第二章 3 気持ちは形になる
「もうっ! こんなことしてる暇ないんだった、早く案内しないと」
不毛な言い争いが白熱する中区切りをつけたのはフーカだった。先程のやり取りでかなりの体力を消耗したのか耳が真っ赤だ。
ドスドスという重苦しい音を立て、早歩きで白い廊下を歩く彼女。その後ろ姿を見ながらレイジは溜息をこぼした。黙っていれば可憐で清楚で誰もが振り向く美人なのに、性格が酷すぎるからだ。
初対面で嫌いだの上下関係をはっきり突きつけられ、かなりレイジの心は脆くなっていた。同世代の人とは仲良くなった方が得が多いのだが何故かフーカとは仲良くなれる気がしない。
「ここよ」
フーカの豪勢な扉と違い、案内された場所は他と同じ作りの簡易的な白い扉だった。横一列に整えられた扉の並びが圧迫するほど、異質な空間なのだ。人の温かみを感じない、全て白くて冷たい廊下。
「あなたは階級が低いから、言うなれば駒ね。あと直接的な意味で人として見られてない」
直接的な意味というのは恐らく呪いの事だろう。足が生えたり怪我がかなり治ったり、人間ができる芸当では無い。
そう言いながらフーカはカードを扉の前に翳してドアを押す。普通ドアというものは鍵を差し込んで中に入るものだと思っていたレイジは目を見開いた。
「お、おお。すげえな今の時代は」
「何言ってるの? もう何年も前からこれが主流だけど、あなた原始人?」
流れるように毒を吐きつつ顎を引く彼女。中に入れということなのだろう。
原始人は言い過ぎだと思いながらも時代錯誤であることは変わりなく、彼女を咎めることが出来ない。
ふむふむと言いながら自動で照明が付くシステムに声を挙げて中に入る。白い壁、白い寝具白い家具。全てが白で統一されていたが、レイジにとってこの場所は新鮮で真新しくて、声を挙げずに居られなかった。
「ここがあなたの部屋。こんな簡素で陳腐な場所部屋なんて呼べないだろうけど、位が低い人達が寝泊まりするところよ」
「い、 いや俺は豪邸だと思ったんだが」
「え、今までどんなとこに住んできたの!? こんなとこ狭すぎてサウナの場所もないわよ! 私なら屈辱で夜も眠れないわ。ほんっとに、信じられ、な……ぁ」
廃工場です、とは言えずに口を紡ぐ。
素っ頓狂というほど大声を出していたフーカは直後顔を真っ青にし、取り乱した事を恥じたのかモジモジしだした。赤、青、赤。コロコロ顔色が変わっていく。
意外にも彼女に感情があるのだと再確認し少し驚いた。凛としてハッキリと物を言う芯のある態度から、常に凍った人間なのだと思っていたが。
「まあ、人それぞれだものね……。さ、時間が無いの。早くこれに着替えて。扉の前にいるから、終わったら声かけてね」
そう言われ渡されたのはシャツと灰色のコート等が丁寧に畳まれている服だった。着替えに抵抗はないが、色のない空間に一人残されている状況が監視されているようで居心地が悪かった。
「なるべく急いでね」
言い終わる前に扉を閉められ、フーカが視界から消えた。急ぎながらパリッとした白いシャツに袖を通し、ボタンを留める。久しぶりにボタンなんて留めたからなかなか指が上手く動かない。
それでも、何とか着ることが出来たが肝心のネクタイはどうすればいいのか全くわからない。
「な、どうやるんだ? ……まあ適当でいいだろ。」
形さえ良ければなんでもいいだろう。
灰色のコートのようなものを着てパンツを履いたが、かなりそれっぽいのでは無いだろうか。
「───そういや俺って魔取に入ったんだな。何するのかまだわかんないし怖いけど、ど貧民暮らしからはおさらばだな」
魔取の制服がこれなら中々様になっている。白い髪は今は変えることは出来ないが、制服の色に合っていると願って。
レイジは急いで靴を履きながらドアノブに手をかけ勢いよくドアを押し開けた。ここまでかなり時間がかかったのできっと彼女はご立腹だろう。
「ねえ、まだ? ───って痛っ!」
「……ぁ、え!? ごごめんフーカ! 大丈夫か!? 痛かったよな!? おでこ赤くなってないか?」
かなりの力で押した扉はそのままフーカの額にヒット。ドンという鈍い音がした方向を見ると、彼女はそのまま額に手を当て、膝を折り、しゃがみ込んでいた。
謝ってももう遅い。もっと周りを見ていれば、彼女が怪我をすることなんてなかったのに。自分のことだけ考えている愚か者。
しゃがんだまま反応する気配すらないので謝りながら周りをあたふたしてしまう。女の子に傷なんてつけたら───と冷や汗が毛穴から吹き出しとまらない。
それよりもフーカの痛みは、他に傷ついてるところはないか、それよりも、それよりも───、
「ふ」
「あの、フーカさん……? もしかして怒って───」
「くふ、あはははっ!」
突如乾いた空気を潤すように、心地よい鈴の声が辺りに響いた。笑い声。笑っている。涙が目尻からこぼれ落ちる程、腹を押さえて目の前の女の子が笑っている。あんなにぶっきらぼうで笑顔なんて見ることがないと思っていたのに。
「ふふ、ふはっ」
込み上げてくる笑いを隠そうと手で覆い隠しているが、少しだけ尖った犬歯がチラチラと見えていた。
「あははぁ! はぁ……楽しかった!」
錫色の髪が彼女の声につられて揺れ、乱れた。照明に照らされて艶めいている白い歯に、口角の上がった桃色の唇に何故か心が吸い込まれる。そして何より、
「お、お前……急に、なんか」
「───今、痛かったの」
潤んだ金色の瞳に魅入られ、レイジの魂が震えてしまった。
彼女に対して何かが込み上げてきてもそれが上手く言葉に出来ず詰まっていく。舌に力が入らず、芯が絆されていく感覚。分からない、分からない。
「───?」
「ありがと、今はあなたのことはちょっとだけ嫌いって事にしといてあげる。さ、早く行かないと姐さんに怒られちゃうから、行くわよ」
「俺は……何もしてないし、大丈夫なのか? 傷とか」
「ええ。すぐ治るし、何も知らないでいてくれた方が私の気が楽だから」
そういうものなのか、と納得。相手にもなにかあるのだろうし、土足で踏み入るのにはかなりリスクが高い。理由を聞くなどメリットもないのだからここで引くべきだろう。
それに、嫌いとまで言われたレイジの印象が少し変わったことの方が今のレイジには大切だった。
フーカの後をついて行くと、白くて大きな扉が待ち構えていた。それに手をかけ押し開けた先に、緑と青い空が澄み渡る外の世界が見えたのだ。ここから外に行くのか。
「そういや、どこに行こうとしてるんだ? 俺、魔取が何をやるのか分からないんだが」
「昨日の事故現場に行くわ。状況も詳しく聞きたいし」
あの場所だ。
酔い痺れるような血の匂い、世界に亀裂が走るような青白い光、迷い込んだ自分を嘲笑うように淀んでいた夕暮れの空。
そして、そして。
バケモノ───死灰がいた場所。鮮明に地獄のような記憶が蘇る。
痛みが、臭いが、色が、血が、音が、声が姿が血が銃声が。微睡みの中に消えてくれない。目を閉じても、空を見ても、消えてなくならない。
起きてから何となく罪悪感で蓋をして呼び起こさなかった感覚が、一気に押し寄せる。
人が、死んでいて、人に、殺されそうになって。人ではないと言われて。
胃の中から脳裏までレイジへ一直線に電流が走った。痛みも頭痛も耳鳴りも全てを伴って。
「う……ぁ、あ」
「……ごめんなさい」
一度だけ後ろを振り向き、そう言い残して、影が再び進み始める。女が何を考えているのか、何を感じているのか、レイジには分からない。
手一杯でそれどころじゃなくて、ただ罅割れるような頭の痛みが鋭く何度も、何度も突き刺してくる。何か、別のことを考えなければ壊れてしまうだろう。
───壊れるのは嫌だ。
「───」
太陽が照りつけている道を女と男が歩いている。周りは何を思っているのだろうか。
「───私の名前はフーカ」
「は、ぁ?」
「あなたはフーカって勝手に呼んでるけど、まだ私自己紹介してないから」
唐突に静寂を打ち切るように彼女が口を開いた。表情は、見えない。ただひたすらにコンクリートに揺れる影と彼女の後ろ姿を見つめるだけ。けれど、それは以前のような張り詰めたものではなく、チリチリと綺麗な音を奏でる鈴の音に聞こえてしまった。
いや、そう聞こえるぐらい甘やかで優しい声だったからだ。
「それは、ごめん。俺、お前のことよく知らなくて勝手にエゼさんの呼び方が移っちまった」
「呼び方はフーカでいいわよ。……私」
「私?」
「ぁ、私、その……」
「ん?」
「……わ、わた、私はっ!」
何が言いたいのか分からない。
名前を呼んで欲しくないからこの話をしたのだと思い考えたが、意外と怒ってはいないみたいだ。わなわなと、言葉を噛みながら何かを伝えようとしていることは伝わるのだが。
「おい、フーカ大丈夫か? もしかして額の怪我が今も傷んでるのか?」
「ち、ちがっ!」
「───レンジくん、フーカ! おーい、こっちこっち!」
「あ、エゼさんだ」
なかなか弾まない会話に小鳥のように澄んだ声が入り込んだ。建物と建物の間、暗い場所から小さな手が見える。周りよりも一回り小さい背のせいで気づかなかったが、ぴょんぴょんと跳ねる姿が可愛らしい。
「エゼさん。すみません、すぐに気づけなくて」
急いで近くに駆け寄ると黒い髪のポニーテールがよく跳んでいるのがみえた。袖が余った白衣と制服姿が、陽に照らされて元気な印象は強まっていく。
血が足りない血管と酸素が足りない肺を稼働させながら、エゼの元にたどり着いた。明るく、にこやかな笑顔で出迎えてくれたことが心に染みる。
「全然大丈夫だよー。それより来てくれてありがとうね。呼びに行ったフーカは猛反対してたから、来ないかと思ったよ」
「え?」
切らした息を整えながらいつの間にか後ろにいたフーカの方へ身体を向ける。当の本人は「……フン」と鼻を鳴らし顔を背けてはいるが、耳まで真っ赤。まさか彼女が自分のことを思いやってくれたなんて考えてもいなかったから、かなり驚いた。
「レンジくんさっき途中で抜けちゃってごめんね。フーカからなにか聞いたかな?」
「あ、はい。えっと、俺の身体は呪われているっていう説明と俺の部屋を案内してもらいました」
フーカは虎視眈々と自分の呪いの状態とどのようなものか話してくれた。半信半疑、ほとんど信じてはいるがやはり疑うものがあったから。けれどフーカと出会う前から大量の出血があり、火事場の馬鹿力で気力も使い果たしてしまったのだ。
レイジには致命傷になる程の失血なのが感覚で、遠のく意識の中で分かっていた。だからこそ、こうして生きていることすらありえない。
「呪われている、ね。……そっかじゃあレンジくんはそれ以外何もわかんないんだね。説明と事情を聞くのはその時にしたいから、とりあえず昨日の場所に入るけど覚悟は出来てる?」
「正直俺、魔取が何するのかわかんないまま契約書に指置いちゃいました。あ、でも、ちゃんとした移住食があれば昨日のことなんて過ぎたことだし耐えられますよ!」
フーカが言いかけていた言葉。それは、摩耗した状態のレイジを励まそうとしてたのではないか。ここに来ることさえ周りなんか気にせず反対してくれて、嫌いだと言い切った相手を気にかけてくれて。なんだか、今ならそう思える。
だから、その優しさを胸にあの場所と自分の結末から目を背けては行けないのだ。夢魔、呪い、死灰。全て受け入れて前に進まなければならない。
「───虚勢ね」
本当は怖い。足が竦む、声が掠れる、吐き気がする。死ぬような思いをしたのだ、誰だってそうだろう。強がりでも、虚勢でもいい。レイジという男は自分にメリットさえあれば動く、打算的な人間なのだから。
「分かったよ、じゃあ行こう。狭いし暗いけど、気をつけてね」
エゼは黄色いテープを避けながら案内してくれた。関係者以外立ち入り禁止というものなのだろうか。
言われた通りそこは狭くて暗い、改めて見ても異様な場所だった。太陽の光は真上から射しているはずなのに、ここだけ光が届かない。天井なんてないのに、空は見えるのに、太陽はただ、照らすことを拒んでいるような。
「エーゼーさーん! 遅いっスよ。エゼさんが居ないと困ります。俺ら死灰とか雑魚夢魔を追ってる暇ないっスから、勝手に居なくなったりしないでください……」
「まあまあイコマさん、落ち着いてください! ほら、僕の可愛いスマイル見て。スマーイル」
「おえ! 気持ち悪ぅ! お前の笑顔なんかより、エゼさんのスマイルが見たいんだが!?」
イコマと呼ばれた低い声が特徴の男はエゼが路地裏に入ろうとした時、暗闇から顔を出し声をかけてきた。明らかに苛立っているのが分かる。その声を中から若い男のような声がイコマをなだめてくれたが、果たして意味はあったのだろうか。
「遅れてごめんね、イコマさん、マエダくん。それと、これが例の子。まだ輪死線には入れてないから気をつけて」
仕事モードのエゼは初めて会った時の印象とは違い、凛としていて頼り甲斐のある上司のようだ。幼い容姿とは裏腹に『出来る人』なのだろうか。
「いやいや、別に責めている訳では無いんっスよ。その代わりと言ってはなんですが、今度俺と一緒に飯でも……」
「ねえ。君が噂の男の子だね? 僕マエダ! よろしく!」
エゼの声につられて二人の男が暗闇から一斉に姿を見せる。
イコマはガタイが良く、無精髭を生やした中年の男だ。マエダは背が高く爽やかな好青年という名が相応しい程、朗らかな人に見えた。
「えっと、レイジです。とりあえず何もわかんないですけど、頑張ります」
「あはは! レイジ君そんなに硬くならないでよ。僕ら取って食おうとしてないし。ほら、中に入るよ」
背中をトントンと手のひらで押され路地裏に入る。暗いと思っていたが中に入るとすぐに目が慣れた。入り口に足を踏み入れた時あのトラウマが軽くなっているのが分かった。思い出しただけでも吐き気が込み上げてきたはずなのに。
それは、あの子のおかげなのだから───。
「あれ? フーカは入らないんですか? ここまで連れてきてくれたのに」
「ん? あ、ああ。うん、そうだね」
見張りなのだろうか。それにしては途中から言葉を話さなくなったような気がするが。マエダは歯切れの悪い言葉を残すため、なかなか聞くに聞けなくなってしまった。
───初め■■った時■も■■は。
「はいストップー! 下を見てねー?」
「え?」
マエダの声に合わせて下をみると、深青に光る線が一直線に伸びている。
この線が、輪死線。
この線が、全ての元凶。
この線が、俺を苦しめた。
憎たらしい、怖い。それでも、前を見なければならない。
ふう、と一つ溜息を吐く。
───弱音は、ここで終わりだ。
「これが『輪死線』だよ。これは夢魔が現れる時に出るから、路地裏じゃなくても突然街中で発生する時もある」
「輪死線って、なんであるんですか? 特に必要そうには見えないですけど」
「んー。輪死線って夢魔の能力のオマケなんだよ。必要とかそういう事じゃなくて自然に発生するものだから。線の中だと思う存分夢魔は力を発揮出来るけど、出たら存在自体消えるし、あんまりメリットはないね」
「もし人混みに夢魔が紛れていて、その『能力』を使ったら輪死線がある程度の範囲で出るんですよね。なら元々線の中にいた人はどうなるんですか?」
仮に、人の多い場所でソレが起こってしまったら大人数の人々が危険にさらされてしまうかもしれない。もしかしたら、自分も。
死灰は下級と言われたが、路地裏は直径十五メートル程。短い距離ではあるが、あの日レイジの他にもう一人犠牲になっていたのだから。
「───」
「マエダさん?」
「───レンジくん」
ふと、エゼに呼び止められた。振り向くと苦しそうな顔をしているのが分かり、マエダの方を見た。彼も、同じように苦虫を噛み潰したような面で下を向いていた。
やはり、その場合は死んでしまうのか。
「魔取はね、夢魔を殲滅するために作られた組織なんだ。権力的に警察の次に偉いんだよ。事後処理、隠蔽はもちろんだけど、一番魔取が重宝されているのは」
マエダは徐ろに足先を前へ突き出した。輪死線の向こうへ爪先が入り込んでいく。彼の身体が前へ前へ進んでいく。死んでしまうのではないか。線を越えたら、越えてしまったらどうなってしまうのか。
ごくりと喉が鳴るのを感じた。それだけでは無い、瞳孔が、鼓動が騒ぐ。何か、変わるのだ。
「これだよ」
ピキピキと音を立て、振り向いた彼は鋼のような鎧を身に纏っていた。口元は黒いマスクで覆われ、身体は白銀。如何にも異様な光景だが、レイジの心と瞳は奪われてしまったのだ。
遅れてすみません!!