Vtuber、龍人幼女に転生してしまう……
薄暗い部屋の中、カビ臭い四畳半で型落ちのデスクトップパソコンに向かう。ディスプレイに映る俺の瞳は取り返しのつかないぐらい濁りきっていた。部屋の隅で死んでいるネズミの死骸をゴキブリが囲んでいる。この小さな部屋の中でも食物連鎖は構築される。
そんな矮小な世界でだけ、俺はトップに立っている。そのことすら、俺に満足感を与えた。
劣等感の塊で、羞恥心の残骸で、ルサンチマンの成れの果て。それが俺だった。桐谷 漣だった。
「ふぅー……」
心臓がバクバクとうるさくて、今すぐに止めてしまいたい。
脳味噌の芯が痛みだして、今すぐに握り潰してしまいたい。
誰にも知られない場所で、カラスみたいに死ねるのならば、それはきっと俺にお似合いだ。
けれどそれができないから、俺は二十歳を超えてもまだ生き続けている。肺が痛くなるほどタバコを吸って、酒を飲んで、睡眠薬を服用して、消極的な自殺を続けている。
しかし今は。今だけは最高だった。
Vtuber。四年前から世に進出してきた職業だ。人間の動きをカメラでキャプチャーし、表情や動きをつけた二次元キャラクターを画面上に映す。そして、そのキャラクターが動画配信や動画投稿をするのだ。
視聴者は彼ら彼女らの本当の顔も名前もわからない。どこに住んでいるのか、本当に言っている通りの趣味嗜好なのかもわからない。それどころか、声だって加工されたものかもしれない。
けれど、それでよかった。それがよかった。誰かの本当の姿なんて、見るだけで疲れる。俺にとって楽しいのは、いつだって虚像だった。幻想であるからのめりこんだ。いつしか俺は、その手に掴めないものだけに救いを求めていたのだった。
そんなVtuberに、今日から俺はなる。Vtuberになったからといって、俺の生活が劇的に変わるわけではないだろう。現実世界から抜け出せるわけではない。
それでも、ディスプレイの中だけでも、本当はこんな部屋の中だとしても、現実のことを忘れられるのであればそれはとても素晴らしいことだ。
もしかすると俺は、今日から変われるかもしれない。こんな日々からは脱却できるかもしれない。自分自身が幻想になることで、鬱屈した精神状態にケリをつけるのだ。
たった今、このときまで、俺は生きてきただけだ。人生に何も意味を見いだせなかった。二十歳を超えて、思春期のサルみたいな悩みが情けない。
人前で流暢に話すことが俺にできるだろうか。
画面の前のたくさんの人を、救いはできずとも楽しませることはできるだろうか。
汗で滑るマウスを無理矢理鷲掴み、震える腕でカーソルを移動させる。
配信開始のボタンが恐ろしい。
俺が配信予定の枠には、多くのコメントが付いていた。その大半が期待を煽るものだ。たまにVtuber全体に対する中傷や、意味のない文字列が連投されるがすぐに運営が削除する。
深呼吸。新規Vtuberのオーディションに通って以来、喉を潰すわけにはいかないとタバコは一切やめた。
だから、もう、息を吸っても肺は痛くない。酒は控えたし、睡眠薬に頼らずとも生活できるように努力した。
濁流のように流れるコメントを見ていても、動悸は止まらないし、頭痛も引かない。
つまり、今こそ俺が……桐谷 漣が変わるときなのだ。
名を変え、姿を変え、幻想を与えるときなのだ。
「……配信開始――」
だらけきった精神に活を入れ、指先に力を入れ、その瞬間俺の意識は途切れた――。
☆★☆★☆
「……-ト…………様、……リア…………様、おめで…………! 元気な……が産………した……!」
混濁した意識の中、まるでLSDの使用後みたいな世界を経て、最初に聞こえた声はそんな途切れ途切れの野太い声だった。
続いて数人の歓声が聞こえてくる。
柔らかい体躯の誰かに抱えられていて、うまく手足を動かせない。目の前が真っ暗で何も見えない。
「あまり元気な…………見……。赤子は…………泣いて…………」
「この子…………息……でき…………」
慌ただしい雰囲気が伝わってくる。先ほどの祭のような雰囲気はどこへいったのか、バタバタと焦った足音と不安そうな声音が聞こえてくる。
ボーッとそれらに耳を傾けていると、ふと、自分がまぶたを閉じていることに気がついた。だから何も見えなかったのだ。そんな当たり前のことにすら気づけないとは、俺はいったいどうしてしまったのだろう。
息苦しくなってきた。何故か呼吸がままならない。何が何だかわからない。
俺は渾身の力を込めて、両のまぶたを見開いた。すると――緑色の肌をしたトカゲの顔が、こちらを覗き込んでいた。
首元には鱗が広がっており、爬虫類特有のギョロッとした目は赤黒い。こめかみからはニョキッと角が生えていて、閉じられた右目の部分には十字の傷がたたえられている。
「…………」
二十を超えた大人の俺は当然、大学でも四回生になった俺は当然、ニヒルを気取った俺は当然、誰に見せても恥ずかしくない対応をとった。
たぶん、このときの俺の喉は張り裂けていただろう。
俺は十数年ぶりに泣き叫び、意味不明な歓声に包まれた。俺を抱いている誰かさんに強く身体を締め付けられ、やっぱりそのまま意識を手放した。
その直前、俺の耳にははっきりと聞こえた。この一ヶ月ほどの間、自己紹介の練習の際に何度も何度も繰り返した名前が聞こえてきたのだ。
「我が子よ。お前の名前は、ヴィンフリーデ・ドラゴニアだ!」
それはまさに、俺のVtuberとしての源氏名だった。