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第三章 協力者・清原夏野 (天長八(八三一)~天長一〇(八三三)年)

 天長八(八三一)年は平和に始まった。

 淳和天皇の体調も良く、天候も穏やかで、新年の朝賀も和気藹々としたものだった。

 表面上は。

 朝賀に集った貴族たちは完全に二分されていた。緒嗣派とすべき高位で三〇代以上のグループと、良房派としても良い低位で二〇代以下のグループとに。

 良房は人事権を握っている身ではない。

 加賀国司、春宮亮、蔵人、五位。

 これがこの時点の良房の公的地位である。

 一つ一つは末端の貴族として考えられないことはない地位であり、この時点の良房の公的地位としては、加賀国司を除いては分相応とするしかない。

 だが、もはや誰もその地位に見合った権威しか持たない若者だとは考えていなかった。

 皇太子正良親王の絶大な支持。

 大学を出た若者の絶大な支持。

 そして、庶民の圧倒的な支持を受けているのがこの時点の良房である。

 おまけに律令制の打倒を公言し、これに共感した若者からはリーダーとして慕われている。

 これは反対の立場からすれば国家転覆をもくろむ不穏分子ということとなる。

 かといって、良房は何一つ法に違反することをしたわけではない。ゆえに、法令違反を名目とする追放もできずにいる。

 表面上は友愛を保ちながら、裏では緊張感尾張りつめた空気が宮中を覆っていた。

 そして、状況は次第に良房に有利になってきていた。

 貴族の中には緒嗣を見限って、位としては自分より下の地位である良房に肩入れしようとする者も現れた。ただし、直接良房に語りかけるのではなく、長良を通じることが多かった。

 その中の一人に正三位大納言兼左近衛大将という、緒嗣派のナンバー2と目されていた清原夏野きよはらのなつのがいた。

 「加賀国における弟君の評判、非常に高いものがございますな。」

 「良房が言うには、『何ら特別なことはしていない。今までしてこなかったことのほうが問題』なのだそうです。」

 かたや大納言、かたやヒラの貴族。どう考えても不釣り合いな組合せであったが、夏野は緒嗣派の中でも温厚で知られ、政治的には冬嗣と対峙することがあっても文化人としては冬嗣と理解し合っていた間柄である。

 その上、長良もまた良房派の中での温厚派として知られ、年齢的にも立場的にも、そして、性格的にも長良は対立する二派の中継役として最適だった。

 夏野と長良が接触を持ったということは両派の関係改善という点で大きなメリットがあった。

 ところが、この長良は何ら公的地位を担っていなかった。

 どうやら自分から拒否していたようなのである。

 「(弟の不始末は私がとる)」

 そう誓い、弟を前面に立てて自分は背後に徹する長良にとって、公的地位はかえって邪魔になるものだったのだろう。

 良房の人生をまとめたときに感じるのは、この人は何と兄に頼りきった人生をしていたことかという一点。極端なことを言えば、良房がいなくても長良は貴族としてそれなりの地位には就けたであろう。しかし、長良がいなかったら良房は早々に失脚させられ、場合によっては殺されていたに違いない。

 この年、藤原長良二九歳、良房二七歳。

 出世という一点では二歳下の良房のほうが兄を追い抜いている。庶民や若い貴族の支持も良房に集中し、長良は単に良房の兄である貴族の一人という見られ方しかしなかった。それは良房の行動力が群を抜いていたということもあるが、長良の行動がまだ三十路を迎える前の者とは思えない消極的なものだったことも理由にある。

 とにかく、この人は目立たなかった。いや、目立つことを意識して拒否した。

 しかし、目立たぬところで支えることに関しては抜群の才能を示した。

 加賀国の開発に良房は私財を投じたが、その費用は決して軽くはなかった。その費用を工面したのは、実は長良である。冬嗣の後継者として指名されたのは良房だったが、藤原冬嗣の財産を受け継いだのは長良である。その受け継いだ財産の大部分をこのときに投入し、それだけでは足らずに借金を頼み込んでいる。

 京都で失業者を集めて加賀国に送り出すときも、主導は良房だったが、人を集めること、加賀国までの旅費や食事、加賀国に着いた後の当面の暮らしも長良が援助している。

 つまり、良房はアイデアを出し、実際の行動と費用負担は長良がしている。それでいて、利益と名誉は良房のもので長良には届いていない。

 これは、自分が影になることを誓った者の宿命とするしかない。

 それでも、長良は文句一つ言わず宿命を受け入れている。

 良房はこのことに対して何も言わない。ただ黙って兄の無言の協力を受け入れている。しかし、自身の最大の協力者であることはいやと言うほどわかっていた。そして兄の協力に対する感謝の念は、良房が後継者を選ぶときの行動に現れることとなる。


 新羅の無条件降伏以後正式な国交は途切れていたが、民間交流はあった。この時代の遺跡から新羅の物品が発掘されていることからもそれは読みとれる。

 ただ、民間交流の規模はあまり大きくなかった。新羅が衰退を迎えていたからである。日本に敗れる前から統治に混乱を生じさせていたが、日本に敗れたことがそれに拍車を掛けることとなった。そして、国を頼れなくなった者は結集して自分たちで生きていくことにした。その結果、新羅からの商人が頻繁に九州や山陰にやってくるようになった。

 と書けば格好は付くが、どうやらこの商人たち、裏では海賊行為もしていたらしい。

 中国の研究者は、この時代、政府から独立した独自の勢力を持った海賊群が朝鮮半島西部から山東半島にかけて勢力を持ち、山陰や九州北部、朝鮮半島、黄海沿岸の中国沿岸北部一帯の交易にたずさわって、時に平和的な交易を、時に海賊行為をしていたとしている。

 国内の海賊の取り締まりについて日本や唐は成功していた。海賊になることはリターンの乏しいハイリスクな選択となったから。つまり、海賊に参加したことが判明しただけで本人だけでなくその家族も処罰の対象となり牢獄へ連れられていったし、海賊になんかなるよりは田畑を耕すほうがよっぽど安定した良い暮らしができるのだから、わざわざ海賊業を選ぶなど無意味なことだった。

 しかし、新羅はそうではなかった。貧困と混乱が地方の統治を困難にさせ、数多くの亡命者を生み出していたと同時に、数多くの盗賊や海賊を生み出していた。田畑を耕しても収穫が乏しく、収穫があがったとしても盗賊や海賊に奪われる。これでは真面目に田畑を耕す気もしなくなる。おまけに、統治がうまくいっていないから盗賊や海賊が処罰されない。それでも何かしらの交易品があればそれを海の向こうまで運んで売りさばくことで生活できるが、それもない。

 生活が苦しければ山や海の幸があるではないかというのは便利な都会暮らしをしている者の戯言。自然は都会人が考えているほど豊かではない。野山にはそんなに動物などいないし、木々はそんなに果実を実らせない。生きていくために自然に入っていこうとしても、自然はそれを受け入れてくれないのだ。

 自然を諦め人里に住み続けたとき、目の前に広がるのは生活できている者の暮らし。その人たちの暮らしの余りを分けてもらえるのならば、あるいは、いま自分が持っているものと交換してくれるのならば生活できるが、そうでないときの選択肢は、諦めるか奪い取るかしか残っていない。

 それが新羅国内にターゲットを向けると盗賊と、国外に向けると海賊となる。


 ターゲットにされた側はたまったものではない。

 向こうだってバカじゃない。たとえ本来の目的が海賊行為だとしても、見た目は友好的な交易を掲げて海の向こうからやってくる。

 だが、やってこられた側だってバカじゃない。新羅人であると判明しただけで集落の男が武器を持って集い、船に乗って出撃する。平和的な交易だったとしても上陸はさせないし、海賊だとしたら相手を殲滅させるまで応戦する。

 新羅人ではないという偽装をして接岸しようと試み、新羅人であることを見破って応戦するという光景が日常化した。

 しかも、日本国内における新羅の評判は最悪だった。新羅人であることが判明しただけで石を投げつけられただけでなく、新羅と接触を持っただけで村八分にされる、そんな雰囲気だった。

 いくらついこの間まで戦争状態にあった国とはいえ、また、戦勝国と敗戦国の関係とはいえ、他国への冒涜が許されることはない。ましてや、日本まで略奪しに来た海賊ならばともかく、通常の交易を求めてきた商人相手への蛮行は許されることではない。

 九月七日、新羅との通商を大宰府で一元管理することを決定し、新羅に対しても、交易を求めるなら大宰府まで来ること、それ以外に上陸を求めた場合は海賊として対処すると通告した。

 緒嗣はこの決定に最後まで反対した。

 どのような形であろうと新羅との接触はすべきでないと主張。日本は他国を必要としておらず、新羅に限らず国外との接触は不要であるとした。

 その強固な態度は緒嗣派の貴族たちですら反感を抱くに至った。

 「右大臣は間抜けことしているようですな。」

 宮中の混乱を聞いた良房は、正良親王に率直な感想を言った。

 「間抜けとは?」

 「本朝は右大臣が言っているように他国を不要とするような国ではありません。着るものに食べるものに、普段の暮らしで使う器や家具、それから薬、こうしたものが本朝だけで手に入るわけではありません。本朝の余剰を他国に売り、本朝の必要を他国より仕入れるしかないのです。新羅の船はその仕事をしてくれているのです。」

 「なぜ新羅の船なのだ。本朝の船で良いではないか。」

 「本朝より唐へ船を出航させたとき、その半分は沈みます。」

 「沈むだと!」

 「沈みます。これまでの遣唐使の船のうち、無事に唐へ着き、無事に唐より帰ってきた船は半分しかありません。これが新羅の船なら八割から九割は無事に残ります。本朝のよりも優れた船を彼らは所持し、その船を操る技術においても本朝より優れているのですから。」

 「新羅の船はそれほど優れているのか。」

 「格段に違います。新羅の海賊とは言いますが、海賊をしない交易だとすれば、本朝の品を唐へ運び、唐の品を本朝に運んでくれるのです。手数料は取られますが、沈む船の数を考えれば、本朝が直接唐と折衝するより、新羅の船を利用するほうが結果的に安上がりです。」

 「ふむ。そうか。」


 正良親王が緒嗣の意見に反対し、新羅との通商を認めるべきとの意見を出したのは画期的だった。

 緒嗣の意見に堂々と反対したからではない。

 良房派が権力に顔を出すようになったと考えられたからである。

 それまではいかに良房が注目を浴びようと、いかに支持を集めようと、所詮は五位の貴族の戯言であると言い逃れすることができた。

 しかし、皇太子正良親王が良房の意見に賛成したのは訳が違う。次期天皇が良房の味方になったということであり、時代の趨勢が良房に味方することを意味する。

 緒嗣派は反冬嗣という点では一致していたが、緒嗣支持で固まっていたわけではない。極端なことを言えば、いくら良房が冬嗣の子であろうと、政治的なスタンスが良房のほうに近いのなら、緒嗣を見限って良房のもとに足を運んでもおかしくはない。

 その一人である清原夏野が真っ先に正良親王に同意した。

 ここで緒嗣は夏野の裏切りを知った。

 夏野にしてみれば必要とすることに同意したに過ぎない。

 だが、それでさえ緒嗣には裏切りだと感じた。


 皇太子正良親王のもとに足を運んだ夏野は、正良親王に会うことはできなかったが、春宮亮として正良親王に仕える良房と言葉を交わすことができた。

 「右大臣は心の狭いお方ですね。」

 その第一声がこうだった。

 夏野は冬嗣が目上を目上と思わない無礼千万な男だったと知っている。

 この日までその後継者である良房は冬嗣の無礼千万さを受けつい男だと考えていたが、冬嗣ほどは感じなかった。

 ただし、緒嗣を見下すという点においては父親譲りだと確信した。

 「新羅との通商を絶ったならば、本朝では手に入れることができないために海の向こうから運んでこなければならない薬が手に入らなくなります。そのせいで失われる命があるかも知れない。それを考えていないのです。右大臣は自己の誇りのほうが命よりも重要な方なのでしょう。」

 良房のこの言葉に対し夏野は何も言い返せなかった。

 唐との貿易で日本が切望するもののトップに君臨していたのが医薬品だった。服や日用品、さらには書物も唐の製品が高級品とされていたが、これは日本国内でも生産できる。しかし、医薬品だけはどうにもならなかった。薬草の栽培はあったし、医学書の輸入もできていたが、どうしても唐にある医薬品の全てを日本国内で調達することはできず、輸入に頼っていた。

 これは緒嗣の頑迷なまでの排外思考に対する絶好の攻撃材料だった。

 そして、夏野もまたその攻撃材料に乗っていた。

 「ではもし、右大臣殿の反対が通っていたとしたら?」

 「大納言殿(=清原夏野)が危惧されておられるのは、宮中における自身の地位でしょうか? それとも、本朝の暮らしでしょうか。」

 「後者に決まっておろう。私は自己の地位のために命を見捨てる愚か者ではない。」

 「左様でございますか。ならば率直にお話しできます。右大臣の意見が通っていたとすれば、年間千人の命が失われてしまい、三千人が職を失って路頭を彷徨うこととなっていたでしょう。」

 「それは穏やかではないな。しかし、薬がなくなるであろうから命が失われるのはわかるが、職を失うとはどういうことだ?」

 「交易で生きる民もあるということです。唐のものを仕入れて本朝で売る。また、本朝のものを売って唐のものを仕入れる。これを生業とする者とその家族がおよそ三千人、それだけの数の人が路頭に彷徨うこととなります。それは断じて許されることではありません。」

 夏野は良房のこの言葉に、それまでの良房のイメージとの違いを見た。

 夏野はそれまで、良房を冬嗣の子として、また、私利私欲と野心に満ちた者として見ていた。

 しかし、良房のこの言葉は明らかにイメージと違うものだった。

 「大納言殿、我々貴族に課せられた使命とは何でしょうか?」 

 「これはいきなり何とも根源的な問題だな。しかし、そうだな。政を成すのに力を尽くすというのが貴族の使命ではないか?」

 「そうですか。」

 「では、良房はどう考えている?」

 「この国に住む全ての人の暮らしを良くすることです。主上や貴族だけではなく、日々懸命に働いている者の暮らしを今よりも良いものとすることが我々に課せられた使命ではないでしょうか? 自己の主張を優先させ命を失わせることはあってはならぬことですし、同時に、生きていく手段を失わせないこともまた、我々に課せられた任務です。我々は何ら生み出していません。田畑を耕すことなく農民が耕して得たコメを食し、海に潜ることなく漁業で得た魚を食す生活をしています。こうした日々働いている人を守るのが、税で生きる我々の使命ではないでしょうか?」

 この意見に夏野は感銘していた。

 「(これか、三成が言っていたのは……)」

 かつて春宮亮だった藤原三成が、良房の教育観に感銘を受け、自分の後を受け継ぐ者は良房しか居ないと考えた理由がわかった気がした。

 そして、ここで良房の考えが一本線で理解できるものであると悟った。

 たしかにこの男は私利私欲を肥やしている。だが、その私利私欲でどれだけの人の暮らしを救っているか想像もつかない。

 豪雨の中、大学生を引き連れて災害救助にあたるなどスタンドプレーに走ることもある。だが、それで救われた命も数多くあり、住まいを失った人の救済も進んだ。

 加賀国司となったら資材を投入してインフラ整備を進めた。おかげでそのための出費はかなりの額になったが、冬嗣の所領が増え、加賀の生活インフラの整備も進んだ。

 この男は人々の暮らしを良くすることを最優先にしている。律令を批判するのも、所領を増やすのも、私利私欲だけではない。

 だが、素直に善人だと感じることはできない。

 そして気づいた。良房は偽善者なのだと。それも、徹底した偽善者なのだと。

 民衆の暮らしを豊かにしているし、立派な人材を育てた。やっていることは法に触れてもいないし、悪に手を染めてもいない。

 だからと言って、正義とは思えない。善悪で考えれば確実に悪の香りがする。

 お人好しなら良房の言葉や行動を受け入れて感動するであろう。その言葉は素晴らしく、その行動も素晴らしい。しかし、夏野は貴族として数多くの場数を踏んでいる。政治の闇の世界も見てきたし、良房ほどではないにせよ偽善も見てきた。だからなのか、良房に対して身構えるところがある。

 夏野は改めて良房を考えた。

 そして結論を出した。

 この二七歳の若者は位こそ低いが、かなりの確率で出世街道の先頭を歩むであろう。一方で、自分の上役である緒嗣はどうか。右大臣にまでなったがその上には進めずに焦っている。

 緒嗣は善悪で考えると善の香りがする。ただし、誉められる善ではない。正しいことをしようとしているのは認める。だが、生真面目で融通が利かず、自分が正しいと思ったことはどんな結果が待っていようと決して曲げない。

 要は、人間としてのスケールが小さい。

 それに比べて良房はどうか。やることなすこと大がかりで、庶民と若者の絶賛を浴びている。それが偽善であろうとそのスケールの大きさは緒嗣の比ではない。

 そして、この男はまだ若い。いかに抜群のリーダーシップを発揮していようと、位はまだ低い。ゆえに、この男が天下をとるにはもう少し時間がかかる。

 このまま緒嗣の下にいても緒嗣を追い抜くことはできない。

 だが、良房派に加わったらどうか。ほぼ同時に派閥の先頭に立てるのではないか。

 夏野は生涯最大の賭に挑んだ。


 大納言清原夏野が良房派の一人になったことは緒嗣派を慌てさせた。

 新羅との通商受け入れに賛成したことで緒嗣は夏野を裏切り者呼ばわりしていたが、それでも自派の一人であると信じて疑っていなかった。

 その夏野が本当の裏切り者になった。

 大納言というこの時代のナンバー2が寝返ったということは、それまで緒嗣派が独占してきた大臣クラスの会議にも良房の意見が伝わるようになったということである。それまで、陣定じんのさだめで良房が意見をし、陣定の結論として良房の意見が淳和天皇のもとに上げられたことならあるが、それを握りつぶす権限を緒嗣は持っていた。

 だが、大納言の意見となるとそうはいかない。

 握りつぶすには、淳和天皇も交えた会議の場で自説を展開し、大納言の夏野を論破した上でないとならない。

 それでも緒嗣派には対処方法があった。

 そもそも上流の貴族は緒嗣が絶大な権限を持って君臨していると言っても良い。夏野はあくまでも例外であり、夏野以外の大納言や中納言、参議といった上流貴族は、源常などの嵯峨上皇の子として特別に出世を遂げている者を除き、ことごとく緒嗣の息がかかっている。

 そこで、自分たちの権限を駆使してこれ以上良房派が入り込まないように固めてしまえばいいという考えが浮かんだ。つまり、正良親王が皇位に就いても良房の入り込む隙間を無くしてしまえばよいのだ。こうすればいかに夏野が奮迅しようと、朝廷権力は緒嗣派のものになる。

 しかし、緒嗣派には見捨てることのできない一点があった。

 左大臣が空席という一点である。

 順番で行けば緒嗣が念願の左大臣になるであろう。そして、大納言の誰か一人が右大臣になり、中納言の誰かが大納言に上がる。そうして一つ一つの繰り上がることで下の方に空席が一つできる。そこに良房が入るのは何らおかしなことではない。むしろ、今の評判を考えれば入らないことが考えられない。

 ただ一つ、良房には未だ三〇歳になっていない若さというハンデがあった。いかに有能でも、いかに高い評判でも、いかに実績を残そうとも、皇族や、臣籍降下した源氏でもない限り、この若さでは就ける職も限られる。

 そのため、良房よりも歳上で、良房に代わって空席を埋めることのできる人材を緒嗣派で用意できればどうにかなった。要はそれなりの年齢の自派の者を出世させ、良房の入る穴を塞いでしまえばいいのである。

 それに適した人材が緒嗣にはいた。長男の家緒である。良房より六歳上であり、年齢的にも上流貴族に加わってもおかしくない。そして、天長九(八三二)年一月七日には従四位上に就いていた。ここまで来ればあとは右大臣の権力で参議に引き上げることも可能だった。

 しかし、運命は緒嗣に悲劇をもたらす。

 三月二〇日、藤原家緒死去。享年三四歳。死因は記録に残っていない。

 そして、父である緒嗣の心情も記録に残っていない。


 良房は大所領の持ち主になったし、あちこちで大盤振る舞いをしている。

 だが、良房自身が贅沢な暮らしをしているわけではない。

 夏野はこれに疑問を持った。

 「自分の食べ物や着る物にこだわりなどありません。適度に食べて、位階に応じた服を着る。それで良いのです。」

 「しかし、良房はかなり収入があるだろうに。」

 「収入はとっくに使いきっています。」

 「使いきったとな。」

 「藤原の米倉は空です。しかし、ため込んで使わないでいるよりはよほど優れたことだとは思っています。財産を使わずにため込むのは愚かなことだとも思いませぬか。」

 「と言うと?」

 「誰とは言いませんが、世の中には財産をため込んで使わずにいるのがいます。」

 ここで言う『誰』とは誰か特定の人を指しているのではないことを夏野はすぐに理解した。それは貴族全員、いや、豊かな者全員と言ってもよい。

 「米倉をコメで満たし、高価な布地を集めて蓄えるということは、世の中のコメや布地がそれだけ減ることになります。もし、そのため込んでいる財産を使えば、今のこの時間、生活に苦しむ人をすくい上げることができるのです。」

 「そうは言うが、ある程度は貯めていないといざというとき困るであろう。」

 「来るかどうかわからないその『いざ』のために、今を生きる人を苦しめていいわけはありません。それに、米倉のコメはやがて腐り、布地は虫に喰われて使いものにならなくなります。ならば、腐る前、虫に喰われる前に使ってしまったほうがいいのではないでしょうか。来るかどうかわからない『いざ』に備えるということは、今を生きる人を殺すことにつながってしまうのです。我々貴族に与えられた使命は豊かな暮らしを作ること。自分一人が豊かな暮らしをするのではなく、一人でも多くの人に今までより良い暮らしを用意することです。」

 夏野は良房の言葉に斬新さを感じた。

 今まで自分は、節約して財産をため込むことだけを考えていた。しかし、増やした財産をどうするかなど考えたことがなかった。良房がはじめた大土地所有に参加しているが、それも支出ではなく収入と考えていた。

 「貧しい人を減らすには、世の中に流れる財産を増やさなければなりません。しかし、誰とは言いませんがどこかの金持ちはそれと逆のことをしている。使いもしないコメを米倉にため込むことに執念を燃やし、目の前で死ぬかも知れぬ苦しみにある人を放っておきながら、米倉がちょっとでも減ったら大騒ぎする。みっともない人です。」

 良房に言わせれば夏野はそのみっともない人の一人になる。

 しかし、言われてみれば、自分は何かしたであろうかという思いも抱く。ため込んだ財産を使うことがあるとすればそれは自分や家族のためであり、財産をさらに増やすためである。

 都の路地にうずくまって死を迎える人を、良房自らが手をとって起きあがらせて田畑と当面の食料を分け与えることなど、今では当たり前すぎてニュースにならなくなっている。

 だが、良房以外の者がそれをしたという話は全く聞かない。意識して聞かないのではなく、そもそもそんな話がない。

 その良房以外の者というカテゴリーには夏野も含まれる。自分はこれまで道に倒れている人を風景としか見ていなかったし、助けようとしている良房の行動についても偽善としか感じなかった。

 しかし、偽善だろうとなんだろうと良房の行動のほうが素晴らしいに決まっている。

 夏野は明らかに良房の影響を受けた。

 良房のアドバイスがあったからなのか、それとも自分で考えたからなのかはわからない。夏野は何の前触れもなく、播磨国(現在の兵庫県)魚住に港を建設すると発表し、そのために私財を提供するとした。

 これには誰もが驚きを見せた。

 まず、規模が普通ではない。良房が大規模な開墾をしたりインフラ整備に私財を費やしたりしたと言っても、一つ一つの額はそれほど大きなものではない。数が膨大だから総額が膨大になっているだけである。ところが、今回建設予定の港は千人分の農園を開墾できる額。いかに夏野がため込んでいたとは言え、そう易々と出せる額ではない。

 規模が普通でないということは、これによって吸収される失業者の数も普通ではないということになる。良房の場合、トータルでは多くの失業者の救済になっていても、一回での救済は多くて一〇〇名、通常は五〇名前後の失業者の吸収に留まるのに対し、今回の場合は一〇〇〇名を超える数の失業者の吸収がある。このインパクトは大きい。

 二つ目はそのタイミング。瀬戸内海を航行する船の終着地である難波津の一歩手前の停泊地の必要性は以前から議論されていたが着手できずにいた。

 国家事業としての優先度が低いと見られていたこともあるし、いかに必要な事業であろうと、対外折衝に繋がる港の整備に対し緒嗣が良い顔をしなかったということもある。

 聞いただけでも緒嗣が不機嫌となるこの事業を、私財をつぎ込んで個人として行なう。これは夏野にとって、単に私財をつぎ込んだ大事業をするというだけではなく、緒嗣派との決別を意味した。


 国が行なうべき大事業を一個人が私財をつぎ込んで行なうなど前代未聞のこと。

 古代ローマやその影響を受ける国々には、橋や道路を私財で造り、その代わり、通りの名や橋の名に私財を出した人の名を付けて名誉を称えるという伝統があるが、この時代の日本にそんな伝統も概念もない。大規模な建造は国や地方の公権力が行なうものであって、一個人が行なうものではないという考えだったのがこの時代である。

 夏野は良房以上のスタンドプレーにうって出たと考えた者が多かった。何より緒嗣がそう考えた。

 緒嗣は公式に夏野の非難をした。国として成すべきことを一個人がやるのは売名行為以外の何物でもない、夏野は野心を抱いて今回の事業に手を染めた、夏野はここで集めた人を使って、藤原仲成や薬子のような反乱を起こすつもりだ、と。

 この緒嗣の非難は夏野の誇りを傷つけるに充分だった。今回の港の建設のためにつぎ込んだ財産は軽いものではないが、それでも一〇〇〇名もの人を救うことができると考えればこそ、借金までしてこの負担を引き受けたのだから。

 それに対し賞賛の言葉を掛けるならまだしも、面を向かって右大臣が大納言を非難した。それも淳和天皇の見ている前で非難した。

 これまでであったら緒嗣のヒステリーを黙って聞いていたかも知れない。

 だが、このときの夏野は黙っていなかった。

 天皇を守る者は刀を携えている。夏野はその刃渡り三〇センチほどの短刀を手に取ってから緒嗣の真正面に座り、刀を緒嗣に手渡してこう言った。

 「私が反乱を起こすというなら、あなたの手で私を処分なさい。その剣を喉元に突き立てて少しでも前に差し出せば終わります。さあ。」

 それは夏野がはじめて見せた怒りの言葉であった。あくまでも冷静な口調であったが、その迫力は緒嗣を黙らせるのに充分だった。

 緒嗣は手をふるわせて刀を落とした。落とした刀は、この年、皇族枠での特例で中納言になっていた嵯峨上皇の子の源ときわが拾い上げた。

 会議はこれで散会となったが、この日の会議は三つの効果を生んだ。

 夏野の評判の向上。

 緒嗣の評判の下落。

 そして、夏野の始めた港の建設に対する公的支援の開始である。五月一一日、播磨国司を通じての魚住船瀬の築造援助が決定した。


 この影響によるのか、天長九(八三二)年という年の記録は貧民救済の記録が数多く見える。

 六月二七日に京都市中で施が実施された。ただし、受給対象者は病人限定。

 七月一五日には越前国で、二七日には出羽国で、生活困窮の農民に対する援助が行なわれた。

 これらはいずれも緒嗣の指示によるものだった。

 緒嗣は焦っていた。

 自分の評判が下落し続け、時代は夏野や良房のものとなってきつつある。この状況下での汚名返上と失地回復のためには、良房や夏野がしてきたようなスタンドプレーが手っ取り早い手段ではある。

 しかし、これらが緒嗣の評判を回復させることはなかった。

 何しろ配給量が明らかに少なくその規模も乏しい。国のやったことだからということで大々的に宣伝されたが、冬嗣の生前の頃の施と比べると絶望感さえ漂う。

 緒嗣の性格を、先に、生真面目で融通が利かず、自分が正しいと思ったことはどんな結果が待っていようと決して曲げない、人間としてのスケールが小さい者と記したが、これに「ケチ」と「ノロマ」という性格を付け加えるべきかもしれない。

 まず前者についてであるが、この人は自分の財産が減ることを拒否する性格だったのではないかと思われる。国の財政を守るために支出を減らすというより、自分の扱う財産が減ることがガマンならないという性格の発露が、冬嗣より乏しい施という形となって現れた。

 緒嗣は言うだろう。冬嗣の頃より気候も安定し、収穫も増えている。ゆえに施を必要とする事態が少なくなっているだけなのだと。にも関わらず施を行なったのだから褒められてしかるべきと。

 だが、気候が安定して冬嗣の頃より収穫が多かったことと、施を必要とする局面が訪れないこととは何の関係もない。自然災害や人災もあれば、経済状態が局所的に急激に悪化することもある。ましてや、緒嗣が扱えることができるのは、国家予算という良房とは比べものにならない財力。それなのに、危機のときに動くのは良房であって緒嗣ではなく、動いたとしてもその配給量は乏しいと言わざるを得ない内容。

 これではケチとしか言えない。

 続くノロマであるが、これの良い例が八月二〇日。

 この日、豪雨が近畿一帯を襲い、河川の増水が相次ぐ。そして、摂津・河内両国では堤防が決壊し水害となった。

 良房は被災者の救済と災害からの復旧のための人とコメを直ちに送った。当初は自分も先頭を切って被災地に向かうつもりであったが、春宮亮という立場では京都を離れることが許されなかった。

 緒嗣にとってこれはチャンスだった。

 良房がいかに迅速な行動をしようと一個人ができることなどたかが知れている。それに、以前の京都での水害のときの評判の向上は、迅速さだけでなく、良房自身が先頭を切るという点が重要な要素だった。

 迅速さでは確かに負けた。だが、良房が動けない現在、良房以上の援助を国で用意すれば挽回のチャンスとなる。

 そう考えた緒嗣は良房以上の支援物資を用意した。

 ただし、配給開始は九月に入ってから。群発地震の救援のとき公的支援まで数ヶ月かかったのがこの時代の普通だとあることを考えれば早いのだが、それでも届いたときには良房の送った支援物資は配り終え、生活再建も始まっていた。

 おかげで朝廷の対応の遅さに対する不満が広まることとなった。


 しかし、このときの水害救援を淳和天皇は評価するのである。

 一一月二日、藤原緒嗣が念願だった左大臣に就任した。

 ただし、後任の右大臣には清原夏野が就任する。

 緒嗣にとっては満面の喜びに水を差された形となる。

 「右大臣就任おめでとうございます。」

 良房は夏野を素直に祝福した。

 自身は今回の救援に対する評価がなく、出世もない。空席ができたはずなのに空席を埋める人材として自分が選ばれなかったことは悔しいはずであったが、良房の表情にはそうした点が皆無だった。

 夏野もそれはわかっていた。

 ここ数年の良房の活躍は並の貴族と同水準ではない。その活躍に応えるためには少なくとも参議には昇っていないとおかしい。

 ところが、今回の淳和天皇の判断は良房を全く見ていない。

 まるで良房が存在していないかのような扱われ方である。

 「今回ばかりは主上のお気持ちが理解できぬ。なぜ良房が何もないのか。」

 夏野は自身の右大臣就任の嬉しさより良房の扱われ方のほうが気になった。

 「いたしかたございませぬ。水害の救援において先に動いたのは私でも、より多くの援助をしたのは緒嗣です。それに、これは右大臣殿を信頼するがゆえにお話する事にございますが……」

 良房はこう前置きした。

 これから話すことは下手をすれば不敬罪で逮捕されてしまうことだから。

 「主上は退位を考えておられる。」

 「なに!」

 夏野は予想だにしなかった言葉に驚き、絶句した。

 「殿下(=皇太子正良親王)よりお聞きしたのですが、どうやら主上は退位を考え、退位後のまつりごとについて殿下に話をされているとのこと。私がいくら春宮亮であってもその内容までは存じませぬが。」

 「し、しかし、何ゆえ退位をお考えに……」

 「主上が日々こなしておられる激務は我々には測り知れぬもの。主上の御歳(おんとし=年齢)を考えればやむを得ぬ事とも言えましょう。」

 「そうか……。時が来たと考えるべきなのだろうが……」

 「懸命に政務に尽くされた方なのですから、退位いただいてもそれは拍手で送り出すべきこと。それに、殿下のご即位ののち、大幅な人事刷新があることは充分考えられます。私はそれに期待しているのです。」


 翌天長一〇(八三三)年は何事もなかったかのように始まった。

 元日から雨にたたられたため新年恒例の朝賀が翌日に順延になったが、これも何らおかしなことではない。

 しかし、順延された朝賀の場において淳和天皇の側に侍る二人の大臣がもたらす緊張は普通のこととは言えないものだった。

 去年までは右大臣である緒嗣一人がいた。

 今年からは左大臣の緒嗣と右大臣の夏野の二人がいる。

 それが協力する関係であれば何の問題もないのだが、今やこの二人の敵対関係は周知の事実。

 そしてこの二人のどちらの派閥に入るかといった問題が切実に考えられるようになった。

 大学を出た貴族の多くは夏野の派閥に入った。こちらには良房がいることももはや暗黙の了解であり、彼らにとってはかつての恩師との再会ともなる。また、夏野の学識の高さは大学でも評判となっており、特に古典に関する知識の深さは多くの者を感心させていた。

 一方、有力者の子弟であるがために貴族となった者の多くは緒嗣を選んだ。何と言っても最高官職である左大臣であり、藤原冬嗣亡き後の朝廷権力を一手に握っていると考えられたのも緒嗣である。また、一部例外はあるが、上流貴族の大部分が緒嗣派である。この状況下では、緒嗣派が主流で、夏は緒嗣を裏切った例外的存在と見られてもおかしくない。

 実際、会議の場において左右の大臣が論争することなど珍しくなかったが、人数比で夏野は常に苦戦を強いられていた。

 時には夏野の意見が優勢となることもあるが、そうなったとき、緒嗣は決まってこう言った。

 「それは律令にはない。」

 こう言われると夏野はどうにもできなかった。

 しかし、緒嗣がこの時代のナンバー1の律令に対する知識の持ち主であったわけではない。それどころか、律令を声高に叫んだとしても細かいところまで知り尽くしているわけではないため、時には夏野の主張のほうが律令どおりであることもあった。

 要は自分にとって都合の悪い内容が全て律令違反となっていたのである。


 「緒嗣はとかく律令を口にするが、その実、律令を熟知しているわけではない。そこで、だ。良房。大学の力を借りたいのだが、できるか。」

 「何をなさるおつもりで?」

 「律令、特に令についての(解説書のこと)を作る。」

 「おお、本朝にもついにできますか。」

 解のことは良房も知識として知っている。

 ただし、それは、唐に存在する法律の解説書のことで、日本には存在しないものという認識だった。

 律令の不備を補うために出される格や、施行細則をまとめた式はすでに存在したが、律令そのものの解説書である解が作られてこなかったのは、唐と違って格式の効力が大きかったことがあげられる。

 だがもう一つ、律令をよく知らないがために、律令を神聖不可侵なものとして扱っていたという事もあるのではないだろうか。実際、権力を握った者は、自身と都合の悪い事項の一切を「反律令」の一言にまとめ上げ、律令の神聖不可侵さと自身とを重ね合わせることに成功していた。

 だからこそ良房の反律令宣言が有効だった。

 一方、夏野は反律令を宣言したことなどない。律令を守るべきという信念は残っており、だからこそ、反律令扱いされると何も言えなくなる。だが、緒嗣と律令が同一などと思ったことはない。思ったことはないが反緒嗣が反律令と同一になるという現状を受け入れているわけではない。

 良房と夏野は律令に対する考えなら正反対と言える。しかし、反緒嗣という一点なら完全に一致していた。

 良房は解の作成にあたり、大学で教鞭をとっていた文章博士菅原清公と一〇人の教え子を推薦した。

 これに夏野を加えた一二人で編集が始まり、二月一五日、「令義解りょうのぎげ」全一〇巻が撰進された。

 これは緒嗣にとって大打撃だった。律令の詳細を解説した書物が刊行されただけではなく、それが国の法的根拠を持つ資料となったのである。

 つまり、緒嗣がいかに「それは律令にはない」と言おうと、「しかし令義解にはある」と夏野が反論すれば、夏野の反論のほうが勝つのである。

 ただ、この時点ではまだ公表されたのみであり、権限を持つのはこれからもう少し先になる。

 なお、この書物の原本は現存しないが、複製版は現在も残っており、大宝令や養老令が現在でも把握できるのはこの書物のおかげである。


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