第五章 遣唐使派遣まで (承和元(八三四)~承和二(八三五)年)
五月一三日、遣唐大使藤原常嗣が備中国司に任命された。参議である常嗣にとって国司になるということは格下げを意味するが、これに対する不満は一切出ておらず、誰もが当然のことと考えていた。
なぜか。
実際に赴任するのではなく、備中国司としての給与を国から支払うという意味であったからである。これは遣唐使に任命された者に与えられるごく一般的な待遇であり、この制度が適用されている間は名目上の国司と、実際上の国司の二人が併存することとなる。
遣唐使に選ばれることの負担は軽いものではない。いくら国がその費用を出すと言っても何もかも負担してくれるわけではなかったから。それは私物の持ち込みもあるだが、いちばんの負担は何と言っても私費留学生である。
遣唐使船に乗って唐に渡ることを希望する若者は多かった。学問をさらに学ぼうとする意欲だけでなく、唐に行って帰ってきた後に待っている出世、これが大きかった。
国が認める留学生であれば渡航費用は国が出す。とてもではないが留学生として認められない者については乗船拒否も可能。問題は、ボーダーラインの若者。留学生として国外に出しても国の恥にはならないだろうが、かといって、国が認めるほどの出来ではないという若者を留学生として連れていくかどうかを決める権限が遣唐大使にはあった。
ただし、その費用の負担も遣唐大使に任されていた。
自費で渡航費用を工面できる若者なら自力でとっくに唐に渡っている。唐に渡ってある程度の年月を過ごして帰ってくれば出世が待っているのだから、遣唐使である必要はどこにもない。
遣唐使とともに唐に渡ることを希望するのは、貧しいが意欲と野心に満ちた大学生や僧侶と相場が決まっていた。当然ながら渡航費用など工面できないから大使の世話にならなければならない。
常嗣のもとには大勢の若者が押し寄せていたと見え、備中国司の給与だけでは賄いきれないとの進言が緒嗣に出された。
緒嗣はこれにすぐに応え、七月一日には常嗣が近江国司を兼任するとなった。これも備中国司と同じで、実際に勤務するのではなく、国司としての給与を与えることが目的である。
七月九日、新たな人事の発表があった。
藤原良房、左近衛府の権限を持ったまま参議に補任。
参議になったということは現在の感覚で言うと内閣の一員となったようなものであるが、政党という概念のないこの時代、主義主張の異なる者が混在する連立内閣のほうが常態で、現在のように一政党だけで内閣が構成できるほうが異常事態であった。
父である冬嗣のときもそうであったが、参議というものはそれ以下の貴族と明確に分断できる線であり、たいていの時代は若者と敵対する高齢者の最後の牙城。そこに足を踏み入れることは実質上の問題もさることながら、感覚的な問題として大きなものがある。
このときの良房は参議の中では一番の格下であるが、これで良房が緒嗣の牙城に足を踏み入れたこととなったことの意味は大きかった。
ただ、それに対する感情は、反発よりも諦めだった。
良房のこれまでの実績を考えれば、今まで参議ですらなかったことのほうがおかしい。良房が参議になるのは時間の問題であり、その時間が訪れたのだという感情があった。
参議としての良房を迎え入れたのは、仁明天皇と夏野、そして、仁明天皇の弟ということで特例で出世した源常ら源氏の若者だけだった。極論すれば圧倒的多数が自分の敵という環境に足を踏み入れたこととなる。
もっとも、仲間がいるだけまだマシとも言える。夏野はこれまでずっと、自分の周囲が全部敵という環境だったことを考えれば、夏野がいるだけでも恵まれていると言えよう。
良房は夏野との挨拶を済ませると、左大臣緒嗣の前に歩み寄り、ひざまずいて緒嗣に対し頭を下げた。
「このたびは叙任いただきありがたき幸せ。つきましては、ご指導ご鞭撻のほど、よろしくお願いいたします。」
かつては目上を目上とも思わぬ罵声を平然と浴びせていたが、最近は丁寧な言葉遣いをしている。だから、一見すれば、昔はともかく今は礼節を守っているように見える。良房との接点の少ない者の中には、噂と違って良房が礼儀正しい若者ではないかと感心する者が多かった。
また、謙虚で気前が良く、庶民への心配りも忘れることなく、何があってもすぐに行動する若者というのが世間一般におけるこのときの良房の評判だった。最高の家系に生まれたトップエリート中のトップエリートであるのにそれを鼻に掛けないことも、評判を高めるのに役立っていた。その話を聞いている貴族の中には、良房のことをまれに見ぬ好青年ではないかと考えた者もいた。
しかし、良房は緒嗣らを排除すると公の場で宣言し、そして、それまで延々と続いてきて、今後も永遠に続くとも考えられてきた律令制そのものの批判もしていることは誰もが知っていた。そのため、良房の参議就任を快く思わない者も多かった。
良房が参議になったと同日、兄の長良が加賀国司に就任することが決まった。
それまで加賀国司は良房であったが、良房はその任を解かれたこととなる。遣唐使に選ばれたのでもない限り、参議になった以上国司となるのは不可能なことだから、解任というより卒業と言うべきか。
しかし、卒業させた後の後任がいないのではどうにもならない。かと言って、良房が私財を投じてやっと軌道に乗ってきた加賀国の運営を引き継ぐのは困難なこと。
長良の国司就任は他に選択肢のないことだった。そして、その勤務形態も、加賀国司の権限を持った中央勤めの貴族という変速的な役割である。遣唐使に選ばれた者が就く名目上の国司と似ているが、実状は異なっていた。長良自身は加賀へ赴任せず、代理の者を加賀に派遣している。おそらく、良房が選んだ人材の派遣であったろう。もしかしたら、良房が派遣していた代理の者をそのまま継続させたのかもしれない。
そして、遣唐使が就く名目上の国司と最も異なることが一点。名目上の国司は何もせずに給与が貰えるが、長良の場合は、確かに給与を受け取るものの、それ以上の財産の持ち出しが待っていた。
加賀国に良房が私財を投じていると言ってもかなりの部分が長良の財産の投入である。兄弟共通の財産と言えばそれまでだが、もともとは、冬嗣の地位を良房が、財産を長良が継承したのであり、長良は財産を良房が使うのを拒否しようと思えばできる立場だった。
しかし、長良は全く拒否していない。そればかりか弟のために借金までしている。大土地所有によって収入は増えたが、支出はもっと増えていた。
普通ならここで支出を減らすように弟に勧告するところだが、長良は違った。
「何か必要なものはないか?」
それは一生を弟の影として生きることを誓った男のプライドでもあった。そして、ここで支出を減らすことが、良房のやろうとしていることにブレーキを掛けてしまうこととも知っていた。
長良は弟に口癖のように問いかけ続け、弟はその好意に甘え続けた。
参議になった良房は確かに礼儀正しかった。しかし、自分の意見を主張することは貫き通した。
「治安回復を訴えながら治安は悪化しています。左近衛府に動けと命ぜられれば直ちに動きますが、現状では一人として動かすことができません。」
「近衛府は宮中の警備が役目、治安維持と回復は検非違使のつとめ。それは律令にもあるとおり。」
「令義解にはそのような記載はない。」
良房が提案し、緒嗣が律令を理由にそれを拒否し、夏野がそれは律令にないことと主張する。これがいつもの光景だった。
令義解を公表した当初は令義解に折れる態度を示したが、緒嗣は次第にそれを無視するようになってきていた。そして、相変わらず自分の意見こそ律令であり、それに反することは、たとえ令義解に書いてあろうと反律令だと宣言するようになった。
良房はこれに目を付けた。
「主上、律令を明確化する必要はございませぬでしょうか。右大臣殿の奏上した解を活かすことを御考慮願います。」
「何を言う。律令はすでに明確化されているではないか。これ以上何かをするのでは屋根の上に屋根を重ねることになる。」
「未来永劫左大臣殿がご健在であればそれでもよろしいでしょう。ですが、人の命には限りがございます。文章によって記された律令ではなく左大臣殿の記憶を頼りとする律令の運用は、万が一のことがあった場合、律令が運用できないこととなります。」
理論上は良房の言い分が正しい。
しかし、これは痛烈な緒嗣への皮肉であった。
律令は文章で記されており公開もされている。ところが、そちらではなく緒嗣の記憶を優先するというのは、緒嗣が律令を守っていないと言っているも同じ。
さらに、左大臣に万が一のことがあった場合というのも、後継者不在でもある緒嗣は、自身の権力を誰かに引き継がせることができないと言っているのと同じ。
つまり律令を無視して専横を振る舞っている独裁者が君臨しているのが現状であるとし、その独裁者は自分の権力の継承に失敗しているから、独裁者の死後に備え今から準備しておくべきだと言っているのである。
緒嗣は激怒したが、理は良房にある。
緒嗣は何ら反論できず、仁明天皇は夏野の撰進した「令義解」に公的な地位を与えた。
一二月五日、「令義解」施行。
この日を最後に、緒嗣は律令を武器とすることができなくなった。
承和二(八三五)年の一月は、遣唐使派遣に向けた人事の整備で始まった。
一月七日、遣唐使として派遣される者が正式に任命された。大使や副使をはじめとする主立った者はすでに任命されていたので、この日に任命されたのはそれより下の役目の者達である。
遣唐使に選ばれなければ天皇に接見することも許されない地位の者にとって、左右の大臣を側に従え、大納言、中納言、参議を周囲に配置させる中、一人一人天皇に拝謁するのはこれ以上ない栄誉。中には感動のあまり涙を流す者も現れた。
しかし、遣唐使に選ばれていながら、この場の雰囲気に流されることなく、感動とは無縁の者がいた。
篁である。
近江に追放された篁がいつ京都に戻ってきたのかはわからない。元々近江に行っても良いという指令であって、近江に行かなければいけないとも、京都に戻ってはいけないとも言われていない。だからこの場に篁がいることは、驚かれることではあったが、何らかの禁を破っているというわけではなかった。
篁はこの日、従五位下から従五位上へ進み、備前国司に任命された。実際に赴任するのではなく名目上の国司である。
そして、篁が復帰したことで新羅との関係修復が動き出した。新羅への強硬路線が再開し、強行上陸をたくらんだ船には容赦ない弓矢の雨が降り、大宰府に向かわなかった船にも攻撃が仕掛けられた。新羅からの船は大宰府へと向かわなければならなくなり、沿岸地域の不安要素は減った。
その結果、海賊から受ける被害が劇的に減った。ただし、海賊行為の総数が減ったのであって、海賊の構成人員の総数が減ったのではない。
その現実は、海賊をしなければ生きていけない者にとって喜々として受け入れられることではない。
それは新羅の海賊の中で篁の命を狙う動きが起こるきっかけとなった。存在するのが当たり前の障壁がなくなったときの自由、そして、その障壁が復活したときに感じる不自由さ。これは元に戻ったという感覚ではなく、苦痛を感じさせる要素になった。
その篁が、豪華ではあっても襲いやすく沈みやすい遣唐使船に乗り込むというのである。これはまたとない機会だった。
遣唐使は四艘の船で航海するのが決まり。これでは船団というのもおこがましい。世の中には四艘前後で航海する船団もあるから数が少ないところに目をつぶることはできても、よたよたとした頼りない船が四艘固まって移動するのである。遣唐使船はスピードが遅い上に、外見は豪華と来ている。これは威厳を示す効果があると同時に、海賊にとって絶好の獲物ともなるということでもある。
さらに、その船に乗るのは憎き小野篁。
海賊には襲う動機も襲うメリットもできたことになる。
新羅を不要とする航海の構築がきっかけだったのに、安全のために新羅に頭を下げなければならなくなり、それでも安全が保障できなくなった結果、三月一二日、大宰府に対して武器と防具を遣唐使船に積み込むよう命令が下った。遣唐使船そのものの安全すら脅かされるようになってしまったのだ。
時は前後するが、遣唐使の任命のあった一月七日、良房は従四位上に昇叙した。
情報は必要とする人の元に届くとは限らないが、情報を知っていなければいけない人の元へは必ず届く。良房にとって従四位上になったということは、自分から求めなければ情報が手に入らなかった立場から、自動的に情報が手に入る立場になったということである。
良房はこのときはじめて国家財政の現状を知った。三年前の財政も、二年前の財政も良房は知っていた。ともに黒字である。支出が減って税収が増えたのだから当然だが、これを強調する向きはなかった。何しろ支出が減って税収が増えた理由が良房のすすめた大農園なのだから、律令制の根幹を否定する良房の行動を肯定する数字は積極的に公表できるようなものではなかったろう。
それでも公開はされていたのだ。だから、良房も財政状況を知ることができた。ところが、前年の財政は知らなかった。徹底的に秘密にされていたからである。
こうなると良房には見過ごしできない話となる。良房の情報収集能力は決して低くはない。秘密工作員を駆使するとまでは行かないにせよ、情報がどうしても必要とあればそれに近いことはしている。それでも前年度の財政状況はわからなかった。これは何かしらの大問題が隠れているに違いない。
それが判明したのは従四位上になったとき。探しだそうとしても探し出せなかった情報の正体を知った良房は、秘密にされた理由を瞬時に理解した。
全ては遣唐使だった。
遣唐使の派遣は財政に大きな負担をもたらすことは知っていたが、実際に数字で示されたときには知識で知っていた以上の惨状だった。
「税収より支出のほうが一割五分(一五パーセント)も多いではないですか!」
「そなたの父が左大臣であった頃も毎年そうであったぞ。」
緒嗣はそう言い逃れをしたが完全に動揺していた。
緒嗣だってこの事情はわかっていたのだ。だが、それを認めることはこれまで自分がすすめてきた遣唐使派遣を無に帰すことになる。だから緒嗣は徹底的に情報を隠していた。
「先の左大臣(=冬嗣)は遣唐使を派遣しておりません。」
冬嗣が財政赤字を連続させていたのは弘仁の大飢饉という大問題があったからにすぎない。この問題に直面した冬嗣は綱渡りを繰り返して何とかやりくりしていたことを良房は知っている。
「それはそなたの父に天槌が下ったがために起こった飢饉によるもの。遣唐使は国を豊かにするために行なうもの。性質が全く違う。」
「天槌ですと!」
良房はこの一言に激怒した。自分の父親のことを天罰が下るべき大悪人と言い放ったのである。
これまで良房は公の場で自分が冬嗣の子であることを可能な限り避けてきた。触れなければならないときも「先の左大臣」という言い方をしているが、これは良房なりの配慮であり、また、亡き父の意志でもあった。
しかし、公の場で自分の父親をこれ以上ない言葉で罵倒されるのは我慢のいくことではない。
「やめないか、良房。」
「いえ、やめません!」
立ち上がって緒嗣の元に向かおうともし、兄長良が制さなければ殴り掛かるところであった。
「何十万人の命が失われたのを天槌の一言で片づけるとは正気ですか! あなたはそんな人だから遣唐使に危険な航海をさせることにも無頓着なのです! 主上、今回の遣唐使、即刻中止を提案します。今のままでは害ばかりで益がなく、遣唐使たちの命を失う可能性が高すぎます!」
良房はこう言うのが精一杯だった。
「ならん。」
緒嗣は即答した。緒嗣にとって遣唐使は執念だった。もはや不利な形勢からの一発逆転にもならないし、財政を悪化させるのみで何ら利益をもたらさないことは誰の目にも明らかだった。にも関わらず、緒嗣は遣唐使に執念を燃やした。
この時点での国庫負担は、遣唐使に選ばれた者に払った給与や遣唐使船の建造費用だけではない。唐への贈答品もあるし、航路安全のために新羅に支払う物品もある。これらは全て、遣唐使を中止したところで戻ってくるような代物ではない。
それに、遣唐使が成功しても緒嗣の形勢を有利に働かせないが、失敗したら間違いなく緒嗣のキャリアに傷が付き、下手したら失脚の原因となってしまう。
緒嗣はもはや引き返すことができなくなっていたのだ。
「では、この財政はどうするのですか。税は急には増えません。もはや支出を減らさなければならないのではないですか。」
良房は基本的に支出を減らすことより収入を増やすことを考えるタイプであった。支出がさらなる収入が生むとも考えており、良房の性格の中にケチという要素はない。
一方、緒嗣は基本的にケチである。収入を増やすことに心を配るのではなく支出を減らすことに心を配っており、これは公私とも変わらない。
ところが、こと遣唐使になると二人は逆転する。遣唐使の出費を減らそうとするのが良房であり、いくらでも出費するのが緒嗣であった。
理由は簡単で、良房の出費が激しいと言っても収入を考えない出費ではないから。時として収入以上の出費をする局面もあるが、それは出費に見合うだけのリターンがあると考えたときに限られる。就労の意志のない者への福祉を切り捨てたように、出費に対する見返りがないと判断した要素について良房は情け容赦なく切り捨てている。出費に見合うだけのリターンがない遣唐使の負担に文句を言ったのも同じ発想による。
「そなたの父が行なったことを繰り返せば良いではないか。」
その文句に対する緒嗣の解答はこうだった。
「先の左大臣の方策とは何ですか。」
「新貨を鋳造すればよい。」
「な!」
緒嗣は、コメや布の税は有限であると考えていたが、貨幣なら無限だと考えたのかも知れない。
冬嗣が弘仁九(八一八)年に発行を開始させた「富寿神宝」はそれまでの貨幣である「隆平永宝」一〇枚分の価値があるとされ、一瞬ではあるが国庫を潤した。
緒嗣はこれを企んだ。
「銭を鋳造すれば財源など無限に現れる。」
これには呆れて何も言えなかった。
富寿神宝は確かに国庫を一瞬だけ潤した。しかし、その後に待っていたのは絶望的な大インフレだった。国庫を潤すどころか国庫に大打撃を与えたのである。
緒嗣がこれを知らなかったのかどうかはわからない。
ただし、一つだけ判明していることがある。
緒嗣のこの提案が受け入れられたのである。
一月一二日、新銭「承和昌宝」の発行が決まり、早速鋳造が始まった。
承和昌宝の大きさだが、直径が約二一ミリの円形だから現在の五〇円硬貨と同じ大きさである。ただし、現在の五〇円硬貨が四グラムあるのに対し、承和昌宝は約二・五グラムしかない。実際に手に取ってみるとその軽さに拍子抜けするほどである。
見た感じだが、一言で言って粗悪品。和同開珎以後作られた一二種類の貨幣(これを「皇朝十二銭」という)の中でも一・二を争う出来の悪さである。ただ、これは銅の絶対量が減少していたという側面もある。
富寿神宝とて粗悪品であることには変わりなかったが、承和昌宝はよりいっそうの粗悪品だった。
それでいて、承和昌宝一枚は富寿神宝一〇枚に相当する。
その結果何が起こったか。
私鋳銭の横行。
承和昌宝を富寿神宝一〇枚と定めたことは、承和昌宝に価値をもたらさず、富寿神宝の価値を下げることとなった。
貨幣の絶対条件として、貨幣の素材は等価かそれ以下の価値に留まらなければならない。例えば五〇〇円硬貨に使われる素材は銅とニッケルと亜鉛だが、五〇〇円分の素材を使用しているわけではない。中には、金や銀などの高額の素材を使う場合などで貨幣価値と素材の価値が一致することもあるが、それとて素材の価値が貨幣価値を超えることはあり得ない。
もし、貨幣の素材の価値が貨幣価値を超えないということは、貨幣を貨幣として持っていても損はしないし、鋳つぶしたら損をしてしまうことを意味する。ゆえに、貨幣としての価値を持つ。
ところが、承和昌宝のおかげで、富寿神宝に使っている銅の価値が富寿神宝一枚以上の価格になってしまった。つまり、
承和昌宝 > 銅 > 富寿神宝
という価格差である。
こうなると、富寿神宝と富寿神宝として持っていると損してしまう。
富寿神宝も承和昌宝も素材の違いは大差ないのだから、富寿神宝をいったん溶かして銅に戻し、承和昌宝に作り直すとどうなるか。手持ちの銭がたちまち一〇倍の価値を生むこととなる。無論これは犯罪であり、発覚したら即逮捕、最悪の場合は終身刑が待っていたが、捕まるケースは非常に少なかった。承和昌宝の出来が悪く、偽銭だということがなかなか見破られなかったから。
また、承和昌宝として加工しなくても、溶かして銅のままにしておけばそれはそれで価値が出た。銅の絶対数が少ないため銅そのものが値上がりし、貨幣が値下がりしているため、貨幣をそのまま持っているより利益のでることとなったのだから。
そして、この承和昌宝の出現は市場にインフレを招いた。手持ちの富寿神宝を使おうという者はいなくなり、富寿神宝を銅に戻したり承和昌宝に加工したりといった手順を踏むのが当たり前になっただけでなく、富寿神宝を承和昌宝に加工する商売まで登場した。銭の加工は犯罪であるといくら宣言しても、いま自分が手にしていた財産がいきなり一〇分の一になるというのに真面目に従うほうがおかしい。
これは完全に緒嗣の失敗だった。
一瞬の財政好転を求めた代償は大きく、この傷はしばらく残ることとなる。
篁復帰に伴う新羅との緊張は、再び戦乱を呼び起こしかねないものとなっていた。
そして良房がついに動いた。
三月一四日、新羅人来襲に供えて、壱岐島に遙人三三〇人を配備。基本的には壱岐在住の者から募った、農民や漁民兼任の志願兵であったが、中には良房自らが近衛府の者から選抜した武人もいた。
ここで注目すべきポイントが三つある。
なぜ壱岐か。
なぜ三三〇人だけなのか。
なぜ志願兵なのか。
まず、壱岐に配備した理由だが、対馬にはもう同様の自衛組織が存在しているからである。
これまではそうした対馬の自衛組織をものともせぬ新羅の海賊だったが、対馬の軍事力向上と篁の復帰という条件が重なると、対馬はたやすい相手ではなくなる。
そこで目を付けられる可能性が増すのが壱岐。良房は軍を率いた経験がないが、軍事のセンスがなかったわけではない。自分が攻め込む立場なら、対馬を素通りして壱岐に攻め込むと考えたのである。そしてこれは正解だった。
だが、ここで二番目の問題が生じる。三三〇人という人数である。良房はこの人数で充分と考えたのか。
その答えは、否。
だが、必要な人数を養わせるだけの余力が壱岐にはなかった。その上、基地で軍事に専念する職業軍人ではなく、農民兼任や漁民兼任の志願兵でなければ養えなかった。つまり、良房は志願兵を選んだのではなく、兼任の志願兵とするしか手段がなかったのだ。これが三番目の問題の答えである。
三三〇人という人数、そして兼任の志願兵としたのは、それがこの時点で負担できる限界だったからに他ならない。
まったく緒嗣は余計なことをしでかしたと思ったに違いない。遣唐使の派遣にこだわらなければ壱岐に配備できる兵士の数を増やせたのだし、職業軍人の配備だってできたのだ。いや、そもそも壱岐に兵を配備する必要もなかったか。
それでも壱岐に軍勢を配備したことの効果は大きかった。
近衛兵から派遣された者の名は伝わっていないが、その者が指揮する軍勢は新羅の海賊を食い止めることに成功したのだ。
この功績により、四月七日、藤原良房に従三位が与えられ権中納言に就任。そして、四月一五日には左兵衛督の兼任が決まった。
中納言は、参議、左大弁、右大弁、左近衛中将、右近衛中将のいずれか(後に検非違使別当も加わる)を勤めた経験を持つ者が就くことのできる職で、すでに参議と左近衛中将を経験している良房にはその資格がある。
従三位相当の官職とされているため、いかに参議や左近衛中将を経験していても四位のままでは中納言に就けないが、従三位で、かつ、経験を必要とする役職を経験した者は自動的に中納言になるのが決まり。
だが、ここで問題がある。中納言の定員は決まっている。定員を外れて中納言になることができるのは、皇族や、臣籍降下したばかりの源氏のみ。例えば源常は従三位になったと同時に中納言に加えられたが、それは源常が嵯峨上皇の子だからという理由、言うなれば、皇族特別枠によるものであった。いくら嵯峨上皇の娘を妻としていようと、良房は皇族ではない。つまり、中納言になる資格充分の良房を中納言に就けようとしても、定員オーバーで中納言に就けられなくなってしまうのがこのときだった。
そこで権中納言となった。
役職の前に「権」が付くケースは二種類ある。
一つは格下の役職に就くケース。菅原道真が大宰府に渡ったときの役職は「大宰権師」。これは右大臣を勤めた人間に対して、格下ではあるが外交の全権を握る大宰師にさせるために設けられた役職で、こういったケースのときは大宰師の役職を勤めるが、権威と待遇、そして給与は以前の職、この場合は右大臣と同じ権威と待遇と給与を得られる。
もう一つが定員オーバーであることを示すとき。
今回の良房は中納言として定員オーバーであった。しかし、中納言になる資格を満たしている。
こういうときに使われたのが権中納言という役職。これは中納言と同じ権威と権力を持ち、同じ待遇を得られるが、法制上は中納言にカウントされない。
だが、いかに法制上はカウントされなくても、良房が中納言にまで進んだことは事実である。
緒嗣は自分の失敗を良房が利用したことを腹立たしく思ったが、もはやどうこうなるものではなくなっていた。
中納言になった良房がまず取り組まなければならなくなったのは二つある。一つは、病に罹り寝たきりとなった夏野の穴を埋めること。四月二三日に、職務困難として夏野は左近衛大将の辞任を表明している。辞任は受け入れられなかったが、既に五〇歳を超えた夏野はいつ何があってもおかしくない年齢であり、また、病に苦しんでいることは誰の目にも明らかであり、夏野が朝廷に出勤しないことは何らおかしなことはみなされなかった。
良房は朝廷内における最大の味方を失ったようなものだが、どうやら良房は覚悟をしていたようである。病に苦しむ夏野を頻繁に見舞っているが、夏野とどのような会話を交わしているのかの記録は残ってない。
しかし、想像はできる。二人とも今のこの病は治るような軽いものではないと悟ったのではないか。良房は父の死を思い出し、夏野も今の自分を理解している。
自分の命が尽きようとしているとき、多忙を極めている最中に時間を割いて自分のために何度も何度も足を運んでくれる良房を見て、この若者に人生を託したことは間違いではなかったと感じたに違いない。
そこで話された内容は多分に政治的なものだろう。今の時代の抱えている問題を解決するにはどうするべきかが話し合われ、夏野は良房の行動力に時代と思いを託したのではないか。
そして取り組まなければならなくなったことの二番目、これは夏野との話し合いで出た現在の問題点の筆頭でもあるが、それはこの年に顕著になった不作、それも人災の不作だった。
四月二六日、越前国で飢饉が発生したため施が行なわれた。
五月三日、近江国の飢饉に伴い、施が行なわれた。
五月八日、伊勢国、加賀国、長門国など(資料にはその他とあるが、そこがどこなのかは記されていない)で飢饉に伴う施が行なわれた。
先に、良房が三三〇人しか、それも兼職の志願兵しか壱岐に配備できなかったのはそれが限界だったからだと記したが、これまでの良房であれば自費を割いて不足分に当てていたはずである。確かに利益のでない出費だが、損得勘定で行動するならなおさら自費を割いていなければおかしい。だいいち、壱岐に海賊が攻め込んでくることは、社会全体を驚愕させる「損」以外の何物でもないのだから。
ところが良房は自費を割いていない。
割いていないのには理由があった。
割きたくても割けなかったのだ。
新貨幣の登場はインフレを呼び起こしただけでは済まなかった。インフレは失業を呼び、失業は流浪を招き、流浪は治安悪化を生み出した。
彼らが目を付けたのが、成功している大農園だった。
食べ物を恵んでくれるように頼み込んでくるにしても、働かせてくれと頼み込んでくるにしても、分け与える食料には限りがあり、新たに開墾した田畑を分け与える余裕はなかった。比較的早く流れてきた人を援助することはできたが、流れてきた人全てを養う余力を持つところなどない。
結果、既存の住民と流れてきたものとで諍いが起こる。
新たに田畑を開墾するにしても、インフレのせいで失業したのは一月。今日の食い扶持もないのに九ヶ月後の収穫まで耐えられるはずがない。
今日の食べ物もなく自分や家族が飢えて苦しんでいるのに、農地にいる者は毎日コメの飯を食べている。それを分けてくれと頼んでも追い返される。これは理性でどうこうできるものではない。
その結果が、奪う、であった。
地方を荒らす強盗団が誕生したのだ。
強盗団に狙われた農園は、食べ物も着る物も、貞操も命も奪われた。
襲った後の田畑を省みることはなく、強盗団は次のターゲットを狙って行動し、彼らの通った跡には荒らされた集落と踏みにじられた田畑が残された。しかも、被害は一度では済まない。もう一度田畑を取り戻そうと生き残った者で力を合わせても、余裕のある農園と見られたらまた強盗団の襲撃がやってくる。
それまで貴族の権威で守られていた田畑が暴力の前にズタズタにされたとき、農園で生き残った者に待っていたのは今度は自分が失業者になったという現実だった。今日の食い扶持もなく、家族が飢えで苦しむという現実が彼らに絶望を招き、今を生きるための新たな強盗団を生み出すこととなった。
この年の不作は気候のせいではない。
緒嗣の行なった新貨幣の導入がもたらした人災である。
良房はその尻拭いをさせられる羽目になったのだ。
自分の農園の収穫が減るだけでなく、財産を持ち出して強盗の被害にあった人たちの救援にあたり、権威と権力をフル稼働させて治安維持に乗り出さなければならなくなった。良房の送り出すことのできる兵士だけでは足りず、強盗団に対処するため、自分達の田畑を自分達で守るよう命じ、そのための武器の配給もした。
壱岐を守る必要を無視したのではない。
良房は自分の農園を守るのに精一杯になったのだ。
いや、良房だけではない。農園を持つ者が例外なく自分のところを守るのに懸命になったのがこの年だった。
強盗団がこのあとどうなったかは一概には言えない。
もとより偶発的に誕生した集団であり、組織として確固たるものではない。兵士との戦闘で全滅した集団もあったし、毒を以て毒を制すとばかりに集落に雇われて、他の強盗団から集落を守ることを仕事とする者も出た。
この治安悪化の鎮静化は承和五(八三八)年まで待たねばならない。
遣唐使派遣への準備は着々と進んできていた。
八月一日、大宰府を抱える筑前国での貧困が問題化してきたため、五年間の返済期限を設定してのコメの貸し出しを行なった。大宰府周辺の貧困は大宰府の運営そのものに関わる。今は大宰府をベースとする遣唐使派遣を間もなく迎えると言う時。貧困救済を優先させる良房と、大宰府の安定を求める緒嗣の利害が一致した珍しい例が実現し、一万束という例を見ない大規模な貸し出しとなった。
国からのコメの貸し出しは通常であれば出挙という形をとって高めの利子を設定するのが普通だが、良房はその出挙を事実上滅亡させた本人である。このときも出挙ではなく単なるコメの貸し出しとなったのは出挙に良房が猛反発したからだろう。そして、良房の低利の貸し出しが成功していることは緒嗣も認めざるを得ないことであった。
筑前の安定化については政策の一致を見た良房と緒嗣だが、遣唐使については最後まで意見の一致を見なかった。良房は明確に遣唐使反対を表明したが、緒嗣が頑として受け入れなかったのがその理由。
理屈は理解できていた。もう遣唐使派遣の準備は八割方進んでいる。ここまで来て遣唐使を中止することは投じた費用が全て無駄に終わることを意味するし、既に遣唐使による財政悪化はどうにもならなくなっている。こうなると中止にしようと派遣しようと負担に大した違いはない。
結局、左大臣という最高官職者が執念を見せている遣唐使という事業を、一中納言が覆すことはできなかった。良房は遣唐使派遣によって生じた諸問題の解決にあたることに専念し、遣唐使派遣に対する反対意見を封じることとした。これは病床の夏野からのアドバイスもあった。緒嗣の性格からして遣唐使の中止はあり得ず、できることがあるとすれば遣唐使に伴う被害を最小限に食い止めることだというアドバイスだった。
この八月一日の記録から一二月二日までの間、続日本後紀の記録は乏しくなる。新たな任官や仁明天皇の外出といった記録のみになり、遣唐使や貧困対策のためにどのような政策が遂行されたかは記すことができない。が、何かはしたはずである。
インフレによる失業の増加と治安悪化の改善、そして貧困の救済を劇的に改善させる効果はなかったとみえる。もっとも、現状より悪化させることはなく、徐々にではあるが改善させる効果ならあった。
一二月二日、遣唐大使藤原常嗣に正二位、副使小野篁に正四位上の位が与えられる。これにより遣唐使は日本から大臣クラスの派遣となり、唐への礼節として申し分ないものとなった。ただし、帰還後は元の位に戻されることが決まっているので、これはあくまでも遣唐使期間中の特例となる。
一二月三日、小野岑守の建てた宿舎続命院を大宰府に管理させることが決まった。続命院は大宰府を利用する者のために小野岑守が建てた建造物である。これは現在で言うホテルや大きめのペンションで七棟の建物からなっていた。その維持費のための田畑も併設されており、公使は無料で宿泊可能、私人でも有料だが宿泊できた。このホテルを大宰府に管理させる理由は一つ。ここが遣唐使の滞在ポイントとなるということ。
さらに遣唐使船四艘が完成したという連絡も入り、あとは季節が来るのを待って出航するのみというまでになった。