第一章 2 バケモノの騙り
「かあさん、今日すごく怖い夢見たんだよ……」
瞼を腫らし鼻水を啜りながら少年は目の前の女性の袖を引く。「なぁに?」と優しい声音で語りかける彼女の顔は靄がかかっていてよく見えない。かあさんと呼ばれた彼女は少年の母親だ。
「どんな夢を見たの?」
彼女は膝を折り曲げ少年の目線と同じ高さまで首を下げた。少年は震えた喉を鳴らしながら母親の黒瞳を真っ直ぐ見つめて───、
「───」
その日見た夢の内容を語ったのだった。
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チカチカと明転する世界を横目にレイジの脳には記憶と思い出が蘇る。懐かしい子供の頃の思い出は炎に呑み込まれて今は煤だらけだが、楽しかったという感覚はレイジの身体に刻み込まれているのだ。頬はほだけ、嬉々しながら口端がつり上がるのを感じてレイジの背筋は急激に凍り始める。
「こんな時に走馬灯かよ!」
そう、思い出に浸るどころでは無いのだ。先程までの記憶も思い出も再び掻き混ぜられ、滲み暈ける。今は夢現なこの世界から逃げなくてはならない。否、背後にいるバケモノから、だが。
五感を研ぎ澄まし、背後からの殺気を背負う。バケモノの赤紫色の腕には血管が迸り、空いた穴からは血が垂れていて、血は蒸発しながら地面を酸性雨のように削り取る。走らなければならない。この路地裏から逃げなければならない。
逃げなければ、逃げて、逃げてにげてげてげてて、て。
───左足の感覚が、消えた。
おかしい。目の前には左足があるのに。目の前?いや───、
「ぁぁアァああ! あぐぁァッ……!」
爆ぜた左足が宙に浮き、レイジの目と鼻の先に現れる。遅れてやってくるその痛みがレイジの身体を蝕んだ。足が脚があしが。
左足は千切れて胴体から切り離されていた。
左足を失ったことにより走っていたレイジの身体はバランスを崩して前へ滑り転ぶ。
痛い、痛い、痛い痛い痛い痛いいたい。痛いなんてもんじゃない。体内の血は沸騰し、煮えたぎり熱く燃え上がる。酸素を求め呼吸をするが上手く肺が動かない。抉られた太ももには赤紫の液体がこびりつき、ジュウジュウと音を立てながら溶けていた。
「かひゅ……ひゅ……ぁ」
血が血液が血流が太ももから溢れ出て止まらない。寒い。寒い寒い。暑さが離れていく。視界も嗅覚も聴覚も遠のいていく。
あと少しなのだ。あと少しで路地裏から出ることが出来る。出たら、誰かが助けを呼んでくれるはずだから。飛びそうな意識を舌で噛み、なんとか戻しながら感覚がある腕だけで前へ進んでいく。レイジの喘ぎ声が路地裏に響きその様子をケタケタと嘲笑うような声が聞こえた。ケタケタと、けたけたと。
「───ぁは」
背後から声が聞こえる。女の子のような甲高い笑い声が。
「あは、ははははは!」
聞き間違いではない。ハッキリと、しっかりと声が聞こえるのだ。
───背後から、聞こえるのだ。
「だ……れだ……ぁ、て、めぇ」
後ろを振り返らずに掻き集めた声を振り絞って相手に問く。もう、答えなんて分かっているのに。
「なにいってるの? さっきまでわたしからにげてたじゃない」
レイジの直感は当たった。全く嬉しくないことが、当たってしまった。
バケモノとは意思疎通ができないと勘違いしていた思い違いをしていた思い上がりをしていた。あのバケモノには知性があり、知能が思考ができる。
レイジは本能のまま逃げ続ければなんとかなると心の底で考えていたのだ。うまく巻いて騙せばなんとかなると。人と話すことが出来ないなら、こちらの行動なんて読めるはずないのだから。だが、知性があるとなると───、
「騙してたのか……こりゃぁ、お手上、げだ……な。クソったれ」
「うん、そだよ。きみはもうおわりだね! わらえちゃう! あはは!」
最高の煽りをぶつけられ怒りすらも湧いてこない。バケモノの言う通りレイジの意識はだんだんと弱まっていく。文字通り終わり、なのだ。
「最後に、て……めぇの面ァ、拝んでから死んでやるよ……」
レイジは昔から諦めはいい方で、無理だと思ったことはやらない。この場合生きるのを辞めるという意味だが。
震えた首を持ち上げて後ろを振り返る。定まらない焦点を合わせるのに必死で呼吸の仕方を忘れてしまった。詰まる息を吐くと同時に、瞳孔は揺れ滲む世界はだんだんと明瞭になっていき───、
───人間の女の子だった。
「……は?」
人間の女の子。人間の。にんげんの。
「にん、げん…?」
「ちがうよー! きょうはにんげんじゃないの。いまはにんげんだけど!」
支離滅裂な言い訳をする少女の皮を被ったバケモノ。明らかに見た目も声も人間の女の子なのだ。長い黒髪を垂らし、くりりと大きな瞳と上を向いた睫毛にどうしても意識が吸い込まれていく。
レイジは混乱しながら再び目線を前へと戻す。見ては、いけない。見てしまえば帰っては来れないだろう。
どうにも彼女の知性は人間以下らしい。幸い、先程の衝撃で痛みが大分軽減された、ほんの一瞬の付け焼き刃だが。このまま、逃げ切れば───、
「にがすとおもってるの?」
冷たく硬いその声は鼓膜に入り込み脳を支配する。支配されたレイジの脳は思考力も失われていった。まるで催眠がかかったかのように、洗脳されているかのようにこう思ってしまうのだ、彼女からは逃げられないと。
思考が具現化されたように路地裏の入り口の地面には赤黒い無数の腕がうねうねと生え、レイジの行く手を阻む。またこの腕か。もう目の前に、光があるのに。
「ねぇおにいちゃん。わたしね、あなたとあそびたいの。だからおいかけたんだよ?」
赤らめた頬に手を当てながらキャピキャピと足を踊らせる。これが普通の女の子なら可愛いと思うのだろう。だが、
「そりゃ、物騒な願いだな……どうでもいいから早く退けよ」
左足を切断され、騙され、支離滅裂な言葉を話すバケモノを可愛いなんて思わない。おまけにレイジは可愛いという求愛感情すら不要だと感じ、持ち合わせたことは無いた
めこの女との相性は最悪だ。
「ひどい! そんなこといわないでよ! もぅ、わがままばっかりいう『わるいこ』は、こうです!」
むう、と口を膨らませ、しかめっ面の彼女は自分の右手の人差し指をレイジに向け、片目を瞑る。それはまるで、狙いを定めるスナイパーのような格好をしていて───、
「えい!」
───瞬間、女の人差し指から出る金色が空間を切断し、銃弾のように飛んでいく。
「あー! よけられちゃった!」
間一髪だった。直前の文脈と行動を読み取れなければ今頃腹に大きな風穴が空いていただろう。地面は煙を出しながら大きく深く抉られていた。レイジもこうなっていたのかと考えるだけで額に冷や汗が湧き出る。こいつは狂っている。何もかもが通じないのだ。おかしすぎる。有り得ない。いつの間にか洗脳は解けていて、脳は逃げ続けることを選択した。
「ぁぁぁああああ!」
「え! おにごっこであそんでくれるの? じゃあわたし、じゅーびょーかぞえるね!」
気持ち悪い気持ち悪い、気持ち悪い。その存在も発する言葉も声も顔も何もかも。少女は目を瞑りながら人差し指を立て始める。
十秒でここから出なければならない。「いーち」と数え始める少女。猶予はあと十秒。鬼ごっこと言うだけあって、入り口の腕は消えていた。
「にーい」
殆ど残っていない力を集めて腕に込める。少しずつ、少しずつ。
「さーん」
本当に少しだけ、進んだ気がした。
「よーん」
意識が、暈ける。世界が二重に重なって見える。出口はあと、少しだ。
「ごーお」
憎んでいた彼女の声にノイズが走る。
「……ぉく」
ああ、やっと静かになった。
「な、……ぁ」
───おかしい。
「ぁ……ち」
おかしいおかしいおかしい。
「きゅ……」
なんでなんでなんでなんで。
「じゅーう!」
───なんで、青い線があるんだ?
「きゃははは! つかまえ」
「───はい、捕まえた」
直後銃声が路地裏に響き渡る。
レイジを捕まえようとしていた腕は寸前で止まり、鈴のように透き通って甘やかな声が覆い被さった。その声の主は、
「大丈夫なの? あなた」
目の前の負傷状態の男の心配をしてくれたのだ。
「ぁ……あ」
なんて優しい人なのだろうか。災難続きの今日は、レイジにとって人の優しさを特に知る日となった。レイジの目の前に人影が現れ、目線を上へ持ち上げる。痛い痛い苦しい。大丈夫なんかじゃない、早く助けてくれ。
「ねえ、そこ邪魔だから早く線から出てくれない?」
前言撤回。優しさの欠片も無い発言で第一印象は最悪だ。錫色の髪を夕陽に溶かしながら銃を構えている女の子。黒いフードを靡かせこちらを見下ろす。
「あらら足切られちゃったのね、なら手を伸ばしてくれる? 引っ張るから。あなたがその線から出てくれないと困るのよ」
予想外に冷たい反応がレイジの心に刺さっていく。もう少し心配してくれてもいいのだが、早くしないと始末されそうな雰囲気なので空っぽの力を使い、右手の中指だけが線から飛び出した。これしか力が残っていないのだ。
「んーしょっ」
「あだぁアァ!」
遠慮なく指先を上へ引っ張られるが、自分の体重が重りとなり根元は下へ強く戻された。中指に電撃が走る。恐らく、脱臼したのだろう。
「よし、出たわね」
この暴力女の顔は絶対忘れないようにと胸に誓う。
「……あ、りがとう。ところでさっきの銃声は……?」
「さっきのバケモノにぶち撒けたけど」
顔に似合わぬ恐ろしい発言でレイジの心臓は冷たさを感じる。バケモノに撃ったのならあいつは───、
「おまぇ……ゆるさない……ころす、ころすころすころす!」
腹に大穴が空き、口から血が吹き出している少女は呪いの言葉を吐いていた。臓物は飛び出し辺り一帯は血溜まりになっていて。
「出来るもんならやってみなさいよ。この線から出られないのにね、あなた」
悪夢が終わるのだ。事実、バケモノは腹を抱えながら倒れ込み喘いでいた。もうすぐこいつは死ぬのだろう。
やっと、やっと夢から覚める。やっと。
意識が途切れていく。瞼が重い。心臓は眠り、流れ出す血は冷めきっていて、もう足りないのだろう。太腿から血は流れることは無い。限界値を超えて頭が急激に軋み始める。心臓が刻んだタイムリミットはもうとっくに過ぎていた。
「ちょ……あなた───な…の!?」
音はレイジからあらゆるものを奪い去ってしまった。左手に指輪の硬い感触を覚えながら瞼を閉じて。寒くて暗い世界とはお別れの時間だ。レイジの黒瞳は色を喪いながら、
───世界は、暗転していく。