第七章 遣唐使第二次派遣 (承和四(八三七)~承和五(八三八)年)
篁は正式な苦情を京都に届けた。ところが、京都からの返事は「大平良」と名付けられた第一船に位を授けるというものだった。
四月五日、朝廷は船に対し従五位下の位を授けた。無論名誉的なものであり実権は伴わず、船が貴族に列せられ参議や国司に就任するわけではない。ただ、船に位が与えられたことで常嗣の乗る船に朝廷が承認を与えたことになる。三位で遣唐大使と大宰権師を兼ねる藤原常嗣が乗るにふさわしい船という承認である。
朝廷の承認があっては篁も黙らなければならなくなる。いくら不満をぶつけようと、常嗣の乗る船こそが第一船であり、篁はかつて第一船であった現第二船で我慢するしかない。
これは篁の意欲をそぐに充分だった。
それから京都には大宰府の情報が届かなくなる。
問い合わせの使者を派遣しても、返ってくるのは「時期を見て出航する」という返事のみ。
しびれを切らした緒嗣は直ちに出航するようにとの命令も出そうとしたが、実状にそぐわぬ命令は良房らの猛反発を受けて撤回せざるを得なくなっていた。何しろ、今まで緒嗣と良房の間に立って両者を取り持っていた長良ですら、良房に全面的に賛成し、緒嗣は黙らざるをえなかったのだから。
それにしてもここ数年の長良の活躍には目をみはる物がある。緒嗣と良房の論戦はここ数年の恒例になっていたのに、一度としてこじれていない。
これは長良の存在が大きかった。
決定的な対立となる前に良房を制止するのが長良の役目だった。位でいけば長良は良房より下になる。しかし、兄の一言はどんな状況でも良房を黙らせるに充分だった。そして、長良が間に入った後はそれまでの激しい論戦などなかったかのようになるのが日常だった。
ところが、長良が間に入った後の朝廷の決定はどうだったかを見ると面白い現象が出てくる。
遣唐使派遣有無を除く全てが良房の思い通りになっているのだ。
遭難した遣唐使の帰郷も、貧困対策も、治安対策も、反乱対策も、何もかもが良房の主張した結果が実現している。
何のことはない。良房は兄が止めることを前提として論戦を展開していたのだ。そして、兄に怒られる弟を演じながら、良房の、いや、藤原兄弟の思い描いていた結果を朝廷内に実現させていたのだ。
こうして見ると、長良という男は一癖も二癖もあるように見えてくる。
善悪でいけば善の香りがする。弟のような偽善ではなく完全な善の香りが。
温厚な性格で、時に弟を叱るときもあるが、誰とでも打ち解け決定的な敵を作らない。長良は誰からも信頼を集め、篁のように自らの立場に当惑した者は長良に相談することが多かった。そして、長良はそうした相談者の心の支えになった。
だが、それが全て演技だとすればどうだろう。長良のこれまでの行動が良房との間で巧妙に仕組まれた芝居だとすれば全て辻褄があってしまうのだ。
断言はしない。だが、その可能性は否定しない。
大宰府から待望の知らせが飛び込んできたのは七月二二日になってからだった。
ただし、その内容は緒嗣を喜ばせるものではなかった。
「遣唐使船三船は共に松浦郡旻楽崎を指して発行(出航)すする。第一、第四船はたちまち逆風に遭い、壱岐嶋に流着。第二船は値賀嶋に漂着。以上。」
「三船? 四船ではないのか?」
「三船としか書いておりませぬ。察するに、遣唐使船第三船は出航しなかったのではないかと思われます。」
良房も書いてあるとおりのこと以上は言えなかった。
「なぜだ。なぜ三船しか出航せぬ。」
「第三船は前年沈没したばかり。わずか一年での復旧はかなわなかったのか、それとも、建造はしたものの出航に耐えられる品質ではなかったか、いずれにせよ、大宰府が三船と判断した以上、都で我々がどうのこうの言う資格はございません。」
「だが、第三船は残っているのだろう。ならば早々に第三船を出航させれば良いではないか。」
「海に面する者が無茶と判断したのに、海と離れたところに住む者が何を言えましょう。判断は一つしかございません。遣唐使は失敗したのです。」
緒嗣は何も言えなかった。しかし、今回の遣唐使の渡航が失敗したことは認めたが、遣唐使そのものが失敗したとは断じて認めなかった。
その態度は大宰府にたどり着いた者達への処遇に現れた。前回は許された帰郷が今回は許されなかったのである。そのまま大宰府の続命院に留まるようにというのが緒嗣の発した指令だった。
さて、この二度目の渡航に第三船が加わらず三艘で出航した理由であるが、これは現場の判断である。
二度目の渡航は第一回目の渡航と同じ面々が遣唐使船に乗り込んでいるが、一部例外がある。それは大量の死者を出した第三船の生き残りたち。彼らは遣唐使として乗り込むことが許されなかった。
緒嗣は許したのである。いや、再び渡航するように命じもしたのだ。だが、現場がそれを許さなかった。
沈没した船の生存者を再び海に乗せることを不吉とし、乗船を拒否することはこの時代多かった。特に今回は命がけの航海であり、前年に大量の死者を出したばかりである。五人に一人しか生き残れなかったことはこれ以上ない凶事であり、海の者ならば誰もが同乗を躊躇わなければならない大事件だったのだ。
前年に第三船に乗り込んでいたため有能かつ将来有望と見られていた二人の僧侶、真然と真済の二人が遣唐使から外されたのも同じ理由。僧侶が乗り込んでいながら御利益無く船が沈没したという事実が海の者たちを恐れさせ、二度と遣唐使にたずさわるなという目で見られたため、彼ら二人に変わる僧侶として円仁と円行が選ばれた。
良房は船が三つしかできなかったからではと言ったがそれは違う。船はちゃんと四艘完成していた。だが、乗船者が三艘分しかいなかったのだ。そして、前年に遭難したばかりの第三船は不吉として忌避されたのだ。
この判断を大宰府は独断で行ない、京都には結果が出てから届けた。
もし、第三船を出航させないという連絡が先行して来たら緒嗣は猛反発を示し、使えうる全ての権力を駆使して四艘の船を出航させたであろう。
だが、大宰府からの連絡が届いたのは全てが終わった後。三艘のみで出航し、失敗したという連絡を受けたのでは緒嗣にはどうにもできない。
緒嗣はそれでも遣唐使派遣に執念を燃やした。九月二一日、石川橋継を遣唐使船修理長官に任命、小野末継と長峯高名の二人遣唐使船修理次官に任命し、大宰府へ派遣した。
遣唐使にしか意欲を示さない緒嗣に代わる役割を担うのは本来なら右大臣の役割であるが、その右大臣清原夏野の体調は予断を許さぬものになっていた。
夏野邸は双岡(現在の京都市右京区御室双岡町)にある。貴族の大部分が御所から見て東にある左京に住んでいたのに対し、夏野は貴族の少ない御所の西、それも平安京の区画を外れた双岡に住んでいた。そのため、長良も良房が夏野邸に足を運ぶことは珍しくはないものの、毎日というわけではなかった。
日々悪化していく夏野の様子は看る者を辛い思いにさせる光景でもあった。
「見ての通りだ。私の人生は長くはないだろう。」
「そんな、まだ右大臣殿がいていただかなければ困ります。」
「良房、そなたの父が亡くなられた時を思い返してみよ。そなたの父の最後と私の今とが似ているとは思わぬか。」
「……」
良房は何も答えなかった。たしかに今の夏野は父冬嗣の亡くなる直前に似ている。」
「そなたに人生を賭けたことは間違いとは思っていない。だが、今の良房には失望している。私を見舞う暇があるなら、都で苦しむ人々を救うことを考えよ。私は何をしようともうすぐ死ぬ。だが、手をさしのべれば失われずに済む命がたくさんある。まあ、そなたのことだからもうしているとは思うがな。」
「してはいますが、恥ずかしい話ながら、財は尽きました。国の財も、藤原の財も。」
「清原の財を使え。財は黄泉の国まで持ち運べるものではない。」
「右大臣殿のご家族はどうなるのですか。」
「我が息子等は朝廷より碌をいただいている。親が貯めた財を期待するようでは、先は長くはないな。」
そして夏野は自らの財産を良房に託し、良房はその財産を利用して京都市中の民衆救済にあたった。具体的な内容については不明だが、救済に検非違使や衛門も動員していることから良房は教え子たちを動員したのであろうが、もう一つ大きな存在がここにいた。
冬嗣の息子は長良と良房の二人だけではない。年の離れた弟、良相もいる。兄二人と違い素行が悪く評判も悪かったが、良房はこの良相を救済活動に参加させたのみならず、民衆との折衝役を担当させた。
このときの良相は六位の蔵人で、役人であって貴族ではない。しかし、評判が悪かろうと、今を風靡する良房の弟であり、仁明天皇の側に仕える蔵人が民衆救済の窓口になったことは大きかった。
そして、遣唐使一色に染まった朝廷が自分たちを見捨てずにいてくれたというアピールできたし、藤原家や清原家が民衆を忘れずに行動することをアピールできた。
しかし、これは清原家にとって大きなダメージでもあった。
夏野は右大臣にまでなった人物だが、清原家は藤原家ではない。それでも夏野の父までは皇族の一員の扱いを受けた特別な家系となっていたが、夏野以後は清原の姓を名乗る一臣下になっている。夏野は皇族の子であることを利用して貴族になったが、そこから先は自身の能力と運と賭けとで現在の地位を掴んだのであり、家系を利用しての出世ではなかった。
清原家の収入は農園からの収入と貴族としての給与に限定され、皇族限定の定期給付対象からは外されていた。というところで財産を処分するのである。これは人としては称賛されることであるかも知れないが、父としては称賛されることではなかった。
家系を利用して貴族デビューしたが、家系を利用しての出世はしていないというのであれば、長良や良房だってそうではないかとなる。だが、これは理論上に過ぎない。
冬嗣は婚姻と教育という二つのプラス要素を子ども達に与えた上で貴族デビューをさせているし、財産だって残している。一方、夏野は息子たちを貴族デビューさせたが、婚姻も教育も用意していないという状態で財産を奪っている。これは夏野の子ども達にとって二重三重のハンデが与えられたことを意味する。
夏野には最低でも三人の息子がいたという記録があるが、詳細な記録はない。記録に残るほどの功績を残していないからである。
そのため、父が病に倒れたときに何歳なのかを伝える記録も無ければ、息子たちがどういった生涯を送ったかという記録もただ一つの例外を除いて存在しない。その一つも、後の文徳天皇の頃に夏野の子である清原瀧雄が右近衛少尉になったという記録が残っているのみであって、貴族の一員ではあっても目を見張る出世ではない。
承和四(八三七)年一〇月七日、清原夏野、死去。右大臣職空席に。
そして、清原氏の本流は夏野の手からこぼれ落ち、父の従兄弟である清原有雄の手に渡る。
清原氏の系図を見ても夏野を最後に途切れていることが多く、系図の上では有雄の子孫のみが記され、夏野の子孫がその後の朝廷で勢力を持ったという記録は見られない。そして、有雄の子孫が清原氏が夏野を超える勢力を持つことも、夏野に並ぶ勢力を持つこともなくなった。
一氏族でしかなくなった清原氏はこのあとその他大勢の貴族に留まり、左大臣も右大臣も輩出しない家系となる。
ただし、夏野の直系の子孫ではないが、清原氏はこの一七〇年後に大人物を生み出すこととなる。
清少納言。
この「清」の文字は「清原」の「清」である。
夏野の財産を用いての京都の民衆救済であるが、皮肉と言うべきか、一瞬しか効果をもたらさなかった。
もともと京都に逃れてきたのは、以前から田畑を耕す意欲を持っていなかったか、貧困による治安悪化で田畑を耕す意欲を失った者であり、労働生産性という点ではゼロ。つまり、食料を配ろうと、カネを配ろうとそれを生かして人生をやり直すという意欲には向かわず、その日の生活に消費されて終わった。
良房は自らの農園の再建を試みるが、失われた治安の回復は簡単にはいかなかった。
それを象徴する事件は一二月五日に発生した。女二人組の盗賊が春興殿(宮殿の中で武具などを保管していた建物)と清涼殿(天皇の日常生活の場所)に侵入したのである。
一名は逮捕できたがもう一名は逃亡した。
天皇の生活の場に盗賊が忍び込んだという事実は治安悪化をこれ以上なく意識させることであり、仁明天皇は大きなショックを受けた。
一二月一一日には京都を大嵐が襲い、数多くの建物が崩壊し、路頭に彷徨う人はさらに増えた。良房がいかに救済に走ろうと結果は無駄であった。治安は悪く、生活も悪化している。農地に向かうように誘っても強盗団の襲撃を受けるだけだと拒否される。命を守れぬ農園より、命を守れる可能性のある京都の方がマシだと多くの民衆が判断したのだ。
その上、女盗賊二人の侵入に刺激されたのか、一二月二一日には大蔵省にも盗賊が侵入してきた。このときの盗賊が逮捕できたのかどうかを伝える史料はないが、逮捕できなかったであろうとは推測できる。こうした反乱や重大な犯罪の犯人が逮捕されたなら必ずその者の様子が史料に残っているからであり、残っていないということは逮捕できなかったということを意味する。
それでも良房はできる限りのことをしたとするしかない。右大臣を失い、左大臣は遣唐使にかかりきりとなっている朝廷にあって、遣唐使と距離を置いて日々の政務に目を見張る良房は頼もしくあった。
「現在の問題は治安悪化に始まっている以上、治安回復しか問題を解決する方法はございません。」
「近衛を司る立場でありながら、御所に盗賊を招いておいて何を言うか。」
緒嗣は良房の言葉に皮肉を込めた批判をしたが、治安回復に関する具体的なアクションを起こさなかった。
「その盗賊を生み出したのは、左大臣、あなたです。私はその尻拭いをしているに過ぎません。そして、私がいま考えているのもその尻拭いの延長です。」
「で、その考えとは何だ。」
「盗賊を全員殺します。」
「!」
良房の言葉は宮中に緊張を招いた。
仲成の射殺を最後に死刑が消えて三〇年経っている。それからこのときまで、どんな重大な犯罪であっても最高刑が追放刑となっており、牢に入れられたまま死を迎える者はあっても、法により殺された者はなかった。
犯罪者の人権に配慮したと言うより、死刑自体が忌むべきものとされたことのほうが大きいだろうが、何れにせよ、犯罪者を殺すというのは考えることすら許されぬタブーであることに変わりはなかった。
良房はそのタブーをあっさり口にした。
「盗賊を生かして何の価値があります。一粒のコメも生まず、一枚の銭も稼がぬ者を殺して困る人などおりません。」
「そ、それは……」
「まず成さなければならないことは盗賊に襲われない暮らしを作ることです。温情により盗賊から足を洗わせようと考えても何の意味もありません。治安を悪化させる者は誰であれ叩きつぶします! 主上、私めに治安回復を命令なさいませ。必ずや期待に応えてみせましょう。」
大きなショックを受けた仁明天皇に向かって良房はこう言い放った。
父冬嗣が実権を掴んだのは三五歳になってから。その息子の良房は三四歳にして権中納言となり朝廷内で父冬嗣の実権を掴んだとき以上の存在感を持つようになっている。
治安悪化に対する長良と良房の兄弟の反撃は翌承和五(八三八)年一月に始まった。
まず、一月七日に、正六位上の蔵人でまだ貴族ではなかった弟の良相を外従五位上に任命させて貴族デビューを果たさせた。良相このとき二五歳。兄二人と比べると貴族デビューの年齢としてはかなり高いが、兄二人が貴族デビューしたときは父が現役の左大臣であり、良相のデビュー時は父が既に亡く、兄二人が三位から四位の貴族であるだけという状況を考えると、これでも早いほうである。
良房はこの良相に治安回復のキーマンを託すこととした。良相は兄二人と違って武人としての訓練を積んでいた。もっとも、天賦の才能に恵まれていたのではなく、性格が粗暴で長兄の長良のように周囲をまとめる能力はなく、また、短絡的な性格で次兄の良房のように政治家として左大臣を敵に回して論陣を張ることもなかった。
その代わりに良相には、良房ら三〇代の者よりも一世代下、二〇代のリーダーとしての集団を率いる能力と腕力があった。と書くと格好が付くが、要は不良だったのだ。二〇過ぎてからは落ち着いてきているとはいえ、一〇代の頃から不良をまとめる親分肌で、そちらの意味で良相を慕う者が多かった。
毒を持って毒を制すとばかりに、良相の息の掛かった者が京都市中に散らばり、それまで仲間のようなものだった盗賊たちと血で血を洗う暴力沙汰が展開された。
一月一〇日には、夏野の後任の右大臣に藤原三守が任命された。大納言の一人であるため右大臣への昇格は制度上おかしなことではないが、全く考えられていなかった者の右大臣就任は誰もが驚きを隠さなかった。
間違いなく三守の右大臣就任には長良と良房の兄弟が裏で噛んでいる。三守は冬嗣の妻の弟であるため、良房から見れば叔父にあたる。このとき五〇歳を迎えており、あとはリタイアした後の順風満帆な隠居生活が待っているはずだった。
その三守を兄弟は担ぎ出した。
三守は弘仁格式の編集に尽力したことで名を残したが、以後の消息は乏しくなる。残っている記録となると天台宗と真言宗の両派を熱心にサポートする信心深い仏教徒であることぐらいだった。
しかし、この仏教界に顔が利くということが大きなメリットだった。
治安安定へのメリットである。
兄弟は三守の仏教界への影響力を通じて寺院の僧侶に武器を持たせ、治安維持にあたらせることにしたのだ。後に問題となる僧兵の誕生である。
このときはまだ強盗団のターゲットの中に寺院や神社が含まれていなかったが、寺院や神社が他より豊かであることは誰の目にも明らかであり、いつ強盗団のターゲットとなってもおかしくなかった。その段階で僧侶に武器を持たせ盗賊に向かわせることはかなりの先見の明と言える。
寺院が武器を持って強盗団をやっつけてくれるということで、京都を出て寺院の庇護を求めることを選んだ者が出てきた。寺院の周囲の捨てられた田畑に人が戻りはじめ、農園が復興されてきたのである。これは京都の福祉負担を減らし、寺院にとっては影響力の行使できる田畑が増えることを意味した。
二月九日、良房はついに直接的な武力に訴えた。盗賊逮捕のために左右衛門府の府生(衛門府の実働部隊の隊長)、看督(かど・現在で言う刑務所の刑務官)らを畿内諸国に派遣した。
翌二月一〇日には、海に逃れた強盗団が海賊化しているため、山陽道、南海道の各国国司に対し捕縛を命じた。国衙には一定の軍事力が常駐しており、海に面した国だとその軍事力は海軍力も持っているのが普通。しかし、本来その軍事力は国外の敵に向けてのものであった。
良房は各地の軍事力を、国外の敵でなく国内の敵に向けたのだ。
日本各地で凄惨な強盗狩りが展開された。
強盗に味方する民衆などいなかった。それまで攻め込んでいた側が追われる立場となって、かくまう所などなく逃げわらなければならなくなった。
農村に逃げ込んできた強盗が農民にリンチされ、寺院に助けを求めた強盗は僧侶の手で殺され、京都市中に逃げようとした強盗は良相一派の手で処分された。
山に逃げ込んだ強盗は弓で射殺された。
海に逃げた強盗は船ごと焼かれ海の藻屑と消えた。
人質をとって立て籠もった強盗は人質ごと殺された。
強盗から足を洗い真人間として暮らすと命乞いした者はその場で斬り殺された。
「強盗を殺す」は脅し文句ではなく、他の貴族たちが眉をしかめる大事件となった。
力ずくでの強盗団対策は効果をもたらしつつあったことは認めなければならなかった。目に見えて治安が向上したのだから。
強盗団の中に死刑となった者はいない。だが、逮捕に至るまでの過程で命を落とす者は続出した。それは捕まえる側も同じで、少なくない命が治安向上のために失われた。
その強盗団鎮圧の様子を良房は淡々と語った。
それを聞かされた貴族たちの中には吐き気をもよおす者も現れ、途中退出する者まで出たが、良房はそれでも顔色一つ変えることなく、治安回復について報告した。
ここにいる誰もが良房は血も涙もない男だと感じたに違いない。
だが、良房は自分の出した命令に恐れおののいていた。
言葉にするのも命令するのも簡単だった。だが、それによって失われた命の多さは良房自身の心に深い傷を付けるに充分だった。
「誰かがやらなければならなかった。だから命じたのです。非難は私に向けてください。それが、死を命令した者の定めです。」
朝廷ではその言葉で報告を締めくくった良房も、家に還った後は妻に弱みを打ち明けている。
「あなたはよくやりましたよ。」
「だが、私は何人もの人を殺してしまった。」
「あなたも言ったではないですか。いまここであなたが動かなければ、より深い悲しみがこの国を包んでしまうのです。この世の全ての人があなたに汚名を浴びせようと、私はあなたを信じ、あなたについていきます。」
「すまない……」
潔姫は、宮中では決して見せない弱みを自分だけには見せる夫を暖かく迎え入れた。
五歳で嫁いできた潔姫は、もう二四年ものあいだ良房とともに暮らしている。他の誰よりプライベートの良房を知る妻にとって、顔色一つ変えずに冷血極まりない決定をし、非情この上ない惨劇を報告しても平然としている様子など、全てが演技であると見抜けることだった。
この二人の夫婦仲は他者も羨むほどだった。
ただ、子宝には恵まれなかった。潔姫が生んだ子どもは生涯でただ一人、後に文徳天皇の妻となる明子(「めいし」と読んでいたとする説もある)のみ。男の子には終生恵まれなかった。
この時代、妻が男の子を産まないというのは離婚要素となるほどだったが、良房はそのようなことを全く考えていない。さすがに嵯峨上皇の娘と離婚するなど許されないということもあるが、そんなことよりもむしろ、妻として潔姫以外の女性が考えられなかったということがあるのではないか。
良房は生涯潔姫を愛し続けた。
スタートは間違いなく政略結婚だが、政略結婚が必ずしも不幸を招くとは限らない。
三月二七日、勅令が下った。
「遣唐使は過去二年連続で唐に着かず舞い戻り、その役を果たしていない。仏を信じれば御利益は必ずあり、良きことをすれば必ず神の助けがある。よって、大宰府所管の九ヶ国に、二五歳以上で常日頃の品行が正しく、経典を読むことができる者、そして心変わりしない者九名を選び、香襲宮(神宮皇后を祀る神社)に二人、大臣の社(武内宿禰を祀る神社)に一人、宇佐の八幡大菩薩宮に二人、宗像神社に二人、阿蘇神社に二人の計九人を配属させ、国分寺および神宮寺に於いて安置供養し、遣唐使らが行き帰りの間無事であるよう祈るようにさせよ。」
緒嗣は今年こそ遣唐使を渡航させることに執念を燃やしており、そのために神仏の力を借りることにした。
仁明天皇も左大臣のこの執念には何の抵抗もできず、言われるがままの勅令を発する。
ただ、これまでだって神仏の力を借りようとしていたのである。実際、渡航前には遣唐使たちに参詣をさせているし、唐へ渡るためでもあるが各船には必ず僧侶を乗せている。
誰もがその疑問を抱いたが、遣唐使しか頭にない緒嗣にその質問は無意味だった。
このあくまでも遣唐使を優先する緒嗣の姿勢に真っ先に反旗を翻したのが良房である。
「遣唐使の航海の無事を祈らせるより、疫病と飢饉の沈静化を祈るほうが先ではないですか。」
治安回復を果たしつつある良房のもとには各地からの情報が飛び込んできていた。
そこには、力ずくによる治安回復が果たせたものの、強盗団のせいで田畑を耕す者が少なくなり収穫が乏しくなっていること、その上で疫病が流行し使者が増加していること、にも関わらず、あくまでも遣唐使を郵船させる祈祷を命じる国への反発が強まっていることが記されていた。
「遣唐使のために祈る暇があるなら、民衆の日々の暮らしのために働かせなさい。」
真正面から緒嗣に文句を言う良房の言うことなど、ついこの間までなら緒嗣は聞き流していた。だが、今の良房は違う。強盗団を力ずくで殲滅させた、つまり、人を殺すことなど何とも思っていないと思われるようになっていた。
良房が恐怖の対象となったのだ。
恐怖の対象となった良房の意見を聞き入れたのか、緒嗣は貧困対策に手を出した。
四月二日、大和国の富豪の財産を調査し、困窮者へ借貸させるよう、左大臣の名で命令が下った。
これは仁明天皇の指示ではない。左大臣藤原緒嗣の独断である。
これはかつて緒嗣が行なって大失敗した政策の繰り返しだった。弘仁一〇(八一九)年二月二〇日、緒嗣は、富豪の蓄えを調査して、余裕ありと判断した者に対し貧困者に無担保無利子で貸し出させるよう進言したが、今回も同じことを命じた。そして、これはのちに、借金の全額免除もあって事実上の財産没収という結末を迎えた。
それから一九年の時間を経て、緒嗣は左大臣としての権限を駆使し、比較的豊かな者が多いとされている大和国の農園に対して同じことを命じた。
大和国には寺院の経営する数多くの農園が展開している。また、貴族の経営する農園も寺院ほどではないにせよ数多く点在している。こうした大和国の農園の豊かさは京都でもよく知られていた。
ところが、寺院の経営する農園には、良房の命じた強盗対策のための武力が存在している。寺院にとっては、いかに左大臣が命じたことであろうと財産を差し出せと命じるのは強盗に等しく、対抗する相手であった。そのため、調査に来た役人に対して武器を持って立ちはだかる光景が展開された。
また、大和国に農園を持つ貴族のほとんどは緒嗣派の貴族の農園である。緒嗣はこうした農園については最初から調査対象外であった。
となると、寺院でも、緒嗣派の貴族でもない者の持つ農園がターゲットとなる。
結果、こうした農園の経営者は新たな強盗に狙われたも同然となった。指令はいかに「貸し出し」であっても事実上の財産没収であることは誰の目にも明らかだったのだから。
良房もそのターゲットとなった貴族の一人だった。
良房は貸し出しには応じたが、貸し出すためのコメは長良を通じての借金(厳密に言えば「借コメ」)でまかない、それを大々的にアピールした。しかも、そのときの貸し手となったのは緒嗣派も明確な貴族たちであった。
良房が緒嗣の過去の暴走を知らないわけはないし、現在の暴走を知らないわけもない。だが、良房は富豪の財産を調査せよという左大臣の命令に何ら反対を示していない。これは、緒嗣の思惑がなぜ失敗であるのかを身を以て証明しようとしたからではないか。
緒嗣はたしかに自分の配下の貴族に対する財産調査は行なっていない。
だが、良房を通じて財産調査を行なったも同然となった。
これが緒嗣派の貴族にとって新たな決断を迫る結果を招いた。
緒嗣への絶望と良房への期待である。
良房が日本一の富豪になったとは言え、これまで借金をしないで済む人生を送ってきたわけではない。今でこそ大農園の持ち主として莫大な財産を持つ身となっているが、その農園はもともと失業対策への投資であり、莫大な財産はその結果である。
まずは失業対策ありきで支出したため、収入を超える支出が必要となってしまった。そのため借金がかさんだのである。
ではなぜそこまで良房が借金できたのかだが、それは良房が律儀なまでに借金を返し続けたからと、いつどこで誰に借りたか、そして、何のために借りたかを隠すことなく主張したからであろう。何しろ、誰もが問題であると認識せざるを得ない失業対策にあたるのだから何ら文句は言えない。
申し込まれた借金を断る自由だってあるが、良房は断られたときも誰に断られたかを隠さず公表すると公言している。民間人ならともかく貴族が庶民を見殺しにする行動に出るなどもってのほかと考えたのか、世論の恨みを恐れたのか、良房に借金を申し込まれたときはその借金を受け入れている。
また、借金を貸す側にとっても良房は信頼できる相手だった。政治的な立場はともかくビジネスの相手としての良房は信頼がおけたのだ。どんな借金でも良房は律儀に返し続けた。ただし、問題点が一つ。良房から返却されるとき、利子はほとんど期待できない。全く利子を付けないで返すわけではないが、他の人に貸す場合と比べたときのリターンは少ない。
言わば、ノーリスクローリターンの投資相手だったのだ。
また、良房には強盗団を死に至らしめたばかりである。本来の性格はともかく、宮中における良房は人の死を平然と無視する恐ろしい人間に見えた。
そのため、長良に頼まれた緒嗣派の貴族たちは、政治的立場は別にして、長良を通じて良房にコメを貸し出した。
四月五日、遣唐使が出航してから帰国するまで、五畿七道全ての国で海龍王経を読経するように命令が下った。海龍王は仏教における海の神で、第八次遣唐使として渡唐した僧侶の玄昉が日本への帰路で嵐に遭遇したとき、海龍王経を唱え続けたところ船が無事に帰国したという逸話があることから、海龍王経には船の安全な航海をもたらす効果があると考えられてきた。もっとも、海龍王経の読経は一度目の派遣のときからとっくに行なわれており、今回は読経を行なう範囲を広げたということになる。
その二日後には、同じく五畿七道の全てで、大般若経の転読が命じられた。こちらは、蔓延する疫病の鎮圧と不作の解消を願っての転読であり、同時に、一七日間の殺生が禁止された。
大般若経は正式名称を大般若波羅蜜多経と言い、全六〇〇巻からなる膨大な経典である。日蓮宗や浄土真宗などの一部の宗派を除いては最重要経典と位置づけられており、この時代はどの寺院にもこの経典が保存されていた。そのため、大般若経の転読が命じられた場合、どの寺院でもすぐにスタートできた。
大般若経は全部読むのに極めて時間がかかるため、全部の経文を読む代わりに行なわれるのが、転読。転読は経典の一部のみを読み上げることで一巻を読んだことにするもので、現在でも大般若経を使用する儀式では、全文を読むのではなくこの転読で読了としている。ちなみに、全文を読みあげようとした場合、不眠不休で二ヶ月、一日八時間ずつ読み上げたとしても半年かかり、日本に仏教が伝達してから一五〇〇年以上の歴史がありながら、日本国内で大般若経の全文を読み上げた者は一〇名に満たないと言われている。
その頃大宰府から届いた知らせは、遣唐使の出発ではなく、大宰府管内の窮乏だった。
遣唐使を一冬留めることの負担が九州各国に襲いかかってきていたのだ。その上で、大宰権師としての常嗣が送ってきたのが、自分たちがここにいる事による周辺地域への負担の重さだった。これは緒嗣を怒らせるに充分だった。
四月一三日、北九州の五ヶ国、筑前、筑後、肥前、豊前と、もう一国(それがどこなのかは史料に残っていない。豊後とする説と肥後とする説とがある)に対し、一年間の免税が決定された。ただし、大宰府にいる遣唐使たちの世話をすることの見返りであり、かつ、遣唐使船の建造・修理の負担がこれらの国に命ぜられた。
翌一四日には、大宰府の所管する九州の各国で施が実施された。
緒嗣も常嗣からの連絡で九州の負担の重さを知ったが、それと遣唐使派遣とは別問題だった。それがいつ京都を出発したのかわからないが、四月二八日、大宰府にいる遣唐大使藤原常嗣と副使小野篁に詔が届けられた。
「遣唐使たちは、大きな使命を帯びて大海を渡ることを期待されている。しかし、こちらの期待に応えず、続命院に留まって出航しないのはどういうことか。最近は北東の風が吹き出して出航に相応しい時期を迎えているのだから早々に船を出航させるように。」
その上、この詔を持ってきたのが従四位下右近衛中将の藤原助。藤原助は単に詔を持ってくるために大宰府に来たのではなく、出航を見届けるために大宰府に派遣された者であった。
大宰府からの上奏文は五月三日に京都に向けられて送られた。
上奏文に記されていた大宰府からの返信は以下のようなものであった。
「二度の航海失敗がありながらも、主上からの命令は未だ実現できずにおります。遭難は風向きによるものであり、風向きは天が命じた結果にございます。今ここで航行を重ねれば海は再び行く手を阻むこととなりましょう。そのためには、神仏の助けが必要です。我々の航海のためにも大般若経の転読を五畿七道各国に命じていただきますよう謹んで請い申し上げます。」
一見するとまっとうな回答に見えるが、よく読むと、航海への嫌悪感と、あくまでも航海を命じる朝廷への恨みが聞こえてきそうである。
この上奏文が何日に京都に届いたのかはわからないが、五月一八日には上奏文に基づいて一〇〇名の僧侶に対し五日間の大般若経転読が命ぜられたことから、それより前には届いたはずである。
藤原助が大宰府に来たことで、出航をしないわけにはいかなくなった遣唐使たちであるが、その思いは一致団結にはほど遠いものだった。
まず、冷え切っていた大使常嗣と副使篁の関係が完全に引き裂かれた。
常嗣が自分の乗る船を選んで太平良と名付けたのは二度目の航海時に既に記したが、その名は今回の出航でも有効だった。ただ、太平良と名付けられた船は前回の船とは別の船だった。
今回太平良と名付けられたのは、篁が乗るはずだった第二船。
常嗣は大使としての権力で第一船と第二船を取り替えた。二度目の出航前に常嗣が船を取り替える前の状態に戻ったことになるが、このタイミングで船を取り替えた理由は一つしかない。
二度目の航海での破損状況がもっとも軽かったのが第二船で、その第二船を常嗣は選んだのだ。
そして、今度第二船となったかつての太平良は、現在もなお修繕中で、底板に穴が空き海水が浸水している有様だった。この船を押しつけられて篁が平然としていられるわけはない。
篁はついに反旗を翻した。
病気を理由に遣唐使船への乗船を拒否したのだ。もちろん仮病であり藤原助は乗船するよう迫ったが、いまは疫病が流行っている状況でもある。病を持った者を乗船させると狭い船内に瞬く間に病が広まってしまうことから、篁の仮病を知らない船員たちは篁の条件を拒否した。
六月二二日、大宰府の藤原助から、小野篁が病気のため乗船できなくなったとの報告が京都に届いた。
七月五日、大宰府から第一船と第四船の二艘だけが出航したという連絡が入った。前々回は四艘揃って、前回は三艘のみ、そして今回は二艘だけという状態に、今回の出航は前回よりも悪い結果に終わるのではという噂話が広まった。
七月二九日、大宰府から遣唐使の二度目の情報が届いた。第二船出航。ただし、乗り込んでいなければならない副使小野篁は病欠。このとき出航したのは第二船のみで、第三船は結局出航することなかった。
八月三日、常嗣からの上奏文が京都に届いた。
「四月二八日に受け取りました詔書を拝見し、かたじけなさで気が動転してしまいました。身にあまる破格の恵みは遠く離れた大宰府の地にあっても道を深く潤しながら届いて参ります。その御恩を我々遣唐使たちに向けていただきましたこと、感謝の気持ちで一杯であります。京都を発ってから長い月日が経っておりますが、我々はその任務未だ果たすことができずにいます。人の命には限りのあることと言え、これは万死に値することにございます。」
原文はもっと美辞麗句の散りばめられた勇ましい文章になっているが、かえって空しい響きを招くこととなった。
それは、この上奏文が届いたあとで伝わった情報も手伝っている。
篁の病欠は既に伝わっていたが、そのほかにも伴有仁、刀岐直貞、佐伯安道、志斐永世の四人が乗船を拒否し出航前に逃亡したという連絡である。
彼らは何れも遣唐副使小野篁とともに第二船に乗る予定であった者達であり、一度目の航海も、二度目の航海も篁と一緒の船に乗り込んでいた。
誰が見ても対立している以外に見えない大使と副使の関係にあって篁側に着いた者達であったし、篁が以前より主張していたこと、すなわち、遣唐使はもはや役を果たさず、ただ死の危険が高い無意味な航海であるという意見に同調していた者たちでもあった。
彼ら四人は逃亡と言っても野山を逃げまどうのではなく、大宰府の管理下に留まっていた。遣唐使を拒否して船に乗り込まなかったときに何が待っているのかは彼らも知っていたはずである。
法に照らせば死刑になる罪であった。それでもなお、彼らは国命に逆らうことを選んだのだ。
それからしばらく遣唐使関係の記録が影を潜める。
遣唐使が大宰府から出航したあとであり、次に情報が届くことがあるとすれば、遣唐使が帰ってきたという連絡でなければならない。そして、あまりにも早く帰ってくると、遣唐使の派遣がまた失敗に終わったことを意味する。だから、便りが来ないのはむしろ喜ぶべきことなのだが、前年の失敗があるため、頼りがないのは無事の証しといった甘い考えを持つ者はいなかった。
八月二〇日、京都を暴風雨が襲う。数多くの建物が被害を受け、数多くの避難民が発生した。そして、この暴風雨を遣唐使船も受けたのではないかという噂が京都市中に広まった。
最初は遣唐使船が嵐に見舞われたという噂だったのが、最後には遣唐使船は全て嵐で沈んだという話に発展。緒嗣はその噂を否定するのに躍起になった。
九月一四日、地子稲に伴うイネとワタの交換比率が決定した。ワタ一屯(一屯はおよそ二二三・八グラム)をイネ八束と固定。これにより、地方の税収の安定化が促進されることとなった。
口分田を班給した後に余った田畑を農民に貸し出し、収穫物の二割を納入させることがある。その納入させた二割の収穫物を地子稲という。国衙にとっての地子稲収入は、税の補充や国衙の運営費用にあてられていた。また、そのときに納入されたコメや布地は京都に運ばれ市中に流れる物資ともなった。
その地子稲の対策を行なったということは、この年の税収が乏しくなることを意味していた。
九月二九日、公式に今年度は凶作であると宣言。河内、三河、遠江、駿河、伊豆、甲斐、武蔵、上総、美濃、飛騨、信濃、越前、加賀、越中、播磨、紀伊の一五ヶ国(史料には一六ヶ国とあるが、残る一ヶ国がどこなのかは記されていない)で雨量が多かったために作物の生育が充分でないことを認めた。
その上で、京都市中の市場での穀物価格が急騰していることを問題視し、インフレの抑制を訴えた。
ただ、インフレが起こっているのは品物が少ないところで貨幣の量が増えていることが原因なのであって、物資を増やす手段も、貨幣を減らす手段もない状況ではどうにもならないことだった。
一〇月二二日から一一月一七日にかけて巨大な彗星が観測される。ハレー彗星の帰路と考えられている。
ほうき星(=彗星)は不吉の象徴と考えられており、このときは、遣唐使船が海の藻屑と消えたという噂が広まるきっかけとなった。
遣唐使船に関する情報は全く届いていない以上、無事とも、遭難とも、どうとも発表できぬ状況にあって、朝廷はその噂を打ち消そうとしても、打ち消せなかった。
一一月二七日、皇太子恒貞親王元服。
不況と遣唐使のニュースしかないここ数ヶ月の中で急遽訪れたこのニュースは、一瞬ではあるが京都の雰囲気を明るいものにさせた。
篁の乗船拒否は大問題だったが、これに輪を掛けた大問題を篁はしでかした。
「西道謡」という詩を作って公表したのだ。
この詩の内容は伝わっていないが、在位中に唐の文化吸収と国外との通商を頻繁に行なっていた嵯峨上皇の批判という形を取った内容であったという。そして、名目は嵯峨上皇批判でも、実際は国の遣唐使政策を根底から批判する内容であり、これを目にした緒嗣は怒り狂って周囲に当たり散らしたという。
乗船を拒否した後の篁の足取りは不明だが、おそらく、大宰府を発って京都に戻っていたのではないだろうか。
常嗣との確執だけでなく、もはや何ら意味のない遣唐使にこだわる国の姿勢、特にその中心にいる緒嗣の行動を全否定したこの「西道謡」の内容は、遣唐使に苦しめられている民衆の思いを代弁するものでもあり、高い評判を生んだ。
結果、篁は出頭を命ぜられることとなった。
篁に出頭を命じたのは嵯峨上皇だった。嵯峨上皇主催の裁判が始まったのだ。
裁判の場で、篁は遣唐使がいかに誤った政策であるかを主張し、嵯峨上皇批判の形を取った朝廷批判を改めて繰り返した。そして、緒嗣の名は出さなかったものの、朝廷が行なっている遣唐使事業は何らメリットがなく、無駄に命が奪われるだけの愚行であると断言した。
無論、反省の言葉などなく、遣唐使を派遣することのほうが犯罪であると主張した。
この裁判の場は民衆が入ることなど許されない場であったが、建物の周囲は京都中から民衆が押し寄せ騒然となっていた。
彼らは篁を支持し、「西道謡」をくりかえし謳い続けた。
国の命令を拒否しただけでなく、上皇を、そして国を批判したということは、律令に従えば死刑である。それは貴族としての特権を持っているはずの篁でも例外ではないはずだった。
だが、裁判を取り巻く群衆の圧力がそれを許さなかった。
一二月一五日、篁に判決が下った。
「天皇家の批判、ならびに国命拒否の罪は律令に従えば絞首刑である。しかし、温情により、刑一等を減じ、一切の官位剥奪の上、隠岐への配流を命ずる。」
「好きにしていただきたい。ですが、何ら過ちを犯したとは考えておりません。」
「言いたいことはそれだけか。」
「言いたいことは無数にあります。沈みかねない船を二度も押しつけられ、京都からの命令は二転三転し、出航などできぬのに出航を命じられ、何ら価値のない唐行きを強要されたのです。これは国の過ちであり、私は国の過ちを正したのです。私は隠岐でも叫び続けます。国は誤りを犯したと。」
それから篁は後ろ手に縛られ外へ連れ出された。
詰めかけた民衆は、篁が死刑にならなかったことを喜んだが、有罪となって隠岐に追放されることは嘆き悲しんだ。
わたの原八十島かけて漕ぎ出でぬと人にはつげよ海人の釣舟
百人一首にも残る篁のこの和歌は、隠岐へと流される途中を詠んだものである。かつては難波津を出発する船に乗せられたときに詠んだ歌とされていたが、現在では出雲国千酌で詠んだとされている。なぜなら、京都から隠岐へ向かうのは、丹波、但馬、因幡、伯耆、出雲と全て陸路を通り、出雲から隠岐へと渡るときに初めて船に乗るというのが普通だったから。
篁の隠岐追放は年末年始を挟んだ頃に行なわれた。おそらく、千酌を出発したのは一月であったろう。遣唐使船のような豪華絢爛な船ではない、罪人護送用の船である。遣唐使船は航海に適した時期を選んで出航するのに、護送船はもっとも航海に適さないと考えられた真冬の海が荒れ狂う時期に隠岐に向かっている。
ところが、皮肉にも、こうした罪人護送用の船のほうが遣唐使船より安定しており、多少の嵐にも耐えられる頑丈さを持っていた。その上、隠岐に着いた篁を待っていたのは、比較的気楽な暮らしだった。
無位無冠の一市民として隠岐に行かされたとは言え、牢の中に閉じこめられ続けるわけでもなければ、無人島で一人きりの暮らしをするわけでもない。人々の暮らしが成り立っている島であり、篁は隠岐で京都では味わえない自由を満喫し、島の女性とのラブロマンスまで生んでいる。