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第八章 遣唐使帰還(承和六(八三九)~承和七(八四〇)年)

 承和六(八三九)年の一月七日から一一日にかけて、六二人の貴族が出世を果たした。これは例年にない大規模な人事異動であり、このタイミングで長良が左馬頭に、良房が陸奥出羽按察使に選ばれた。ともに官位相当の兼務職であり、長良が朝廷内の馬の手入れをする役目を担うようになったわけでも、良房が東北地方へ追放されたわけでもない。

 このときの出世者の中に遣唐使は含まれていない。出航後の遣唐使の様子が伝わっていない以上、人事は凍結するしかなかった。出航してから半年を経過し、年が明けても遣唐使の情報は京都に届いていなかった。太宰府に派遣した藤原たすくからの連絡も全くなかったのは、太宰府でも同様に遣唐使の情報が掴めていなかったからである。

 ただし、一つだけ望みがあった。海に出て行くのは遣唐使船だけではない。商人の船もあるし、漁師の舟もある。航海の途中で何かあったらこうした民間の船を通じて遣唐使の情報が入ってくるのが普通であったから、情報が来ないということは航海の途中に何もなかったからと考えるのが普通だった。


 それから一ヶ月後の閏一月一一日、京都の治安回復の功績が認められ、藤原良相が従五位下に昇格した。

 これと前後して、京都の治安悪化の情報が途切れる。

 毒を以て毒を制すは成功だった。目に見える強盗団が消えただけでなく、闇に潜む強盗団も壊滅的なダメージを受け、それまで京都市中を我が物顔で歩いていた現在で言うところのヤクザもその存在自体が消滅させられたた。

 治安悪化の解決は、犯罪者の処罰ではなく、より根の深いところの解決こそ不可欠だとする意見もるが、この時代必要としていたのは目の前の安全であり、犯罪者に責任をとらせることだった。つまり犯罪を犯しかねない土壌の解決ではなく、表面化した犯罪の取り締まりと、発生しかねない犯罪を力ずくで抑えることを選んだのだ。それは犯罪の発生する可能性についてはそのままとしておくことを意味する。

 しかし、犯罪を決して許さないとする良房の態度、そして兄の言葉を実践する良相の行動は、犯罪を思い留まらせるのに強い効果があった。犯罪が割の合わない行動になり、たとえ今を生きるためにしなければならないと考えても、その直後に死が待っているのでは犯罪に手を染めようがない。

 力ずくで抑えるのでは真の意味での安全とならないとする意見もあるだろう。だが、真の安全であろうが、力ずくの安全であろうが、安全は安全。強盗を気にしないで良いという一点は変わらない。


 三月一日、遣唐使に関する情報が全く届かないことに業を煮やしたのか、緒嗣は勅令を出させた。

 「唐へと向かった三船が遭難しないよう、五畿七道の各国、および、十五大寺は、大般若経と龍王経を遣唐使が帰還するまで転読するように。」

 寺院の仕事は転読だけではない。転読が命じられたり、転読が依頼されたときは日々の業務に加えての転読実施となるが、それは特別なこととして引き受けるものであって、日常に加えられて平気なものではない。

 イメージとしては、毎日プラス一時間の残業をこなしているサラリーマンに、さらに五時間の残業が命じられるようなものである。それも残業代が出るならまだいいが、緒嗣は命令だけして代価は一切用意していない。つまり、サービス残業である。

 それでも期間が決まっているのであれば耐えられるだろうが、今回は無期限の転読。いつ終わるかわからない苦行を命令されて平然とはしていられるわけはなかった。その結果、転読しているという報告だけして実際には何もしていないところや、堂々とボイコットするところも現れた。

 また、緒嗣の命令自体が大いに疑問のあるところだった。遣唐使の出航は前年七月。いくら何でも四分の三年を経過しておきながらまだ航海しているなど考えづらい。唐からの帰路にある可能性ならあるものの、それだとかえって早すぎる。遣唐使は唐に一年は滞在するのが普通だから、出航から四分の三年のタイミングで命令を出すのは不可解である。

 この質問をした良房に対する明確な回答はなかった。

 緒嗣はただ祈り続けるよう命じたのみ。


 左大臣が左大臣の職務を果たさなくなったのを見た右大臣の藤原三守は、緒嗣と折衝することなく、陸奥から上ってきた請願に応える。

 三月四日、陸奥国の農民三万〇八五八人の課役を三年間免除するとの布告が出た。

 この三守、就任当初は長良・良房の兄弟の傀儡だと誰もが考えていたが、ここにきてなかなか有能な右大臣であることが明らかとなった。

 長良や良房を遮って自分の意見を貫き通すことはしないものの、二人を説得して自分の意見を仁明天皇に奏上することはあった。このときの陸奥国からの労働義務の免除についても、良房は当初反対であった。一ヶ国で例外を認めれば、他の全てでも例外を認めなければならなくなる。

 しかし、三守の考えは違った。

 陸奥国は後進地域のため収穫が少ないところに加え、反乱や火山の噴火もあって、生活するための労働が他より多いと主張。ここで労働義務を免じるのはそうしなければ他の地域と釣り合いがとれないとした。

 良房はその考えに賛同した。 


 三月一六日、篁に同調して乗船を拒否した遣唐使四名への裁判が終わった。

 知乗船事、従七位上、伴有仁、流刑。

 歴請益、従六位下、刀岐直貞、流刑。

 歴留学生、少初位下、佐伯安道、流刑。

 天文留学生、少初位下、志斐永世、流刑。

 何れも法に照らせば死刑になるところであったが、温情による一等減が行なわれ流罪となり、流刑地は四人とも佐渡と決まった。これが一民間人であれば無人島に流刑になるところであったが、役人となると有人島、それも、島全体で一つの国となっている比較的大きな島への流刑となる。

 この四人は篁と異なり、流刑に伴う官位剥奪が行なわれていない。そのため、流刑となった先でも官位に伴う給与が支給された。研究者によれば、一日にコメ一升(この当時の一升はだいたい七〇〇ミリリットル。大きさの目安としては三五〇グラムの缶ジュース二本分)と塩一勺(一勺は一升の一〇〇分の一)が支給され、生活するための田畑と種子も無料で提供されていた。それを自ら耕す者もいたが、付近の民に耕作させていた者も多かった。耕作する時間がなかったからである。

 隠岐や佐渡は島全体で一つの国となっていたが、本州・四国・九州の国と比べると国衙の運営は常に困難を生じていた。国司は派遣されてはいたが、その配下の役人は現地採用であることが多く、文字を読めない者も採用せざるを得ないほどの慢性的な人材不足であった。このようなとき、規定によれば京都から役人が派遣されることとなっていたが、生活水準の低さと、本州・四国・九州と比べ功績によって抜擢される可能性の低さから拒否されることが多かったという問題もあった。

 というところでやってきた、遣唐使にも選ばれたほどの人材。しかも、その職務に比べ支払う給与は少なくて済む。離島にとって彼らは国衙運営の貴重な人材となった。

 佐渡や隠岐の言い伝えの中には、喧噪からは離れたゆったりとした暮らしが気に入り、権力闘争の渦巻く京都を離れ、離島での暮らしを満喫する者も現れたという記録が残っている。

 今回追放された四人がこの後どうなったのかを伝える記録は二人分しかない。

 伴有仁と刀岐直貞の二人については、後に京都への帰還許可が出たという記録が残っているが、残る二人については不明である。許されて京都に帰ったかも知れないし、そのまま佐渡に残ったかも知れない。あるいは、二人に帰還許可が出たときにはもうこの世の人ではなかったのかも知れない。


 治安安定化の最終章は近づいてきていた。

 京都も、野山も、海も駆逐されてきた強盗団は追い詰められてきていた。

 当初は秩序なき人の群れであった強盗団も、人が少なくなって逃げまどい、一つまた一つと他の強盗団と結合するにつれ、秩序ある軍勢へと化してきた。

 強盗団の壊滅を命じたのは良房だが、その実行にあたったのは良相である。この人は郡を指揮する能力、そして、軍事作戦を立てる能力は二人の兄より優れていた。

 良相の立てた作戦は対ゲリラ作戦の基礎というべきものだった。

 まず周辺で小さな小競り合いを繰り返すことで相手を逃走させる。

 逃走先でも競り合いを繰り返し、各個撃破を図ると同時に、散らばっていた敵を一つの集団にまとめ上げる。

 そして、最後の大きな集団となったところで一気に叩く。

 これが正規な訓練を積んだゲリラの軍勢であったら乗らなかったかも知れないが、無秩序な集団として始まった強盗団には有効だった。

 その最終決戦の場となったのが、伊賀国名張郡。

 しかし、いくら強盗団とは言え、集団となって秩序だって生活している者、そして、かつて強盗であったとしても現在では自給自足の生活をしている者を、何の名目もなく攻め立てるわけにはいかない。

 それが名張に集まった者の強みであった。強盗ばかりが集まった集団となると強盗のしようがないし、周辺の農民はとっくに非難させている以上、強盗しようにも襲うべき一般人もいない。これが真相だとしても、かつて強盗であった証拠もないし、今は強盗をしていない。それを国がその権力で大々的に攻め込むことは問題だった。

 途中までうまくいっていた作戦が最後の最後で失敗したかと思った良相は兄に相談。良房はここでも一枚上手だった。

 良房は伊賀国名張郡に私鋳銭を大量に作成している集団があると主張。これは日本中のどこでも行なわれていることで伊賀国名張郡だけが特別なわけではなかったが、犯罪は犯罪。

 そして、この犯罪を取り締まるためという名目で、良相とともに右近衛将の坂上当宗(坂上田村麻呂の孫)を派遣した。しかも、最初の名目は私鋳銭製造の一七名の逮捕で、強盗団全体の壊滅はどこにも謳っていない。

 だが、そこで意味するところは誰もが理解できた。

 良房は最後の殲滅を命令し、良相と坂上当宗は良房の言葉に応えた。

 しかし、良房は伊賀国の強盗団を壊滅させることで一仕事果たせるとは考えていなかった。

 人の住むところ犯罪は必ずある。犯罪者をいかに死滅させても今の暮らしが厳しいために犯罪に手を染める者は次から次に生じるし、苦しくなくても犯罪を職業とすることを選ぶ者だっている。犯罪を無くすことなどあり得ないし、犯罪者を全員殺したところで永遠に犯罪から逃れられる生活がやってくるわけではない。

 ゆえに、執政者にできることは、犯罪の芽のつみ取りではなく、不満がくすぶろうが何しようが犯罪そのものを力ずくで封じることである。この翌年には、平安京内の強盗集団対策として六衛府に夜警を行なわせることを定めているのも、犯罪そのものを封じるためであった。


 緒嗣の神仏に頼る姿勢は日を重ねるにつれて増していった。

 四月二一日、伊勢神宮に祈祷を命令。

 四月二八日、一〇〇名の僧侶を集めて大般若経の三日間の転読を命令。

 五月一七日、延暦寺に仁王経の転読を命令。

 六月四日、全国の寺院に対し三日三晩徹夜しての転読を指令。

 七月五日、六〇名の僧侶を紫宸殿に招いて大般若経の転読を命令。

 この年は降雨量が少なく、遣唐使の無事を祈ると同時に雨乞いを命じてもいたのだが、それにしても神仏に頼る回数が多すぎる。

 これで祈りが無駄に終わったのであれば悲しい事態だが、神仏の祈りが功を奏したのか、八月一四日、緒嗣が待ち望んでいた知らせが大宰府から飛び込んできた。

 遣唐使第一陣帰国。

 「遣唐使船が三艘とも大破したため、唐からの帰国には新羅船九隻を購入し、それぞれ分乗して楚州を出発。黄海沿岸を航海し、新羅西岸を伝って帰国の道に至る。他の八隻の行方は現在のところ不明。以上。」

 遣唐使が唐に渡って帰ってきた。この知らせを聞いた緒嗣は号泣して喜び、直ちに残る八隻の捜索を命じ、対馬、壱岐をはじめとする島々や、山陰から北九州の各地にかけての一帯に、夜間はたいまつの火を灯し続けさせた。また、食料と水、そして当面の宿舎も各地に用意させた。

 そして、第一陣の帰国から一〇日を経た八月二四日、大使藤原常嗣が六隻の船を率いて肥前国松浦郡生属いくつき嶋に到着したとの連絡が届いた。

 仁明天皇は直ちに、常嗣と、常嗣不在の間大宰府のトップの代理役を務めていた大宰小弐の南淵みなみぶちの永河ながかわに勅を送った。

 「これからは収穫の時を迎えるため、陸路では道中となる農民の負担が大きくなる。よって、遣唐大使藤原常嗣、伴須賀雄、春道永蔵の三名は直ちに帰京せよ。長岑高名、菅原善主、藤原貞敏、大神宗雄、高丘百興、丹犀高主、槻本良棟、深根文主、大和耳主、春苑玉成の以上一〇名は船を建造して帰京せよ。荷については陸路で運搬させるための者を派遣する。」

 この勅を大宰府で受け取った常嗣は、大宰府所有の船の一隻に乗り込んで、およそ一〇日かけて、瀬戸内海を経て難波津にたどり着き、そこから京都に着いた。

 九月一六日、藤原常嗣、節刀返還。これで遣唐使派遣が正式に終了し、遣唐使期間中与えられていた位は元に戻された。


 危険な航海を経て京都に戻った常嗣は宮中でのスターになった。

 九月一七日、紫宸殿において、唐より送られた勅書が右大臣藤原三守の手で読み上げられた。遣唐使の中では常嗣だけがこの場への参加を許された。

 仁明天皇は常嗣の語る航海の様子や唐の皇帝への謁見の様子を聞き入り、苦難な航海を終えたことによる褒賞を与えた。

 九月一八日、唐からの勅書が良房に渡された。これを良房が保管してもよいという特権だというが、なぜ良房なのか、そしてなぜこれが特権なのかはわからない。

 ただ、緒嗣にとってはこれ以上ない嫌味でもあったろう。遣唐使の派遣に反対した良房に対し、遣唐使派遣が成功に終わったことを示す何よりの証拠を突きつけたことになる。これを持ち続けろというのは、自分の誤りを否定し続けろというのに等しい。

 もっとも、受け取った良房は特に何とも思わず、これを教育の教材として利用した。唐に限ったことではないが、こうした外交文書はその時代最高の書家が記すことになっている。受け取った勅書は文章教育の最高の手本であったろう。

 九月二七日、遣唐使全員を昇進させるとの決定が下った。これにより、常嗣は正四位下から従三位に昇ったほか、最低でも三名の遣唐使が新たに貴族に加わり、また、唐の地で没した者にも追悼の昇位が行なわれた。


 一〇月九日、残る二隻のうちの一隻が博多に到着した。しかし、最後の一隻の消息はわからず、朝廷は最後の一隻捜索にあたるよう命令を下した。

 一方、京都に戻った遣唐使たちのヒーロー扱いはなおも続き、いかに唐に行った者を招き入れるかで宴のステータスが問われるようになった。大使常嗣や、貴族に列せられた者たちだけではなく、一船員として唐に渡った者であっても、唐に渡ったという一事だけで賓客扱いされ、独身の船員は様々な家から嫁の申し入れが出るほどだった。

 京都でブームを呼んだのは唐に渡った人たちだけでなく、唐からもたらされた物もブームになっていた。同じメイド・イン・唐であっても、新羅経由の輸入品は見向きされなかったのに、遣唐使とともにもたらされた品はいくら高くても売れた。もっとも、簡単に売ることが許されたのは船員が唐の市で買った日用品であって、遣唐使として正式に入手した物ではない。

 一〇月一三日、唐から渡された品々が伊勢神宮にいったん奉納された。

 唐から渡された品々が一般公開されたのは一〇月二五日になってから。建礼門前に品々が並べられ、仁明天皇自らも足を運ぶ盛況となった。並べられた品々はこの後、光仁・崇道・平城・桓武の四名の天皇の陵墓にも運ばれ祀られた。


 承和七(八四〇)年の正月の人事は大きなものとはならなかった。前年末の遣唐使の昇格の影響で昇格の枠が少なくなっていたからである。

 また、この少ない昇格も二つを除いてはインパクトのあるものではなかった。一つは、無事に遣唐使の役を果たした藤原常嗣が大宰権師を辞すことになったため、仁明天皇の叔父にあたる賀陽親王が大宰師に選ばれたこと。もう一つの例外というのは、昇格と言うよりはむしろ降格人事とも言える内容、すなわち、藤原長良の蔵人頭就任である。

 五位の若手の貴族が就くのが通常であったこの役職に、四位で若くもない長良が就くのは珍しかった。もっとも、淳和天皇の頃に駿河国司まで務めた吉野が蔵人頭に就いた例もあるから、まるっきりの例外というわけでもない。

 仁明天皇が長良を自らの秘書役に選んだのは、それが宮中のバランスをとるためであったと言える。

 遣唐使が無事帰還したことで緒嗣は失いかけてきた発言力を大いに取り戻した。今まで庶民の支持を全く得なかった緒嗣にとって、遣唐使がヒーローとなり庶民の絶賛を浴びていることは、自分が賞賛されていると同じだと考えたのである。

 しかし、それで、対抗する良房が黙り込むことはなかった。

 遣唐使の派遣は終了した。しかし、それは成功とは言えない。新羅を頼ることのない唐との関係構築は、遣唐使たちの帰路を新羅に頼らざるを得なかったことを見ても、成功ではないのは明らかだった。

 唐の皇帝からの国書だけは正式な遣唐使ゆえ手にできたが、それ以外の物品については唐の市場で普通に買えたし、唐に行かなくても新羅の商人を通じれば手に入る。前年末の喧噪は遣唐使がもたらしたものというプレミアがついていたため評判を呼んでいたが、時間が経ってみれば、それは日本で手に入るものであったり、日本で手に入らなくてもそれまで普通に輸入していたものだったということに気づいた。

 また、唐からの輸入品で最優先してほしかった医薬品についても、結局は特別なものではなかった。唐からもたらされたものの中にはたしかに医療品も含まれていたが、疫病を劇的に沈静化する薬でもなければ、改善させる医療技術でもなかったことは、少なからぬ失望を呼んでいた。

 何よりいちばんの問題だったのは航海の危険さだった。失われた人命の多さは決して無視できる数字ではなく、遺族となってしまった家庭への補償も簡単では済まなかった。国のためと命令されて海に出て、帰りを待ちわびていた妻や子、両親のところに飛び込んできたのは、海の藻屑と消えたという知らせ。

 遺族となってしまった人たちは緒嗣を激しく非難し、彼らは遣唐使に反対した良房のもとへ身を寄せた。

 良房は彼らを利用し緒嗣の失敗を責め立てた。

 かたや誇りとし、かたや攻撃の材料とする。この対立にあって、両者の中間に位置できる長良の存在は仁明天皇にとってこれ以上なく頼れる人であったろう。


 二月一四日、隠岐に追放されていた小野篁に京都帰還命令が出る。同時に、佐渡に流された四人のうちの二人にも京都帰還命令が下りる。

 ところがこれに篁は困った。篁はドロドロした京都の朝廷の暮らしを捨て、隠岐に終生の住まいを築くことにしていたのである。

 それまでの貴族としての暮らしを捨て、西郷町都万目に小さいながらも住まいを構え、アコナという名の女性と同棲するようにまでなっていたのだ。

 遣唐使に任命された当時の篁が独身であった可能性は低い。本人が女性にモテたということもあるが、名門小野氏の一員として政略結婚から逃れうるわけがなかった。女性と浮き名を流したのも、こうした政略結婚の暮らしに対する反旗の意味もあるだろう。

 その篁にとって、隠岐追放は悲しいものであったが、隠岐での暮らしは今までに体験したことのない満ち足りた暮らしだった。これまで出会ったどの女性よりも幸せを感じさせる女性と暮らし、豪邸ではなくても生き甲斐に満ちた住まいで暮らす日々、これらは何れも篁を満足させるに充分だった。

 これを聞きつけた嵯峨上皇が怒った。

 追放したのに安楽な暮らしをしていることに我慢ならなかったのである。

 嵯峨上皇は温情措置として、篁の京都帰還を命じる。しかも、身一つでの帰還命令であり、アコナを連れての京都帰還は許さなかった。

 この知らせを聞いた篁は命令を拒否しようとするが、強制連行の面々がやってきたことで京都帰還を受け入れざるを得なくなった。

 篁が京都帰還を受け入れたことを知ったアコナは嘆き悲しみ、自決まで考えた。それを知った篁は、少しだけ京都行きを待ってくれと役人に頼んだ。

 役人は篁をいったん自由にさせたが監視は続けた。監視された中で篁は木像を彫ってりアコナに渡した。

 「この像を私だと思ってくれ。」

 「篁さま……」

 像を渡してすぐに篁は縄で縛られ、引き立てられていった。


 三月三日、未だ帰らぬ遣唐使船一隻が帰還するまでたいまつの日を絶やすなとの指令が飛んだ。

 残る一隻の消息が判明したのは四月一五日にもたらされた。四月八日に大宰府が情報を掴んでからわずか七日にして京都に届くという、当時としては異例のスピードだった。

 それがいつなのか、また具体的に何名なのかはわからないが、残る一隻に乗り込んでいた遣唐使の菅原梶成らが大隅国に漂着した。梶成らの乗ってきた船は新羅船ではなくボートのような小舟であった。

 唐を出国した後、梶成らの乗った船は遭難し、異域に着いたと証言した。

 異域にたどりついた梶成らはその地に住む者から襲撃を受け、三〇名ほどが何とか生き延びることができた。

 襲撃を生き抜いた面々はそれまで乗ってきた船を壊しいくつかの小舟に仕立て上げ海に逃れ、梶成らの乗った小舟だけが大隅国にたどり着いた。そのほかの者の乗った小舟がどうなったかは梶成にもわからない。

 その際、現地人が襲撃に使った武器を梶成は奪取しており、戦利品として、また、実際に身を守る武器として小舟に積み込んでいる。梶成は自分たちがたどり着いたのは唐の一部だと考えたようだが、日本に持ち帰ってその武器を見せたところ、それは唐で使われているような武器ではないと判断された。

 梶成らの着いたこの「異域」がどこなのかは現在でもわかっていない。現在もっとも有力な説となっているのは台湾説。かつては沖縄だとする意見もあったが、その地にたどり着いた梶成が現地の人と言葉を交わせなかったこと、そして、この時代の沖縄では既に日本語が使用されていたことが明らかになっていることから、現在では沖縄とする説が否定されている。


 篁の追放解除を犬猿の仲となった常嗣がどう考えたかはわからない。

 なぜなら、常嗣の容態が急激に悪化してきたからである。

 常嗣の容態悪化は緒嗣にとっては痛恨の一事であったに違いない。すでに六六歳となっている緒嗣は後継者に自席を譲り隠居生活を送るようになってもおかしくない年齢になっていたのに、後継者がいない。

 緒嗣とて後継者のことを考えてこなかった人生を送ってきたわけではない。ただ、後継者に考えた人材を次々と失ってきていた。

 後継者と考えた長男の家緒は、八年前に三〇代前半の若さで命を落とした。

 自派の有力な後継者と考えられた藤原吉野は淳和天皇の退位に合わせて宮中を去った。

 そして、吉野に次ぐ自派の後継者となれると考えた常嗣が四五歳の若さで病に倒れた。

 ここで常嗣が病状から復帰しないとなると、緒嗣は後継者に考えた全ての人材を失ったことになる。

 緒嗣の周囲の面々を見ると、遣唐使として唐への渡航経験もあり、嵯峨上皇・空海と並ぶ文筆家として名をはせていた橘逸勢が五八歳、文屋綿麻呂の弟で各国の国司を歴任した文屋秋津が五七歳、冬嗣の母親違いの弟でこのとき大納言であった藤原愛発が五二歳とことごとく五〇代を超えている。

 そんな中で現れた四〇代の常嗣は、この時代の平均寿命からすれば高齢になるが、緒嗣派にとっては期待の若手だった。

 その期待の若手の命が失われようとしていることに緒嗣は嘆き悲しみ、手を尽くして医師を呼び寄せ薬を集めようとしたが、無駄だった。

 もしかしたら、遣唐大使を務めたことで燃えつきたのではないか。

 人生をかけた大事業が無事終わったことで全てが終わったと考えたのか、その最期は静かなものであった。

 四月二三日、藤原常嗣死去。享年四五歳。人生を賭けた冒険から帰ってきてわずか八ヶ月後のことだった。


 常嗣の死去からほどなく、淳和院からニュースがもたらされた。

 五月六日、久しぶりに宮中に姿を見せた吉野の口から飛び出たのは、淳和上皇の容態が急変したという知らせである。

 淳和上皇は自らの命が残り少ないことを悟り、死後は火葬にし散骨するよう、そして陵墓は作らないようにとの遺言を記した。淳和上皇の忠臣であることを貫くために宮中を離れていた吉野が宮中に戻ったのはこの遺言を伝えるためである。

 容態回復を祈ることも、医薬品を用意することも、医師の診療も断った淳和上皇は、自身の子である恒貞親王の後見を吉野に託し、静かに自らの死を迎えた。

 五月八日、淳和上皇死去。

 遺体は遺言に従って火葬され、その遺骨は大原野西院(現在の京都市西京区大原野南春日町)で散骨された。

 陵墓を築かないよう遺言に残したため、長い間皇室の正式記録から陵墓に関する記録が残されていなかったが、淳和天皇がどこに埋葬されたかは非公式の記録にずっと残っており、小さな石を積み上げた円形の塚も残されていた。

 現在は淳和天皇の陵墓が存在する。大原野西院の小塩山山頂付近に設けられた「大原野西嶺上陵」と称する陵墓である。これは幕末の陵墓整備の際に、陵墓を持たない歴代天皇に対し新たに陵墓を設定するときに築かれたものである。

 そのため、大原野西嶺上陵に淳和天皇の遺骨はない。その代わり、その地一帯の土壌には淳和天皇の遺骨が残っているはずである。


 小野篁の京都到着は、常嗣の死から五〇日ほど、淳和上皇の死から四〇日ほど経った六月一七日のこと。

 京都に着いた篁は、かつて自分のことを涙を流して見送った民衆が、みな一様に冷めた表情であることに気づいた。

 その理由を知ったのは、黄色い服を着させられたとき。

 篁が隠岐にいる間に遣唐使が出発し、帰国したことは聞いていた。しかし、遣唐使達が京都でヒーローとなっていたこと、そして常嗣が死んだことはこのときはじめて知り、そして冷めた表情の理由を理解した。

 京都を発つときの篁は自分たちの生活を苦しめる遣唐使事業に反対する民衆の英雄だったのに、京都に戻ってきたときには、自分達のヒーローである藤原常嗣を苦しめた大悪人へと変化してしまっていたのだ。

 何ら染められていない繊維の元の色そのままの服(当時はこれを「黄色い服」と呼んでいた)を着させられた篁は、その格好のまま京都市中を練り歩かされた。黄色い服は無位無冠の庶民であることを示す。京都に連れ戻された篁は、元の地位に戻っての帰還ではなく、一人の一般人の元罪人としての連行だった。

 理屈の上では罪が許され京都に舞い戻ったこととなる。

 しかし、実際は、市民の怒りをぶつけるターゲットであり、無位無冠の一般人として事実上の自宅軟禁を余儀なくされた。外出が禁じられたわけではないが、外出したときの命の保証がなかった。

 今の篁は裕福な人間ではない。貴族でなくなり収入を失った篁にとって、自宅軟禁はそのまま生活の道が途絶えることを意味するのだ。

 貴族であった頃は莫大な収入があった。貴族としての給与に加え、新羅との交易から上がる収入がかなりの額になっていたのである。だが、そうした収入は遣唐使に選ばれて以後、全て使いきっていた。良房のように農園経営に乗り出したのではない。教育と学問への投資であった。

 篁の読書量はこの時代の先陣を切っていた。そう易々と本を買うなどできず、一〇〇冊も持っていれば大図書館扱いされたこの時代、本を大量に買いあさり、私塾を経営し、貧しい者への教育資金に財産をつぎ込んでいた。

 おかげで篁は当代最高の頭脳の持ち主と称されることとなるのだが、その頭脳を以てしても、自身の生活の困難はどうにもならないことだった。


 その篁に良房は接触した。もともと長良と同い年で宮中でも顔見知りであっただけに、良房が篁に接触するのは容易だった。

 良房は篁に対し、弟の良相の教育係となるよう要請し、篁はそれを受け入れた。報酬は篁の生活の保証。

 良相は京都の治安を安定化させた功績があったが、同時に恐れられてもいた。強盗を遠慮せず逮捕し、血祭りにあげる人間である。庶民が治安回復の功績を誉めることはあっても、積極的に接したいと考える相手ではなかった。

 ゆえに、民衆の恨みを買い邸宅の周囲を民衆が囲んで罵声を浴びせ、中に入ろうとする者に対し容赦ない暴行が繰り広げられようと、良相が小野邸に向かうことについては邪魔されなかった。当然だ。邪魔したら命に関わる。

 その良相だが、いい年齢になって素行も静かになったとは言え、どうも不良の血が騒ぐのか落ち着きがない。それに、素質はあると思われるのだが、兄二人と比べて学問の出来が良くない。軍勢を率いて敵を壊滅させる指揮力はあるのだから頭が悪いわけではないし、仲間の人望だって厚いのだから人心掌握力も高いのだ。

 ただ、貴族として必要とされる一般教養が弱かった。

 兄二人の出来がいいだけにそれはなおさら強調された。

 この面を引き上げてくれというのが良房から篁への依頼だった。

 これは難しい仕事となると感じた篁だが、断るわけにはいかない。それしか収入の道がないのだから。

 ところがいざ良相に会ってみると、この若者の素行の悪さの理由が瞬時に判断できた。良相はこれまで、兄二人と比べられ続ける人生を送ってきたのだ。何をするにしても長良や良房と比べられ、どんな結果を出しても「長良なら」とか「良房なら」と言われ続ける人生。貴族としてのデビューが遅いのも、良相のデビューのタイミングにはもう父がこの世の人でなっていたからにすぎない。

 恵まれていると感じる兄二人と自分との境遇の違いは大きすぎた。これでは人生が逸れるに決まっている。教育のスペシャリストであった良房でも、自身が原因である良相の不良化を食い止めることは不可能だった。

 だが、篁なら違った。

 本質的には篁も良相と同じ雰囲気の人間である。学問の出来とか、貴族として必要な素養とかは身につけているが、素行の悪さで言えば篁も人のことは言えない。そのために気が合ったのか、それとも篁の教育者としての資質が素晴らしかったのか、良相は篁を生涯の師として従うこととなる。


 常嗣、淳和天皇とこの年は死者が相次いでいたが、七月七日、また新たな死者が出る。

 右大臣藤原三守死去。享年五六歳。

 就任する直前まで大臣になるなど想像せぬ人生であったが、右大臣に就任してからこれまで、左大臣が左大臣だけに右大臣の活躍が求められる場は多く、三守はその全てに誠心誠意応えてきた。就任当初は長良や良房の傀儡と考えられたこともあるし、右大臣としての職務も良房の影響が現れているが、それが三守の評判を下げる要素にはならなかった。

 確かに清野の頃のほうが生活が豊かであった。この年の六月には飢饉対策として、冬嗣の頃頻繁に見られた免税が布告されている。だが、その責任は緒嗣にあると見る市民は数多く、三守は良くやっていると見る人のほうが多かった。

 その三守がいなくなったことは、緒嗣にとってチャンスだった。ここで左右の大臣を占有できれば緒嗣の権力は盤石になる。緒嗣には右大臣に推せる人材がいたのだ。

 復帰した吉野。

 だが、これはさすがに躊躇われた。確かに大納言なのだから右大臣になる資格はあるのだが、淳和上皇への忠誠を誓うために宮中を離れ、ついこの間復帰したばかりという身では右大臣となるのに疑問を抱く者が多かった。

 何より、仁明天皇が疑問を抱いた。

 自分ではなく叔父を選び、叔父が亡くなってから自分のもとにやってくる。これは、吉野の淳和天皇に対する忠誠心の堅さを示したが、仁明天皇を軽んじているという見方もできた。

 それに、吉野が、自分の師である三成や良房をいかに軽く扱ったかを仁明天皇は知っている。これは吉野の性格だろうが、自分より立場の弱い者に対して必要以上に尊大な、簡単言えば意地悪。これは、仁明天皇にとって、このタイミングで名が出た吉野を快く迎え入れるのを難しくさせることだった。

 一方、良房は誰もが考えなかった人材を見いだす。

 大納言なのだから右大臣の資格は充分。それに、吉野と違って性格も問題ない。それに、前任や前々任の右大臣と違い、若い。

 その者は自分が右大臣候補になったことに驚きを見せ、しばらく考えた後に決意した。仁明天皇はその意志を確認した後、その者を右大臣に任命した。

 八月八日、嵯峨上皇の子の一人で仁明天皇の弟、みなもとのときわが右大臣に就任。

 同日、良房が正式な中納言に就任。左兵衛督・陸奥出羽按察使との兼任は継続された。


 たしかに源常は大納言であった。しかし、大納言の中で最も右大臣に遠い人材と見られ、候補の一人と考える者など誰もいなかった。

 若すぎるのだ。

 この年、藤原緒嗣、六六歳。

 藤原良房、三六歳。

 源常、なんと二八歳。

 緒嗣も良房も若くして出世を重ねたが、源常にはかなわない。一七歳で従四位下、二〇歳で従三位、二一歳で参議を経験せずに中納言、二六歳で大納言という異例としか言いようのないスピード出世である。

 これは、嵯峨上皇の実子で仁明天皇の弟という点に加え、皇族出身者向けの特別枠とでもいうべきルートでの出世でもあるのだが、源常は断じて無能な人材ではない。

 そのことは自身が教育係であったことからも良房には理解できていた。良房が源常の教育係となったとき、源常はすでに従四位下として貴族デビューしていたが、当初は単に嵯峨上皇の子というだけの存在としか見られていなかった。その源常が時とともに立ち居振る舞いも艶やかな凛々しい貴族となり、その深い教養と気品を漂わせるようになったのを見て、嵯峨上皇は目を細めていた。

 その源常が大納言となったのは皇族ゆえの特別扱いであったろうが、大納言は大納言であり、右大臣たるに充分な資格がある。ゆえに、言いたいことはあるかもしれないが、何ら文句の言えない人選だった。

 もっとも左大臣の緒嗣は文句を言っている。正式な文句ではないが、八月一五日と二一日の二回、抗議のための辞表を提出している。

 緒嗣にはわかっていた。これが、教育者としての良房の本領発揮、すなわち、教え子を利用しての勢力構築だということを。

 それにしても、弟の人間教育に失敗しておきながら、若き貴族のタマゴにとっては最高の教師。世の中とはこういうものなのかも知れない。


 右大臣に就任した源常がまず行なったのが、それまで停まっていた「日本後紀」の続きの作成だった。国としての公式な歴史を完成させる必要性は誰もが認識していたが、冬嗣が始めた事業ということもあり、緒嗣は意図的に事業の継続をボイコットしていた。

 冬嗣が日本後紀の途中を公表して以後の歴史の中で、緒嗣はその存在を良くない意味で発揮してきた。それを国の公式見解として残すことを緒嗣が承知するはずがない。

 夏野や三守もその必要性を認識していなかったわけではない。だが、緒嗣の猛反対もあって頓挫していた。

 源常が日本後紀の編集に手を出したのは、右大臣として左大臣に対抗するという宣言に他ならなかった。あくまでも大義名分は日本後紀の完成を目的として。そして、この日本後紀の編集はまるで同窓会のような雰囲気であった。かつて良房のもとで学んでいた元大学生たちが資料を集め、良房を教師とした源常らが執筆を担当した。

 これだけならば左大臣として拒否権を発動できるはずだった。だが、良房は左右大臣が協力して歴史書を書いていると公表し、源常がこれを公表したのだ。

 これに緒嗣は激怒する。しかし、源常はその怒りを無視し、緒嗣の悪行も欠かさず書いた歴史書の編纂をはじめた。

 緒嗣は右大臣が暴走し歴史書の改竄をしていると公式な非難声明を出すが、良房は緒嗣のその発言も歴史書に残すとした。

 「先の帝(=淳和天皇)までは書き記すのが後世に生きる我々の役目、そして、主上御即位以後の歴史を記録に残し、後世へと伝えるのもまた我々の役目。後世の歴史書は我々にお任せください。」

 これは良房からの嫌みでもあった。緒嗣がもう六六歳になりいつ死んでもおかしくない年齢であること、そして、派閥の継承に失敗していることをあざけっているのだ。

 「何と言おうと、歴史の捏造は許さぬ!」

 「では、真実を記すのはお許しいただけるわけですね。」

 緒嗣は良房が時代をかなり掴んできているのを実感した。そして、このまま何もしなければ遅かれ早かれ時代は良房のものとなる。

 これにいかにして抵抗するか、緒嗣は考え続けた。


 その頃、海の向こうの新羅から不穏な雰囲気が漂ってきていた。

 前年の六月二七日、新羅の新たな国王に就任した神武王を慰問するために唐から派遣した使者は、新羅の船に乗って移動した。

 このとき使われた新羅の船は「交関船」と言い、新羅人チャン(名の漢字表記は「宝高」とする説もある)の所有する船だった。

 現在の韓国の全羅南道莞島に根拠地を置いた張保皐は、新羅南部の群小海上勢力を傘下に収め、唐・日本と手広く交易活動を行ない、中国沿海諸港に居住するイスラム商人とも交易を行なった。

 いつしか張保皐の名は広く知られるようになり、張保皐の勢力は新羅王室の権勢を超える事実上の独立勢力となっていた。

 この一大勢力が新羅王室に手を出してきたのがこの頃。張保皐は誰もが認めざるを得ないキングメーカーとなり、神武王が即位できたのも張保皐のおかげだった。実際、神武王は張保皐の武力を頼った軍事クーデターで王位を掴んでいる。

 日本にとっての張保皐は、信頼できるビジネス相手であった。張保皐は自らの勢力の中に海賊を迎え入れているが、彼らの海賊行為は厳しく処罰した。とくに、奴隷貿易に手を出す海賊は厳しく処罰し、奴隷として拉致された日本人を送り返している。そして、海賊や奴隷貿易より安定して高収入が得られる海運業や造船業に元海賊を投入した。

 ただし、これで新羅の海賊がなくなったわけではない。張保皐の勢力下にない者は相変わらず海賊を続けていたし、日本も海賊対策は必須だった。

 その張保皐と日本との接触がどのようになっているのかはこのとき明らかになっていなかった。これまで海賊が圧倒的多数でまともな貿易商人がごく少数だった新羅が、張保皐の登場以後海賊を減らし、まともな貿易を行なっている。ということは何らかの形で日本との通商で利益をもたらしているはずなのだが、そのカラクリがわからなかったのだ。建前は一商人として博多にやってきているということになっていたが、張保皐は日本と何らかの接点を持っているはず。そして、接点があるからこそ張保皐に関する情報が日本に伝わっていると考えないと辻褄が合わない。

 という状況下で新羅からもたらされた情報というのは、この年の七月、神武王が急死し、神武王の子文聖王が即位したという情報である。

 新羅に何かが起こっている。そして、日本にもその影響が出ている。誰もがそう考えた。


 九月二六日、遣唐使の最終報告が朝廷から出された。

 入唐廻使判官以下水手以上の三九一人に階位を与えたという記録である。しかも、通常であれば位とは無関係であるはずの僧侶にも、仏教界における位が与えられている。おそらく、下級船員ほど大量の階位が与えられ、上級貴族は少しに留まったと推測される。その内訳は、九階の昇進が一二人、八階が三九人、七階五九人、六階一二九人、五階一三四人、四階二人、三階一人、そして既に昇進しているため今回での昇進が見送られる者五人。九階の昇進が一番下の少初位下の船員に対して与えられた場合、従七位上という役人としてまずまずの地位になる。サラリーマンの感覚で行くと、昨日入社ばかりの新入社員がいきなり入社一〇年目の課長クラスに出世したようなものである。

 それにしても気がかりなのはこの人数。

 最初の渡航では四艘の船の総乗員は大使から船員に至るまで合計すると六五一人。このとき把握された人数は三九一人。篁ら五人が途中でリタイアし一部の僧侶で入れ替えがあったなど六五一人全員が最後まで遣唐使と運命をともにしたわけではないが、一〇人中六人しか生きて帰ることのなかった大冒険行であった。

 無論、全員が航海の途中で命を落としたわけではない。唐の地で亡くなった者もいるし、常嗣のように帰国してから命を亡くした者もいる。また、この時点でもまだ唐に残っていた者がいるし、行方不明なわけであって命を落としたわけではない者もいる。

 それにしても、生存率六〇パーセントの航海は危険以外の何物でもなかった。

 それでも唐との交易で得られる物があったのならばまだ救いはあるが、何もなかったのだからなおさら救いは失われる。

 このタイミングで緒嗣が企画した遣唐使の大量昇格は、一年前の熱狂を思い出させる効果があったが、同時に、これほど多くの命が失われたのかと憤激させる効果もあった。そして、緒嗣が遣唐使に懸命になっている間は遣唐使が終わればいい暮らしが戻ってくると考えていた者も、遣唐使が終わった現在になっても生活が良くならないことを実体験で感じていては、遣唐使の「成功」を高々と訴える緒嗣を冷たく見るのも当然であった。


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