責任の所在
ヴィンフリーデ・ドラゴニアは魔法を使えない。それは世界が決めたシステムで、姿を現さない神気取りのせいだ。あるいは、俺が作った設定のせいだ。
壁に叩きつけられて息が詰まり、ゲホゲホとむせながらも俺はすぐさま立ち上がった。こんなことはこと修業において、日常茶飯事である。
「ちょ、ちょっと待てオリオン! 俺は魔法使えないんだって!!」
「ならば、今日がお嬢様の命日ですね」
「ふざけんな!!」
「魔力を扱えるようになるか、お嬢様がいい加減一人称を私に変えるかしなければ今日の修業は終わりません」
俺は今後一生、一人称を変えるつもりはない。
そんなことをしてしまえば、俺の中の何かが弾けて消えてしまう。男のプライドとか、積み上げてきた精神性とか、そういうものがパチンと無くなってしまう気がしている。
「こんなところを他の使用人が見たら、お前クビになるぞ!」
「大丈夫です。私は偉いので、もみ消すことなど容易い」
「ちくしょう、これだから実力主義は嫌いなんだ!!」
初めは一つだけだった風の弾丸――風弾が、五個に増え、十個に増え、今では三十六個になっている。
一つ一つは拳大の大きさだが、渦巻く風の尋常じゃない速さを見ればわかる通り、一発でももろに喰らえばもちろんただでは済まない。全身がかき回されるような不快感と三日は痛みが引かない打撲を負うことになる。
さすがに俺が幼い頃は威力を抑えていたようだが、最近、オリオンは加減というものを忘却したらしい。ボケ老人が。
左右から迫る風弾をバックステップで躱す。地面に足をつけようとした瞬間、死角外からあごに向かって高速で飛んできたそれを模擬剣で迎え撃つ。
剣が多少弾かれるが、一つは潰した――そう思った瞬間。
「グハッ……!」
背後からの衝撃。一つ、二つ、三つ。息つく間もなく襲い来る風弾をまともに喰らい、ヘッドスライディングの様相でオリオンの脇を滑り壁に激突。
この訓練場、もといコロシアムに緩衝材などあるはずもなく、否応なしに更なるダメージを負う。
オリオンのやつ……本気だ。
俺はすぐに立ち上がり、床を蹴りつけその場を離れる。遅れて十数個の風弾が、先ほどまで俺が立っていた場所に直撃し、砕けたコンクリートの砂が降る。
ブルリと、身体が震えた。
「オリオンてめえ! 殺す気か!!」
「殺す気はありませんが、死ぬ気でやってください」
そう言って彼女は、表情を動かさずに続ける。
「以前ならば、壁に叩きつけられた時点であなたは白旗を振っていた。咄嗟にその場を離れたのはいい判断でしたよ」
「それは、倒れてようが何してようがお前の気の済むまでボコボコにしてくれたおかげだ、どうもありがとう!!」
「お褒めにあずかり大変光栄でございます」
「てめえは殺す!!」
いつまでも逃げ続けても仕方がない。オリオンをぶっ倒して、どうどうと正面入り口から出て行けばいいのだ。そして部屋に戻り、毎度毎度誰が用意しているのかわからない蜂蜜漬けのクッキーをたらふく食う。
再び生み出された三十六個の風弾。すべてを目で追い続けるのは不可能だ。どうしたって死角は生まれる。
ならばと、俺は地面を這うように走り出し、襲い来る弾丸を最小の動きで躱し続ける。
最短距離でオリオンに辿り着き、脳天を叩き割ってやれば俺の勝ちだ。
「闘神剣の使い手らしい動きですね」
「俺は未だに闘神剣なんていうイかれた流派は認めてねえ!!」
「――ですが」
真正面の風弾を叩き潰し、ようやくオリオンに剣が届く位置まで――彼女は、口角を吊り上げた。
「私は天才です」
いつの間に抜いていたのか、視ることすら叶わなかった。吹き飛ばされたと気づいたときにはもう、彼女は模擬剣を鞘に戻している。俺は、空中で彼女の背中を見ていた。
「魔法も剣術も最高峰だと、何度も教えてきたはずなのですが」
ムカつくが、それはその通りなのだろう。
俺はこの城の外のことをほとんど知らない。本で読んだり、授業で聞いたりするだけだ。けれど、龍王軍の誰よりも彼女は魔法の扱いがうまく、龍王軍の誰よりも彼女の振るう剣は迅い。
彼女は……賢帝、オリオンは紛れもなく天才だ。
だから俺みたいな奴のことはわからないのだろう。
前世のとき、俺は大体のことは人並みにやって来た。ときには人並み以上に努力した。
中学時代、部活の練習に誰よりも励んだ。けれど県大会の決勝戦、ダブルスコアで大敗を喫した。ポイントガードだった俺は、相手チームのディフェンスに何もやらせてもらえなかった。
高校時代、俺は真面目に学業に取り組んだ。寝る間も惜しんで入学した大学の同級生の中に、入試中眠りこけていた奴が混じっていた。
別に、だからどうという話でもない。ただ天才はいるってだけだ。それを俺は知っている。
自分が不幸だとも思わない。前世では俺は少なくとも努力できる環境にはいた(大学生時代は怠惰だったが)のだし、今だって世界屈指の実力者の娘という地位にいる。
俺は素晴らしい環境を与えられ、そして、惨めな結果しか出せない。
昔も、今も。
落下。空中から体勢を直すこともせず、俺はただ地面に全身を打ち付けた。
勝てなくて当然。俺はまだ子供なのだから……。それでも、彼女の圧倒的な実力は俺の心を折るには十分だった。
立ち上がる気力さえなくなった俺に、風弾が襲い来る。回避行動は間に合わない。本能と反射だけで動こうとしたが、まともに喰らった俺は壁に叩きつけられた。
目の前の風景が歪む。お前には何もできないのだと、やり込められたみたいだった。
頭がボーッとする。この身体は龍人のものだから、まだ動けるはずだ。それなのに手足が動かない。半開きの瞳の向こうに、凍てつく視線をこちらに向けたオリオンが立っていた。
頭から流れ出た血液が眼球を濡らし、目の前の光景を赤くした。
氷。彼女がまとうすべてが、凍りついているみたいだ。
「立ちなさい」
「……」
「立て、ヴィンフリーデ・ドラゴニア。まだ修業は終わっていない」
オリオンのそんな声は、初めて聴いた。冷たく、低く、反抗を許さない。それはまるで父親であるアダルバートのようで……。
俺は彼女を睨みつけた。
「皆が皆、てめえみてえに何でもできるって思ってんじゃねえよ」
「私がいつ、できないことをやれと言いましたか。私はできることしかやれと言わない」
「だから!!」
叫ぶと、足元に風弾が着弾した。
「立て」
「……!」
俺は先天性の魔力障害だ。明らかに身体に不具合を抱えている。俺の身体にある大量の魔力……それは、何の効力も発さない。
溜め込まれた産業廃棄物そのものだ。
誰が悪いのかって、自分が悪いに決まっている。
けれどだからって、こんな力尽くでどうにかなる話でもない。
彼女は右腕を振り上げ、三十六の風弾を生み出した。
「最後のチャンスです、ヴィンフリーデ・ドラゴニア。これらをすべて喰らえば、いかに龍人といえどただでは済まない。二度と剣を握れないかもしれないし……よしんば復調したとしても、以降、私があなたに教えることはなにもない」
……もう、知るか。勝手にすればいい。さすがに殺されはしないだろう。
俺の父親は虐殺龍だ。自分で手を下すならまだしも、部下に自分の娘を殺されて黙っているはずもない。そんなことは、お賢いオリオン様ならわかっているはずだ。
俺はすべてを諦め目を閉じようとして――思った。
前世の掃きだめみたいな部屋からこんな世界に飛ばされてきて、俺はまだそんな甘ったれなのかと。
バスケットボールの試合で負けたのは相手が天才だったから。
あいつの頭のできが違うのは、産まれつきだ。
だから俺は、悪くない。一生懸命頑張った結果がそれなのだから、仕方がない。
俺が生きているのは父親の威厳のお陰。
俺がある程度剣を扱えるようになったのは環境のお陰。
俺が魔法を使えないのは設定のせい。
俺がこうしてボコボコにされているのは、無茶を言われたせい。
全部全部、他人のお陰。他人のせい。
俺はまだ、そうやってただ息だけ吸っているのか。
――違うだろうが。動機はどうであれ、剣を握ったのは自分の意思だ。
こんな身体なのは、自分のせいだ。
こうして地べたに這いつくばっているのは、自分が弱いからだ。
――自分の問題を、いつまで他人に押し付けている。
ここで負けを認めれば、俺は本当に終わってしまう気がした。前世の俺みたいに、ニヒリズムを気取ったクズに成り下がってしまう気がした。
オリオンはもう、それ以上何も言わずに腕を振り下ろした。同時に三十六の風弾が四方八方から俺を殺さんと迫り来る。
頭の中でパチリと電撃が走った、気がした。
「本当……心の底からムカつくぜぇ!!」
俺の問題はすべて、俺の責任だってことにすら気づけていなかった自分に!!
俺は未だ放していなかった模擬剣を地面に叩きつけ、その反動で飛び上がった。まだ動けるとはいえ、俺の身体は満身創痍だ。どうしてそんな力を出せるのか自分でもわからない。
けれどそんなことはどうでもよかった。
今はただ、あのムカつく白髪メイドを叩きのめすだけだ。
駆ける、駆ける、駆ける。
風弾は、今まで数えきれないぐらいに喰らってきた。だからわかる。あのそよ風は所詮、俺の走る速さにはついて来られない。
俺が全速力で駆けている限り、後ろから襲われることは決してない。
だから……。
ただ、前だけを見ろ!
「オリオン!!!」
俺は叫び、彼女は新たに風弾を生み出した。百を超えるその数は、俺の脳内の処理能力ではもはや正確に数えきれなかった。眼前のすべてを覆い隠すみたいに放たれる。
俺は床を踏み抜く勢いで足を止め、直角にターンする。風弾も数個までなら俺でも叩き落とせる。
「おらぁ!!」
一つ、二つ、三つ、四つ!
闘神剣に型などない。ただ目の前の敵を粉砕するだけだ。俺は力任せに剣を振り、そのまま弧を描く壁に向かって走り続ける。
「そちらに私はいませんよ」
「知ってる、よ!!」
横から飛来した風弾を避けると、着弾した爆風で身体が宙に浮く。俺は空中で体勢を立て直し、壁に着地した。
少しだけ、オリオンが目を見開いたのが見えて、してやったりと思った。
悦に浸る間もなく、爆風に押されながら俺は円弧状の壁を走る。重力を無視するみたいに、トカゲみたいに。
今だけは龍じゃなくていい、地を這うトカゲで十分だ。俺はまだ、龍人を名乗れるほど強くない。
脳内で電撃が流れ続け、全身に力がみなぎる。それがどういう理屈なのかわからない。けれど、何もかも気にしている余裕などない。
走れ、奔れ、疾走れ!!
俺を捉えきれない風弾が訓練場内を破壊し続ける――ここだ。
俺は身体の向きを変え、壁を思い切り蹴りつけた。風弾の乱打で、飛び散る木片と舞い散る粉塵にオリオンの視界が遮られる。ただでさえ体躯の小さな俺を見つけるのは困難なはずだ。
それは俺からしても同じこと……ではない。
一気に粉塵を突っ切り、オリオンの背後を取った。
「トカゲは、熱感知が得意なんだ」
およそ人の反応速度ではあり得ない神速で振り向いた彼女は目を見開き、育成ジャンキーの笑顔で柄に手をかけた。
「素晴らしい。ですが遅――」
オリオンが剣を引き抜いて俺を迎え撃つ――その瞬間。
俺の模擬剣が、オリオンの首筋に突きつけられた。
彼女は居合の姿勢のまま目を見開き、瞠目、息を吐いた。
「先ほどまでの速度は、目くらましですか。最速を隠すための」
俺はニヤリと笑って言ってやった。
「今日の修業は、終わりか?」
彼女もまた、頬を緩ませた。
「ええ……合格です」
俺はこの世界に来て、初めて何かを成し遂げたみたいな、そんな感じがした。
直後俺は、張り詰めていた気と、無理矢理動かしていた身体の反動でその場に崩れ落ちた。
しかし床に倒れ込むことはなく、フワリと柔らかい何かに包まれたまま気を失ったのだった――。
全身が痛いし、目もくらむし……つまり、最高ってやつだ。