ルクセリア・フォン・ティオール
時は遡り、オリオンと俺が魔の森――目が痛くなるカラフルな木々と禍々しい魔物が跋扈する魔境――を高速で移動していた頃の話だ。
俺たちは二人で城を脱出した。忙しなく部下に指示を下していたアダルバートは俺とすれ違う際、「死ぬな」とだけ零した。龍王軍のメンバーたちは「お嬢様が大きくなったら酒でも飲みましょう」と笑った。使用人たちは「料理の腕をあげておきます」と意気込んだ。
俺は、生き残らねばならない。
「いいですか。これから私たちはこの森を抜け、近くの農村に向かいます。そこで最低限の物資を調達し、王都を素通りして港町ヴェーヌへ最短距離で移動。旅客船でこの大陸を脱出します」
数年前、俺はやたらと地理の勉強をさせられた。
俺たちが住んでいた城は、魔大陸と呼ばれる大陸に位置している。魔大陸には基本的に魔族か魔物しか住んでいない。時折、集落を追い出された亜人が流れ込むこともあるがそれは少数だ。わざわざ治安が悪く、いつ内戦や戦争が起こってもおかしくない魔大陸に逃げ込む道理はない。
この世界は四つの大陸で構成されている。
北に位置する我らが魔大陸。
南東に位置しており亜人の多くが生活をしている亜大陸。
西側に位置しており迷宮……いわゆるダンジョンが陸地のほとんどを占める迷宮大陸。
そして最も面積が広く、人口も多い中央大陸だ。
「我々はこれから、中央大陸を目指します」
「中央大陸?」
中央大陸は最も人口が多いが、そのほとんどが人族だ。エルフや獣人などの亜人も、一部の魔族も生活していないことはないがそれはごく少数で、逃亡中の俺たちが身を隠す場所にしては適していないと思う。
それに……。
「正体がバレたら、教国が黙っちゃいない」
神聖ガイア教国。絶対神ガイアを信仰する国ぐるみの宗教狂い共だ。
ガイアを信じよ、ガイアを崇めよ、すべてはガイアのために――。
教義に反せば市中引き回しの末に火あぶり血祭り、その死体は十七日間見せしめにされる。神に逆らえばこうなると、国民の脳みそに叩き込むのだ。
そして教義の一つに、人間は正義として生まれ、それ以外は悪として生まれた――というものがある。人間至上主義というわけだ。魔王の娘など、彼らからすれば悪者の最たる例だろう。きっと俺が何もしなくても、殺しに来るに違いない。
そんなイかれた国が中央大陸ではふんぞり返っている。ガイアという名前が、俺には少しデジャビュなのだが……そんなことよりも、実際的な問題と懸念点が中央大陸には多すぎる。
「正体がバレたら、どこの大陸でだってただじゃ済みませんよ。お嬢様は魔王の一人娘であり、私は魔族で魔術の天才です。どう足掻いたって敵にしかならない」
天才と言うときにドヤ顔をするクセを早急にやめた方がいい。
「魔大陸に隠れているというのは? 木を隠すなら森の中って、昔から言うし」
「森ごと焼き払われて終わりですよ。王国がどれだけ本気かはわかりませんが、最悪のケースを考えなければなりません。戦火が際限なく広がった場合、魔大陸中に飛び火します。そうなっては手遅れです」
たしかに、その通りだ。
アダルバート・ドラゴニアは魔王だ。しかし実は、この世界に魔王は他にもいる。アダルバートほど暴力と権力を併せ持つ者は少ないが、国の数だけ魔王がいるのだ。魔王とはただ単に、魔族国家の国王であることを指しているだけなのだから。
「しかしお嬢様の言う通り、いつまでも中央大陸で姿を隠しているわけにはいきません。いずれはバレるでしょう。だからある程度身を安ませたのち、迷宮大陸へと移動します。あそこは命知らずのバカしかいません。人間だろうと魔族だろうと歓迎も拒絶もされませんので」
木々の幹を蹴りつけ高速で駆け、片腕だけで周囲の魔物たちを爆散させ、これからの計画をスラスラと教えてくれるオリオン。ここまで考えているのは、やはり、彼女の言った通りアダルバートがこうなることを予見していたからなのだろう。
俺は足手まといにならないように、息を切らしながら必死にその背中を追う。今朝、オリオンの課題をクリアしていて本当によかった。魔力で身体を強化できなければ、七歳児の俺にはとても彼女についていけない。
「そんで、迷宮をクリアしまくって一財産も二財産も築いたあと、王国にカチコミってわけか!」
「バカですかお嬢様」
「おいメイドォ!!」
「失礼いたしました、おバカでマヌケでついでに遅いですよお嬢様」
この野郎……!
俺は口を尖らせて、文句を垂れる。ついでに全力で魔力を循環させてオリオンの隣についた。
「じゃあ、何しに迷宮大陸に行くんだよ」
「もちろん、同士を集めるためにですよ」
「同士ぃ? 王国を滅ぼすための?」
オリオンはまた右腕を振り上げ、その瞬間前方から突進してきていたイノシシ型の魔物が内部から閃光を放って爆散する。グロいから別の方法にしてほしい。
「違いますよ。ただ、この世界には現在ドラゴニア公の……ひいては魔族全体の脅威となる人族、亜人、魔族がが十二人います」
アダルバート並みの強さを誇る者が十二人……。それが多いのか少ないのかはわからない。わからないが、俺の設定通りの強さをアダルバートが持っているのだとすれば、十二という数はまさしく天と地をひっくり返せる回数だ。
アダルバート・ドラゴニアはそれほどに、すべての生命にとっての脅威である。
「龍殺し、ルクセリア・フォン・ティオールもその十二人の内の一人です。私たちは、ドラゴニア公の手助けとなるため、彼ら彼女らを殺し得る戦力を集める必要が――」
「――面白い話を、しているわね」
殺気、を感じる間もなく俺はオリオンに突き飛ばされた。地面を舐めるように転がり、草藪を何度も突き抜け、大木の幹に衝突したところでようやく止まる。勢いよく顔をあげると、俺が先ほど蹴りつけた木が土煙をあげながら倒れた。
「誰を殺すって?」
俺を突き飛ばした張本人であるオリオンは地面に降り立ち、歯噛みし前方を睨みつける。
「龍殺し……!」
「嫌だわ。そんなに睨まないでちょうだい。私の綺麗な肌に穴が開いたらどうするつもり?」
眩いブロンズの髪がなびき、切れ長の瞳がオリオンを射止める。全身には騎士を象徴するみたいな防具がとりつけられており、背負う大剣は彼女の体躯ほどもある。
「本物……」
画面上のルクセリアと、微笑みながら殺気を放出している目の前のルクセリアの容姿には寸分の違いもない。服にも体にも、塵埃一つつけずに俺たちを追ってきたというわけだ。
けれど、何か違和感がある。言いようのない、俺の中の彼女と現実の彼女との間の差異がある。
俺が呟くと、ルクセリアは俺の方を向いた。
「本物? あなた、私のことを知っているの? 私はここ数十年、人前に姿を現していないのだけれど」
見られただけで息が詰まりそうだ。
俺は素早く立ち上がり、オリオンから渡されていた剣を構える。刃がついている正真正銘の真剣だ。人を殺せる道具だ。
「どうしてあなたがここに……!」
オリオンが唸るように言い、怪訝そうな顔をしていたルクセリアはそちらに向き直る。
「私の目的は虐殺龍じゃないもの」
「まさか……」
「言わなくてもわかるわよね、賢帝さん?」
刹那。
速度ゼロから俺の目が追い付かないぐらいの速度に達したオリオンが、ルクセリアの眼前で手のひらをかざした。
「お嬢様には指一本触れさせない!!」
「わあ、速い」
「爆撃!!」
先ほどまで魔物たちを爆散させていた魔法だ。呑気に突っ立っているルクセリアは光に包まれ……何事もなかったかのように微笑んだ。
「なっ……!?」
「ほい、邪魔」
十メートルを離れている俺の耳にも聞こえる破砕音と衝撃音。遅れてオリオンを探すと、肋骨のあたりを抑えたまま、叩きつけられた大木の幹にズルズルと座り込んでいた。
何をしたのかさえ、わからなかった。できるのは目を見開くことだけだ。
あのオリオンが……俺の知っている魔族の中で、アダルバートの次に化け物である彼女が、瞬きする間もなく叩き伏せられた。その事実が、俺の矮小な頭の中で渦巻き、それは徐々に恐怖となる。
「あれ、殺せなかった。案外丈夫なのね。可愛い顔しちゃって」
首を傾げてそう言う彼女は、グリンと首をこちらに向けた。
「ヴィンフリーデ・ドラゴニアよね?」
俺は動けず、言葉だけ返す。
「だったら何だよ」
恐怖で声が震えた。
「あら、乱暴な言葉遣い。ダメじゃない、女の子がそんな言い方しちゃあ」
「だったら言わせてもらうが、女の子が女の子を蹴り飛ばすもんじゃないぜ」
そう言うと、ルクセリアは目を細めて一歩踏み出した。笑顔はもう、消えていた。
「ちょっと、確認したいことがあるの。手間はかけさせないわ。少し、頭をいじってみるだけ」
「なるほど、それは楽ちんでいいことだな!!」
地面を踏み抜き、前方に駆けだす。最初から全速力だ、出し惜しみしていたらすぐに殺される。
「ダメですお嬢様、逃げてください!!」
「俺だって逃げてえよ!! だからさっさと魔法で傷治してくれ、天才なんだろ!!」
オリオンの叫び声に怒鳴り返して、俺は腰の剣を引き抜いた。直後、今朝覚えたばかりの魔力循環により加速し、ルクセリアの背後に回りこむ。
オリオンがあんなに呆気なくやられたのだ、俺が真正面から戦っても勝てない。
「ふうん。あなたも、意外に強そう」
「嫌味かよ!!」
叫び、背中に向かって袈裟斬りを放つ。卑怯とは言うまい、こいつの存在こそが卑怯なのだから。
しかし俺の剣は後ろ手に回した彼女の指に、チョンとつままれただけで止まってしまう。押しても引いても動かない。攻撃が来る前に、俺は剣から手を放してルクセリアから距離をとった。背後にはオリオンが自分自身に治癒魔法をかけている。時間さえ稼げれば、回復した彼女と共に逃げおおせられるかもしれない。
「あら、くれるの?」
「売ってやるんだ、金寄越せ」
「これでいい?」
軽口に対して、彼女は自身の大剣を俺に放り投げてきた。
「あ?」
思わぬ見返りに、不意を突かれた俺はゆっくりと向かってくる大剣におもむろに手を伸ばし――。
「魔導障壁!!」
大剣が光瞬き、炎の鞭が俺に襲い掛かろうとしたその瞬間、オリオンの魔法がそれを遮った。しかし、衝撃すべてを防げたわけではないらしく、俺とオリオンは割れた障壁越しに仲良く地面に叩きつけられた。
「くそっ……」
冗談みたいに強いくせに、姑息な手まで使いやがって。そんなことをしなくても勝てるだろうに……。
俺とオリオンはもはや、ルクセリアに立ち向かえるような状態ではなかった。俺はまだマシだが、最初の一撃をまともに喰らったオリオンは重傷だ。先ほどの衝撃で意識も失ってしまった。このままだと、きっと死んでしまう。
――死。
産まれてからずっと、オリオンが俺を育ててくれた。どうしてだか母親の姿は見なかったし話にも上がらなかった。アダルバートは政務に忙しそうで、いつだってこの生意気な白髪メイドが俺の面倒を見てくれたのだ。
俺はオリオンに、何一つ恩返しができていない。天才を自称するナルシスト気味の彼女に、俺は何もしてやれはしなかった。
外を見たくなると、オリオンは黙って身体を抱えてくれた。腹の虫が鳴ればすぐに食事の手配に向かってくれた。剣の修業で叩きのめされたあとも、冗談交じりに慰めてくれた。
いつも編み物をしていた彼女は、出来上がったセーターを俺にプレゼントしてくれた。
俺は何も……何一つ、オリオンを助けてやれなかった。そして彼女は、今死を迎えようとしている。
――今が、そのときだ。何もできない俺が、何でもできる彼女に恩返しするときだ。
「何……勝負はついたみたいな、顔してんだ阿婆擦れが……」
ゆっくりと歩み寄ってくるルクセリア。俺は何度も転げそうになりながら、崩れ落ちそうになりながら、立ち上がる。
「俺はまだここに立ってる。腕も足も動く、頭もトリプルアクセル跳んでるぜ。だから――かかってこいよ龍殺し、てめえは今から散々殺してきた龍に殺されるんだ」
「……現実がわからないのね。やっぱり、私の考えは間違えだったわ。はあ……こんな所まで足を伸ばして、とんだ骨折り損だわ」
剣はない。手足だって満足に動かない。後ろには守らなければならない存在がいる。相手はあのアダルバートでさえ勝てるかわからない相手で、俺には万に一つの勝ち目もない。
だから……。
「最高に、燃えるぜ」
「死ね」
俺は口角を吊り上げ拳を振りかざし地面を駆け、ルクセリアが冷めた目でこちらに手のひらをかざした。




