アート
「あのぉ、すみません」
か細い声が広々とした画廊に柔らかくこだまする。来客を告げる音に気づき、出入り口に向かうと、見たところ中学生くらいの青年が立っていた。
「どうかされましたか」
「突然押しかけてしまって申し訳ないのですが、ぼくの作品を見ていただけないでしょうか」
「なるほど。そういうことでしたら少しだけ時間がありますので、こちらへどうぞ」
見た目の年齢に似つかわしくない、やけに丁寧な口調に少しの気味の悪さを覚えながらも奥の部屋に案内した。
わたしは絵画のアーティストだが、世に言うアーティストとは一風変わった表現技法を得意としたアーティストだという自負があった。純粋な絵の上手さであればわたしよりも上手い人はごまんといるが、それでもわたしがアーティストとして活躍できているのは、絵そのものではなく絵を脇役にした周辺空間の表現、つまり余白のアーティストだからだ。
それでも最近は、歳を重ねたせいか自分が心から納得できるような作品が作れないでいた。
作品を愛でてくれるファンはたくさんいたし、個展を開いてもそれなりに集客ができていたが、美大で空いたポジションや絵画教室の先生など様々なお誘いを頂いていたこともあり、そろそろ現役を退いて次世代にバトンをつなぐことを頭の片隅で考えていた。
そんなときに画家になりたいという青年がわたしの画廊に突然訪れた。あまりにも奇妙なタイミングに運命を感じざるを得なかった。
ガラス製のテーブルを囲んだソファに座ると、青年は丁重に包まれた風呂敷を早速渡してきた。
「ぼくの作品、こちらなんですが少し見ていただけますでしょうか」
風呂敷を受け取って包みを開けると、白い原稿用紙に鉛筆の黒がパラパラと敷き詰められたものがあり、それは誰の目にも明らかに絵画ではなく原稿だった。最初の一、二枚ほど文字を追いかけてみたが、中身は普通の小説のようだった。
「ええと、これはどうやら絵画……ではなさそうだね」
想像していたものとあまりにも違っていたため困惑しつつも青年に尋ねるが、青年はニコニコしたまま無邪気にこっちを見ているだけだった。
「せっかく来てもらって悪いんだけども、わたしは絵画の専門だから小説家になりたいのであれば別の人にあたってもらったほうがいいですね」
そう言って再び風呂敷に包んでゆっくりと青年に返すと、青年は会釈をしながら受け取って言った。
「そうですか、残念です」
そのまま出入り口まで案内すると、青年は深々と頭を下げて言った。
「あなたならわかってくれるかと思いましたが、どうやらぼくの思い違いだったようでした。お時間割いて下さり感謝いたします。では、これにて失礼いたします」
自分の作品が評価されないことで悪態をついてくる人はたまにいたが、あの青年に関しては全くの邪心はなく本心から残念がっているように見えた。
そして青年が去り際に放った一言がずっと心に刺さっていた。
どうしてあの小説をわたしのもとに持ってきたのだろうか。かつて小説家として活動していた妻ならまだしもわたしに持ってきたのだ。妻と間違えたのか、それともわたしの専門が絵画であることを知らなかったのだろうか。
絵画なら多少なりとも評価はできるが、小説となればさすがに門外漢で、他人の作品に口出しができるほどの知識や経験も持ってない。そんなわたしにあの青年が見てほしかったのは小説そのものではない……、とすれば原稿用紙を使ったアートということなのだろうか。
そんなことを考えていると、原稿を見た時の映像がぼんやりとフラッシュバックしてきた。なんとなく俯瞰して見た時に、文字の羅列とその余白が生み出す空間が絵のように見えていたような気がした。
「あ、あれはもしかして」
あの青年の作品の真相がわかったような気がして連絡を取りたくなったが、惜しくも連絡先が分からなかった。
そして、あの青年の訪問から数日が経った。
夕食を終えて何の気なしにテレビを見ていると、メールの受信を知らせる通知が鳴った。パソコンを開いてメールボックスを確認すると、余白を使ったアーティストの大家であり、かつての師匠からのメールだった。しばらく連絡を取っていなかったため何か重要な連絡だろうと思い、急いでメールを開くとそこには衝撃的な内容があった。
「日本から面白い青年が来た。彼は小説の余白を使ったアーティストだ。本物の才能だ。ぜひ面倒を見てやってくれ」
なんと、あの青年は海を渡りフランスにいるわたしの師匠のもとまで行っていたというのだった。
最終的に連絡を取って再び会うことになり、もう一度作品を見せてもらうことになった。
「先日は大人げない対応をしてしまってすまなかったね」
「いえいえ、とんでもないです。なかなか分かってもらえない作品なので。こちらこそまた機会を頂いて嬉しいです」
相変わらず恐ろしいほどに謙虚で丁寧な姿に感銘しつつ、わたしの息子も生きていればちょうどこの青年と同じくらいの年齢だったかと思い、感傷に浸っていた。
改めて作品を見ると、一つの小説としてストーリーがきれいに完成されているだけでなく、小説の中で出てくる描写を言葉で表現すると同時に、余白を使って絵として表現するという、まさに天才のなせる業で、そのトリックに気づいたとき全身に鳥肌が立っていた。
「初めて見たときはわたしの力不足で気づけなかったが、こうして改めて見てみると芸術的で素晴らしい作品だね。ちなみにどうしてきみはこういう作品を作ろうと思ったのか聞いてみてもいいかな」
「はい。実は、あまり幼い時の詳しい記憶は覚えていないのですが、ぼくは施設の人に拾われて物心ついた時からずっとそこで生活しています。お父さんとお母さんの顔も分からないのですが、毎日夢の中にお父さんとお母さんのような人が出てきて、一緒にお出かけしたり遊んだりするのがすごく楽しくて、その大切な記憶を忘れないように文章に書いていたら偶然こういうものができたんです。それで施設の人にも見てもらったら、素敵な作品だからちゃんと価値がわかる人に見てもらった方がいいと言うので、あなたのもとにお邪魔させていただきました」
いつの間にか、今は亡き息子の影をその青年に重ねていた。
そして、わたしの後押しなど全く必要としないくらいの圧倒的な才能が、世界から注目を浴びるまで時間はかからなかった。