな彼女だが、一度好奇心が煽られてしまうとこうして暴走してしまうのだから、人ってわからない。
詰められる距離。気が付けば鼻先が触れそうなほど近い顔に、苦笑いしかできないヤワラ。
「近い近いっ! チカラちゃん、近いよっ!」
「いいじゃないですか! 僕も協力しますから!」
「いやっ、あの、別に私は……!」
「寝れないのも、変わるかもしれませんし!」
その言葉に、ヤワラははっとする。――そうだった。そもそも、なぜ寝られないのかという話をしていたのだった。そこから夢の話になり、夢の中の彼女たちに思いを馳せ……そして、何か役に立てないかと考えている。
(……もし、彼女たちの役に立つものが見つかったら)
役に立てることがわかったら。もしかしたら今よりちょっとだけ、安心して見ていられるのかもしれない。歯痒さに唇を噛みしめてしまうことが無くなるかもしれない。そう考えれば、チカラの言う大元の“悪い人”探しも、効果があるのかも。
「ね、ヤワラ。一緒に頑張りませんか?」
「っ」
ヤワラの小さな両手が、チカラの小さな両手に包まれる。温かい人の体温に、ヤワラの心が少しだけ絆された。
「あれ。もしかしてヤワラちゃんと、チカラちゃんかい?」
――ヤワラが頷きかけた、その時。
軽く、どこかハスキーな声が聞こえ、自身の名を呼ぶ。振り返れば、そこには見たことのない人がこちらを見下げていた。
(男の人……?)
ヤワラは絆された心を引き締め、男を見つめる。一見、爽やかでとても悪意があるようには見えない、その人。どこかで見た覚えのある男性は、自分の父よりもひょろりとしていて、少しだけ頼りなさそうだった。へらりと笑う彼は着物に合わせた草履で地面を擦ると、「わあ、久しぶりだなぁ。大きくなったね」とにこやかに話しかけてきた。
ヤワラは母の『印象のよさそうな人ほど危ない』という言葉を思い出し、慌ててチカラを背中に隠して男を睨みつけた。少し驚いた男性と目が合う。
「あ、あの、誰ですか……?」
「えっ」
振り絞るように告げた言葉に、今度は男が目を見開く。面食らったような顔は今更だが整っており、女の子にモテそうだった。男は「うーん?」と首を傾げると突然「ああ!」と声を上げた。しゃがみこみ、にこりと笑みを浮かべる。向けられる瞳は真っ白で、どこを見ているのかわからない。
「ごめんごめん。小さい時にしか会ってないし、わからないよね。俺は匕背サワラ。君たちの親戚……みたいなものかな?」
「「さじせ……!?」」
男の名前に、二人は覚えがあった。
(さ、匕背っていえば、いつもお父さんとかお母さんが言ってた……!)
――匕背家と紀眞家は、先祖代々から関わりがある家柄だった。
昔から、紀眞家の女子は小学校に上がる年代になると、匕背家の男と婚約を交わすのが決まりになっていた。血筋が汚れるのを恐れる紀眞家は、匕背家を全面的にバックアップする代わりに婿を用意することを強要している。相手の年齢や、子供たちの気持ちはもちろんそのやり取りには含まれていない。そして二人は結婚し、子供を産む。その子供たちも両家から引き合わされ、結婚させられる。
……世間一般からすれば異様な関わりだったが、生憎その家で育ったヤワラとチカラはそれに気づくことができない。それどころか、それが“普通”だと思っていた。そして、母たちは口を酸っぱくして言うのだ。『匕背家の人間には失礼のないように』と。
「ご、ごめんなさいっ!」
「匕背家の人だとは知らなくって……!」
「あはは。気にしないでいいよ。俺だって気づかないで通り過ぎちゃうところだったし。それに、小さいときに会ってるって言っても、二人がまだ赤ん坊のときだったから、覚えていなくて当然だよ」
柔らかく微笑む男性――サワラというらしい――に、ヤワラとチカラは下げた頭をゆっくりと上げた。ふわりと微笑む彼は、やはり第一印象と変わらず優し気だ。ホッと強張っていた肩から力が抜ける。……良かった。変な人とかじゃなかった。
「それより、どうしたの? もう結構暗くなってると思うんだけど……何か相談ごと? 帰り道わからなくなっちゃった?」
「あ、いえ……っ」
「ええっと」
「うん?」
首を傾げ、下から見上げるようにサワラは二人を見つめる。余り見かけることのない白と灰色の瞳にどきりとしつつ、ヤワラはどうしようかと思考を巡らせた。……果たして本当のことを話していいものか。それとも、適当に誤魔化した方がいいのか。
(ど、どうしよう……)
そんなヤワラを他所に、チカラはサワラの前に一歩踏み出した。突然の出来事にヤワラはビクリと肩を震わせる。
「悪い人を退治しようってお話してたんです」
「えっ? 悪い人? 退治?」
「わー! わー!!」
(何言ってるのチカラちゃん……!)
どう話そうか悩んでいる最中。まさか前提の話を全てすっ飛ばして、その部分だけを話し始めるチカラに、ヤワラは内心ぎょっとした。つい大きな声を出してしまうくらいには、心底驚いた。
きょとんとして首を傾げるサワラに、話を続けようとするチカラの口を慌ててヤワラが押える。もごもごと言っているが、話してあげる気は毛頭ない。寧ろそのまま黙っててと言いたい。ヤワラはサワラを見つめると、急いで首を横に振る。
「あっ、と! そのっ……私の、夢の話です!」
「夢?」
「はいっ。え、ええっと……」
ヤワラは話し始めたはいいものの、結局どうしたらいいのかわからなくなっていた。誤魔化すか、それとも本当のことを言うべきか。
(チカラちゃんは信じてくれたからいいけど……)
……もし。もし本当のことを話して嗤われてしまったら。それは信じてくれたチカラまで嗤われてしまうのと同義になってしまう。それだけは嫌だ。信じてくれた気持ちを仇で返すなんて、絶対にしたくない。でも、すぐに嘘の夢の内容なんて思いつかないし、それで矛盾が生じてバレてしまったらそれこそ意味がなくなってしまう。
だんまりになってしまったヤワラを、サワラはじっと見つめる。小さな彼女の拙い言葉を、急かすわけでもなく待ってくれているのだ。ヤワラはチカラを見る。何を問うわけでもなく、頷いた彼女にヤワラの心は決まった。
(……この人なら)
――大丈夫、かも。
「……未来の、夢を見るんです」
「未来の夢?」
「はい」
ヤワラは小さく頷くと、チカラに話したことと同じことを話した。その間、サワラはただただ聞き役に徹してくれ、その優しさにヤワラが話し終わる頃には“嗤われてしまうんじゃないか”なんて不安は、綺麗に消え去っていた。
「ていうことなんです」
「……そっか」
「で、でも、気のせいかもしれないし、本当に夢かもしれないです、から」
付け足すようなヤワラの言葉に、しかしサワラは笑うわけでもなく、何かを考えるように視線を落としていた。
(あれ……?)
意外な反応をする彼に、ヤワラは小さな違和感を覚える。……なんだろう。さっきまでの優しい雰囲気が、少しだけ違うものになっているような気がする。なんだか嫌な感覚がして、ヤワラが声を掛けようと口を開き――それよりも先にサワラが顔を上げた。にこりと笑う顔は、さっきと変わらず優し気だ。
「うん。でも、それが未来だってヤワラちゃんは思うんだよね?」
「えっ、は、はい……」
「じゃあ、俺も信じるよ」
そう告げたサワラが、ヤワラの頭に手を乗せる。まるで子供をあやすように優しく撫でられ、ヤワラは目を瞠った。――まさか、こんなに簡単に信じてくれるとは思わなかった。
(サワラさんって、凄くいい人……)
「でも、そろそろ本当に暗くなっちゃうから、お話はまた今度にすること」
「「あっ」」
「ほら。早く帰らないと親御さんが心配するよ?」
優しいサワラの言葉に、二人は同時に空を見上げた。夕日に染まっていた街は、いつの間にか紺色に染まっており、星がキラキラと輝き始めている。どれだけ話し込んでしまったのか、ありありとわかってしまった。
(お母さんに怒られる……!)
そう思ったのは、ヤワラだけではなかったようで、チカラも少し慌てた様子でヤワラの袖を掴んだ。
「早く帰りましょう、ヤワラ」
「うんっ」
「それじゃあ、気を付けて帰ってね」
「はいっ!」
「ありがとうございます。サワラさんもお気をつけて」
柔らかく微笑んだサワラに見送られ、二人は慌てて残りの帰路を走り出した。幸い、そう遠くない距離だ。体の小さな二人でも無尽蔵な体力を持つ子供からすれば、走り切るのは簡単なもので。
チカラと別れたヤワラは、自分の家の前まで走ると、ふと背後を振り返った。そこは家に帰ろうとする人たちで溢れていて、サワラさんの姿はもう見えない。
「……」
(……本当に、信じてくれたなんて)
ヤワラは僅かに込み上げる歓喜を胸に、再び前を向く。見慣れた引き戸をゆっくりと開く。少しだけ軽くなった気持ちで見つめた家は、いつもより明るくて暖かい。
(これも、二人のお陰かな)
子供の戯言だと、単なる夢なんじゃないかと疑う言葉すら投げられなかったのが、ヤワラはとてつもなく嬉しかった。大きく息を吸って、ヤワラは家の中に足を踏み入れる。――今度は家族に相談してみるのもいいかもしれない。
「ただいま!」
ヤワラの元気な声が、数日ぶりに家に響いた。
「本家、ですか?」
「はい」
松が頷き、宿題をやっていたヤワラは目を瞠る。
学校のない日曜日。昨日出された宿題をコツコツとやっていた最中に言われた言葉が、ヤワラの頭を反芻する。
「本日のお夕食は、本家で摂ることになりました」
「えっ、どうしてですか?」
「さぁ……。ですが、当主様がぜひヤワラ様とお話したいのだとか」
首を傾げつつもそう言った松は、本当に何も知らなさそうだった。ヤワラは「わかりました」と頷くと途中だった宿題に再び向き合う。しかし持ったままの鉛筆は、さっきとは違い、全く動く気配はない。
(私と話がしたいって……何かありましたっけ)
――ヤワラは数年前、一度だけあったことのある“当主様”を思い出す。
黒い着物を着ていて、どこか怖い顔をしている当主様は、正直ヤワラにとっては苦手な人だった。口数も少なく、あまり笑うこともしない。それでも小学生に上がるまでは何かと行っていた本家で、時々話しては積み木やおままごとセットで遊んでくれたこともある。かと言えば、両親には厳しくて、怒っているところを何度も見かけていた。……だからか、ヤワラの中で当主様は“怖い人”、“よくわからない人”という認識があった。
「……私、何かしてしまいましたっけ」
拭いきれない不安を抱えつつ、ヤワラは宿題をやるためにノートに鉛筆を滑らせた。
そしてやってきた夕食時。ヤワラは心当たりがないまま、迎えに来た黒い車に乗り込んだ。
――本家があるのは、ヤワラの住む街からおよそ三十分先にある隣街だった。ヤワラたちの住む住宅街ではなく、老舗が並ぶような、そんな街並みはヤワラにとっては楽しい場所の一つで、見ていて飽きが来ない。
夕方になって少し静けさを感じる街並みを眺めていれば、車がゆっくりと速度を落としていく。反対側の窓を見れば、そこには記憶と変わらない屋敷が聳え立っていた。
(お、っきいですね……)
車から出て、屋敷を見上げる。昔ながらの二階建ての屋敷は、縦にも大きいが何より横に広い。ついどこまであるのかと視線を向けてしまい、先の見えない光景に伺うのをやめる。
……自分の住んでいる家も大きい方だってみんな言うけど、こっちに比べたら全然小さい。
「ようこそお越しくださいました、ヤワラ様」
「あ、は、はい」
「お部屋までご案内します」
深々と頭を下げる、女中らしき人に反射的に頭を下げる。すぐに踵を返してしまったその背を追いかけつつ、ヤワラは屋敷を見渡した。前に来た時と、あまり変わっていないものの、所々に増えた物を見つけてはこの家の生活感を思う。
大きな屋敷を絶え間なく進んでいけば、通されたのは広い静かな部屋だった。掘りごたつがあるその広間には、中心に囲炉裏があり、その隣には大きな机と高級そうな座布団が四枚置かれていた。
「こちらでお待ちくださいませ。ただいまお茶をお持ちします」
「お、お願いします」
女中の言葉にヤワラは圧倒されつつも頷き、言われるがまま手前に敷かれた座布団に腰を下ろした。ぐるりと部屋の中を見渡す。
(な、なんかすごい……)
高そうな額縁や花瓶、生けたばかりなのであろう花もすごく綺麗で、見ていて華やかな気持ちになる。上にかけられた掛け軸に書かれた文字は読めないものの、高そうなことだけはわかる。……正直、凄いとしか言いようがない部屋に、ヤワラは緊張に体を硬くする。そんな部屋に圧倒されていれば、ふと正面の戸が引かれた。見えたのは、黒い着物を着た妙齢の男性。その姿にヤワラは緊張を飲み込んだ。
漏れ出るオーラが、自分とは違うのだと言っている。心臓が緊張で、今にも飛び出しそうだ。
「遅れてすまない。まずは、来てくれてありがとう」
「い、いえっ」
軽く頭を下げる男性に、ヤワラも慌てて頭を下げる。厳かな雰囲気は未だ小学生であるヤワラにとっては新鮮で、慣れない感覚に身を捩った。
(き、緊張する……っ)
冷たい指先を擦り合わせていれば、自分の後ろの障子が引かれた。入ってきたのは先ほどの女中で、彼女の手にはお茶の入った湯呑が盆に二つ乗せられていた。音も立てず静かに湯呑が出される。……何から何まで自分の家とは段違いなもてなしに、ヤワラはどうしたらいいのかわからなくなってくる。
そんな彼女の心境に気が付いたのか、当主様――否、この家の当主は少しの間をおいて「……足を崩してもらって構わない」と告げた。しかし、それが逆効果になってしまうとは、思ってもいなかったのだろう。背筋を伸ばしたヤワラを見て、当主は苦い気持ちを抱えつつ、静かに口を開いた。
「……本題に入ろう。ヤワラ――君が未来を視たというのは、本当か?」
「っ、!」
当主の言葉に、ヤワラは目を見開く。知るはずのない人間の口から言われたことに、心底驚いたのだ。
「な、なんでそれを……!」
「盗み聞くつもりはなかった。だが、サワラの付き人の報告に、そのようなことが書いてあっただけだ」
「サワラさんが……」
ヤワラは震える声で反芻する。自分の預かり知らぬところで話が大きくなっていたことへの恐怖や、この先何を言われるのかわからない不安が、ヤワラの小さな手を強く握りしめさせた。
そんなヤワラを見ていたのか。当主は眉を下げると「すまない」と謝罪を口にした。
「本来、このような盗み聞くことをするのは良くないとわかっているのだが……いかんせん、あの子は少し特殊でな。責めるのはやめてやってくれ」
「特殊……ですか?」
「ああ。それはまた別に話そう。それよりも――君の話は、本当なのか?」
鋭い眼光と、言葉が自身を貫く。ひゅっと息を飲んで、ヤワラは震える声で小さく頷いた。……嘘は、つけそうにない。
「本当、です」
「……そうか」
「で、でもっ、本当に未来かどうかわからないのは、本当です。本当に……ただの夢、かもしれないし……」
尻すぼみになっていくヤワラの声を、当主はじっとこちらを見つめたまま聞いている。その威圧感に、ヤワラは込み上げる恐怖を感じていた。頭に浮かぶのは、当主が両親を叱っていた光景で。
――怖くて、たまらなかった。
(……言わなきゃ、よかった)
それもこれも、サワラに夢の話をしてしまったから招いた出来事だ。こんな思いをするなら、やっぱりあれはただの夢で、自分の勘違いだと。そう一人で解決してしまえばよかったのかもしれない。
(チカラちゃんも……誰かに話しちゃうかも)
ヤワラはそんな妄想でしかない恐怖に身を震わせる。……確かに、夢の話をチカラに聞いてもらったあの日から、ヤワラはぐっすりとまではいかないものの、しっかりと寝る事が出来ていた。お陰で最近は体調もいいし、寝不足に目を擦ることも少なくなっている。……でも、それとこれとは話が別だ。
(嗤われたら……馬鹿げていると罵られたら……)
――自分は、どうしたらいいんだろう。
ヤワラが自分の選択を後悔し始めている最中、当主は少し考えるように宙へ視線を投げた。そして、ゆっくりと……どこか言いにくそうに口を開く。
「……やはり伝えねばならないな」
「えっ……?」
「君から本当のことを聞くには、話しておいた方がいいんだろう。ああ、安心してくれ。君を嗤うことは決してしないと約束しよう」
当主の言葉に、ヤワラは不安げに視線を上げる。真剣に、真っすぐ向けられた視線は、ヤワラを温かく包み込んでくれる。彼の言葉が嘘ではないと、彼女は本能で理解した。当主は告げる。
「君のそれは、幻覚などではない。――未来を見据える、立派な目だ」
「――!」
(未来をみすえる、目……)
真っすぐと、ヤワラを射抜く視線。その目は子供のヤワラから見ても、嘘をついているようには見えなかった。それに、はっきりと“幻覚ではない”と言ってくれたことに、ヤワラは言葉にできないほどの喜びと、安堵を胸に宿す。
「だから大丈夫だ。君の目は、誇るべきものだ」
真綿でくるむような優しい言葉に、ヤワラはツンと鼻の奥が痛くなるのを感じた。
(勘違いじゃ、なかったんだ……)
その瞬間、周りを疑い、自分すら信じることが日々がぷつりと切れたような気がした。信じていいのだと、むしろ信じるべきなのだと告げる視線に、浮かぶ涙がヤワラの頬を撫でる。次々に零れる涙を慌てて拭う彼女の様子を、当主は優しい目をしてただただ見つめる。伸ばした手がヤワラの小さな頭を撫で、その温かさに涙は更に溢れた。
しばらく泣いて落ち着いたヤワラは、「……すみません」と告げると当主を真っすぐ見つめる。その視線を受け、当主は話を続けた。
「そもそも、君の目が幻覚じゃないと言ったのには、理由があるからだ」
「理由、ですか……」
「ああ。君も見ただろう。サワラの――色違いの瞳を」
当主の言葉に、ヤワラは思い出す。灰色と白を持つ、二つの瞳。
――匕背家は代々、目が悪くなる傾向があった。
もちろん、単に視力が悪いわけではない。年齢を追って徐々に見えなくなっていく視界。三十手前になった時には、ほとんど失明と同じ状況になるのが、ここ最近でわかっていること。そんな彼等を支えるのが、紀眞家の役目だった。
彼等の見えなくなってしまう目の代わりを紀眞家が負い、その代わりに婿を差し出すことを、昔の紀眞家は条件として彼等に提示した。もちろん、匕背家は最初は納得しなかったが、人が視界の九割を無くすことへの恐怖は、誰よりも知っている。支えてくれる人間がいるのなら、心強いと思うのは自然の理であった。
そんな背景を、ヤワラは両親からぼんやりと聞いたことはあっても、あまり理解できてはいなかった。しかし、目の前で見てしまえば、聞いてしまえば、理解せずにはいられない。そして、自分の目との関係も……。
「……もしかして、サワラさんって」
「ああ。とはいっても、君とは違い、見えるのは過去らしいが」
――“過去”。
それは未来と同じくらい曖昧で、しかし未来よりも断然信頼のできる情報源だ。しかし、晴れない当主の顔を見て、ヤワラは何となく話が終わりではないことを悟る。首を傾げて話の続きを待っていれば、それを受けた当主が静かに女中を見た。
「伏。……サワラを連れてこい」
「承知いたしました」
頭を垂れ、女中――伏と呼ばれていた――が、部屋を出ていく。その姿を見送ったヤワラは、目の前でお茶を啜る当主を見つめた。どうやら話の続きはサワラが来てから行うつもりらしい。
ヤワラは張り付いた喉を潤すため、お茶を手に取った。茶葉から入れているらしいお茶は、ヤワラの子供舌にも問題なく美味しいと感じられる代物だった。
少しの沈黙の後、聞こえてくる足音にヤワラは振り返る。
「やーだ! やーだってば!!」
「サワラ様。親方様がお呼びです!」
「行かないもん! 僕遊びたいー!!」
「ダメです!」
(えっ? 子供……?)
ふと、廊下から聞こえる声に、ヤワラは疑問を持ちつつ振り返る。見えた光景に、ヤワラは心底驚いた。
「な、なんですかあれ……」
以前、道端で出会った男――サワラが、伏と呼ばれた女性に引き摺られているところだった。
(前と全然違う……まるで別人みたい……)
予想もしていなかった出来事に唖然としていれば、当主が小さくため息を吐いた。眉間に皺を寄せ、どうしたらいいのか、と言わんばかりに頭を抑えている。
「……申し訳ない。どうやら君とあの子を合わせるのは難しいようだ」
「そ、そう、ですか……」
ヤワラは、障子に遮られた廊下をちらりと見る。
別人としか思えない声。子供が立てるドタドタと忙しない足音。周囲への配慮なんか一切見当たらない声量での抗議。……全て、あの時に見た“爽やかな男性”というイメージから大きく外れていた。
困惑するヤワラを見て、当主は仕方がないと座り直した。伺うような視線に、ヤワラは再び背筋を伸ばす。
「すまない。私では役者不足だが、知らないよりはずっといいだろう」
「は、はい」
緊張に背筋を伸ばすヤワラを見つめ、当主は語る。まるで、難しい小説を子供に読み聞かせるように、静かに、けれどわかりやすい言葉ばかりを選んで。
「サワラは過去を見ることが出来る。とは言っても、君のように風景が見えたり、誰かと関わったりするのは難しいらしいが……代わりに、その時の相手の気持ちや思考を見ることができるらしい」
「相手の、気持ち……」
「そうだ」
過去に生きた人々の思いや考えを、サワラは見ることができる。見る、と言うよりは体験するに近い形らしいが。
(似たような力でも、全く同じって感じじゃないんですね……)
サワラも自分のように、過去にあったことを体験しているのかと思っていたが、どうやらそうではないらしい。
当主の言葉を聞きながら、ヤワラはそう考える。
「その中で、サワラは君たち紀眞家の先祖に会ったそうだ」
「えっ!?」
突然繋がる出来事に、ヤワラは驚いた声を上げる。そんなヤワラを当主は優し気な瞳で見つめ返した。その視線には、今まで何度も感じたことのある、慈愛の念が込められていた。しかし、それに気づかない――あるいは、受けすぎて当たり前になっている愛情を享受しつつ、ヤワラは瞬きを繰り返す。
「先祖って、おじいちゃんとか、おばあちゃんの事ですか?」
「ああ。……正確には、もっと昔――この家が生まれたのと同じくらいだろうか」
「冷蔵庫も電子レンジもない時代だ」と続ける当主に、ヤワラは目を輝かせる。そんな時代、当主である男からすればついこの間のようなことのように感じるが、それが当たり前になっている今の時代を生きる子供からすれば、遠い過去の話だ。目を輝かせ、話を聞くヤワラに、当主は話を続ける。
「――だが、可哀そうなことに、サワラが見たのは私たちからすれば、敵となる男の目から見た光景。苦しむ少年少女を嗤い、虐げる男の見る世界だったようだ」
「そ、んな……」
「“教祖”と呼ばれているらしいその男は、世界を手に入れるため、陰陽術の中でも禁忌とされるものに手を出した。……その時の凄まじい憎悪と嫌悪、そして怒りや悲しみに、当時幼かったサワラは堪え切れなかった。必死に守ろうとしたのだろう。私たちが気が付いた時にはもう、遅かった。――サワラは、本来の人格とは別に、二つの人格を持ってしまったのだ」
「!」
――二つの人格。それを聞いて、ヤワラは心底驚く。小説でしか見たことのない出来事が、まさか現実で、しかも自分の周りにいたなんて、考えたこともなかったから。
(二重人格……ああいや。この場合、三重人格っていうのかな)
元の人格に、二つ追加したのだからいるのは三人で……ああでも、そうなってしまうのもわかるかもしれない。ヤワラだって今は安定しているが、かなり落ち込んでいた時期があった。『もし力を持ったのが自分でなければもっと……』とか『もっと心の強い人ならきっと……』なんて思いを馳せていた時がある。
(もしかしたら私も……)
あと少し、チカラ達に話すのが遅れていたら。
あと少し、自分の力を信じられずにいたら。
自分はサワラと同じようになっていたかもしれない。……そう思うととてもじゃないが他人事の様には思えなかった。
「……あの子を支えられなかった私たちにも問題がある。だからこそ、君を同じような目に合わせたく無くてな。こうして話をしているというわけだ」
「そう……だったんですね」
「そして君の話を聞いて、私は確信した。――私たちには、あまり時間がないらしい」
「えっ」
重々しく返された言葉に、ヤワラの思考が止まる。――時間がない? なぜ。どうしてそんなことが彼にわかるのか。頭を過る疑問に、ヤワラはつい体が前のめりになる。当主はそんな彼女に苦く笑みを浮かべると「詳しくは言えないがな。そういう能力を持つ者がいるのだ」と告げた。
(そういう能力って)
当主の言葉に走り出すヤワラの思考を止めたのは、驚くほど軽快な音だった。
「それなら、僕たちが武器を作ります!」
「ち、チカラちゃん!?」
スパンッと勢いよく開かれた障子の向こう。仁王立ちという言葉が似合う姿で立っているのは、ここにいるはずのないチカラだった。フンと鼻息荒くこちらを見つめてくる視線はどこか自信満々で、それと同時にヤワラは嫌な予感を覚えた。ヤワラが「待って」という前に、チカラは叫ぶように告げる。
「武器だけではありません! 防具も、緊急用の道具だって作ってみせます! 僕と、ヤワラで!」
「……ほう」
「ええっ!? 私もですか!?」
「? この前、一緒に探そうって言ったじゃないですか」
「いやっ、そうかもしれないけど……っ!」
「じゃあ一緒ですね!」
にこりと笑みを浮かべるチカラに、ヤワラは何も言えなくなってしまう。
(そうかもしれないけど、だからってなんで勝手にそんな約束しちゃうのぉ!?)
言葉が出ないというのは、こういうことか――なんてどうでもいいことを考えて、内心頭を抱える。予想外なことが起きすぎて、ヤワラの小さな頭ではなかなか処理しきれそうにもない。
当主の顔を伺うようにヤワラが視線を向ける。礼儀にうるさい当主は、きっと割り込んできたチカラにいい感情は持っていないはず。怒られる前にどうにかしてあげないと。そんなヤワラの気持ちも他所に、当主はチカラを見つめて動かない。……間に合わないかも。
「ち、チカラちゃ――」
「……ヤワラ」
振り返ってチカラに向かって口を開けば、遮るように当主の声が聞こえた。差し出されている手は、「黙っていなさい」と言わんばかりの圧を持っており、ヤワラは静かに唇を引き結んだ。当主の鋭い視線がチカラに突き刺さる。それは乱入までしてきたチカラを無言でその場に正座させるくらいの威圧を持っていた。
「……君は?」
「僕は紀眞チカラといいます。研究とかが大好きで、ヤワラとはお友達です」
「そうか」
「はい! 僕もヤワラに話を聞いて、ヤワラが未来を見ていることは知っています。詳しいことはわからないけど……でも、僕もヤワラの日常を、守りたいんです。だから、悪いひとたちを退治するための、武器とか防具とか、あとー……えっとえっと……ほ、ほかにもいっぱい! 必要なもの、全部作ります!」
「……ほう。ただの女児である、君が」
「はい!」
「チカラちゃん……」
当主の視線を真っ向から受けつつも、揺るがない目で見返すチカラに、当主は顎に手を添える。
――当主は考える。確かにヤワラを一人、未来に立ち向かわせるのはサワラの時の二の舞になってしまう。しかし、だからといって同年代の……しかもどちからと言えば、ヤワラの方が面倒を見ているような関係の子を一緒にいさせてもいいものか。と。今の最優先事項はヤワラのストレスを和らげることだというのに、それでは本末転倒になってしまうのではないかと考える。……しかし、彼女以外に充てる人間がいないのも事実。それにチカラを見つめるヤワラの視線には、疑いや苦手意識は一切感じない。当主にとって自身の人を見る目以上に信用できるものは、なかった。
「……承知した。君に任せよう」
「! ありがとうございます!」
頭を下げるチカラを見て、慌ててヤワラも頭を下げる。その様子を見て、当主は静かにはにかんだ。そしてゆっくりと立ち上がると、控えていた伏に食事の用意を言いつける。後ろでは割り込んできたチカラを叱るヤワラの姿があった。
「……ヤワラ」
「は、はいっ!」
「君は、一人じゃない。それを忘れないように」
「……はいっ!」
ヤワラのどこか嬉しそうな声を背に、当主はその場を後にした。
ヤワラは当主がいなくなった部屋でチカラと膝を突き合わせていた。
乱入してきたこと、突然人を巻き込んだことなどを一通り叱った後、女中――伏の言葉によりその部屋で夕食を頂くことになったのだ。準備ができるのを待ちつつ、ヤワラはチカラになぜここにいるのかと問いかける。チカラは「えっと」と思い出すように宙を見つめる。
「お母さまに本家へ旅行のお土産を持っていくように言われたのだけれど、誰も出なかったから中に入ってきちゃったんです。そしたらヤワラが難しい話をしていたのでつい、聞いちゃいました」
「聞いちゃいました、じゃないんだけど……えっ、ていうか旅行っていつから行ってたの? この前一緒に帰ってたと思うんだけど……」
「日帰り旅行ですね」
「千葉の海岸に行ってきたんです」と笑うチカラに、ヤワラは納得したように頷いた。確かに、隣県である千葉であれば、日帰りで来ることは可能だ。自分が宿題と睨めっこしている間、チカラは楽しい時間を過ごしていたのかと思うと複雑な心境にもなるが、よくあることだ。ヤワラも去年の夏に沖縄へ行っていたのだから。
「そっか。それで、お土産はちゃんと渡せたの?」
「はい! さっきいた伏さんに!」
にこにこと笑いながら報告してくるチカラに、ヤワラは胸を撫でおろす。良かった。これで渡すのも忘れていたなんて聞いたら、ヤワラは罪悪感で当主へ顔向けができなくなっているところだろう。良かった。本当に。
その後、ヤワラとチカラは二人で揃って本家の豪華な夕食を頂くと、来るときと同じ車でそれぞれの家に帰された。人がまばらになり、完全に夜に包まれた街並みを見つめていれば、ヤワラは少しずつ睡魔に目を閉じてしまう。それを見たチカラが、微笑まし気にヤワラを見つめる。
――久しぶりに穏やかな時間だった。難しい話もしたけれど、美味しい食事にそれももう昔の話のように思う。何より、自分の話を『子供の戯言』としてではなく、普通に聞いてくれたことがヤワラは嬉しかった。それから数十分後。ヤワラはチカラに起こされ、目を覚ました。見覚えのある景色に目を擦っていれば、チカラがふわりと微笑む。
「それじゃあ、明日! 朝の九時に僕の家に集合ということで!」
「……へ!?」
何の前触れもなく言われた言葉を理解する間もなく、チカラが車を降りていく。車が走り始めたところでヤワラは言われた言葉を理解し、再び頭を抱えた。
(だから勝手に決めないでってば……!)
翌日。ヤワラは言われた通りにチカラの家までやってきた。時間は八時四十五分。友達と遊ぶだけにしては少し早い時間だったが、声をかければすぐにチカラの母が笑顔で出迎えてくれた。話しはすでに通っているのかチカラの母は「ごめんなさいね、うちの子が」と謝りながら、チカラの部屋まで案内してくれる。
「ここよ。何かあったらちゃんと呼んでね。お昼になったら声かけるから」
「はい。ありがとうございます」
チカラの母に頭を下げたヤワラは、早速と襖に手をかけ――中から聞こえたドサドサッと何かがなだれ落ちるような音に、慌てて押し入った。
「チカラちゃんっ!?」
「あいたたた……」
スパーンと小気味いい音がしつつ、襖が開く。その先に広がる光景にヤワラは一瞬呆気にとられたが、すぐに目の前で頭を抱えながら蹲るチカラを見つけると、その傍に駆け寄った。
「だ、大丈夫ですか?」
「はい~、大丈夫です~……」
「涙目じゃない、もう……」
今にも泣きそうになっているチカラの頭を撫でつつ、足元にある辞書のような分厚い本を見て状況を察する。……恐らく、彼女の頭の上にこの本が落ちてきてしまったのだろう。ヤワラはぐるりと部屋の中を見渡し、雑多に入れられた本たちを見てため息を吐いた。整理整頓がまるでなっていない。これでは頭に落ちて来ても文句は言えないだろう。つまり、彼女の自業自得である。
「何か冷やすもの持ってきますね」
ヤワラはそう告げると来たばかりの部屋を出て、チカラの母に話をした。すると、彼女は「本当に仕方ない子」と呆れて笑うと、氷を袋に入れてタオルと一緒に渡してくれた。それを持ってチカラの部屋に戻って手渡すと、再び部屋を見渡す。
――チカラの部屋は、まるで一つの図書館のようだった。
整頓はされていないものの、図鑑や絵本、辞書等、多種多様な本が並び、壁を覆いつくしている。そういえばチカラは頭がいいんだっけ、と思い出したヤワラは、その片鱗を目にした気持ちになった。
「すごい本の数……これ全部、チカラちゃんが集めたものなの?」
「え、あ、いえ。ほとんどお父さまとお母さまのお下がりです。古い本だから今とは違うことが載っているのも多くって、時々困っちゃうんですけどね」
チカラはこぶを冷やしながらも床に落ちてしまった本を大切そうに撫でる。その視線は、まるで母が子に向けるような目で、彼女がどれだけ本を大切にしているのかがわかった。――だからこそ、ヤワラには見過ごせないことがある。
「……ちゃんと整理していれば、落ちることもなかったでしょうに」
「えへへへ」
「笑って誤魔化してもだめですー」
反省の色が全く見えないチカラの頭を軽く小突いて、ヤワラは本棚に向き合った。実験も大切だが、まずは部屋が散らかっていては何もできない。幸い、ジャンル分けするには十分な本棚が揃っている。――箱があるなら、そこに物を収めるだけだ。
「相談しながら、片づけていきましょうか」
「えぇ……」
「『えぇ……』じゃありません」
嫌な顔をするチカラに告げ、ヤワラは本に手を伸ばした。整っていく棚を見たチカラが目を輝かせて「これが、女神……!」などと変なことを言いながら手を合わせるまで、数十分。
「それで。私たちは何をしたらいいの?」
「そうですね。まずは武器の形から決めていこうと思います」
本棚を整理するヤワラに、チカラは近くにあったノートを覗き込んだ。そこには昨晩の内に書き溜めておいた『やらなければいけないこと』が書かれている。とはいえ、未知の物の作成なので穴だらけなのだが。
「うーん、武器の形かぁ……。何があるんだろう……」
「そうですね。一般的に武器といったら、日本刀とか……包丁……のこぎり……斧、とかでしょうか?」
「なんで全部刃物なの?」
「“さっしょうせい”っていうのがあるって、この前農家のおじ様がテレビで教えてくれました!」
「そ、そっかぁ」
(何そのテレビ。すごく物騒なんだけど)
まさかそんなものがテレビとして放送されているなんて知らなかったヤワラは、引き攣る頬で笑みを浮かべる。ま、まあ、チカラがそういう番組を見ている理由などは置いておいたとして。やはり刃物などの“パッと見”でわかってしまうものは、控えた方がいいように思う。
(こう……服とかで隠せるような……)
「そういうヤワラは、何かないんですか?」
「えっ」
チカラの問いかけに、ヤワラは声を上げる。考えていたところに投げられた石は、やはりというかヤワラにとっては難しく感じるものだった。
(武器……武器かぁ……)
「弓矢とか槍とか……鉈とか?」
「僕が考えたのと大差ないように感じるんですが」
「そ、そんなことないですよ! うん!」
じとと向けられる視線から逃げるように視線を逸らす。ヤワラ自身、言っていて同じことを思っていたのだから、どっこいどっこいなのかもしれない。しかし、それに頷いてしまうほど、軟いプライドをヤワラは持っていなかった。うーん、と唸ったヤワラは、ふと自分の手元を見た。雑多な中でもあまり見かけない小説の表紙には、『連続拳銃殺人事件』の文字が書かれていた。その文字にヤワラは小さく声を上げる。――単純すぎて、すっかり忘れていた。
「……拳銃」
「拳銃! いいですね!」
「えっ!?」
「作りましょう! 銃! ピストル!」
「ほ、本物はダメだよっ!?」
ぽつりと呟いた声は、幸か不幸かチカラの耳にしっかりと届いてしまったらしい。その瞬間、目を輝かせたチカラに一抹の不安を覚えたヤワラは、慌てて制止を掛けた。もちろん、チカラだって馬鹿ではない。「わかってますよ」と笑う彼女に、ヤワラはホッと胸を撫でおろす。……よくよく考えれば、拳銃なんて複雑なもの、僅か九歳である自分たちにできるはずがない。
(……心配、しすぎでしたか)
ああでもない、こうでもないと形を決め始めたチカラに、ヤワラは止まっていた手を動かした。本棚に入りきらず山になっていた本も、雑に入っていた本も、少しずつその身を整えられていく。
それから二人は子供の使える防具の形や、必要なもののリストアップなど、子供とは思えない量の出来事に頭を回していく。
「チカラさま。そろそろお夕食になさいませんと……」
「あっ、はい!」
盛り上がる二人の間に申し訳なさそうな顔をして声をかけてきたのは、チカラの傍付き――やよいだ。綺麗に切り揃えられた髪を揺らしながら、頭を垂れる彼女に慌てて顔を見合わせる。
育ち盛りのヤワラたちにとって、夕食抜きは母親の説教の次くらいに恐ろしい。
「今日はここまでですね」
「……はい」
「そんな落ち込まないでください、チカラちゃん。明日また続きしましょう!」
しょんぼりと肩を落とすチカラの背中を励ますように叩いたヤワラは、にこりと笑みを浮かべた。
チカラの家で夕食を頂いたヤワラは、チカラの家を後にする。送っていくと言われたけれど、少し考え事もしたかったのでヤワラは丁重に断った。
八時を過ぎた夜道を歩きながら、ヤワラは空を見上げる。キラキラと輝く星はとても綺麗で、熱された思考を少しずつ冷やして冷静にしていってくれるような気がした。
「……何かヒントになるもの、探さなきゃ」
チカラと違って、自分にできることは少ない。せめて、デザインのヒントになるようなものを見つけられなければ。
(……今度、あそこに出かけてみましょうか)
ヤワラは数日前にテレビで特集されていた、ショッピングモールの存在を思い出す。最近できたばかりで、確かここからそう遠くはなかったはずだ。一人で行くのは少し怖いけれど、冒険をせずして新しい道はないと、ヤワラは心を決めた。
――それから数日後の夜。
ヤワラは寝るために入ったベッドの上で、再び未来を見た。
最初はいつもと変わらない交差点だったが、見慣れてたはずの歩道はどこか違い、立っている建物も点々と入れ替わっている。
(夢、でしょうか……)
しかし夢というには少し……否、かなりリアルだ。感触も、匂いも。違うのは、視覚からの情報のみ。行き交う人たちの服装が更に過激になり、ヤワラの“常識”が覆されそうになる中。ヤワラはその人たちの手に持たれているものに、目を奪われた。
(何でしょう、あれは)
四角い、まるで板のようなもの。画面がチカチカと光っており、カツカツと爪が当たる音がどこからか聞こえてくる。……何かを押しているのだろうか。よくわからないけれど。そんな不思議なものを、人々は何の躊躇いもなく持ち歩いている。くたびれたサラリーマンも、カフェで会話に花を咲かせる歳を召した女性も、連れ立って歩く若い高校生らしき人達も――みんな。
当たり前かのように振舞われる世界を茫然と見つめていれば、ヤワラはどこからか気配がして振り返った。
「っ!」
交差点の近くにある公園から見上げた、建物の上。そこをまるで飛ぶように浮遊する女の子は、あの時と違う――けれど、似た服を着てヤワラの頭上を走り抜けていった。
驚きに目を見開く。しかし、追いかけるようにぶつけられた嫌な気配に、ヤワラは見境なく走り出した。
「はぁ……! はぁ……!」
走っても走っても、ついてくる。まるで街中で鬼ごっこでもしているかのようで、ヤワラはとにかく人を避けるのに必死になった。
知らない土地。知らない場所。頼れる人のいない、たった一人で向かったのは、今までも何度も足を踏み入れたことのある小学校だった。中に入り――広がる校庭に、ヤワラは息を飲む。
(く、黒い影ばっかり……っ!)
まるで影の巣窟だと言わんばかりに漂う、影、影、影。その存在にヤワラは身震いをすると、踵を返そうとしてついさっき見かけた黒い影を思い出す。勢いよく振り返って―─。
(あ、れ……?)
「だ、れも……いない……っ」
息も切れ切れに呟いた声。それは誰もいない道に転がり、ころころヤワラの足元を転がっていく。
(よかっ、た)
一人でいることが怖くてたまらないのに、誰もいないことにホッと胸を撫で下ろすヤワラは、その矛盾につい苦笑いをこぼした。……これからどうしよう。
ヤワラは未来を視ることができるが、その未来から帰ってくる方法は残念ながらわかっていない。
「どう、しましょう……」
息を整えながら、小さく呟く。……とはいえ、こんな巣窟の入り口にずっと立っているわけにもいかない。ヤワラは周囲を見回し、学校の校舎を見る。そこには影があまり居らず、見た目だけは綺麗に保たれていた。
(ここでこうしていても進みませんし、いっそ校舎に入ってしまいましょうか)
ヤワラはそう考えると、影に気づかれないように物陰に隠れつつ校庭を走り抜けた。
(なんか……思ってたよりも普通、ですね)
初めて入った学校の中は、自分の通っている小学校とほとんど変わらず、少しだけ面食らってしまう。すごく綺麗な校舎だったからもっと豪華だと思っていたのだが、どうやら違ったらしい。ヤワラは靴を脱ぎかけ……しかし、上履きがないことに気が付き、少し迷ってから靴のまま上がることにした。もちろん、靴の砂は出来るだけ払って落としておいた。
「とにかく、安全な場所に行かないと……」
ヤワラは恐怖や罪悪感などを振り切るように、出来るだけ早く足を進めていく。廊下に足音が響かないように注意しながら進んでいれば、時折見える影の姿にヤワラは近くの物陰に身を隠した。ずるずると体を引き摺り、去っていく影にほっと息を吐いて、ヤワラは学校の中を歩き回った。
学校は休みなのか、日中だというのに人っ子一人見当たらない。それどころか、先生の気配すらも感じず、まるでこの世界にいるのは自分一人なのではないかという感覚に陥る。足元からじわじわと這い上がってくる恐怖を振り切るように頭を振って、ヤワラは階段を一つ、二つと上がっていった。
足を掴まれるんじゃないかとか、突然影が降ってくるんじゃないかとか、嫌な予想をしつつ上った階段の先。ヤワラはふと顔を上げた。
「六年、一組……」
教室の上に飾られたプレートを見るに、どうやら上に上がるごとに学年が大きくなるらしい。何となく教室の中を見れば、見慣れたロッカーや学校の備品が教室に静かに鎮座している。それらはどれも小さな小学生でも使えるくらいの大きさで、ヤワラにとってはすごく馴染みのあるものばかり。近くの机の中を覗けば、六年生用の教科書やノートが置き去りになっていた。これは後で先生に怒られるぞ、と想像し、ヤワラはクスリと笑みを浮かべた。
(なんか……ちょっと安心した、かも)
ほうっと息を吐いて、さっきよりも軽くなった体で最後の階段を上る。目の前に立ちはだかる鉄扉を体で推し開ければ、ビュオッと吹き抜けた風に反射的に目を瞑る。風が治まるのを感じてゆっくりと開けて――ヤワラは愕然とした。
「な、な……!」
(なんですか、この、状況は……っ!)
まさに死屍累々が転がる屋上。青いプールの中に詰め込むように入っているのは、影の残骸たち。衝撃的な光景に、ヤワラはその場にとすんと腰を落とした。血は出ていないものの、本能的にわかる。目の前の影が全て息絶えていることも、彼らが意図的にこのプールへ押し込められていることも。
(なんで、こんなこと……!)
足元から這い上がってくる恐怖は、ヤワラの首を絞めて声を奪い、足元を絡めとって逃げる足を奪った。ガクガクと震える体を引き摺り、後退する。べチャリと嫌な音がしてヤワラの目の前に黒い液体が落ちた。
「ひっ!」
(かえり、たい)
帰りたい。お家に帰りたい。嫌だ。死にたくない。こわい。こわい。だれか、誰か助け────!
「あれ? そこで何をしているんですか?」
「っ!」
突然かけられた声に、ヤワラは声もなくビクリと肩を震わせる。勢いよく顔を上げ、青い空を見る。そこにいたのは、入口を真っ逆さまになりながら覗き込んでいる、自分と同じくらいの少女だった。
「ぁ、え……ひ、ひと……?」
「えっ。そりゃあ、分類的には私はヒト科の人間ですけど……」
「もしかして、別のものに見えたりします?」と的はずれなことを告げる少女に、ヤワラは二度、三度と瞬きをして、ゆっくりと息を吐いた。
(本当に、人だ……)
話が出来る、というのは未知の世界に放り込まれたヤワラにとって、とてつもなく素晴らしい出来事だった。ヤワラは深呼吸をして、ゆっくりと少女を見つめる。
美しい金色の髪に、細く長い手足。まるでモデルのような彼女は扉の上から飛び上がると、華麗に着地する。その一連の行動はどこか洗練されており、ヤワラはつい見惚れてしまった。
「ここは危ないですから、早くどこかに逃げた方がいいですよ」
「ぁ、え、と……」
にっこりと可愛らしく微笑む彼女に、ヤワラはなんと答えればいいのかわからなかった。
(帰りたいのは山々なんですけど……)
どうやって帰ったらいいのか。そもそも、どうやったら帰れるのか。今のヤワラにはその何一つがわからない。わかっているのは、ここが未来で、自分が干渉できる範囲は夢の中と同じくらいであることだけ。つまり、このまま逃げたところで行き場はないし、何よりやっと自分を認識してくれた人からわざわざ離れるのは、ヤワラにとっては恐怖以外の何物でもない。
「……すみません。帰りたくても……その……」
「?」
口篭るヤワラに、少女は首を傾げる。その所作すら愛らしくて、もしかしたら芸能人かもしれない、なんて考えが浮かんでくる。しかし、ヤワラは正直それどころでは無かった。
(なんて説明したら……)
そもそも、これは説明しても大丈夫なのだろうか。未来の人に「過去から来ました!」って言ったら、未来が変わってしまうのでは無いだろうか。
(……未来が、変わる?)
ふと、ヤワラの思考に何かが引っかかる。本当に小さな……違和感ともいえない僅かな引っかかり。何か──見落としてはいけないものを見落としているような、そんな感覚だった。
「よく分かりませんけど、帰れないのなら私と少しお話しませんか?」
「え」
「ちょっと暴れすぎちゃったので……疲れてしまって」
ふふふ、と笑う少女に、ヤワラは思考を止め、驚きに声を上げる。
(お話って……)
少女はヤワラの返事を聞くことなくヤワラの隣に座ると、「はぁ~!」と大きく息を吐いた。さっきまでの丁寧な姿とは少しだけ違う……いわば年相応な態度に、ヤワラは瞬きを繰り返した。そんなヤワラに少女は「お幾つですか?」と問いかけてくる。慌てて答えれば「なーんだ同い年かぁ」と微笑んだ。その笑顔に少しだけ緊張していた気持ちが和らいでいくのを感じる。
ふと、視線を感じて振り返れば、誰かと目が合った。重そうなショートカットの黒髪。僅かに俯いている顔は自信なさげで、ふくよかな体は最小限に縮こまっている。
(女の子、ですよね……?)
今まで出会って来た中で、一番冴えない、けれど一番まともそうな雰囲気を感じる存在に、ヤワラは目を離すことが出来なかった。彼女はそれに気がついたのか、びくりと肩を震わせるとさっきよりも深く俯いた。
(怖がらせたい訳じゃなかったんだけど……)
ヤワラは慌てて隣の少女を見つめる。彼女はにこりと笑うと彼女の元へと小走りに向かった。その背中を見て、ヤワラはふと気が付く。──少女も、今まで夢の中で会った子達と同じワンピースを身に纏っていることに。
前回の子は目に痛いほど明るい黄色で、今回の子は少し落ち着いた水色。その前は確か……オレンジ色だったっけ。そのどれもが変わらないデザインで統一されていた。
(もしかして……この服は戦闘用の服なのかしら……?)
彼女達の身体能力が高いのも、もしかしたらこの服のおかげなのかも……などと考えるヤワラが呆然としていると、不意に声を掛けられた。はっとして顔を上げれば、先程の少女がショートカットの女の子を連れて戻ってきていた。二人は並んでヤワラの隣に腰掛ける。二人は仲がいいのか、手を繋いだままだ。
「そういえば、あなた見たことない子だよね? ここの学校の子? 何年生なのかしら?」
「あ、えっと……!」
矢継ぎ早にされる質問に、なんと返事をしたらいいのかわからなくなってしまう。意味のない言葉を何度も発してしまい、どう答えるか迷っていれば、それに気が付いたのか彼女は瞳をぎらつかせていた光を収めると、慌てて声を上げた。
「あっ、ご、ごめんね! 知らない人にいろいろ教えるのは怖いよね! 気が利かなくてごめんなさい!」
「ぁ……いえ、そういう、ことでは……」
「こほん。それじゃあ、まずは私から。初めまして。私は紀眞――――」
女の子の唇が静かに動く。しかし、彼女の名前を聞くことはできなかった。
少女の名前を聞いた瞬間、頭の後ろから一気に引っ張られるような感覚がし、次いでぐるりと頭の奥を掻きまわされるような感覚がヤワラを襲う。慌てて伸ばした手は宙を掻き、絶望にも似た感覚に息を詰める。
(まって──)
まだ、何も聞いてない。まだ何もわかってないのに。
ヤワラの思いも他所に、意識は暗い海の中へと引きずり込まれていく。対して込み上げてくる不快感に吐き気を催していれば――意識は急激に落下した。
「ッ……!」
ガバリと勢いよく布団を跳ね返す。落下する感覚が脳に錯覚を見せ、つぅと額を汗が流れる。ヤワラは短い息を繰り返し吐き出して、周囲を見回した。そこには、先ほどの女の子も、蹲っていた普通の子も、影一つ、見えはしなかった。
(今の、は……)
「未来……ですよね……?」
今まで何度も見ていた光景とは、また違った景色。元々見ていた時よりも前なのか、あるいはもっと先なのか。ヤワラには見当がつかなかったが、それよりも重要なことを見たことにヤワラの心拍数は急上昇する。
「……銃、持ってた」
脳裏にはっきりと思い出せる、少女の手元。そこには彼女の来ていた水色のスーツと同じ色をした、銃のようなものが握られていた。とはいえ、普通の拳銃よりもフォルムは丸く、可愛らしさを覚えるデザインだったけれど。
「えっ。ていうことは、本当にチカラちゃんが作っちゃったってこと……?」
ふと頭を過るのは、数日前の事。あれから研究を始めたチカラは今はまだ武器の形すら決まっておらず、「難しいなぁ……」と唸っていたけれど、今日見た未来の中であの少女は間違いなく“それ”を持っていた。――銃に似た、武器。あれが本当に自分たちの開発している武器の完成形なのだとしたら、チカラが完成させたと考えても不思議ではない。
(でも、あの形、何かに似ているような……)
ヤワラは頭を捻り、記憶を探る。既視感のあるデザインは、どこかで見た覚えがあった。いったいどこで――――。
「ヤワラ様、おはようございます」
「わあっ!?」
ビクゥッ! と体が跳ね上がる。驚いて振り返れば、世話係のさえが恭しく頭を下げていた。時計を見て、もうすでに起きる時間を過ぎていることに気が付く。
「お、おはよう、ございますっ」
「朝食出来ていますよ」
「は、はい! 今行きます!」
慌てて布団から出たヤワラは、身支度を整えるとすぐに居間へと向かう。みそ汁のいい匂いが漂い、炊き立てのご飯の香りが空腹を刺激する。
(今日は鮭ですか)
焼かれた魚の匂いをかぎ分け、お腹を撫でる。襖を開けて食卓に向かえば、大きなテーブルには予想通り鮭とお味噌汁、白いご飯、そしていつも通り小鉢に入った副菜が二種類盛ってあった。
既に座っている父と母と向かい合わせに座れば「いただきます」と誰ともなく口にし、両手を合わせた。朝食を口に運びつつ、考えるのはついさっき見た未来の出来事。
(そういえば、今日は何でいつもと違ったんだろう……?)
夢の中では不思議に思わなかったけれど、よくよく考えてみれば可笑しい。
学校や場所は同じだったけれど、明らかに見た未来の“時間”が違ったし、出会った女の子はいつもと違う子だった。ワンピースを身に纏っていない子もいたし、影があんなにいて自分一人で逃げ回っていたのも初めてだった。……確かに未来はひとつじゃないし、今までも最初に見た夢とは違うところはいくつもあった。しかし、ここまで何もかも違うことは今までになかったような気もする。
――何か、理由があるのだろうか。
茫然としていたヤワラは、ふと何となく視線を他所へ向けた。珍しく付いているテレビは、どうやら父か母の気になるニュースがやっていたらしい。CMが流れはじめ、品物や会社を宣伝する声が聞こえる。そんな中でも何かヒントにならないだろうか、と考えてしまうヤワラは――流れだしたCMに、目を見開いた。
『今回は新登場したドライヤーをご紹介いたします!』
「あーーーーっ!!!」
(これだッ!!)
興奮に満ちた叫び声と、席を蹴り上げて机を強く叩いたヤワラに父と母は肩を揺らし、次にはヤワラを窘めた。ヤワラはそれに慌てて謝ると、再び腰を下ろして再び箸を手に取る。しかし、頭の中は先ほどの通販番組の写真でいっぱいだった。
(あれ、夢の中で女の子が持ってたやつだったよね……!?)
薄らと覚えている記憶。その中で、少女はあれに似たものを手にしていたような気がする。――そうだ。見覚えがあると思ったら、ドライヤーだったのか!
拳銃よりもまあるく、柔らかいフォルム。女性であれば誰が持っていてもおかしくはないそれは、もちろん自分の家にもある。形は拳銃みたいだし、武器には最適かもしれない。
(なぞが、とけた!)
ヤワラはぱあっとひとりでに顔を輝かせると、朝食を掻き込み、急いで家を飛び出した。不思議そうな両親の目を振り払い、ヤワラは走る。この気持ちを。この衝動を。ヤワラは静かに自分の内に秘めていることができなかった。
(チカラちゃん、驚くだろうなぁ!)
チカラとは学区が異なるため通う学校が違うものの、学校が終われば一緒に研究をする話になっている。
(まさか銃の正体がドライヤーだったなんて)
驚くチカラの顔を思い浮かべて、つい「ふふふ」と笑みを零してしまう。近くを通った野良猫が不審なものを見るような目を向けていたが、ヤワラは構わなかった。
「あっ。でも一つ買っていった方がいいかも……」
研究大好きなチカラのことだ。彼女なら話を聞いた瞬間、ドライヤーの中身とか種類とか、知りたくなるはず。
(まずはカタログを手に入れて……ドライヤーっていくらくらいするんだろう……)
特に使い道のなかったお年玉の金額を思い出しつつ、ヤワラは思考する。もし足りなかったらチカラに相談しようと考え、ヤワラは頷く。
(よし、研究所に行く前にショッピングモールに寄ろう)
ヤワラは今日の予定を立てると、浮足立ったまま学校の校門を潜った。いつもは大人しいヤワラが上機嫌で入ってきたことにクラスメイトが僅かに驚いていたが、ヤワラは全然、全く、気にならなかった。
(待っててくださいね、チカラちゃん……!)
ヤワラは込み上げる気持ちを抑え、ガッツポーズをする。黒板に向かって話していた先生が振り向き、ガッツポーズをしているヤワラに首を傾げているが、本人は気が付かないままチカラとの研究に思いを馳せる。――嗚呼、そういえば。
「私が何かしたら、未来は変わっちゃうのかな……」
ふと、過った疑問はヤワラの口を滑り落ち、コロコロと教室の床に転がっていく。その純粋で、しかしとてつもなく重大な問いかけは、チャイムの音に人知れずかき消されてしまった。……もし。誰かがその言葉を拾うことができたなら。ヤワラの心は、今でも保たれていたのかもしれない。
小さな背中に背負った宿命の意味に、この時のヤワラは未だ気が付くことができなかった。