囲碁
あの日から、陵の生活は平凡でありながら、どこか冷たい光を帯びたものとなっていた。協会で繰り返される日常的な依頼、戦闘のない穏やかな日々──それでも、かつての記憶が彼の胸の奥を時折締めつける。
記憶の中には、夏の日差しの中で出会った少女、浅羽紗雪の笑顔が浮かんでは消え、また浮かぶ。そして、今はもう遠く離れた存在となったセルト。純白のドレスを纏った彼女が告げた「婚約者」という言葉が、陵の心に重くのしかかる。
すべてが変わってしまった。それでも彼は、たった一つの答えを求めて旅を続ける。自分の選択は正しかったのか。彼女たちと過ごした日々は何を意味していたのか。
陵が再び目を覚ましたとき、見覚えのある風景が視界に広がっていた。そして目の前には、一人の女性がまるで彼の到来を予期していたかのように、既に腰を下ろし、優雅に茶を淹れているところだった。
「来たね。待ってたよ。」
エデタは微笑みながらそう言った。
「座って。今回はどういう用件で来たの?」
陵は心ここにあらずといった様子で、エデタの前に腰を下ろした。その表情は、生気を失ったかのようで、目にも輝きがなかった。
「エデタ……もう自分がどうしたらいいのかわからないんだ……」
「どういうこと?」
そう言いながら、エデタは茶器を手に取り、陵の前に置かれた杯に七分目ほどの茶を注いだ。
「未来が見えない……。突然、自分が本当に無力なんだと気づいた。大切な人を守ることさえできなくて……」
陵は茶杯を持ち上げ、鼻先で香りをかぐと、一口も飲まずに再びテーブルの上に置いた。
「気に入らなかった?」
「いや、飲む気になれないだけだ。」
「そう……」
エデタは軽くため息をつくと、指を鳴らした。その瞬間、茶器が音もなく片付けられ、代わりに囲碁の盤がテーブルに現れた。
「じゃあ、ゆっくり話しましょう。」。
陵は盤上の石をじっと見つめながら、手のひらでいくつかの石を掴んだ。
「さて……私の手にある石は何個だと思う?」
「一つだろう。」
陵が手を開くと、白い石が一つだけ掌の中央に転がっていた。
「正解だね。」エデタはくすりと笑った。
「じゃあ、私が先に打つよ。」
エデタは囲碁盤に手を伸ばし、最初の石を置いた。その音が部屋に響き渡る。
そう言って彼女は石を盤上に置き、静かにゲームを始めた。陵も少しずつ、囲碁の進行に合わせて自分の思いを語り始めた。
「エデタ、俺にはずっと疑問があるんだ。なぜ俺をそんな身体に転生させたのか、どうして彼女をこんなに近くに置いたのか……」
「私にも全ての説明はできないわ。」エデタは石を置きながら答えた。
「私は成功率が限りなく100%に近い肉体を探しただけ。そして、今回の事態を意図的に引き起こしたわけでもない。
「これも天道の法則の一部。『神は直接、凡人の運命に干渉することはできず』の事さ。」
陵は唇を噛み、盤上をじっと見つめた。
「本当に疲れたよ……彼女がすぐ隣にいるのに、俺たちの間には深い谷があるように感じる。エデタ、俺はどうすればいいんだ?」
エデタの手が止まり、彼女は目を細めて陵を見つめた。
「ごめんなさい。その答えを私が教えることはできないの。私が助言をすれば未来が変わり、結果は私の予想を超えてしまう。だから……君自身の力で答えを見つけなさい。」
そう言うと、エデタは再び石を手に取り、盤上に置いた。
「気づいているかしら?」
エデタは盤上の石を指さした。そこには明らかな戦力差があり、陵の石は追い詰められているように見えた。
「この局面はまるで君自身を表しているの。至る所に隙があり、失敗する危険が常につきまとっている。」
彼女は石を置くと、微笑みを浮かべながら続けた。
「でもね……」
次の一手が打たれると、盤面の様相が一変した。陵は驚いた表情でその光景を見つめた。
陵はそれを見て、黙って盤上で適当に二つの碁石を置き、頭を下げた。
「投了か…じゃ、僕の勝ちか」
「これで分かりたいことがあるの」
陵は棋石を箱に戻し、黙って盤面を見つめていた。この対局は完全に敗北だったが、彼の心の中には何か新たな感覚が芽生え始めていた。
「エデタ……一つだけ聞きたい。俺の選択に、本当に意味はあるのか?」彼の声には、疲れと不安がにじんでいた。
エデタはその言葉を聞くと、窓の外へ視線を向けた。果てしなく広がる青空は、彼女の思考をどこまでも引き延ばしていくようだった。しばらく沈黙した後、彼女は静かに口を開いた。
「選択そのものが意味なのよ、陵。」
彼女は顔を戻し、彼を見つめた。その目には優しさと揺るぎない確信が宿っていた。
「完璧な選択なんて存在しないし、絶対に正しい道もない。大切なのは、その選択をした後の君自身よ。その選択のために努力し、成長し、守り抜けるかどうか。」
「自分の道を作り、心に浮かんだ考え、それが君に逆転の一手をもたらすかもしれない」
陵は眉を少しひそめ、何かを言おうとしたが、エデタが先に口を開いた。
「今、無力だと感じているのは悪いことじゃない。それどころか、自分の弱さを認められるのは、それ自体が力の始まりよ。」
彼女は軽く盤面を指で叩きながら、さらに言葉を続けた。
「いわゆる強者とは、自分を疑ったことがない人じゃない。疑いを抱きながらも、歩き続けることができる人のことよ。」
陵はしばらく黙っていたが、ついにエデタを見上げた。その目には少しの光が宿り始めていた。
「歩き続ける……か。」
エデタは微笑んでうなずき、再び温かいお茶の入った杯を彼の前に差し出した。
「飲みなさい。これがあなたの答えよ。」
「飲んで。」
今度は陵は茶杯を手に取り、一口すすった。その温かさが体に広がるのを感じながら、彼は静かに口を開いた。
「自分の道を作る、か……。わかったよ。」
陵は茶杯を囲碁盤の上に伏せて置いた。未飲の茶が盤上にこぼれ、盤の隅から流れ落ちていく。
「行儀の悪い奴ね。」
エデタは微笑みながら、再び指を鳴らした。瞬く間に盤も茶も跡形もなく消えた。
「でも、それが君の道の第一歩だというのなら、私は何も文句は言わないわ。」
エデタが立ち上がり、背を向けて歩き出す。最後に一度だけ振り返り、こう告げた。
「もし君が力を早く得る方法を見つけたら、次に会うとき教えてちょうだい。」
「わかった。」
その言葉を最後に、エデタが指を鳴らすと、陵は再び教会の中に戻ってきた。
教会を出ると、まだ夕暮れのはずなのに、街には人の気配が全くなかった。
驚きと不安を抱えながら、陵は周囲を歩き回る。しかし、見つけたのは家の中で怯える数人の住民だけだった。
「あれ〜なんで誰もいないのかな」
と言って後に、彼のシステムから警報の音がなり始まった
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《緊急依頼》
任務名:戦乱の信徒
内容:迫り来る邪神信徒の攻撃から、生き延びろ
難易度:C+
持続時間:1時間
報酬:自由属性ポイント40、600テル
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「おい……マジかよ……」
村の外から、一列に並ぶ松明の火が夜空を照らしている。その光景を見て、陵は武器を握ろうとしたが、恐怖に耐えられず、結局身を翻して民家へ逃げ込んだ。
「ちょっと待て!おい玲!何が起きてるんだよ!」
「依頼通り、信徒の暴走です」
「いやなぜ!」
「知りません」
「やっぱ鈴お前、もし自己思考できないなら、たまに本当に役たたねぇな!」
「あぁぁ!もうどうしようもな…戦うのも無理だし?本当に逃げるしかしねぇの?」




