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第六章 遣唐使第一次派遣 (承和三(八三六)~承和四(八三七)年)

 承和三(八三六)年一月二五日、陸奥国白河郡での砂金の採取量が倍になったことを受け、この地の氏神が表彰された。

 当初、陸奥国司からは砂金採取が倍になったという報告と、実際に採取された砂金の両方が送られてきた。

 情報だけなら怪しいが、実際に砂金が送られてきている以上、砂金採取量が倍になったことは事実として認められなければならない。

 緒嗣はこの報告に歓喜した。これで遣唐使による財政赤字は解消されると考え、陸奥国司の功績を称え、官位を上げるよう仁明天皇に奏上した。

 ところが良房は冷めていた。砂金の量が倍に増えたということは、歴代の国司が今まで過小に報告してきていたか、出世欲のために無茶な強制労働を課した結果だと主張したのである。その上で、陸奥国司に対し砂金が倍になった理由を正す公開質問状を送った。

 出世が待っていると考えた陸奥国司は狼狽した。急に倍に増えた理由はそれだけの強制労働を課したからであるが、それが露見したら間違いなく処罰される。かと言って、今までが少なかったのだと主張したら前年度の横領でやはり処罰される。陸奥国司は、考えた末に、倍に増えた理由は神への祈りの結果だと言いつくろった。

 この回答を受けた良房は、賞賛されるべきは地域の氏神であって陸奥国司ではないとする意見を出す。仁明天皇も良房の意見を受け入れ、白河郡の氏神である八溝黄金神やみぞのこがねのかみに褒賞を与えることとした。

 このときの氏神への褒賞は田畑であった。無論、神が田畑を耕すわけはなく、神社周辺の田畑を、その氏神をまつる神社が管理し、実際には地域住民が耕す田畑だと認めることを意味したのである。

 その結果、これらの田畑は宗教法人が管理するものであるため非課税となり、その上、強盗団も神仏は恐れたのか、寺院や神社の周囲の田畑には手を出さないことが多かったことから、強盗団から守られた田畑を与えることとなった。つまり、これは強制労働を課せられた地域住民への褒賞なのだ。

 税と強盗から逃れられる田畑は最高の贈り物であったろう。手柄目当てに砂金採取の強制労働を増やして砂金の採取量を増やした陸奥国司は何の褒賞も得られず当てが外れて悔しがったが、強制労働を課されていた住民は良房の対応を絶賛した。


 承和三(八三六)年二月一日から出航まで、遣唐使たちは遣唐使派遣のための儀式に追われることとなった。

 まず、二月一日に京都北郊の北野の地で航海の無事を祈る祭りが行なわれ、遣唐使に選ばれた者全員が幣帛を捧げた。

 二月七日には賀茂神社に遣唐大使藤原常嗣が赴き、航海の無事を祈る幣帛を捧げた。

 幣帛(へいはく・この当時の読みは「みてぐら」)というのは、神道の祭祀において神に奉献するもののうち、神饌(神に捧げる食事で祭りが終わったあと皆で食べる)以外のものの総称である。この時代は布地であることが多く、高価な布地であればあるほど効き目が高いと見られていた。

 こうした負担もまた、遣唐使に選ばれたときに課せられる負担の一部分を占めていた。国に選ばれた遣唐使はこうした幣帛の費用も国が持ってくれるが、自費で渡航する者は幣帛の費用がないから大使や副使が立て替えなければならない。

 続く二月八日には仁明天皇が大使常嗣と副使篁を謁見し、全ての遣唐使に天皇自らが禄を与えた。

 これに続き、遣唐使の中の無位無冠の者に位を与える儀式が行なわれた。このとき与えられた位はおそらく八位か高くても七位だが、遣唐使として唐に渡る者は、大使から一船員に至るまで、僧侶を除く全員が何かしらの官位を持つ役人となった。

 記録には誰にどのような待遇を与えたかという内容残っているが、出航までの間、唐へ渡る予定の各個人がどのような生活を送っていたかは断片的にしか残っていない。出航までの期間はわずかしかないことから家族や恋人との最後のひとときを過ごす者、まだ見ぬ唐への憧憬を抱く者、そして、船への荷物の積み込みに追われる者がいた。これは過去に行なわれた遣唐使の時と同じ光景だった。


 国全体が遣唐使へと向けて動いている間、良房はその後始末に追われていた。

 二月二九日、伊勢国で飢饉救済のための施を行なった。

 三月一二日、京都で地震が発生し、救援に向かった。

 三月二〇日、尾張国で飢饉救済のための施を行なった。

 三月二六日、石見国で飢饉救済のための施を行なった。

 良房が後始末をするおかげで緒嗣は遣唐使に専念できていたと言っても良い。ただし、それに対する緒嗣からの感謝の言葉は全くない。

 また、この施というのも良房の好みではなかった。良房の民衆救済の行動パターンは二種類しかない。復旧と新規開拓である。

 いまは生活できないが、生活を立て直そうとする意欲のある人を助けるのがこれまでの良房の福祉政策だった。しかし、このときは意欲有無に関わらず支給している。極端なことを言えば、意欲など無く、働かないでタダ飯にありつこうとする者を養っている。

 これは本心から言えばやりたくないことだったが、インフレのせいで悪化した治安を考えたとき、とりあえず生きる対策をとらねばならない対策であることを痛感させられた。働いても働いても根こそぎ強盗団に奪われる暮らしが待っているのに、治安悪化の原因である強盗団を取り除けていない以上、できることは、強盗団から守られた場所での食料支給しかなかった。

 四月一〇日、緒嗣を筆頭とする一四人の公卿とともに遣唐使朝拝の儀式が行なわれる。ここに天皇は出席しないのが小野妹子の頃からの決まりなので仁明天皇も決まりに従って出席しなかった。また、右大臣清原夏野は病欠、権中納言藤原良房も理由は不明だが出席していない。後始末に忙しかったのか、あるいは、抗議の意味を込めたボイコットであろう。

 四月一三日、遣唐使船が新羅に漂着した場合に備え、紀三津きのみつを新羅に派遣した。

 資料によってはこのときの派遣を遣新羅使とするものがあるが、厳密には正しくない。なぜなら、遣新羅使の派遣は宝亀一〇(七七九)年の光仁天皇が命じた派遣を最後に終了し、延暦一八(七九九)年には桓武天皇の命令によって遣新羅使が廃止されているからである。これは、格下が格上に使節を派遣するのが礼儀であるとした桓武天皇の姿勢をそのまま反映させたもので、日本からの使節の派遣は遣唐使漂着に備えた人道的な配慮に限定されている。

 また、続日本後紀には紀三津の新羅派遣は遣唐使出航後だと記されているが、これは考えづらい。日本から新羅に使節が派遣されたのは確認できるだけで二七回あり、この紀三津の派遣が二八回目となる。そして、そのうちの少なくない数が遣唐使出航の前に派遣されたものであり、遣唐使派遣後の新羅への使者の派遣は一度しかない。

 そのため、十干十二支の記録を一周誤った、あるいは意図的に誤らせたとするのが現在の考え方である。

 また、続日本後紀には五月のこととして記されているこの事件も、実際にはこの頃の事件であった可能性が高い。

 その事件というのは、突然の突風が皇后宮職を襲い、ここで織られていた布一匹(布の長さの単位としての「匹」は約二一メートル)が四〇丈(およそ一二一メートル)の高さまで舞い上がってから侍従所に落ちたという事件である。

 竜巻ではないかと思われるがこの正体は分からない。しかし、これは不吉な前兆として考えられたことは間違いない。なぜなら、このときに織られていた布は唐の皇帝への献上品だったのだから。


 四月二四日には賜餞の儀式が行なわれた。これは天皇自らが開催する酒宴であるが、酒宴といってもさすがに居酒屋でワイワイガヤガヤ無礼講にやるようなものではなく、儀式に則った手順がある。

 酒宴の最初に、仁明天皇から詩の題が出される。このときは「餞を入唐使に賜う」が題だった。参加者は全て、制限時間内にこのタイトルで漢詩を作らなければならない。

 詩のタイトルが発表されてから少しして、大使常嗣が仁明天皇に酒を捧げて良いか伺いを立てる。その許可があってから常嗣は進み出る。次いで、采女(うねめ・天皇の身の回りの世話をする女官)が呼ばれ酒と杯を持ってくる。それから常嗣が仁明天皇に酒を注ぎ、仁明天皇は飲み干す。それから采女の一人が常嗣のもとへ歩み寄って常嗣の杯に酒を注ぐ。天皇自ら酒を注ぐのはあり得ないことなので、これが仁明天皇からの返杯となる。返杯を受けた常嗣はひざまずいて杯を受け取ると一気に飲み干し、拝礼をして座に戻る。

 この座に戻るまでの間に詩を仕上げなければならない。

 詩の形式やこのとき作られた詩の内容は伝わっていない。

 二日後の四月二六日、各地域の神社に対して、遣唐使の航海の無事を祈る幣帛が奉られた。

 そして、四月二九日、遣唐使たちは最後の儀式を迎えることとなった。

 遣唐大使と副使に節刀を賜る時が来たのである。節刀を受け取ったということは遣唐使として出発しなければならないということ。自宅の前を通ることがあろうと立ち寄ることは許されず、次に家族に会うのは唐から無事に帰ってきて節刀を天皇に返したあとまで待たなければならない。

 記録上こうした命令文は漢字で表記されているが、使われた言葉は全て和語である。これを宣命という。

 「天皇すめら大命おおみことらまと、遣唐國使人もろこしのくににつかわるつかいみことのりたまう大命おおみこと聞食きこしめさえみことのりたまう。」

 「おお!」

 宣命がいったん区切られると、遣唐使たちはこう唱える決まりとなっている。

 その後も宣命が続くが、史料の和語表記には異説があり確定しない。今回は故佐伯有清博士が著書「最後の遣唐使」で記した現代語訳に基づく。

 「藤原常嗣朝臣。小野朝臣篁。きみたち二人を唐へ派遣するのは今回始まったことではない。以前から使者を唐に派遣し、唐からも死者が渡ってきている。ここに本朝から使者を派遣する番が来たのだ。この意味をわきまえ、唐の人々が穏やかに心和むように物を申し、唐の人々を驚かせる行為をしてはならない。今回の遣唐使で死罪以下の罪を犯す者がいたならば罪の軽重に従って処罰せよ。そのために節刀を賜うのだから。」

 これで終わりである。

 常嗣と篁に残された行動はただ二つ、出発までの間の宿舎となる鴻臚館で時を過ごすことと、時が来たら難波津に向かって遣唐使船に乗り込み、唐へと向かうことだけ。


 五月一二日、出航を待つのみとなった常嗣のもとへ勅語が届く。これも和訳には数説あるため、故佐伯有清博士の著書「最後の遣唐使」の内容より現代語訳を転記する。

 「節刀授与の儀式が終わり、朝廷を退出してからまだ幾日も経っていないが、旅情は遠近を問わず苦しいものがあると思う。遠方に出かけている間の心の慰めとして、また道中つつがなく、折り目正しく退出したその日のように面変りしないで、早く帰国するようにと祈って、酒と肴を賜う。」

 これは優しさを感じさせる内容であったが、翌一三日、節刀を授受されたときに読み上げられた厳しさに満ちた宣命が再び読みかえされた。

 「遣唐使判官以下(もろこしのくににつかわすかいまつりごとびとよりしも)、国家みかどのために犯事おかせることあらば、罪の軽重おもきかろきに随い、死罪ころすつみ以下科決はじめてさだめのおおせよとして、大使主おおおみ小使主おおみに、節刀しるしのたち給えり。諸此状もろもろかくのさまを知りて、謹み勤み仕えまつれりたまう。

(今回の遣唐使で死罪以下の罪を犯す者がいたならば罪の軽重に従って処罰せよ。そのために節刀を賜うのだから。)」

 最初にこれを聞いたのは常嗣と篁の二人であったが、その内容は公開され、一般の船員も知るところとなっていた。しかし、改めて読み上げられたのはこれが始めて。

 ある者は肝を冷やし、ある者は航海に不安を抱いた。

 それでも遣唐使は一人残らず遣唐使船に乗り込み、翌日の出航に備えることとなった。


 五月一四日、遣唐使船四艘が難波津を出航。このときの遣唐使の総数、トップの常嗣から末端の船員に至るまで合計すると六五一人の旅が始まった。

 いろいろとあったが無事に出航したことに胸をなで下ろし、後は無事に唐に着いて帰ってくるのを待つのみとなった、と誰もが思った。

 だが、五月一八日、遣唐使船に試練が訪れる。

 この日の夜、京都市中に暴風雨が吹き荒れた。樹木が折れ、家屋が倒壊し、京都市中の民家で被害が出ていない家屋を探すほうが困難なほどであった。

 長良は藤原の財をかき集めて良房に渡し、良房はただちに市民の救援にあたった。かつての大学生達も救援に参加し、救援活動はちょっとした同窓会の雰囲気さえ漂った。

 そうした救援活動の途中で、遣唐使船も風雨にさらされ、四艘とも摂津国輪田泊(現在の神戸港)に緊急避難したとの連絡が届いてきた。

 状況を把握させるための使者を遣わせると同時に、航海の無事を祈る動きも起こった。

 五月二二日、神功皇后、天智天皇、光仁天皇、桓武天皇の陵墓に幣帛が奉られた。仁明天皇にとっての祖先にあたると考えられた天皇たちで、天武天皇系の天皇はきれいに除外されているあたりがこの時代の天皇家の歴史観を反映している。


 難波津を出た遣唐使は無寄港で一気に唐を目指すのではない。瀬戸内海沿岸を少しずつ渡り、大宰府にいったん留まって、タイミングを見計らって出航するのが通常であり、このときもそうしていた。

 寄港した港からは何月何日に到着し、何月何日に出航したという知らせが逐一届いていた。

 緒嗣はこの情報に関しては嬉々として受け入れたが、その他の情報については無関心であり、対策は良房に委ねられた。

 その他の情報には各地からの定時連絡と緊急連絡とが混在している。その緊急連絡が日々増えてきたのがインフレ発生以後の日常だったが、インフレを超える最悪の緊急連絡が五月末から登場し始めた。

 疫病流行。

 どういった流行病かは記録に残っていないので詳細は不明だが、治安悪化に伴う生活環境の劣化が流行病の蔓延を招いたのは間違いない。

 良房は直ちに全国の医師に対して治療にあたるよう指示を出すが、医師からの返答は治療の甲斐なく亡くなる者が多いという返信だった。そして、この治療をする薬は現在の国内には存在せず、唐より緊急に薬を輸入してほしいという要請がきた。

 良房はこの要請を受け、大宰府にいるはずの遣唐使たたち、そして、新羅に出向する順をしているはずの紀三津に症例を伝える手紙を送り、直接にしろ、新羅経由にしろ、唐から治療法を入手することを命じた。これは良房が人生で行なったただ一つの遣唐使に対するアクションだった。

 良房からの連絡が太宰府に向かってからしばらく経った七月一五日、京都の緒嗣のもとに待ちこがれていた知らせが届いた。七月二日に遣唐使船四艘が揃って出航したという知らせである。良房から依頼された医薬品の入手についても可能な限り行なうとの連絡が記されており、色々あったが無事に出航したという知らせは緒嗣を喜ばせ、宮中に安堵をもたらした。

 ところがその翌日、とんでもない知らせが届いた。密封された奏上を開いた緒嗣はしばし絶句し、なかなか読み上げなかった。緒嗣にとって不都合な内容だと察知した仁明天皇は、良房にその書状の内容を読み上げるように命じた。

 「第一船と第四船が漂流し肥前に漂着、船の破損が激しく全面的な修理が必要。また、第二船と第三船も漂流し現在も消息が掴めません。以上。」

 出航間もない難破に朝廷内はどよめきを見せ、緒嗣は狼狽を隠せなかった。

 「まずは遣唐大使殿に書状を送って大宰府に待機するよう命じ、第二船第三船の安否を確認させることが先決にございます。海岸に見張りを立て、第二船、第三船の漂着に備えさせるべきでありましょう。」

 良房は狼狽する朝廷の中で冷静であった。

 「それよりも気がかりなことがございます。疫病です。」

 「今は遣唐使をいかにすべき可を議論する場。そのような些細なことは後ほど議論すればよい。」

 「疫病が些細なこととは何たることですか! それが左大臣ともあろう人の言葉とは思えませぬ!」

 良房が語気を強めた。

 「本朝に疫病が蔓延し命を失う者が出はじめているというのに、都にこもって何もせぬなどあり得ぬことです。疫病につきましては新羅に派遣されているかも知れぬ紀三津が希望の綱にございますが、いつ戻るかもわからぬ者に過度の期待を掛けるわけにはまいりませぬ。本朝として疫病への対策を早々に実施することを提案します!」

 そう良房は提言したが、治療や防疫の方法もわからず、効果のある医薬品が何であるのかもわかっていない。もっとも、それはこの時代の医療技術の限界であって、良房個人に帰す問題ではない。

 良房の主張は正論であったが、素直に納得できる内容でもなかった。語気を強め自説を展開する姿が不遜に映り、賛成する者が少なくなる結果を招いた。

 「良房、それは過ぎたることぞ。」

 そのとき、長良が口を挟んだ。

 「疫病の流行りたるは無視できぬことにございます。ですが、現在の医師、現在の薬で治るすべも無いこと。今の我々にできることは、疫病の鎮圧を図ること、そして、大宰府へ指令を出すことの二つにございます。」

 長良の言葉は混乱しそうになったこの場を鎮める役を果たし、仁明天皇は四つの指示を同時に出した。

 一つ目の指示は各国の寺院に対して般若経を転読させ疫病鎮圧を祈祷させること。

 二番目の指示は神社に対して幣帛を奉らせ疫病鎮圧を祈祷させること。

 これらの二つにどれほどの効果があったのかはわからないが、少なくとも朝廷は疫病に対して何かをしているとアピールすることはできた。

 三番目の指示は大宰府に漂着した常嗣に対して遭難を気遣うこと。

 最後の指示は大宰府の役人たちに対して未だ不明の遣唐使の帰還が果たせるように努力させること。この最後の命令の受け取り相手は大宰大弐(大宰府の次官)の藤原広敏である。常嗣に対しては、遭難を慰め行方不明となった第二船と第三船の安否を気遣う内容だったが、広敏に対しては、第一船と第四船の修繕と、値嘉嶋ちかしまの海岸に人員を配置し第二船と第三船の捜索にあたらせること、そして損傷の度合いが軽微ならば直ちに唐へ向かわせることをかなり強く命令する内容だった。

 一番目から三番目までの指示は温厚な内容の文であったのに対し、最後の命令だけが強い命令文となっていたのは、仁明天皇ではなく緒嗣がその文を記し、仁明天皇は最後の署名をしただけだからである。

 遣唐使船を四艘も出航させても、四艘全てが唐にたどり着かなければ遣唐使としての役割を果たさないというわけではない。そのうち一艘でも唐にたどり着けば遣唐使の役を果たすため、行方不明という知らせであっても、第二船と第三船が無事に唐にたどり着けばそれで問題ないとする考えもあった。

 何よりも、緒嗣がそうであろうと考えた。

 大使常嗣が大宰府に舞い戻ってしまったが、副使篁が唐に渡って遣唐使としての役割を果たすと信じた、いや、信じ込もうとした。


 だが、緒嗣の願望は打ち砕かれた。

 七月二四日、大宰府より、副使小野篁の乗った第二船が漂着したとの連絡が入ってきた。

 「第二船、肥前国松浦郡別島わけしま帰着。船舶は大破し、運搬・脱出用の小舟も流出。以上。」

 大使も副使も帰着してしまい、残るは第三船のみとなった。通常ならば唐の皇帝に拝謁できる者ではないが、こうした遭難を経た結果であれば唐も受け入れることになっているし、国書ならば携えている。

 緒嗣は第三船の唐行きを祈った。

 その上で篁に対し勅符が飛んだ。

 「大宰府に還りて、そのまつたからず足らざる者を繕補ぜんぽし、しかる後に持節使等と共に国命を果たせ」

 つまり、一刻も早く大宰府に赴き、船の修理と荷の再積み込みを行ない、乗員を乗せて再出航するようにとの命令である。大使常嗣にはやさしさに満ちた温かい勅命だったのに、副使篁には「さっさと旅立て」との冷たい勅命。いくら大使には乗組員全員の安全を確認する使命を持つからといっても、この仕打ちの違いは篁の熱意を奪うに充分だった。

 篁は背後に緒嗣の存在を感じた。自分にこうした命令を出してくるのは、人としての度量が狭いこの男しかいないと確信して。

 命からがら日本にたどり着いた者に向かって時を置かずに再び唐に向かえと命令するのは、緒嗣にとっては何よりも遣唐使派遣を優先させるために必要な命令であったろうが、人としての配慮をあまりにも欠いた命令であったとするしかない。

 緒嗣にとっては、未だ戻ってこない、つまり無事に唐に向かっていると推測できる第三船に合流することを念頭に置いたものだろう。

 四艘の船のうち三艘が遭難して引き返している。これで残された第三船が無事に航海していると考えるのはよほどの気楽者か、そう考えざるを得ない状況に追い込まれているかのどちらか。緒嗣の場合は後者だった。

 執念を燃やした遣唐使がこんな形で失敗するなどあってはならないこと。連絡のない第三船は無事に航海できていると考えることだけが、緒嗣のやってきたことを無に帰させぬ唯一の思考だった。

 しかし、その思考は裏切られることとなる。


 八月一日、大宰府から緊急の使者が京都に使わされた。

 「第三船難破。水手かこ(水夫のこと)一六名が板きれを編んでいかだを作り、対馬の南浦に漂着。水手たちの証言によれば、第三船の船体損傷が激しく浸水を止めることできず、このような事態となった。他の乗組員の消息は不明。以上。」

 緒嗣はこの報告に黙り込んだ。

 唯一無事と判断していた第三船が、四艘の船の中で最も激しい損壊を遂げていることが伝わったのである。これで緒嗣が執念を燃やした第一七次遣唐使の第一回目渡航は失敗という結末を迎えたこととなる。

 「ま、まずは船を修繕し、再び渡航を…」

 緒嗣の言葉は弱々しいものだった。

 「何を言っているのですか! だいたい今の大宰府に船を直す余裕も、遣唐使を養う余力もありません! 筑前の貧困と疫病をお考えください!」

 良房は緒嗣に反論し、それから一つの提案をした。

 遣唐使の乗組員を一度帰郷させることがそれである。

 遣唐使船の遭難は今回が史上はじめてのことではない。過去の遭難は何れも乗組員を帰郷させており、前例を持ち出しての帰郷の提案は緒嗣も認めざるをえず、帰郷の許可が下りた。ただし、帰郷しても良いという許可であり、帰郷しなければならないという命令ではない。

 緒嗣が想像していたのは、遣唐使たちが自らの任務を優先させ帰郷せずに大宰府に留まり、船が修繕し次第再度出航することであった。ところが、緒嗣の期待は裏切られる。

 常嗣からは生存が確認できた者を一人残らず帰郷させ、自身も含め、主立った者は京都へと帰還することとしたという連絡が来た。

 そして、大宰府からは遣唐使を養う余裕がもはや存在しないため、一人残らず帰郷させたという連絡が来た。

 これとほぼ同時に、第三船の乗組員のうち八名がイカダに乗って肥前国に漂着したという連絡が来た。これで第三船の乗組員で生存が確認できたのは合計二五名となる。一四〇名以上が乗り込んでいる第三船で二五名しか生存が確認できていないというのが緒嗣の執念を燃やした遣唐使の迎えた現実だった。

 それでも緒嗣は言い放った。

 「まずは遣唐使の再度の出航を最優先せよ。」

 この発言に朝廷内の空気は静まりかえった。


 八月二〇日、大宰府から第三船の遭難の様子が届いた。様子をまとめたのは第三船に乗り込んでいた僧侶、真済しんぜい。彼はこの遭難の様子を口ではなく文章にしてまとめた。疲労の度合いが激しく言葉が口からでなかったからとも、その残酷な光景はとてもではないが口にできなかったからだとも言う。

 「舵が折れ、棚が落ち、海水が流入した。乗組員はおぼれ、一四〇名を超える乗船者は波に任せて漂流した。船長は『このまま船上にいたら飢え死にしてしまう。船を壊してイカダを作り、各自イカダに乗って飲料水を求めるしか方法はない』と言った。乗船者は各々船を壊してイカダを作り、それぞれに乗って去っていった。以後は各自運命に任されることとなった。」

 この報告書は朝廷を氷づかせるに充分だった。

 そして、八月二五日には第三船の最後の報告が届いた。

 第三船の残骸が対馬に漂着。船には三人しか残っておらず、他の者の消息は不明という報告である。これで確認できた生存者二八名。一四〇名以上の乗船者の五人に一人しか生き残れなかったこととなる。

 京都へ帰還している途中の常嗣と篁に対し、京都へ帰京したのちに節刀を返還するように命じる指令が飛んだ。

 さらに、この指令と入れ違いで、紀三津が大宰府を出発し、新羅に向かったという連絡も届いてきた。


 九月二五日、常嗣と篁が相次いで京都に帰還し、揃って節刀を返還した。

 この儀式を以て第一七次遣唐使の第一回渡航は終了となった。

 本来ならばこれで遣唐使自体が中止になるはずだった。だが、緒嗣はただちに大宰府に対して船の修理と再建を命令。遣唐使の派遣は諦めていないというメッセージを内外に公表し、もはやこの人の執念は、誰が何と言おうと、どんなに命が失われようと、遣唐使は何があろうと派遣するというものになっていた。


 一〇月二六日、新羅に渡っていた紀三津が大宰府に帰還。遣唐使船四艘は一艘残らず遭難したのに、往復とも何ら災害に遭うことなく無事に帰還したことは紀三津にとって幸いだったと言える。

 ところが、紀三津は命が無事であってもその新羅での任務が難ありとされた。


 一二月三日、京都に戻ってきた紀三津は、任務の無事終了の報償ではなく、叱責が待っていた。

 朝廷が紀三津を新羅に派遣したのは遣唐使の安全のためであって正式な国交ではない。ところが、新羅は紀三津を日本からの使者と捉えた。それも、格下が格上に遣わす使者と見た。

 ついこの間無条件降伏した相手が、航海の安全を願う連絡をよこし、そして使者を遣わせた。これは新羅の溜飲を下げるに充分だった。その上で、日本側の非礼を咎めた。

 一方、日本から差し出した文書は宗主国が属国に差し出す文書だった。唐に使者を派遣するが遭難して新羅に避難してくるかも知れないので、その際は宗主国の客人として礼を尽くして迎え入れ日本へ丁重に送り届けるようにという命令の文書だったのである。これは紀三津が京都を発つときに渡された国書で、仁明天皇の名による文書だが、実際の執筆は緒嗣が行なっている。当然のことながらこの中に医薬品のことは書いてない。

 紀三津は当惑したに違いない。互いが互いを格下に考え、自らを宗主国と任じている。しかも、紀三津は新羅王室に二人だけ、つまり、紀三津と新羅語の通訳の二人だけで連れてこられた。周囲は武装した衛兵が囲んでいる場面である。身の危険を感じたとしてもおかしなことではない。

 それでも紀三津は毅然とした態度で新羅王室に対峙した。全ては文書に記されたとおりであり、自分はそれを伝えるためにやってきたのだと言い切った。紀三津の言う「それ」が何であるかはあえて宣言せず、何を聞かれても「文書に記されたとおり」という回答に留まった。

 新羅王室は紀三津の態度に怒りを感じ、非礼だとの声を荒げた。

 それでも理は紀三津にある。使者としての行動範囲を超えることなく、新羅は紀三津の無礼と日本の無礼を咎める国書を紀三津に突きつけた。

 また、新羅はここで小野篁の名を出してその消息を訊ねた。新羅がここで大使である常嗣ではなく副使の篁の消息のことを訊ねたのは、篁が新羅にとって手強い相手だったからに他ならない。

 新羅は狙っていた。篁の乗った船をである。新羅にとって最良のケースは篁の乗った船が自然に沈没して海の藻屑と消えること、次善のケースは篁の船を襲撃して沈めることができる状況になること。

 紀三津もそれを知らないわけはない。

 そこで紀三津は、篁の乗った船が無事に航海し唐へ向かっていると答えた。

 紀三津のこの回答は新羅の動きを封じる効果があった。篁の船はあくまでも自然沈没でなければならず、たとえそれが海賊の仕業であろうと、新羅が手出ししたものであるということを悟られてはならなかった。紀三津が篁の消息を掴めているということは日本が遣唐使船の消息を掴めているということであり、遣唐使船が襲撃された場合はその情報が日本に伝わってしまうこととなる。そのため、遣唐使船へ向けての出航準備を整えていた新羅軍の軍船は出航をただちに取りやめることとなった。


 紀三津が日本に帰ってきたのは新羅からの国書を手に携えてであり、良房の依頼した医薬品は全く無かった。医薬品どころではなかったというのが正解だろう。

 帰京した紀三津から差し出された新羅の国書を見た緒嗣は激怒した。

 新羅から差し出されたのは、日本と紀三津の非礼を咎める、宗主国から属国へと差し出す文書である。そこには紀三津が新羅王室でどのような言動をしたのかが記されていた。

 一使節に過ぎない紀三津が自分の権限を越えた態度に出たことも記されており、緒嗣はまずこの点で怒りをぶつけた。

 「自らの職分をわきまえず尊大なる態度に出たこと、これは本朝の誇りを傷つけ、多大なる損害を与える行為である。これは万死に値する大罪だ。」

 紀三津は緒嗣の言い分を黙って聞いていた。

 だが、ここで良房から反論が出た。

 「誇りが傷ついたとすればそれは左大臣一人の誇りのみ。本朝にとっては痛くも痒くもない些細なことです。それをわざわざ大ごととして騒ぎ立てまくるのは左大臣としての質を疑わざるを得ません。」

 「何を言うか、良房!」

 「紀三津を責め立てる必要がどこにあるのです。新羅が非礼と断じたのは国書の内容であって紀三津は適切な処置をとりました。その国書を書いたのはどこの誰ですか? 左大臣、あなたではないですか。」

 「国情というものがある。それを踏まえた上で適切な態度を示すのは使者たる者の使命であり、紀三津はそれを果たさなかった。叱責は当然ではないか。」

 「先ほどは自らの職分をわきまえずに尊大な態度に出たと怒り、たった今はそれをしなかったと怒る。いったいどちらなのですか。」

 「黙れ、良房!」

 「黙りません! 今ここで紀三津を責め立てることと、新羅との関係を改善することとが何の関係を持つのですか。いま成すべきはこれからどうするかの議論であって過去をああだこうだと論じることではありません。」

 「だが、責任というものがあるだろう。」

 「責任はあなたがとりなさい。遣唐使を計画し強引に推し進めたのは左大臣、あなたです。あなた一人の誇りのせいで一二〇人もの命が失われたのです。これこそ万死に値する大罪です。」

 その後も緒嗣と良房の論戦が続いた。責任をとらせようとする緒嗣と、責任はないとする良房との論戦は終わること無いように見えたが、論戦は意外なところで終焉を迎える。

 「良房、いい加減にしないか。」

 兄の長良が横から口を挟んだ。

 「左大臣殿も大人げない。今回もっとも危惧すべきは、これまで多くの命が失われたことと、これから失われる可能性のあることにございます。いまはまず、海中に没した同胞の死を追悼することが国命に基づいて死を迎えた者への礼節にございましょう。」

 「……、いかにも。」

 それから良房は目を閉じ黙り込んだ。それは祈りの姿であり、長良も続いて追悼の祈りを捧げた。

 貴族たちは一人また一人と目を閉じ、この場は追悼するための場となった。


 この紀三津であるが、実は素性がよくわからない。続日本後紀の中で、ある日突然登場し、この日を最後に記録から姿が消える。ゆえに、このあと紀三津がどうなったのかわからないし、この年の紀三津が何歳なのかを伝える資料もない。

 紀三津は武内宿禰にはじまる紀氏の一人だと考えられているが、現存する紀氏の家系図は明治時代に作成されたものであり、その家系図に三津の名はない。だから、紀三津がどういった家族構成のもとに生まれ、どういう人生を過ごしたのかといったことも全くわからない。

 そしてもう一つわからないことがある。それは紀三津が大宰府を出航した日。大宰府を出航したという連絡が京都に届いたのは八月二五日、第三船が漂流して最後の生存者三名が来着したという情報と同時である。

 何月何日に紀三津が大宰府を出航したのかという記録はないが、京都から大宰府まで片道一〇日から二〇日ほどかかるのが普通だから、紀三津が大宰府を出航したのは遅くても八月の上旬だろう。ところが、七月一六日には遣唐使船の遭難の情報が大宰府に届いているのである。四艘中三艘が帰朝し、残る一艘も沈んでイカダを組んで漂流しているという情報が入っていたのに、なぜ紀三津が新羅へ向かったのか。

 この回答を明確に示した研究者はいない。

 ただ、推測はできる。

 まずは良房の依頼した医薬品。

 太宰府の周辺でも疫病の惨状は確認できた。そして、遣唐使船がことごとく遭難し、第三船に至っては沈没である。いまここで医薬品を手にするのは自分しか残されていないという使命感を抱いて、玄界灘をこぎ出した可能性は高い。

 日本から遣唐使を派遣するという情報を新羅は掴んでいる。それは日本と唐の間に新羅を介さない貿易関係を築くことが目的であり、日本と唐との中継貿易で少なくはない利益を得ている新羅にとってそれは無視できる要素ではない。特に、日本では手に入らない医薬品は新羅にとって花形商品であり、新羅を無視しての医薬品の輸出入があると大打撃を受けてしまう。

 ゆえに、非合法な方法だろうと、遣唐使を妨害することはメリットのあることだった。しかも、遣唐使の中に、新羅にとって厄介な存在である小野篁がいる。その上、豪華だが船としての性能の劣っている遣唐使船に乗って航海する。新羅にとってこれは篁排除の絶好のチャンスだった。

 だが、日本がそれを「はいそうですか」と受け入れるわけはない。

 ゆえに、唐への渡航の邪魔は許さないという断固たる姿勢が必要だったし、国書の内容もその姿勢が現れた結果。いくら必要であろうと、日本が頭を下げて頼みこまなければならない医薬品のことを公式な文書に記すわけにはいかなかった。

 しかし、それは新羅を激怒させること必至の内容だった。

 新羅は日本が医薬品を欲しがっていることを知っていた。そして、日本が頭を下げて頼み込んでくるものと考えていた。ところが、やってきた日本の使者は相変わらず日本を宗主国と、新羅を属国として扱い、医薬品のことなど一言も言わずにいる。

 緒嗣はおそらくそのことに気づいていなかったであろう。医薬品に気づいていなかったのであろうから、もしかしたら多少は怒らせる高圧的な文面であろうとは気づいていたのかも知れないが、ここまで新羅を怒らせるとは思っていなかったのは確実である。

 ゆえに紀三津を責め立てた。

 全ての責任を紀三津に押しつけるために。


 緒嗣は遣唐使の派遣を諦めていなかった。

 年が明けた承和四(八三七)年、人事がほとんど動かなかった。

 普通ならば新年ともなれば多少は人事異動があるものだが、この年の人事異動は無ではないにせよ、乏しい。

 緒嗣が意地になって人事を止めたからである。人事異動をするということは遣唐使をリセットするということであり、緒嗣には容認できる話ではなかった。

 それだけでなく、二月一日には、日本全国を休日にした上で、遣唐使たちを山城国愛宕郡へと向かわせ、航海が無事に終わるようにと天神地祇に祈らせた。この山城国愛宕郡は小野家の所領で、伝承によれば小野妹子もここに眠っているという。伝説の名外交官小野妹子にあやかって無事を祈ろうとしたのだろう。

 また、遣唐使に選ばれた者に対し、各々の氏神に参詣する許可を出した。これは小野篁の強い誓願によるもので、遣唐使そのものには強いこだわりを見せた緒嗣も、遣唐使たちの個人の安全を祈ることは許可を出した。

 しかし、緒嗣の執念は喜劇ではなく悲劇になってきた。

 命を賭けて海に出て、船を失い、命からがら九州にたどり着き、仲間を失って、もう二度と航海に出るものかと思っていたら遣唐使はなおも派遣するという命令。

 これは遣唐使たちに強いストレスを与えた。船に乗り込むまでは航海への恐怖よりもまだ見ぬ唐への憧れ、そして、帰国後に待っている出世を心待ちにしていた遣唐使たちも、命の危機、そして、実際に仲間が命を失うのを目の当たりにしては遣唐使であること自体苦痛となる。

 この苦痛を無くす手段はただ一つ、遣唐使の中止しかなかったが、緒嗣は断じて動かなかった。

 彼らは緒嗣に対峙する良房に期待するようになっていた。

 そして、良房が遣唐使の中止を進言するたびに歓喜し、緒嗣がその進言を握りつぶすたびに意気消沈した。

 二月一七日、固まっていた人事が動き出した。藤原常嗣が大宰権師に就任。単なる大宰府のトップではなく、通常以上の権力を持った地位に就いたということである。しかし、それで遣唐使から逃れられることはなかった。

 この月、大きな彗星が観測された。後の研究によればこれはハレー彗星だという。


 三月一一日、常嗣と篁に餞別が渡された。そのときの儀式の様子は前年の四月二四日に行なわれた賜餞の儀式と全く同じである。詩のタイトルが「春晩入唐使に餞別を賜わるの題」に変わったことと、大使常嗣が激しい酔いに襲われ途中退出したことは前年と異なる。

 常嗣が途中退出したのは強いストレスによるものだろう。常嗣はこのとき既に海への恐怖を抱くようになっていた。

 しかし、動き出した遣唐使派遣への流れは止まらない。三月一三日には遣唐使の朝拝が行なわれ、二日後の三月一五日には遣唐大使藤原常嗣と遣唐副使小野篁に再び節刀が渡された。読み上げられた宣命は前年と同じ、常嗣が進み出て左肩に節刀を打ちあてて退出する動きも、篁が常嗣の前に走りよって相連なって退くのも前年と同じ儀式通りの行動である。

 これにより、遣唐使の再第二次出航が正式決定となった。

 ところが、ここから先が前年と異なる。

 節刀を受け取ったあと、遣唐使たちは外国からの賓客をもてなすための場である鴻臚館に宿泊しなければならないのが決まりとなっている。ゆえに、常嗣も篁も自宅に戻ることなく鴻臚館で寝泊まりしていた。

 常嗣が鴻臚館を発って大宰府に向かったのは三月一九日。これはタイミング的にごく普通である。だが、篁はその後も鴻臚館に留まり続け、三月二四日になってやっと大宰府に向けて出発した。これは鴻臚館にかなり長期間滞在したこととなる。

 その間の三月二二日に、遣唐使の無事を祈るため楠野王らが伊勢大神宮に幣帛を奉るために出発しているから、もしかしたらこれを見届けたのかも知れないが、大使出発から五日経ってやっと鴻臚館を出発するというのはやはり尋常ではない。

 都の人は遣唐使が再び失敗するのではないかと、何か不吉なことがこれからあるのではと噂立てた。


 その不吉は、遣唐使たちの向かった方角とは逆の東北地方からやってきた。

 まず、四月一六日に噴火の連絡が京都に伝えられた。

 「玉造塞温泉石神が雷響振動し、昼夜止まない。温泉が河を流れ、その色は漿(白く濁ったもの)のようである。加えて、山が焼け、谷が塞がり、石が崩れ、木を折り、更に新しい沼を作った。沸く声は雷のようである」と続日本後紀には記されている。

 この「新しい沼」は、現在の宮城県大崎市にある潟沼ではないかと言われており、世界でもトップクラスの酸性度で、現在では観光名所となっている。

 だが、現在は観光名所でも、このときは陸奥国に新たなきっかけを与える事件だった。

 五日後の四月二一日、朝廷を愕然とさせる連絡が、陸奧出羽按察使の坂上さかのうえの浄野きよのから飛び込んできた。

 「新しい沼」の周囲にある陸奥国栗原郡と賀美郡(ともに現在の宮城県)で農民蜂起が発生。武器をとって朝廷に抵抗する者、田畑を捨てて逃亡する者が多発した。おそらく火山の噴火が直接の原因だろうが、間接的な理由としてはインフレに伴う治安悪化に伴う俘囚の残党と結合し、武装蜂起へと向かわせたのであろう。

 陸奧出羽按察使の坂上浄野は坂上田村麻呂の子であり、父譲りの武力、特に弓に定評があった。そして、これも父に似ているが、政治家としてよりもシビリアンコントロールの効く生真面目な武人としての側面が強かった。薩摩国司、土佐国司と歴任したあと、東北地方の二ヶ国を束ねる陸奧出羽按察使に選出されたのも、浄野への信頼が極めて高いゆえであったろう。

 「ここは浄野殿に任せ、武装蜂起を鎮圧させるべきです。」

 この良房の提案に宮中の誰もが賛成し、仁明天皇の名で、浄野に対して武装蜂起鎮圧を命じる指令が飛び、浄野が要請した一〇〇〇名の兵士が京都から陸奥国へ向かった。

 それにしても、いくら浄野がそれだけしか要請しなかったとは言え、京都から派遣した兵がわずか一〇〇〇名というのはこの時代の軍事を実に物語っている。

 本州統一を最後に大規模な戦争はなくなり、仮想敵国は新羅となった。つまり、日本への侵略は北からではなく西から起こるものと考えられるようになり、それに対処するため兵力の西高東低が起こった。都から東は俘囚や新羅人が反乱をまれに起こすのみとなっており、地域の治安は国衙在中の兵士が担うようになっている。東北地方には軍団が常備する基地があり、浄野はこうした基地在住の兵士を利用するため、京からの援軍は一〇〇〇名で充分と考えたのだろう。

 この反乱の様子は史料に残っていない。次に史料に登場するのは八月二九日のこと。この日、陸奥国在住の三二六九人に五年間の課役を免除するとの指令が飛んだ。この人達が反乱の参加者の生き残りと犠牲者たちであろう。


 常嗣が五日早く鴻臚館を出発したことは、常嗣が一足早く大宰府に着いたことを意味する。

 大宰府に着いた常嗣が見たのは前年と同じ偉容を見せる四艘の船であった。これらの船のどの船に大使が乗り、どの船に副使が乗るのかはとりあえず決まっている。ただし、それは決定的なものではなく大使に裁量の余地がある。

 遣唐使船は船によって設備の違いが出ることはない。だから、特別な工事も必要とせず、現在第一船と指定されている船にそのまま乗り込むこともできたし、他の船を自分の乗る第一船と指定することもできた。

 常嗣は四艘の船から便宜上第二船と名付けられていた船を第一船に選び、その第一船を「太平良」と名付けた。

 これは父である藤原葛野麻呂が前回の遣唐大使を務めたとき、出航前に桓武天皇から送られた歌、


 この酒はおお(「なおざり」の意味)にはあらず平良たいららかに帰り来ませといわいたる酒


からとられた。

 葛野麻呂が無事に帰朝するようにという祈りを込めた桓武天皇の歌であり、この歌を受けた葛野麻呂は涙を流して喜んだことが記録に残っている。常嗣はこの逸話を父が帰国したその日から聞かされていたと言ってもいい。そして、いざ自分が航海に出るシーンを迎え、そして、一度遭難したという経験を踏まえたとき、真っ先に思い浮かんだのが父の遣唐使成功を支えたこの歌であったろう。


 大宰府に着いた篁は、常嗣が自分の乗るはずだった船を第一船に選び、自分にそれまで第一船とされていた船を押しつけたことを知った。

 ただでさえギクシャクしていた遣唐大使と遣唐副使の関係はさらに亀裂を生じさせることとなった。とは言え、第一船を選ぶのは大使に与えられた権利であり、副使はそれに従う義務がある。

 先にも記したとおり、遣唐使船は船によって設備の違いが出ることはない。だから、どの船を選んだからといって船内の待遇が変化することはない。にも関わらず船を変更した理由は一つしかない。

 沈没の可能性。

 傍目には同じ船でも、船と海を知る者にとっては違いがわかったのだろう。そう、常嗣は四艘の中で最も沈む可能性の低い船を選んだのだ。

 大使である以上無事に任務を遂行することを最優先させなければならないというのは理屈として成り立つ。ただ、安全じゃないからと副使の船を取り上げて自分の船とし、本来の大使の船を篁に押しつけ、その上、自分の船に「太平良」と名前を付けた。これは、配慮が足らな過ぎる。自分の命だけを最優先に考え他の者の命を軽んじる行為ととられてもおかしくないのだから。

 以前から冷めていた大使常嗣と副使篁との関係は、これをきっかけに修復不可能なまでに凍り付いた。


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