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第二章 藤原良房登場 (天長五(八二八)~天長七(八三〇)年)

 天長五(八二八)年は渤海使の来朝ではじまった。

 一月一七日、渤海人一〇〇名あまりが但馬国に来着したとの情報が飛び込んできた。

 実際に着岸したのは前年の一二月二九日だから、京都にその情報が来るまでに二〇日ほどかかったこととなる。通常に比べれば遅かったが、表向きの理由としては、年末年始を挟んでいたことからの遅れとされたことと、この渤海使が正式な使節であるのかの見極めに時間がかかったためとされた。

 しかも、第一報は渤海人の来着というだけであり、それが正式な使節なのか、それとも新羅人のような生活苦から来る亡命者なのか、あるいは漂流して日本に流れ着いた者たちなのか、京都に伝わった情報では判明しなかった。つまり、時間を掛けて見極めたのだが最後までわからなかったので、途中の情報として送ってきたということになる。

 「緒嗣の奴が何やら口出ししたのではあるまいか。」

 良房はこう直感したが、さすがに宮中で話せる内容ではないため、自宅に帰って兄に話すまでそのことを黙り込んでいた。

 このことを直感したのは良房だけではなかった。宮中にいる誰もが、この件について裏で糸を引いているのは緒嗣だと悟っていた。ただ、誰もそれを口に出来ずにいた。

 良房も、それが自宅で、それも味方であること間違いなしの兄相手だからこそ話せる内容だと考えていた。

 「右大臣か。それは考えられるな。」

 良房の意見を聞いた長良はすぐに同意した。長良もまた、裏には緒嗣がいることを悟っていたが、口に出せずにいた。

 緒嗣は二年前に、渤海使の来朝は一二年に一度とすべしと主張した。理屈はわかる。渤海との交渉に要する費用、すなわち、渤海使の歓待や往復の費用は全額日本が負担することとなっており、頻繁に来られると財政負担が重くなる。

 しかし、その表向きの理由だけでなく、裏の理由、つまり、緒嗣個人の渤海に対する敵意を、兄弟、そして宮中の誰もが感じとっていた。

 どういった事情があるのかはわからないが、緒嗣は明らかに渤海を敵視している。期限破りの来航に反発するだけならまだしも、両国の協定に基づいた渤海との正式な交渉でさえ不機嫌な態度をとる。

 それでいて、市場に流れる渤海産の毛皮は、それが渤海からの輸入品だということがわかっていても嬉々として受け入れ、その売買で莫大な利益を稼いでいるのだから、その行動は矛盾している。

 「今回は毛皮の売買に来た商人ではないのか?」

 「それならば右大臣が先陣切って歓迎しているさ。それをしないってことは、正式な使節だろうな。」

 長良は断言した。

 冬嗣の死去により左大臣職が空席となったため、人臣の最高位は右大臣の緒嗣となっている現状では、渤海との正式な交渉などおぼつかない。

 「しかしな、このままでは渤海との関係に亀裂が入ってしまうぞ。最悪の場合、新羅と渤海が手を組んで日本と向かい合うようなことになりかねない。」

 長良は困惑の表情を見せた。

 「せめて、今回来朝した者は受け入れるよう、兄上に緒嗣を説得してもらいたい。奴は私を嫌っているが、兄上ならば聞き入れるのではないか。」

 「それはできない。右大臣は、渤海のこととなると主上の言葉も受け入れなくなる性格だ。」

 「しかし、このままでは彼らを帰国させてしまうこととなる。そうなってしまったら、兄上の危惧が現実のものとなってしまう。」

 「右大臣を無視して都に招くことはできぬか。」

 「そうなれば緒嗣はどんな手を使ってでも妨害するはず。使者の命を奪うこともありえてしまう。」

 「なら、当家で歓待するのはいかがかしら。」

 それは話を聞いていた潔姫の何気ない一言だった。

 「一私人が歓迎するなら緒嗣さんも何も言えないのではないかしら。それに、私は上皇の娘。叔父上(=淳和天皇)の歓待ではなくても、皇族の歓待にはなるのではなくて。」

 「……、ありだな。」

 長良は少し考えたあとで同意した。

 「良房、但馬に使者を出せ。藤原良房が歓待すると。」

 「私が? 兄上ではなく?」

 「潔姫の夫であることが重要なのだ。それに、良房が右大臣一派に逆らうのは今に始まったことではない。」

 「兄上もお人の悪い。ですが……、面白い! その話乗った! 潔姫、これからたいへんなこととなるぞ。」

 「心得ております。」

 「緒嗣を黙らせる絶好の機会だな。良房。」


 従五位下藤原良房が、妻の源潔姫とともに渤海使を私的に歓待するという宣言を聞いた緒嗣は激怒した。

 「たかが一蔵人の身で何をするか!」

 蔵人として淳和天皇の側に侍ることが定められている良房は、どんな重要な会議のときでも天皇の側にいる。ただし、質問に答えることが許されているのみで、自分から意見を言うことは許されていない。

 「渤海使を歓待します。」

 「そんな国家の一大事を、たかが一蔵人が勝手にしていいと思っているのか!」

 「はい。」

 良房の言葉に迷いはなかった。

 「渤海との通商は一二年に一度のみと定められている! それを破るつもりか!」

 「はい。」

 「貴様の勝手な行動が本朝にどれだけの被害をもたらすかわかっているのか。」

 「全くわかりません。ただし、被害をもたらさないことならばわかります。」

 良房の貴族としての地位は貴族か役人かのボーダーラインのギリギリであり、蔵人でなければ右大臣である緒嗣とまともに会話することすら許されない地位である。

 普通、こうした蔵人が右大臣に質問を受けたとしたら、ひれ伏してまともに顔を見ることなく、ただただ右大臣の言うことに従うはずである。

 ところが、良房はひれ伏すどころか緒嗣を侮蔑のこもった目で見下し、逆らうだけでなく馬鹿にしている。

 緒嗣はこのとき、ここにいる蔵人が間違いなく冬嗣の子であると確信した。

 「とにかく、渤海から来た者は直ちに帰ってもらう。よいな!」

 「いいえ。」

 「貴様、何だその口のききかたは!」

 「あなたへの相応の礼儀です。」


 渤海からの使者がやってきたことに対する国内世論は、歓迎という声が大きかった。ただ、緒嗣が右大臣としての権力を使って渤海使を拒否しているため誰も逆らえずにいたと言える。

 それが、いくら上皇の娘を妻にし、妹を皇太子妃とし、父が生前は権力者であった者とはいえ、蔵人頭ですらない一蔵人が逆らったのである。

 世間はこの若者に注目した。

 この京都の雰囲気は、未だ留めおかれている但馬にも伝わった。

 彼らとて日本の中に一二年に一度の通商としてほしいという意見が出ていることも、そして、その意見を述べた者が右大臣という要職にある者だということも知っている。

 ただ、それは日本側の事情であって、渤海には渤海の事情がある。

 何よりも重要なのが唐と新羅の政情不安だった。

 政情不安が難民を生んだというのならまだいい。

 問題は、政情不安が山賊と海賊を生んだということ。

 国境を侵略する山賊、沿岸部を荒らし回る海賊、こうした唐や新羅のあぶれ者に手を焼く渤海にとって、北方の蝦夷を国土から追いやり、侵略しに来た新羅を撃退させただけでなく無条件降伏に追い込んだ日本は心強いパートナーに思えた。

 そして、日本との関係を強化することが渤海の最大の外交戦略となっていた。

 この状況で一二年に一度と言われても、「はい、そうですか」と受け入れられるわけがない。事は至急を要している。

 緒嗣はどうやらこうした国際的センスを欠いていたのではないかと思われる。これは生来のものだろう。緒嗣には確かに中国の古典を読む能力や漢詩を作る能力ならばあったが、それが外交力を引き上げる要素には全くつながっていなかった。

 では、良房にはあったのか。

 答えはYES。

 良房の人生を見た場合、国外情勢を読む能力も、それを踏まえた最適な指針を示すことも、良房は充分合格点をつけていると言ってもよい。

 ただし、一つだけ欠けているものがある。

 実際の交渉力。

 良房も教育を受けており、筆談でなら渤海使とのやりとりも可能というレベルであったが、それでは不充分であり、交渉だけを言えば緒嗣のほうが優れていると言える。

 しかし、良房には生涯を支える味方がいた。

 兄の長良。

 この敵を作らぬ温厚な性格は外交に、特に歓待を目的とする外交に抜群の成果を見せることとなる。


 二月二日、但馬国司より至急の手紙が京都に送られた。

 手紙には渤海使が渤海国王の国書を携えているとあり、その写しも同封されていた。

 ここではじめて、昨年末に来朝した渤海人が渤海からの正式な使節であることが判明した。

 淳和天皇は国として正式に歓待するべきではないかと意見を述べるも、右大臣藤原緒嗣の頑迷な抵抗にあい、正式な受け入れ表明ができずにいた。

 一方、藤原家では渤海使受け入れに関する準備が進められていた。

 ところが、そのとき思わぬ横槍が入った。

 嵯峨上皇である。

 嵯峨上皇は妙案を出した。

 まず、今回の供応は自分がすると宣言した上で、歓待場所として正式な外交使節の滞在先である鴻臚館こうろかんを使用すると表明。これまで準備してくれたことも評価し、長良と良房の兄弟には自分のサポートに入ってもらうとした。

 名目上、嵯峨上皇は国家元首ではない。ゆえに、渤海との一二年に一度という通商のタイミングとは無関係になる。だが、一臣下でしかない藤原兄弟や、いかに上皇の娘とはいえ正式な地位に就いたことのない女性の歓待とはわけが違う。ついこの間まで国家元首であっただけでなく、嵯峨上皇は文人としての評価も高い。空海、橘逸勢とともに、後に「三筆」と評されるほどの書家であり、また「経国集」に漢詩を残す詩人でもある。

 その時代の最高の文化人が対応すると定められている渤海使との折衝を嵯峨上皇が自ら行なうことは、渤海使の面子が立つなどというレベルではない。これまでどんな使節も体験したことのない最高級の国賓が受ける待遇である。

 だが、緒嗣はそれにも頑迷に抵抗した。

 一二年に一度と決めたからには一二年に一度を守らなければならないというのが緒嗣の意見であり、それが実権力を持った人間の意見であった。

 しかし、なぜ緒嗣はここまで渤海の訪問に反対を示したのか。

 その理由として、渤海の来訪そのものではなく、頻繁な来訪の全てを歓待した嵯峨天皇への反発にあると挙げる研究者もいる。つまり、頻繁な来訪の全てを歓迎したため国家財政を悪化させたことに対する政治家としての怒りが、表面だった上皇批判ではなく、訪問しにきた渤海に向けられたという説である。

 私もこの意見に賛成するが、緒嗣個人の嵯峨天皇に対する反発の理由に、財政悪化を招いたことに対する政治家としての反発だけでなく、嵯峨帝時代の自身の不遇を加えたい。

 平城天皇の命に従って都を離れている間に政局が激変し、任務を終えて戻ってみたら嵯峨天皇が即位し冬嗣の天下となっていた。

 それまでの若くしての出世街道猛進はなりを潜め、辞任をかけてまで冬嗣と対抗しようとするも失敗。それから淳和天皇の時代となり、冬嗣が死んで、やっと掴んだ自分の天下である。

 嵯峨天皇に対する反発と言えば聞こえは良いが、要は恨み。渤海との交渉を冷たく当たっているのも、国際関係よりも先に自分の恨みを晴らすことを優先させているからにすぎない。

 しかも、自分を冷遇した嵯峨天皇や自分を見下していた冬嗣のことを渤海国は友好関係の構築に力を注いだ恩人として見ている。それは、裏を返せば、渤海国にとっての緒嗣は快く思わない相手ということ。

 そんな相手に時間と礼節を尽くす気になれないというのが本心ではなかったか。


 渤海使は但馬から動くことができなかった。

 本心は一刻も早く京都に向かって国の代表使節としての任務を遂行したかったのだが、緒嗣の頑迷な抵抗がそれを許さず、但馬国衙内の宿舎で年を越し、現在に至っていた。

 そして、彼らは決断した。

 写しではあるが国書を日本に渡せた。

 日本が一方的に定めたとは言え、渤海も認めた一二年に一度の来航の決まりを破ったのは渤海のほうである。

 これまでの交流に尽力してくれた相手であるだけでなく、文人として名を馳せ、その名が渤海にまで届いている嵯峨上皇の誠意も見られた。

 日本との主要な交易品である毛皮を売ることも、渤海では貴重な布地を手に入れることもできた。

 それが彼らに帰国を決断させる要素となった。

 歓待を準備していた嵯峨上皇のもとに飛び込んできたのは渤海使の突然の帰国の知らせ。

 この情報を聞いた嵯峨上皇は深く悲しみ、渤海使の別れを悲しむ詩を残した。

 ただ、悲しむ者がいる一方で喜びを爆発させる者がいた。

 緒嗣は渤海使の帰国に狂喜乱舞し、仲間を集めての祝宴を開いたほどである。もっとも、狂喜乱舞は緒嗣一人で、他の者は緒嗣につきあわされているという感覚だった。

 「大臣おとど、慢心なさいますな。」

 その中の一人の吉野が直言した。

 「何を訝しげておる。吉野の敵を黙らすことまでできたのだ。最高の喜びではないか。」

 「相手は冬嗣の子、しかも今回の件で上皇ともさらなる絆を作り上げました。このままでは済むとは思えませぬ。」

 「それを済ませるようにするのがおぬしの役目であろう。何のための蔵人頭か。」

 これまでにも吉野は不安を抱いていた。

 冬嗣の死によって時代は緒嗣のものとなったと考えた。緒嗣の元に身を寄せることにしたのも、父の従兄弟だからということに加え、時代に乗るためである。

 だが、この人にはトップたる何かが欠けているように思えて仕方なかった。ついこの間まで冬嗣という時代を操ったリーダーを敵として見ていただけに、この違いは重く感じた。

 そこで見せた渤海使帰国の狂喜乱舞ぶり。完全に浮かれまくっていて冷徹さなどかけらもない。

 そしてわかった。

 この人はそもそもトップたるに必要な資質がない。冷静さもなければ冷徹さもない。文章を書く能力とか古典を読む能力なら有るのだろうが、人を操り、国を指揮する能力がない。感情を隠さず表に出し、頑固で、現実を見渡すこともせず、自分の思いを口にするだけ。

 吉野は自分の選択が誤りではないかと考えた。だが、それでも吉野は緒嗣の元を離れなかった。

 緒嗣は年齢から言っていつ死んでもおかしくなく、そうなったら派閥のトップになるのは自分のはず。そして、朝廷内最大勢力の派閥のボスとなれば天下をこの手に掴める。

 自分のついていった人間を見限ったら、派閥の人脈を失うだけでなく、その人脈の全てを敵に回す。

 派閥を離脱することのメリットとデメリットを考えれば吉野のこの判断は理論上間違いではない。

 だが、それが吉野の人生を狂わせることなる。


 閏三月九日、空席となっていた大学頭に藤原良房が任命された。淳和天皇の強い推薦があったからである。

 淳和天皇は空席となった大学頭の後任を探したとき、皇太子に相談するという名目で春宮亮である藤原三成にも相談を持ちかけている。自身の後継者を育て上げている三成であれば、教育に関する相談に最適と考えてのことである。

 このとき三成は即座に良房の名を挙げた。三成も教育のスペシャリストとして良房の教育理念に強く賛同させられるところがあった。

 ただし、いくら良房の教育理念が共感を得るものであろうとも、現代の感覚で行くと、義務教育もまともに受けず家庭教育だけで勉強を済ませた、年齢から言っても大学生としてもおかしくない若者を国立大学の総長に任命するようなものとなってしまう。

 これが原因となって学生の反発がまき起こった。

 自分たちと同じ年代、その上、大学を出たわけでもなくただ父が左大臣まで上り詰めたというだけで貴族になった者が自分たちのトップになるのである。

 ストライキやデモまで計画され、大学中が反良房一色に染まった。

 ところが、大学生たちの反発が数日で消えた。

 では、良房はどうやって反発を消したのか。

 良房は学生たちに向かって言った。

 「私を追放して新しい大学頭を迎えたところで、その者が君たちの任官を保証するわけではない。今の朝廷を見よ。緒嗣一派が宮中に巣をつくってのさばっている。その緒嗣が君たちに何かしたか? 任官をまともにさせていないではないか。」

 いくら本人がいない場だとは言え、時の右大臣を呼び捨てにして平然としている良房の態度は大学生たちを驚かせるに充分だった。

 その上で良房は言い放った。

 「緒嗣一派は除去せねばならない。そして、私は緒嗣一派を取り除いたあとを埋める人材を捜している。だから私はここにいる。私は君たちに選択肢を与える。私についてくるかどうかだ。活かすか捨てるかは好きにしろ。」

 血気盛んな若者の野心に火をつけるにはこれで充分だった。


 「大学が乗っ取られただと!」

 緒嗣は当初、良房の大学頭就任に反対していなかった。

 ただし、無関心であったのではない。

 それどころか、三成との相談結果を公表した淳和天皇に積極的な賛成をしたのが他ならぬ緒嗣であり、良房の大学頭就任については深い関心を持っていた。

 良くない意味で。

 大学頭は従五位上相当の官職。従五位下である良房にとっては格上の処遇となるが、従五位下の者が大学頭に就任すること自体は珍しくない。そのため、大学頭の候補者に良房が挙げられたことに関し、良房の位が低すぎるといった不満や反発は出ていない。

 ただし、異例の若さであることは間違いなく、大学を出てないのに大学頭になるというのは、先例の無いことだった。

 その先例のない異例なことを緒嗣が推したのは、緒嗣が確信を抱いていたからである。絶対に失敗に終わるという確信を。

 このときの良房は大学頭たるに最も相応しくない存在だった。血筋のおかげで大学を出ることなく貴族となり蔵人となっているという、大学生の憎しみと恨みを買うこと間違いない境遇に加え、大学出身者の多い緒嗣らの派閥の敵として認識されている。

 大学頭になれば大学生の反発を招き、大学運営に失敗すること間違いなく、うまくすれば良房を若くして失脚させることができる。

 そう考えたのに、結果は逆だった。

 大学が丸ごと良房の派閥となってしまったのだ。

 「良房が手足を見つけたということです。」

 吉野は冷静に言った。

 「大学が手足だと! あやつは大学の敵ぞ。」

 「今の本朝は大学を出た者を任官なさらず腐らせてしまっているのです。大学で学んでもその後で待っていなければならない貴族への道のりが閉ざされ不遇にあえぐ若者が都には満ちています。その怒りを良房は利用したのです。」

 「閉ざされているわけなかろう。宮中にあって大学を出ていないのは長良と良房ぐらいなものではないか。」

 「いまの貴族が大学出であるかどうかではないのです。大学を出た者、そしてこれから大学を出る者に貴族への道を用意すると良房めは宣言したのです。」

 「良房にそんな権限などあるものか。それに、権限があったところで空席など無いではないか。」

 「空席は作ると言っているのです。良房は我々を除外すると言っているのです!」

 「除外?」

 「良房は我々を除外して空席を作り、その空席に大学を出た者を就けるつもりなのです。」

 「何を馬鹿なことを。そんなことできるわけないだろう。まあ、大学頭に良房を就けたのは失敗だったということだが、どうせすぐにボロを出すに決まっておる。そのときは吉野の言葉も杞憂に過ぎぬということになろう。」

 吉野の言葉を緒嗣は空論と笑い飛ばした。

 「(なぜわからぬのです。奴は冬嗣めの血を受け継いでいるのだと……)」

 吉野は心でつぶやいただけで黙り込んだ。


 良房が大学生たちの心を掴んでいることを知らしめる出来事が起きたのは五月二三日のこと。

 都を襲った朝からの豪雨が堤防決壊という事態を招き、被害は京都市中の西側、右京一帯に広がった。この時代、右京は庶民の住む地域となっていた。

 この水害のニュースを耳にした良房は、ただちに自らが陣頭指揮する大学生の集団を率先して救助と援助にあたった。国の支援よりも早く良房は藤原の私財を費やして物品を整え、潔姫も炊き出しに参加させて、被災者を収容する一画を右京に瞬く間に作り上げてしまった。

 国の支援が来たのはその後。水はすでに引き、被災者はすでに藤原の施設に収容され、潔姫や大学生たちから手渡された食料を受け取っていた。

 被災者一人一人に声を掛けて回る良房に、被災者たちから感謝の声が挙がった。

 「本当にありがとうございます。何とお礼を申し上げればよいかわかりません。」

 しかし、良房はこう応えた。

 「我々には礼を言われる資格がありません。この水害で命を落とした方、家を失った方、仕事を失った方、こうした方が一人でも現れてしまったことが悔しくて仕方ないのです。我々はもっと助けられたはずだと、いや、そもそも、朝廷が普段から防災につとめていればこの水害を起こさずに済んだのではないかと。皆様から税を受け取りながら命まで奪ってしまったことは、何とお詫びの言葉をかければよいのかわかりません。」

 そして、被災者の見ている前で頭を下げた。

 この良房の、国政批判も含んだ謙虚な態度は人々の人気を集めるに充分だった。この間までは渤海使を招こうかと名乗り出た無謀な若者、先日までは何やら企んでいる大学頭というのが良房の評判であったが、このときから一変する。

 雨が降りしきる最中に救助にあたったのは良房率いる大学生たちであり、国が来たのは雨が止んだ後。自ら米を炊いて握り飯を作り被災者に手渡していたのも潔姫であって、国が救援物資を渡したのはその後。

 それは、国よりも頼りになる若者という良房の評判をつくることとなった。

 そして、思い出した。

 良房の父冬嗣は悪評が立っていたし、その時代は飢饉のせいで生活が苦しかったが、少なくとも施はあったことを。

 それにひきかえ、国の中枢にいてふんぞり返っている緒嗣は何もしていないこと。


 このとき、兄の長良は何をしていたのか。

 長良は弟を裏から協力していた。

 大学生を率いて被災現場に向かったのは良房だが、その物資を整えたのは長良である。

 そして、良房のスタンドプレーに対する批判が多い宮中にあって、命がけで救助に当たった大学生たちを援護する主張を繰り返したのも長良である。

 弟は兄の決して表に出ない尽力に感謝していた。

 このときの良房の行動は、悪く言えばスタンドプレーである。被災者の救援よりも名前を売ることを目的とした行動であったとしか言いようがない。

 大学生たちも、本心から被災者を救うことより、ここで功なり名なりを挙げることを目的として救援に駆けつけたとも言える。

 潔姫にしても、善意や慈悲から炊き出しに参加したわけではなく、夫のスタンドプレーへの協力であったろう。

 だが、スタンドプレーだろうが何だろうが、危険を省みず真っ先に動いたのは良房夫妻や大学の面々であって、国ではない。命を懸けて救出に当たった大学生たち、そして、上皇の娘という高貴な身分の女性が自ら手渡す食事、私財を投じて救援物資を用意し、一人一人に声を掛けてまわる若き貴族、これらの行動があれば一般市民から彼らへの支持の声が集まるのは当然のことであった。

 淳和天皇もこのときの大学生の活躍を無視することはできず、六月一五日、淳和天皇自らが拝謁して大学生たちに褒賞を与えることとなった。

 何らかの褒賞があるだろうと思っていた大学生たちも、この想像以上の褒賞には驚きを隠せなかった。

 天皇陛下自らが彼らを宮中に招き、一人一人に褒賞を手渡すのである。これほどの褒賞を得ることができるのは貴族の中でもかなり上位の身分になった者、少なくとも参議以上でないと考えられない。そうした栄誉を受けることとなったことに、ある者は驚喜し、ある者は感激から涙をこぼした。

 ところが、良房自身は何の栄誉も得ていない。

 「このたびの水害で動いたのも大学生たちの自発的な意志によるものであり、ただ大学頭にあるというだけの者が褒賞を受けるなど畏れ多いことにございます。褒賞をいただけるのであれば、それは命がけで救援にあたった大学生たち、そして、このたびの水害で被災した方々にお与えくださいますよう、謹んで申し上げます。」

 これで心うたれない大学生がいるだろうか。

 自分たちの先陣を切って被災地に向かい、財産持ち出しで救援に当たったのが良房である。それなのに、自分はいいから大学生たちに褒賞をと願う良房は、経験も年齢も重ねた高齢者ではない、自分たちと大して年齢のかわらぬ若者だった。

 大学生たちは良房を自分たち世代のリーダーであると認識することとなった。


 七月二九日、淳和天皇は布告を出す。

 止むことのない群発地震、京都を襲った水害、さらに越後国(現在の新潟県)からは飢饉の知らせが届いたことで、現在の日本は暗愚な天皇のために天罰が起こり続けている状況なのだと自ら宣告した。

 淳和天皇は真面目が過ぎ、謙遜と自己卑下の度合いが激しかったのではないかと思う。

 真面目で遊び心が無く、嵯峨上皇にとっての詩歌のように、自らの趣味を満喫できる楽しみを見いだすことなく、朝から晩まで、いや、夜になっても真面目に天皇としての職務を遂行している。史料には狩りや釣りをしたという記録が残っているが、これも楽しみとしてではなく天皇としての職務の一貫として行なったものであろう。

 ところが、真面目に天皇としての責務を遂行していることと淳和天皇の思い描くような結果とが繋がってくれなかった。天災や飢饉といった情報は淳和天皇を苦しめる情報となり、その原因は自分にあると思いこんだ、いや、そうであろうと考え続けたのである。

 状況改善のために淳和天皇は仁政を考え、それは囚人へのチャンスの付与という形で現れた。監獄に収容されている囚人に弁明と再審理の機会を与えるとした。恩赦ではなく裁判のやり直しである。これによってどれだけの囚人が塀の外に出られたのかはわからない。

 また、市中に放置されている死体の埋葬と、六一歳以上の高齢者への役務免除を命じた。

 前者の命令については想像がつく。京都に流れ込んできた失業者がホームレスとなり、そのまま餓死し、死体が京都市内に放置されていたという記録があるが、どうやらこれは当時としては通常の光景ではなかったかと推測される。ただし、正しいこととは考えられていなかった。考えられていなかったが遺体を埋葬することを率先して行なう者がいなかった。

 しかし、後者については少し考えなければならない。

 言葉通りに考えれば義務として課されている労働を高齢者に限り免除するということ。

 しかし、もうちょっと穿った考えも必要かもしれない。

 高齢者は一般庶民にのみ存在するのではない。高齢者は宮中にも存在し、要職を独占している。失敗するとか権力争いで負けるとかがあれば職を解任されるが、奈良の反乱を最後にそうした場面は起こっていない。

 となると、本人が辞めると申し出るか、本人が死ぬまで、職は空かないこととなる。

 大学を出た者の貴族になる道が閉ざされたと先に記したが、高齢者が退かずにいるため職に空きが無いというのがこのときの状態だった。

 そこで定年制を貴族に適用しようとしたのが今回の目的だった。大臣であろうと関係なく、年齢を迎えたら退かせて空席を用意し、大学を出た者が貴族になれる道を復活させる。そうしなければ国政の人材供給は安定しないと考えてのことである。


 緒嗣にも淳和天皇の言わんとするところはわかった。

 わかったが、同意できることではなかった。

 緒嗣はこのとき五四歳。定年まではまだ六年あるが、六年もある、ではなく、六年しかない、という考えだった。

 それは自身の後継者不在という問題にも突き当たっていた。従兄弟の子である吉野が派閥の後継者といえば後継者となるが、吉野は自分の子ではない。冬嗣が長良と良房の兄弟を用意したような後継者デビューは果たせずにいた。

 確かに長男の家緒が従五位下となって貴族の一員に列せられていたが、世間はどうしても長良や良房と比べてしまう。

 渤海使の対応や水害救助で脚光を浴びたのと比べ、家緒はいかにも凡庸で目立つところが無く、長良や冬嗣に向けられていた批判、すなわち、大学を出ることなく親の七光りでの貴族入りという内容がそのまま該当する人物だった。史料には文武両道に優れた人物であったと記されているが、死後の思い出として記された記録であり、生前の家緒に対しての評判はこれといったものがない。

 これではとてもではないがあと六年で後継者を用意できないと考えても無理はない。

 そこで、緒嗣は定年制の導入に反対した。

 八月一一日、現在の天災の連続は、淳和天皇のせいではなく、淳和天皇を取り巻く無能な貴族のせいだとした。

 緒嗣は無能な貴族というのが誰のことかなど一言も言っていない。しかし、当時の人はすぐに想像がついた。

 長良と良房の二人、特に良房である。

 「よほど悔しいのだろうな。」

 良房は緒嗣の声明を鼻で笑った。

 「だがな、良房、緒嗣の言いたいところも理解できなくはないぞ。我々は右大臣の障壁となっているのだ。」

 「天災が無能な貴族のせいだとするなら、その無能な貴族を罷免すればよいのだろう。だったら、右大臣を罷免すればいい話じゃないか。あの無能がのさばっているおかげでうちの大学生たちが任官できんのだ。」

 「こらこら。」


 国の教育機関である大学だけがこの時代の教育機関であったわけではないが、実際問題、大学に通うことなく役人になれるのはごく一部の上流階級の子弟に限られていた。

 しかし、読み書き能力に対する需要は高まっていた。厳密に言えば、読み書きができるようになって官吏となり、貧しい庶民の暮らしから脱したいという需要が高まっていた。

 そして、水害のときに見せた大学生の活躍が、大学に対する認知度を高め、大学に入る制限が撤廃されたこともあって入学希望者が殺到した。

 良房はこれに頭を痛めた。

 理屈でいけば希望者全員を入学させるべきところである。だが、建物も足らなければ教師も足りず、それだけの人数を相手にする教育など無理な話であるし、だいいち、希望者の最終目的である卒業後の任官も保証できない。

 現在大学生である者については緒嗣一派の排除による空席づくりで任官させるスペースができるが、これからの希望者となるとそうはいかない。

 勧学院に希望者の一部を収容し、国家ではなく藤原家の私的な使用人として希望者を採用することも考えたが、それでも焼け石に水。

 それに、国民における貴族や官吏の割合は一定の数値で保っておかないと国家が破綻する。平等な機会で中身を入れ替え続けることが重要なのであって、誰もが貴族、誰もが官吏、誰もが平等とやると、その集団は絶対に自滅することは共産主義という歴史が証明している。

 これは困ったことになったと感じた。

 なぜなら、大学の入学資格を開放することと自分が大学頭になることは、緒嗣一派の打倒という一点では繋がるが、大学の運営ということでは真逆になるからである。

 入学資格の開放は大学での多い緒嗣一派へのダメージになると同時に大学の質の低下をもたらす。一方、自分が大学頭になった以上大学の質の維持と向上に勤めなければならないが、そのためには入学を難しくして大学生の取捨選択を行なわなければならない。

 しかし、入学を難しくするということは大学に入る前にある程度の教育を受けていなければならないということ。持って生まれた才能だけで太刀打ちできるような内容ではなく、入学するための受験テクニックを身につける教育を受けた者だけが大学に入れ、官吏となり、貴族となる機会を手にできる。ところが、そんなことができるのは教育に割けるだけの資産の余裕がある有力者の子弟に限られてしまう。結果、入学資格の開放を謳いながら、事実上の入学資格の制限、すなわち貴族や官吏の世襲、そして、貧富の差の世襲へと繋がってしまい、機会の平等が無くなってしまう。

 これでは、貧しい庶民に生まれた有能な者を掬い上げることができなくなる。


 良房が相談を持ちかけたのは、この時代最高の名僧と見られていた空海であった。

 「寺院を教育機関にせよと言うことですか。」

 「困っている者に手をさしのべるのが仏に仕える者の役目ではないですか。」

 良房のアイデアは、入学前教育を寺院に引き受けさせることであった。

 寺院では出家した者や信者向けの教育を行なっている。仏典を読む必要があるからだが、その内容は大学入学に向けての教育として申し分ないものでもあった。

 その上、教育にかかる費用は全て無料。僧侶という生産を生まない人に向けての教育なのだから、報酬を要求すること自体が許されないのは当然か。

 「利用されるのは好きではないのですが、万人に読み書きの機会を与えるというのは賛成します。わかりました。拙僧が責任をもって何とかしましょう。」

 「ありがたい。」

 空海にとってもこれはありがたい申し出であった。

 寺院で教育するということは、官吏の世界に進むのではなく仏教の世界に進む機会になるということでもある。これは仏教界の求める優秀な人材を見いだすきっかけともなることであった。

 一二月一五日、空海、綜芸種智院しゅげいしゅちいんを設置。史上初の庶民向けの教育機関であり、しかも無料。ただし、そのカリキュラムはかんり厳しく、なかなか卒業できずに多くの者が途中でドロップアウトすることとなるが、その厳しさを乗り越えて卒業するという事は大学入学に充分耐えうる能力を身につけたという事にもなり、ここに、機会の平等を保証しての万人に開かれた大学教育が実現した。


 翌天長六(八二九)年、この年は良房の元を巣立つ第一期の卒業生が登場する年でもあった。

 しかし、良房には彼ら全員に希望通りの就職先を、すなわち任官先を用意することができなかった。

 一部の者だけならば可能だった。どんな年でも一定数は死去による空席があるためそこに埋め込むように任官させばいい。

 だが、卒業生全員となるとこれは困難を極める。

 緒嗣一派を打倒するとは言ったが、いくら名が知られるようになっていようと所詮良房は末端の貴族。人事権などないし、緒嗣にとって代われるだけの権力もない。

 優秀な者から順番に任官させ、空席が埋まったらそこで打ち切りとする。これは非常に合理的だが、一つ問題がある。

 それは、卒業生の中では順位が低いが、現時点で地位を持つ者よりは能力が高いという者を排除してしまうということ。

 良房はこれに目を付け、まずは宮中の無能な者を排除することをもくろんでいたが、人事権を手にできていない上に、人事権を握る式部大輔しきぶのかみの地位を緒嗣が操っているという現実があった。

 それは皮肉にも、父冬嗣が式部大輔の効用を発揮したことで広く認知される方法となったことだった。

 そして、能力や実績ではなく、緒嗣の感情こそが人事を左右する要素である時代となっていた。

 さらに、良房の前にはもう一つの問題、大学を出たが任官できずにいる者、そして、任官したものの大学出には相応しくない地位に留まる者、こうした者への対処という問題があった。

 当の大学生たちにもこの問題は気づいていた。気づいていたが良房への不満を述べる者はいなかった。良房は自分たちを任官させようと苦慮しているが、朝廷のほうがそれに応えてくれていないと彼らは考えたのである。

 彼らにだって空席が空いていないことぐらいわかっている。そして、彼ら自身でも誰が優秀で誰が劣っているのかはわかっている。

 それが彼らに諦めの感情を生んでいた。自分たち全員ではなく優秀な者のみ任官するようなこととなっても、それを現実として受け入れるとまで申し出る者も出た。

 しかし、良房はその言葉を受け入れなかった。

 大学生たちとの約束を守るということもあるが、もっとも重要なのは、ここで妥協することが緒嗣への降伏を意味するということである。

 良房にとって、卒業生を任官させることは、教え子たちの就職活動だけではなく自身の政治生命を左右することであった。

 その結果、良房は妙案を出すに至った。

 六月二二日、各国の国司に書生を雇うよう命令が出された。

 つまり、国衙の運営に携わる若手の役人を採用せよということである。

 現在の日本は国家公務員と地方公務員とが分かれており、それぞれ別の試験を行なって採用されるが、この当時はそうではなかった。

 国司は現在の都道府県知事に相当するが、その地域の出身者ではなく、京都から派遣された貴族がその地位に就く。また、国司のサポートをするごく一部の上級役人も京都から派遣される。つまり、地方公務員の上級職という概念がなく、国家公務員の地方派遣がそれに該当した。

 しかし、国衙で働くほかの役人は郡司などの地域の有力者やその関係者であり、その地位も世襲だった。

 良房はこれに目を付けた。

 名目は班田を行なわせるために必要な事務方。

 実際は、大学を出た者の就職の場。

 そしてこれは貴族たちから反発が出なかっただけではなく、学生たちからも好評をもって迎えられた。

 まず、地方の国衙に勤める事務方は世襲であったが、少なくとも大学を出ている中央勤務の官僚と違い、まともな教育を受けずに地域の有力者の子弟だというだけでその地位についていた者が多かったこと。まともな読み書きもできないのに事務方を名乗って給与を貰う者が多く、この職務を大学出の者と取り替えることは反論が出なかった。

 また、大学生たちにとってもこれは一世一代の大チャンスであった。京都に残って任官されて宮中勤めになったとしても数多くいる官僚の一人に過ぎず、特別に目立つ要素がなければ大規模な出世は無理。だが、地方だとそもそもライバルが少ししかいない上に、その働き次第では大抜擢を受けるチャンスだってある。

 藤原吉野は駿河国司としての評判の高さから抜擢されたのだから、自分だってそのチャンスはあるのではないかという思いがあった。

 緒嗣はこのアイデアに手も足も出なかった。緒嗣にこのアイデアを拒否するだけの権力があったはずだが、完全にやられたと思ったのか、全く行動を起こさなかった。

 逆に、追いつめられたと思われていた良房が放った一発逆転のアイデアは、良房が若者のリーダーとして絶大な支持を集めるきっかけとなっただけでなく、教育のスペシャリストとして注目されるきっかけともなった。


 翌天長七(八三〇)年は悪夢のようなニュースから始まった。

 朝廷にそのニュースがもたらされたのは一月二八日になってから。

 一月三日の午前八時頃、出羽国の秋田(現在の秋田市)で大地震が発生。雷のような大きな地鳴りとともに地面が大きく揺れ、秋田城が瞬時にして倒壊。最低でも一五名が死亡、一〇〇名以上がケガを負った。ただし、地震の被害状況の把握は困難を極めているため、このとき京都に伝えられた被災者数は第一報に過ぎず、記録に残らぬ被害者はこれをはるかに超える数値であったと推測されている。

 また、至る所で地割れが発生し、地割れに飲み込まれた者も多数生じた。雄物川はこの地割れに水を吸い込まれたのか完全に干上がってしまった。一方で、雄物川の支流では川岸が崩れて川の流れをせき止めてしまい、周囲を洪水にまきこむこととなった。

 地域の者は田畑を捨てて高台へと避難したが、季節は冬。風雪が続き、被災者の中には凍死する者も出た。

 このときの地震は内陸直下型地震であり、その大きさについては諸説あるがマグニチュード七・〇から七・五、震度でいうと最大で震度六強の揺れであったと推定されている。

 出羽国司の小野宗成は、出羽在中の兵士を被災者の支援に向かわせたものの、その数はわずかに五〇〇人。しかし、これが出羽国衙のできる人的支援の限界だった。

 現在の秋田県と山形県を合わせたのが出羽国。面積は日本で二番目の大きさがある。また、本州統一を成し遂げたあとも俘囚の反乱の火種は残っている以上、五〇〇人を出動させるだけでも大きな負担となった。

 この地震に対する朝廷からの公式なアクションは四月二五日になってやっと現れる。

 異常なまでに遅いことに驚かれるかも知れないが、弘仁九(八一八)年七月に関東地方で起きた地震や、やっと沈静化してきた群発地震に対するアクションを見ても、記録に残らない散発的な支援はあるが、記録に残るような公式なアクションとなると、震災発生から数ヶ月かけるのはこの時代では普通のことであったと言うしかない。

 四月二五日のアクションは淳和天皇の公式声明発表という形をとっている。

 災害復旧担当官を任命して出羽国に派遣し、災害の状況の調査と、住まいや田畑を失った者の生活復旧の援助、被災者の税の免除、放置されたままとなっている死者の埋葬が命じられた。

 また、震災後の被災地域で疫病が流行っているため、疫病沈静化のための読経が命じられた。


 悪夢としか言いようのないニュースは四月三〇日にも届いた。

 藤原三成が四五歳の若さで亡くなったという知らせである。

 三成の突然死に淳和天皇はしばらく呆然とし、後任者を捜すのに手間取った。

 ここで三成の後を継げるような教育のスペシャリストはただ一人、良房しかいない。三成も生前、良房ならば後を任せられると言い残している。しかし、大学頭として絶大な信頼を得ていた良房を春宮亮に引き抜いた場合、良房の後を引き継いで大学頭になれるような人材が居なかった。

 この決断は結局良房自身に委ねられることとなった。春宮亮となるか、大学頭を続けるかである。位でいけばどちらも同じ五位の貴族の職務であるからどちらを選んでも官位制度上何ら問題はない。ただし、兼任はできない。

 問われて即答できずにいた良房は、どちらになるべきかを兄にも相談した。

 「で、良房はどちらを選ぶのだ?」

 長良は弟がどちらになりたいか見抜いていた。

 無論、春宮亮である。宮中における発言力や将来の出世を考えても、春宮亮は大学頭とは比べものにならない影響力がある。

 「春宮亮を選びたいと考えている。しかし、そうなると大学生たちを途中で見捨てなければならない。」

 「だろうな。だが、良房の一生は大学頭で終わっていいようなものではないだろう。」

 教育者として、教育の途中で投げ出すことの躊躇があった。しかし、良房の本音は春宮亮にあった。

 良房に大学頭辞任と春宮亮就任の話が出たときの大学生たちも、驚きはしたが冷静さも失ってはいなかった。良房は自分たちのリーダーとして頼れる人であったが、生涯を教育に捧げ、大学頭として人生を終えるような人間には見えなかった。遅かれ早かれ朝廷の中央に入り、自分たちを指揮してくれることになるだろうと確信していた。

 「兄上、決めました。」

 「そうか。」


 「すまない。」

 翌日、良房は大学生たちに頭を下げた。

 「既に感づいている者も多いと思うが、私は今月を以て大学頭を辞し、春宮亮を拝命することとした。後任の大学頭は未定だが、主上が責任をもって、君たちを指導する者を選任すると仰っておられる。」

 良房の辞任は青天の霹靂でもなく、大学生たちは自分たちを育て率いてくれた若き大学頭の転身を暖かく見送った。

 「諸君。次は宮中で会おう。」

 五月(詳細な日時は不明)、藤原良房、大学頭辞任。同時に春宮亮に遷任。のちの仁明天皇こと正良親王の教育担当係となったと同時に、正良親王の弟で、臣籍降下して「源」姓を名乗るようになったまことときわさだむひろむとおるらの教育係も兼ねることとなった。

 しばらく空席となっていた大学頭には源あきらが選ばれた。このときわずか一八歳。下手をすると大学生たちより歳下である。しかし、ここには異論が全く出なかった。前任者が偉大すぎるので誰も手を挙げなかったところで、ただ一人手を挙げたからである。

 彼もまた嵯峨天皇の息子、すなわち仁明天皇の弟であるが、他の兄弟たちと違って良房の教え子とはならなかった。一八歳にして大学のカリキュラムをとっくに完了していたからでる。現在の漫画やドラマの世界で中学生ぐらいの人間が大学を卒業しているという場面が登場し、海外では超優等生が一〇歳かそこらで大学を出るというケースがあるが、源明はそのリアルケースであった。普通の人なら読破に一生が必要とされる諸子百家の書を一八歳にして全て読破したほどの秀才であったのだが、源明は政治の世界には全く興味を見せず、学問に染まる人生を送ることを決めたていたところである。

 これを見た父が、皇族の出として政治をやる気を見せないのは許されることではないと叱責したところ、大学頭が空席になったからそれならやると手を挙げ、父も、大学頭職が良房と比較されることを恐れて誰も手を挙げないことに頭を悩ませていたこともあり、それならばやってみろと、良房の異例さをさらに上回る異例な大学頭が誕生することとなった。

 大学頭職は源明によほど合っていたのか、一七年の長期にわたって大学頭を務めることとなる。


 正良親王と良房は知らない間柄ではない。

 まず、正良親王の妻である順子は良房の妹である。

 次に、良房の妻である清姫とは、母親が違うとは言えきょうだいにあたる。ただ、正良親王と潔姫との関係が、兄と妹なのか、姉と弟なのかはわからない。二人とも弘仁元(八一〇)年生まれであることはわかっているが、どちらが先に生まれたのかがわからないのである。清姫の生年は弘仁元(八一〇)年ではなく、その一年前とする説もあるので、この説をとると二人の関係は姉と弟の関係となる。正良親王にとって、妻の兄で、かつ、姉の夫ならば身近な兄のような存在であったろう。

 次に、良房の父冬嗣は、長い間、嵯峨天皇の側近を勤めていた。その冬嗣の子である長良と良房の兄弟が宮中に足を運ぶようになったことは、正良親王にとってその他大勢の一人と見なす相手ではなかったであろう。

 そして、それまで自分の師であった三成が、この者ならば後を任せられると言い切った教育のスペシャリストという評判がある。宮中での評判は高くなくても、師から聞く評判は高かった。

 良房が春宮亮になったことを聞いた都の者の間では、近い将来、良房が天下を掴むと考えた者が多かった。

 より正確に言えば、それを望む者がたくさん出たというところか。

 右大臣の緒嗣はどうにも頼りにならないという評判で、支持率も低かった。そのせいもあって緒嗣は右大臣のままに留まり、その一つ上、左大臣にはなれずにいた。

 それに引き替え、良房の人気は日に日に上昇していた。これには良房の若さも役に立った。

 人間は高貴な生まれの者に弱い。生まれは自分で操ることができないこともあって、どうあがいても手の届かない高い身分に生まれた者への嫉妬と憧れがある。

 これは通常、嫉妬のほうが強い。それは、生まれだけなら自分の負けだが、人としての能力ならば自分が勝っていると考えるからである。自分より劣った者がその血筋だけで自分の上に立つと考えるのは愉快なことではない。

 しかし、時にその嫉妬が消えることがある。その高貴な生まれの者が全力で自分のために力を尽くしたときである。

 良房は完璧だった。水害対策は決して軽い出費ではなかったし危険でもあったが、庶民の支持という簡単には手に入らないものを手に入れることに成功した。

 さらに、良房にはもう一つ、二五歳という若さがあった。水害にあっても何もしなかった五五歳の右大臣に対抗する、庶民を助けた二五歳の若き貴族、それも左大臣までなった人が父、皇太子妃が妹、そして、上皇の娘が妻という高貴な若者というイメージは良房に有利に働いた。

 その良房が春宮亮になったということは、正良親王が天皇になったとき右腕として活躍することを意味した。いや、そうであってほしいと願う者が多かった。

 人は常に変化を求める。本来求めているのは自分の暮らしが良くなることであって変わることそのものではないが、自分の暮らしが良くないと考えるとき、変わることで自分の暮らしが良くなるのではという希望を持っている。

 良房はその希望を一身に受けることとなった。変わることそのものではなく、生活が良くなることを。

 ところが良房本人は冷めていた。


 正良親王の口からは庶民が抱いているという期待という形で、自分自身の期待を伝えられた。

 しかし、良房は開口一番こう言った。

 「私は期待に応えられません。」

 これには正良親王も驚いた。

 義理の兄としての良房は普通の人間だが、政治家としての良房は超人か何か特別な存在で、良房ならば期待に応えられると思っていたのだから。

 「庶民全員を豪邸に住む長者にすることはできません。問題は自分の暮らしが良くないことではなく、他の人と比べて暮らしが良くないことです。」

 「では、誰もが同じ暮らしをすればどうか? そうすれば羨むことはないぞ。」

 「懸命に働いても適当に働いても同じ暮らしとなってしまったら、誰が懸命に働きましょう。朝廷が保証するべきは、懸命に働いた者の努力に見合った結果を用意することです。」

 「例えば何かあるか?」

 「まずは班田を廃止します。」

 「!」

 これには正良親王も、話を聞いていた源常も驚きを隠せなかった。

 班田は律令制の基礎であり、この二〇〇年もの間、誰もがそれこそ正しい形と信じて疑っていなかったことである。

 それを良房はあっさりと否定した。

 「誰もが同じ広さの田畑で同じ耕作というのは理屈でしか成り立ちません。よりたくさんの田畑を耕した者がより多くの収穫を得るべきです。田畑を持つ意欲がありながら田畑を持たぬ者に田畑を与えることは欠かしてはなりませんが、田畑を持つ持たないに関わらず今ある田畑を均等に分ける班田という制度そのものは墨守すべきほどのことでもありません。」

 「では、田畑を持つ意欲のない者はどうするというのだ。」

 「働く意欲のない者は見捨てます。」

 「見捨てるだと!」

 「見捨てます。五体満足でありながら働く意欲を見せぬ者を養う必要はありません。病やケガで働くことのできぬ者ならば救いの手をさしのべなければなりませんが、働けるのにその意欲もなく、無駄に日々を過ごし、税も払わず施を受けることしか考えぬ者を救う義理はありません。努力した者には努力に見合った結果を、怠惰に過ごす者は怠惰に見合った結果を。」

 今まで、どんな政治家であろうと律令を守るにはどうすれば良いかを考えていたと言ってもよい。それは冬嗣とて例外ではなく、律令には存在しない出挙制度を問題と見て、律令の精神に則るように出挙の最高利率を改めている。

 律令には平等の精神があった。

 誰もが同じ大きさの土地を耕し、誰もが同じ負担をし、誰もが同じ利益を得る。ゆえに、生活も平等になるはず。確かに特権階級対してはより多くの耕作地が与えられるなどの例外もあったが、そこにある理念は平等の一言に尽きる。どんなに貧しい者でも見捨てられることなく国によって生活が保障される。

 出挙にしてもその理念は平等な暮らしの具現化であって、金儲けの手段ではない。

 そもそも、律令は少ない負担で大きな福祉を謳っている。ただし、収入に比べて支出が多すぎる結果を呼び、出挙や臨時税といった律令にはない負担が増す原因ともなっている。

 律令発布からこの時代まで、律令には存在しない役職が数多く現れた。そのため、この時代の制度は律令で定めた制度と異なる。しかし、そのどれもが律令の精神を具現化するための役職であり、律令の精神を否定するものではなかった。

 それもこれも福祉を厚くすることに心血を注いでいるからであった。そして、それは当然のことというのが一般常識であった。

 それを良房は否定した。 

 こんな考えの持ち主など良房以外にはいなかった。良房は単に班田を否定したのではない。平等を推し進めた律令制の二〇〇年間の歴史を否定したのだ。


 良房が律令制を否定したことを聞いて驚いたのは正良親王だけではなかった。

 兄の長良ですら驚いた。

 「大それた事を口にしたな、良房。」

 「律令など人の定めた決まり。神の定めたものではなければ、破ったところで天罰が下るものでもないです。律令を守ろうとして社会がおかしくなったのだから、変えるべきは社会でなく律令でしょう。」

 兄は弟の思考を操ろうなど考えなかった。

 律令制の否定は、問題発言ではあっても失言ではなく、良房の本心の現れ。問題発言であることを追求しようとしても良房は何ら悪びれることなく自説を展開するに違いない。

 長良ですら良房の発言に驚いたのだから、律令制否定という考えは藤原家の教育によるものではなく、良房個人の思考で生まれたものだろう。

 長良は、良房の思考に同意はしなかったが、良房の思考を理解し、何も言わなかった。

 一方、良房の発言を聞いた者の中には、そのあまりにも危険な内容から良房を非難し、良房を国家反逆罪で捉えるべしと主張する者まで現れた。

 しかし、良房の考えに同意した人たちがいる。

 大学生たちと、正良親王。彼らの共通点は一〇代から二〇代の若者であること。

 何があろうと律令の精神は守らなければならないとする考えが常識であった中で、律令の精神は守らなくてもいいとする良房の考えは新鮮だった。貧困や失業といった今の社会が抱える問題の全てが律令を否定することで解決するとまで思いこんだのだ。

 また、年功序列が幅を利かせる律令制のもとでは、自分たちが力を手にするのも時間がかかってしまう。しかし、律令を否定すれば律令制の元で力を手にした者を排除でき、今すぐに自分たちの元に力を呼び寄せることもできるのだ。

 この思考は若者たちに感染し、律令を否定することが最新の考えで、それに乗らない者は時代遅れと見なされた。

 また同時に、それとは逆に、律令は何があろうと守るべきであり、律令を否定するのは断じて許されない危険思想だと考える者も現れた。

 この見分けは簡単で、前者は若く、後者は老いている。前者を良房派、後者を緒嗣派と言い換えても良い。

 長良の場合、その中間にいるために理解はするが同意しないという立場に留まったのだろう。


 良房の律令否定の考えに対し、緒嗣派は良房の父冬嗣の政策を利用した。

 一〇月七日、藤原三守らが「弘仁格式」を改めて奏進した。これは冬嗣のやり残した事業のうち、意図的に放置されていたものだった。

 律令の補完をする格式を改めて展開することは、律令を否定する良房の考えは国の政策としてあり得ないと宣言することでもあった。それも、自分の父が残した政策であり、良房には批判できないことだと考えられた。

 ところが良房は違った。

 「亡き左大臣の意志を果たすことは構わないが、このたびの格式で庶民の暮らしが良くなるのかははなはだ疑問がある。なすべきは、真面目に働いている者の負担を減らし、暮らしを向上させることだ。」

 自分の父を亡くなった高級官僚の一人としか捉えず、改めて律令制を否定する良房の言葉に、緒嗣派は言葉を詰まらせた。この若者には家族の情も通用しないのかと。

 その一方で、良房は私財を使って大規模な開墾をはじめ、田畑を失った者の中から耕作者を募った。それはまるで、律令にこだわって議論を繰り返しているのを軽蔑するかのような行動だった。田堵たとの出現が問題となってきていたのに、良房自ら圧倒的存在感を持つ田堵になったようなものである。

 自然環境の変動が原因で収穫が減り、田畑を維持できなくなったのが冬嗣の時代。しかし、その変動も収束を迎え気候が安定してきていた。ただ、いくら安定しようと放置されたままの田畑では何も生まない。かと言って、無料で田畑を復旧できるわけはない。先行投資の費用が必要であるし、復旧させたあとの維持管理費用もバカにならない。

 田堵は他者の税を負担する代わりに小作料をとっていたが、良房も同じことをした。ただ、田堵が守ったのはすでに存在する土地であるのに対し、良房が守ったのは存在しなくなった土地である。

 田畑を復旧させる費用、そして、維持管理の費用に良房の私財を投じたのである。ただし、開墾した土地の所有者は良房とするようにした上で。

 これは弘仁格式が有効となったためにできたことであった。

 墾田永年私財法こんでんえいねんしざいのほうに基づけば、開墾した土地は自分のものとなる。この法により、このときに開墾した土地は良房の土地となった。もっとも、良房自らが田畑を耕すのではなく、藤原家で雇った使用人に耕させるのであるが。

 墾田永年私財法に基づく開墾には面積の上限があり、一般庶民であれば一〇町(この時代の田畑はタテ・横とも一〇八メートル四方の正方形を基準としており、これを一町と呼んでいた)が上限、良房のような五位の貴族の場合は一〇〇町が上限と定められており、それを超えた分は班田用に国家に没収される決まりだった。

 しかし、弘仁格式からその面積制限が漏れていた。意図的なのか失念なのかはわからない。とにかく、面積制限のない格式が施行されたため、律令の面積制限規定が自動的に無効になり、開墾すればするだけ自分の土地が増えることとなった。

 そして、良房が真っ先にそれに気づいた。

 それが明らかとなったときには後の祭り。気づいたときには良房が他の追随を許さない、田堵という一言では済まない大農園の所有者となっていたのである。

 それまでにも有力者や大寺院が広大な土地を持つことがあった。実際、畿内に大農園を展開する貴族や寺院は珍しくなかったほどであるが、それでも法の目をくぐったり、便宜上の持ち主を置いたりして法を守っていたし、法の制限を越える分は国家に渡してもいた。

 しかし、今回の開墾は名実とも良房個人の所領となる。そして、そこで働く農民も良房個人の農園に勤める農民となる。

 その上で良房は彼らの生活を保証した。

 これは画期的だった。

 それまでの大農園は貴族や寺院が絶対的な権限を持ち、そこで耕す者の多くは奴隷であって農民ではなかった。奴隷には生活の保証もなく、酷使されるだけの日々が待っていた。また、奴隷ではない農民も耕作者として存在していたが、出挙という名目で高率の種籾を強制的に貸し付けられ、秋には借りた倍のコメを返さなければならなかった。

 年貢として寺院や貴族に納めさせるコメも莫大で、手元に残っただけでは生きていけるかどうかギリギリだったが、かと言って、不満を口にしたら土地は取り上げられ、新しい農民や他の奴隷に耕作権を移されてしまい、自身は都に流れ着くホームレスとなってしまう。

 だが、良房は違った。

 まず、耕作者が奴隷ではない。初期投資費用は出すし、自分の田畑で何を栽培しようとそれは自由。年貢として納めてもらう額も他とは比べものにならない低額。

 これは、良房のビジネスの冴えによるものだろう。

 この時代はまだ荘園が成立しておらず、自分で切り開いた田畑であろうと国への納税は義務として課される。しかし、その額は大した額ではない。農民が苦しんだのは出挙の高い返済医務であって税ではなかった。そして、良房は農民に種籾の貸し出しをしたが、それは出挙のような高率なものではなく、農民の負担となる利率ではなかった。特に生活の厳しい者には無利子・無返還義務での貸し出しまでしている。

 無論、年貢という形で良房に米を納めてもらうこととなるが、それと国への税を足してもそれまでの出挙の返済とは比べものにならない安さであり、年貢と税を引いた余りがあれば充分生活できる余裕ができた。

 その結果何が生じたか。

 生活にゆとりが生じたことで自分の生活の余りと他者の余りとの交換が成立した。その取引は集落を超え、近隣やかなり遠くの集落との取引が成立するようになった。

 地方の経済の活発化である。

 経済が活発化したことで生活が目に見えて良くなり、これまでその日の暮らしに窮していた人が、より上のレベルの生活をするようになった。

 生活が良くなることが実感できれば景気は良くなる。

 良房の庇護のもとという限定はあるが、好景気が到来した。

 これは失業を劇的に減らし、かつ、国内の食料の絶対数を増やす効果も生んだ。

 しかも、良房は律令を否定すると宣言しながら、律令に反することは何一つしていない。開墾や復旧は律令に定められたとおりに行なわれ、律令に定められた税も納める。

 こうした一つ一つの事柄は律令に基づいた行動でありながら、できあがった結果は、荘園性のスタートとも言うべき農園の誕生、すなわち、律令の絶対的な基礎である班田を脅かす新たな農政の誕生であった。


 これを愉快に感じるわけがなかった。

 自分たちを尻目に大した地位もない若造が権力と財力を手にしたのである。

 しかし、良房は何一つ違法な行為をしたわけではない。口では律令の否定を叫びながらも、その行動は律儀なまでに法を守っている。ゆえに、法令違反を名目とした追放はできなかった。

 そこで、合法的に良房を宮中から追放する手段を模索した。

 その結果、一一月に良房が越中(現在の富山県)国の国司に就任することとなった。時期も異例なら、五位の者が就任するのも異例。しかも春宮亮と兼任という異例づくしの国司就任となった。

 これでは体のよい追放である。

 ところが良房のほうが一枚上手だった。

 まず、春宮亮と兼任ということを最大限に生かし、京都を離れるわけにはいかないという理由で代理の者を越中に派遣した。誰が代理なのかは記録に残っていないが、おそらく、良房の教え子の一人だろう。

 その上、代理に送った者の善政が越中で評判となり、それが京都に届いたことで、良房追放を意図していたはずの人事が、良房の人材抜擢能力の高さと評価される材料となった。

 そこで、閏一二月二日には加賀国(現在の石川県)の国司の兼任も命じられた。

 加賀国が選ばれた理由は二つ。

 一つは、加賀国に渤海国との交渉窓口が存在すること。外交の失敗は政治家として命取りとなると考えてのことである。

 二番目はその加賀国の基盤の薄さ。加賀国は弘仁一四(八二三)年二月に越前国より分割された、出来て間もない国である。天長二(八二五)年一月一〇日にその人口と収穫の多さ、そして、渤海国との通商窓口としての重責を担っていることから越中国と同格の国とされたが、統治の基盤はまだ整備されておらず、道路や橋といった生活インフラの整備が遅れていた。他の国なら一日か二日歩けば国衙に着く距離を、加賀国では三日から四日掛かると言われていたほどである。

 しかし、京都からの予算は特別扱いされていたわけでもなかった。その結果、インフラ整備が進まなかった。

 つまり、開発する必要はどの国よりもあったのに、開発が行き届かずにいたのがこの時点での加賀国である。

 この加賀国の新しい国司として近頃評判になっている良房が任命されたことは、新しい国司が来るという期待ではなく、自分たちの生活の向上させてくれる国司がやって来るという評判になった。

 しかし、その期待に応えるとなると私財持ち出しがかなりの額となり、良房の経済力に打撃を与えることとなる。いくら国内屈指の金持ちとは言えたやすい額ではない。かといって、私財を費やさずに開発をしなかったら、ここまで築き上げた期待が無に帰してしまう。

 これは追放だけでは済まない罠であった。

 ところが、良房はこの罠にも対処した。

 まず、越中国司を辞任し、越中国に派遣していた代理の者を加賀国に移した上で、外交のスペシャリストと良房が見込んだ別の者を渤海国との交渉専門役として加賀国へ派遣した。前者が、良房が見いだした地方統治のスペシャリストなら、後者は、良房が見いだした外交交渉のスペシャリストである。そして、前者はその善政ときめ細かな統治で良房の期待に応え、後者は渤海との非公式な折衝に力を発揮したこと。これに加え、良房の代理を失ったあとの越中国の混乱があって良房の評価はさらに上がることとなった。

 その上で、京都市中の失業者を加賀国へ移住させ、私財を投じて加賀国の道路建設や荒れ地の開墾を進めた。これによりインフラ整備に加えて失業の削減と自身の所領の増加を呼びよせた。確かに良房個人の経済的な打撃はあったが、資産はかえって増えたのである。しかも、庶民の絶賛をともにして。


 もはや何をしても良房のポイントになってしまうことに嫌悪感を抱いたのか、良房への対応が強硬なものではなくなった。

 これに抗議するため閏一二月一三日に緒嗣が上表文を提出。良房の追放を求め、受け入れられなければ辞職するとも宣言した。

 しかし、これは緒嗣の評判を下げただけだった。

 良房が財力と権力と評判を合法的に手にしたことは、憎しみというより羨望だった。その手段があったかと気づかされたことで、私財を投入しての大農園開発に着手した者が続出した。

 結果は班田と出挙の崩壊、そして、自作農の減少である。

 普通に考えれば自作農のほうが自分の耕した成果を全て扱えるのだし、そもそも小作料がないのだから豊かなはず。しかし、自作農には責任もつきまとう。耕しても収穫が出なかったときの責任も、翌年の耕作のための種籾の手配も、全て自分でしなければならない。冬嗣の時代の不作から自力で立ち直ることのできた自作農は限られていた。

 ところが、大農園の農民になるとその責任から逃れられる。種籾はタダ同然でくれるし、不作の時の援助もある。不作のため放置された農地の復旧費用だって出してくれる。確かに年貢もあるが、それも出挙を返すのに比べればよっぽどたやすい。

 班田を守って農業に務めるより、どこかの大農園の農民となったほうがはるかに楽な暮らしが待っているのに気づくのは早かった。大貴族や大寺院に使用される農民になることは、これまでは奴隷になることを意味していたが、これからは単に自作農でなくなることを意味し、自由を失う代わりにこれまで無理して自作農であったことが馬鹿馬鹿しくなるほど恵まれた環境が待っていた。

 一方、これまで出挙の貸し出しをしてきた側にとっては大打撃だった。

 まず、農民が借りない。

 種籾は貴族や寺院が安く貸し出してくれるのだから、わざわざ高い利率の出挙など必要ない。出挙を商売としている者は出挙の利率を引き下げることで対抗しようとしたが焼け石に水。利益なしの赤字覚悟という利率を設定しても見向きされなくなった。

 おまけに、返済できずに逃亡した者が再び農民になったからと言って、不払い分を取り立てるなどできなかった。何しろ相手は大貴族や大寺院。下手に逆らったら何されるかわかったものではない。

 中には逆らった勇気ある業者もいたが、死刑とはならなかったものの、劣悪な環境の牢獄に閉じこめられる結果に終わった。

 出挙で儲けていた者は泣き寝入りするだけならまだマシで、失業に追い込まれる者が続出。そうした出挙の貸し出し側だった者に対し、都の庶民は嘲笑を浴びせた。


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