白髪メイドと手汗(ウォーターボール)
科学では解明できないものを、人は神と崇めた。
直視できない現実を、人は悪魔と恐れた。
理解できないすべてを、人は魔法と定義した。
「ヴィンフリーデお嬢様。こうするんです――水球」
三歳児に与える自室にしては広すぎる部屋の中、白髪メイド――オリオンは、俺の目の前で木桶に向かってそう唱えた。すると、彼女のかざした手のひらからこぶし大の水の塊が生まれ、ポチャリと木桶に落下した。初めて見たときは原理が気になったが、彼女の説明は俺には……少なくとも三歳児の脳みそには理解できるものではなく、考えることを放棄した。
「うぉーたーぼーる」
俺が彼女の教え通り唱えると、俺の手のひらからも水の塊が……生まれなかった。
「違います違いますヴィンフリーデお嬢様。こうです、水球」
「……うぉーたーぼーる」
「違いますよ。こうやるんです、水球」
「うぉーたーぼーる!」
「違いますね」
何が違うのかをさっさと説明しろ、ぼけ。大学の教職単位をとってから出直してこい。
彼女が、「そろそろヴィンフリーデお嬢様も魔法を練習してみましょう」と俺の部屋に入って来るなり言ってから、体感ではもう三時間は経っている。
この世界は地球のように厳密に時間を確認する文化はないようで、時計もない。大雑把に、一日を四分割して蝙蝠刻、鼠刻、烏刻、蜘蛛刻と分けられているだけだ。
だから正確な経過時間など俺には知る由もないが、俺の精神がぶっ壊れていなければ、三時間以上は経っているはずだ。
「ヴィンフリーデお嬢様、よく見ていてください。水球。こうです」
俺にもっと力があれば、とっくの昔にこの白髪メイドを殺している。
こうするんです、違います、こうするんです、違います、こうするんです違いますこうするんです違いますこうするんです違います…………ノイローゼになりそうだ。
どうして俺の教育係に、こんな話の通じない人間――正確には雪巫女という種族だそうだが――をあてがってしまったのか、アダルバートに訊いてみたい。
……いや、やっぱりいい。下手にあの虐殺龍と関わると殺される未来しか見えない。
とにかく。
俺は、コツも感覚も教えてもらわないまま、朝っぱらから今まで延々と「うぉーたーぼーる」と唱え続ける苦行を強いられているのだった。誰か助けて、水なんて蛇口から出てくればそれでいいじゃないか。
そうだ。そもそも俺は、魔法にあまり興味がない。
アニメ、漫画、ゲーム、何でもいいが……そういった技術が世界観に組み込まれている作品は腐るほど見てきた。物語中の登場人物が魔法を操る姿には興奮することもあったが、俺は自分で魔法を使ってみたいなどとは一度も思わなかったのだ。
水を出したいのならば蛇口を捻ればいい、火を出したいのならばガスコンロを点火すればいい、大爆発を起こしたいのならば核兵器を持ち出せばいい。
人は理解できない現象を魔法と定義づけたが、科学技術でそれと同等のことは可能なのだ。だから、魔法に幻想は感じても憧れはしない。
それはきっと、人類の進歩が夢を破壊した結果なのだろう。
「はくはつめいど」
俺が眉をしかめながらそう呼ぶと、彼女はこちらを向いた。いつものように感情を見せない無表情で。
「ヴィンフリーデお嬢様、私の名前はオリオンです」
「はくはつめいど、おれもうまほうはいいや」
「ヴィンフリーデお嬢様、貴方様は女性なのですから、俺という一人称はやめましょう」
うるさい。所作や言動を女児に寄せたら俺は大切な何かを失う気がしているんだ。何を言われようとも変えるつもりはない。
俺は水が溢れ出しそうな木桶を見つめながら、体育座りをする。
もう飽きた……というか、三回目の詠唱から飽きている。こんなことを繰り返すぐらいなら、窓から外の景色を眺めている方がましだし、なんなら白髪メイドの編み物が完成していくのを見ていてもいい。
何でもいいから、さっさとこの苦行から解放してほしかった。
白髪メイドは、心なしかいつもより真剣なまなざしで語りかけてきた。いつもはボンヤリとした視線なのに。
「貴方様は、虐殺龍と呼ばれる、魔界の王の娘なのです。繰り返し練習していれば、きっとお父上のように立派な龍人となれるはずです。ほら、もう一回やってみましょう。ヴィンフリーデお嬢様には、並々ならぬ才覚が秘められているはずです」
「……」
そこまで言われたら仕方がない。たしかに俺は、曲がりなりにも魔王の娘だ。腕を振るえば山は割れ、息を吐けば海が干上がるような力を手に入れてもおかしくはない。
この世界で三年も過ごしていれば、日がな一日部屋の中で生活していてもわかる。
弱肉強食、弱い者から食われていく。
俺は魔王の一人娘、ヴィンフリーデ・ドラゴニアだ。少しぐらい気合いを入れてやっても、バチは当たらないだろう。
「はくはつめいど」
「オリオンです」
「みていろ」
深呼吸。つま先から頭のてっぺんまで、一本の芯を通すように集中する。身体の中の魔力――魔法を行使するためのエネルギー――は、二時間前から感じていた。その魔力を、管に通して運ぶみたいに手のひらに集中させていく。
ほんのりと暖かいような、心地いいぐらいに冷たいような、変な物質だ。
脳みそから心臓に、ベロの先から脊髄に、足の甲から神経に。
全身から、手のひらに。
部屋がビリビリと震える。周囲のぬいぐるみやらクッションやらがわずかに浮き上がる。頭の中で火花が弾けた。
俺は、ヴィンフリーデ・ドラゴニア。最強無敵の龍人だ。
「うぉーたーぼーる!」
そう叫んだ瞬間、俺の手のひらは眩いぐらいに発光した。
そして。
木桶どころかこの部屋すべてを満たすような水が――。
「……」
「……」
「……」
「……」
やっぱり生まれなかった。人生、いや、龍生は気合いと気まぐれだけでどうにかなるほど甘くはないらしい。
気まずい沈黙の中、俺は手のひらに付着した数滴の水を白髪メイドに見せた。
「ほら、できてる。これがおれのうぉーたーぼーる」
「ヴィンフリーデお嬢様、それは手汗です」
俺はこういうときだけ都合よく、三歳の女児みたいにベッドの毛布の中に飛び込んでうずくまった。
「にどとやるか!」
白髪メイドは言った。
「ええ。二度と、手汗のことを水球と呼ばないでください」
お前は悪魔か。こちとら幼女だぞ、もうちょっと優しくしろ。
ああ、目から水球が……。