冰之星霜
Side:三人称
賢帝、オリオン・モーリタニア。
天才の名を欲しいがままにし、齢九歳で魔導士としての最高位である”帝”を拝命。
彼女はいつしか、魔導を極めることに飽きてしまった。やればやるだけ世界がつまらなくなっていく。愚鈍に染まることができるのならば、彼女は進んでそうしただろう。
ヴィンフリーデ・ドラゴニアは美。
アダルバート・ドラゴニアは畏怖。
そして、オリオン・モーリタニアに与えられるは才だった。
彼女はアダルバートの畏怖を呪いだと断じたが、しかし、彼女の”それ”もまたどうしようもなく呪われている。
魔法がつまらないならば剣術を。剣術を修めたならば錬金術を。錬金術がチープであるならば占星術を――。
すべて、オリオンには簡単すぎた。脳が最適な道を探索し、身体がそれを十全に実行する。それだけのことがどうして他の者ができないのか、彼女には理解できなかった。
皮肉を言うならば。
彼女がわからないことは、ただそれだけだった。
何でもできてしまうがゆえに、彼女は一切の達成感を簒奪された。
『貴様は、大海を知らんな』
凍りついた湖畔の上、命の灯を消し去ったフェンリルの肉を口に運んでいたところ、アダルバート・ドラゴニアが従者もつけずに彼女の前に現れた。
そこに感情はなく。
ただ彼には、暴力の奔流と放射線状の畏怖が逆巻いていた。
初めて、自分と対等に話すことができる者が現れたとオリオンは確信した。
次の瞬間。
オリオンが放った数千°Cを超える灼熱の火炎魔法は、アダルバートに直撃し――彼は無傷どころか纏っている服に汚れすら許さなかった。
『虐殺龍の名は、伊達ではありませんね』
それでもオリオンは、自身が勝つことを疑わなかった。生を受けてこの方、誰も自分に敵わなかった。魔王を四柱、勇者を二人彼女は殺したことがある。目の前の龍王だって、すぐに地面に伏すに違いない。
鍛え上げられた鋼の肉体は硬く、不味そうだとだけ感じた。
『白き災害、オリオン・モーリタニア。我の下につけ、貴様はその力に反し、幼稚が過ぎる』
そんなことを言う魔族や人間には嫌というほど出会ってきた。
『以前、魔帝を名乗る者に同じことを言われた』
『ほう、それで?』
『彼は命乞いの果てに、魂ごと消失した』
言い終えると彼女は体内に秘める魔力を開放し、アダルバートを殺すためのあらゆる災厄を振りかざした。
そして。
――その日初めて、オリオン・モーリタニアは敗北を喫した。
湖畔の水は蒸発し、標高3000mの山が二つ消し飛んだ。周囲の地面にはクレーターが無数に生まれ、決戦の地であった森は文字通り灰となった。
オリオン・モーリタニアの全力は、アダルバートに悉く通じなかったのだ。消し飛ばした数だけ、オリオンに屈辱を与えた。
それと同時に、どこかホッとした自分がいることに気がついた。
『どうして、貴様は笑っている?』
全身から血を滴らせ、立っていることもままならずフラフラとしているオリオンに、アダルバートが尋ねる。
『笑っているか、私が?』
『ああ』
オリオンは自分の顔に触れ、掠れた笑い声を喉から漏らした。
『久し振りだ、こんなに嬉しいのは。そして初めてだ、こんなに清々しい気持ちなのは』
彼女は無意識に、怯えていたのだ。アダルバートにではなく……自分自身に。
誰も、自分のことをわかってくれないと思っていた。過ぎた力に、自分の生活が絞め殺される感覚。達成感も優越感も無い人生。最賢の魔導士の苦悩。
そんなことに悩む自分が嫌で。
最高峰の頭脳を持つ誇りが邪魔をして。
見ない振りをした。壺の中のヘビに蓋をするみたいに、弱い部分はすべて隠した。自分すらもわからない場所に封印したのだ。
しかし、どうだ。
虐殺龍、アダルバート・ドラゴニア。彼はオリオンにも理解が追い付かないぐらいの力を有し、それなのに達観した様子を見せない。魔界を統治し、戦線を潜り抜け、彼は魔の王となった。
自分の悩みは、なるほど、アダルバートの言う通り幼稚だったと気がついたのだ。
そして人生で初めて、他者を王と崇めることとなった。
アダルバートに仕えることになってから二百と二十年。ヴィンフリーデが産まれてから、多忙は幸せへと変わっていった。この幼子の世話係に任命してくれたアダルバートに感謝すらした。
何人たりとも、ヴィンフリーデ・ドラゴニアに手を出させないと誓った。己自身に。
無意識の苛立ちから集落を滅ぼした。空を焼き、大地を沈めた。神獣を名乗るフェンリルを氷の彫像へと変えた。アダルバートに身の程を教えられ、ヴィンフリーデの剣となり盾となることを決意した――。
そんな自分の人生が、瞼の裏に駆け巡る。夢か現か……。
ボンヤリと開いた瞳には、閃く剣戟が映った。守らなければならない対象が、自分を背に必死に戦っている姿が見えた。
少女の振るった剣は簡単に押し返され、地面に倒れ伏す。直後、神速の如き宝剣の斬撃が少女を襲い、右腕に裂傷を刻まれ転がりながら避ける。
誰が見ても、少女の敗北は決まっていた。
それでも彼女は、力の限り叫ぶ。
「ルクセリア・フォン・ティオール!! てめえは、ここで倒れてろ!!!」
腕に抱いていた彼女が、遠く昔のようだった。七歳の幼女が、賢帝と呼ばれた自分よりもはるかに強い気がした。
オリオン・モーリタニアは諦めが早い。天才たる自分ができないことはほとんどの者ができないか、世界のシステムによって不可能なのだろうと決めてしまう癖があった。
――オリオンが、笑う。自嘲的に。
「私はこんなところで、何をしているのか……」
――七歳の幼子が、血反吐を吐きながら戦っているというのに。
腕が上がらないから、地面を隆起させて肘置きとした。そして力無く開いた手のひらに、魔力を集約させる。編み出す魔法に、脳が焼き切れそうだ。
「私は賢帝……お嬢様を守る一本の杖、一振りの剣――」
ヴィンフリーデをどう殺そうかと思案していたルクセリアが目を見開き、オリオンに向いた。
立ち昇る魔力の奔流。
すべてを押し潰す圧迫。
帝の名を冠するオリオン・モーリタニアの、死をも厭わない全力。
ルクセリアはそこでようやく、この戦闘において自分が破れる可能性を視た。
「霊峰の頂に我在り。
豪雨は、突風は、雷雲は、冰となりて凍てつかん」
紡がれる言葉。流れる詠唱。
魔法とは、太古の魔導士が込めた言霊によって発動する。
それはつまり。
賢帝たる彼女が、固有の魔法を創り出すことになんら不可解は無いことを指す。
「オリオン・モーリタニア!!!」
気を取られたルクセリアが駆け出し、それをヴィンフリーデが身を挺して止める。
「てめえの相手は俺だろうが、逃げてんじゃねえよ!!」
「邪魔だ!!!」
ヴィンフリーデが笑い、ルクセリアはその身体を蹴り飛ばした。ヴィンフリーデは血を吐き、近くの大木に身体を打ち付けた。
しかし時間稼ぎは、それだけで充分だった。
「輪廻の蛇よ、眠れ。
鈎針は落とされた。
昏き鐘が鳴り響く。
我は冰なり。我は波紋なり。我は、我なり」
大地が揺れ、オリオンの身体には可視の瘴気が揺れ動く。大気がビリビリと震え、何もかもを押し流してしまう力が、そこにはあった。
周囲の地面を丸ごと陥没させながら、全力で駆けだしたルクセリア――。
「賢帝の名の下に――。
冰之星霜」
閃光が周囲を包み込み――。
――――時が、止まった。




