間接と直接
「おなかすいた」
結局あれから俺の魔法が発動することはなく、時間だけが刻々と過ぎていった。とうに集中力もやる気も削がれている俺は、せめてもの逃げ道としてそう口にした。すると白髪メイドは口端をわずかに緩ませた。
「そうですね……もう、烏刻ですから」
よかった、これでようやく地獄が終わる。
「けれど大丈夫です。食事をしなくても魔法は撃てますから」
「おまえはおにだ!」
「いいえ、巫女です。それとお前ではなくオリオンです」
「うるさい! うぉーたーぼーるなんてうてなくてもいきていける! それよりさっさとめしをたべさせろ!」
「水球さえ撃てないから、ヴィンフリーデお嬢様は今お腹を空かしているのです。成功すれば肉でも魚でもご用意いたします」
「うるさいうるさいうるさいうるさい!! いいからさっさと――」
身体に精神が引っ張られていると感じながらも喚き散らすことをやめられない……その瞬間だった。
俺がヴィンフリーデ・ドラゴニアとしてこの世に産まれてから、初めての感覚。全身に走る怖気。指一本動かせなくなるような圧迫感。舌の根はすぐに渇き果て、言葉さえ発することができなかった。背筋に流れる冷や汗が、凍ってしまったみたいだ。
恐怖と諦念。その二つの感情だけが俺の全身をまさぐり、脳髄の中を侵食する。
身じろぎすら、できなかった。
「騒々しいぞ」
誰が言葉を発したのか、本能でわかった。名づけ以降、彼の声は聞いたことすらなかったというのに。
この世界の王は、話すだけで相手を震わせ、平伏させる。
息が、できない。酸素が足りずに俺の顔は赤く、恐怖のために青褪める。俺の顔色はきっと今紫紺なのだろう。
「か、ひゅっ……」
喉の奥から空気が漏れ出る。
すると数秒後、扉が閉じられる音が聞こえた。それと同時に彼の威圧は薄まり、ゼェゼェと息を吹き返す。
「……オリオン」
「はっ」
扉の向こうからの声に、白髪メイドが応える。去り際、「少し待っていてくださいね」と毛布越しに頭を撫でられたことに、不思議と安らぎを覚えた。いつもならば苛立ちすら感じるというのに。
俺の精神は間違いなく、二十一歳の男子大学生だ。いや、この世界での三年間を考えればそれ以上である。
それなのに最近の俺はどうにも精神性が退化している気がしてならない。
腹が減れば機嫌が悪くなるし、眠くなるとすぐに意識を手放してしまう。
ヴィンフリーデ・ドラゴニアとしての生き方が染みついてきているみたいだ。
「やっぱりあだるばーとはきけんだ……」
部屋の外にいるアダルバートには絶対に聞こえないようにささやく。この世界で三年間生きているとはいえ、歴史はともかく文化をすべて知っているわけではない。
俺の練り上げた設定以外の風習があってもおかしくはない。
つまり、命の値段が地球と同じとは限らないのだ。子供だろうが老人だろうが男だろうが女だろうが、簡単に首を刎ねられてもおかしくはない。
大人しくしているのが無難だろう。俺はたぶん、アダルバートの子ということで丁重に扱われている。
白髪メイドは失礼な奴だが身の回りの世話はこなしてくれるし、キッチンに食事を求めに行けば調理人の竜燐族はほいほいと甘い菓子を恵んでくれる。庭師の鬼人族も、天体を観測している精霊族も、日がな一日チャンバラごっこをしている(おそらく何かの訓練だろうが)多種多様な種族も、俺を甘やかしてくれる。
それは俺がそうさせているのではなく、俺の立場がそうさせているのだろう。
俺がこうして生きていられるのは、父であるアダルバートの権力と暴力ゆえだ。彼を怒らしてしまえば最後、俺はきっと簡単に奈落に落ちる。
アダルバートは危険で、苛烈で、唯一の防御壁だ。彼の激昂はすべてを破壊する。俺はそういう風に、アダルバート・ドラゴニアを創り上げた。
ーーそんなことをつらつらと考えていたそのとき。
一つの記憶が、蘇った。
「そういえばおれは……」
そこで俺の意識は呆気なく途切れた。
食いたいときに食い、眠りたいときに眠る。好きなときに遊べないということを抜きにすれば、俺の生活はやっぱり幼い子供のようなルーティンになっているのだった。
しばしのまどろみの後、シーツを跳ねのけると丸椅子に座った白髪メイドが風に髪を揺らされながら編み物をしていた。
間接的に俺を守っているのがアダルバートだとすれば、直接的に守ってくれているのは彼女なのだと、このとき俺ははじめて理解した。
それと同時に思う。
俺はやはり、強くなるべきだ。アダルバートのお眼鏡にかなわなければ、俺はきっと簡単に路頭に迷う。
そう決意するがしかし……。
「おれって、たぶんいっしょうまほうつかえないよなぁ……」
小声でそうこぼした俺は、編み物に集中していたオリオンにちょっかいをかけて脳天に手刀をぶち込まれた。
俺は一応お姫様だぞ、白髪クソメイドが。