第一章 1 孤独な運命
覚えているのは赤く弾けた火花が大きくなり、炎が家の中で輪になって踊っている光景だった。とても奇妙だが、なぜか美しかった記憶が脳裏に焼き付いている。
───大人が言うには火事らしい。
最期に見た母の顔は煤だらけで原型すら無い黒い塊だった。妹のナユタの眼球はトロトロと溶けていたのを覚えている。どうして自分だけは助かったのか、今でも思い出せない。出掛けていたのだろうか。
火事のあとレイジの手元に残ったのは母さんがくれた指輪だけだった。これは幼い頃に絶対に無くしたらダメだよ肌身離さず持っていなさい、と普段見せない真剣な顔をしながらレイジにくれたのだ。それ以降は幾年も無くさないように指にはめていたので銀の光沢が見えることは無いが、傷はつかないように大切にしてきた。
だが、その指輪はもうすぐ質屋に置いていかれる。理由はとても簡単で、親の想いとは裏腹に金になるからという現実的な話だ。いくらの価値があるかなんてレイジには分からなかったが、今の生活では一円でも金が必要だから売らなければならない。形見でも売れば金になるなら売るのが最適解だ。
「腹減ったな、これを売ったらその金で久しぶりにおにぎりを食いたい気分だ」
昔は母がよくおにぎりを作ってくれた。形は歪だが塩というシンプルな味付けなのに何故こんなに美味しいのか作り方を何度も聞いた思い出がある。あの頃は何をするにも楽しかった。妹とやるヒーローごっこも、ままごとも、母の料理を手伝うことも全て。
でも今のレイジは親の形見を売らなければ食べるものも買えず住む場所すら決まらない。昔から運が悪く、大抵の不条理は当たり前。汚くて食事さえもろくにできない人に育ってしまったことを、母はなんて言うのか。間違いだと叱責して正してくれるのだろうか。
「あいつやばくね?」
ふと、横を見るとレイジと同い歳ぐらいの少年がこちらを見ている。きっと薄汚れた自分が惨めでみすぼらしくて物珍しいのだろう。レイジは人混みの中を歩調を早めて進んでいく。声も顔も視線も全てを遮りたい。笑い声や小声が鼓膜を通るがすれ違う人々の全ての視線はレイジに集まる。小汚い、臭い、気持ち悪い、変な人、口には出さなくても表情から読み取れてしまう。
レイジの母が死んでから孤児院に連れていかれたが、すぐに追い出されてしまいもう何年もまともな食事にありつけていなかった。そんな生活なので髪は洗えず脂でテカり、服はボロボロに破れて直すことすらできない。十六歳の少年が不衛生で痩せこけた姿なら誰でもそう思うのでは無いか。
早く、早く、ここから逃げよう。
指輪を破れそうなポケットにしまい、足は回転数を上げて地面を蹴り出す。身体は揺れ肺は稼働を余儀なくされる。何も考えないように、何も聞こえないように。運動能力の高さだけはレイジの唯一の長所で警察や不良から逃げ切るために自然と備わったものだ。痩せていても走る体力と筋力はかなりある。一歩足を前に出す事に呼吸が早くなり、喉は乾き始め急かすように潤いを求め始めた。
───突然、キィィンと、硬く無機質な金属音が鳴り響いた。
レイジの足元から音が鳴ったが硬貨は持っていないので、恐らく走った衝撃で糸がほつれ指輪がポケットから落ちたのだろう。ポケットの底が破れ、突っ込んだ指が顔をのぞかせた。
「やばい……!」
指輪は装飾がされていないので円形でコロコロとよく転がる。もし排水溝にでも落ちたりしたらこれから暮らせなくなってしまう。まずい、まずいまずい。全速力で走ったせいで呼吸が乱れ、肺が痛い。
「ちょっと、何するの!?危ないじゃない!」
甲高い声が響くが今はそれどころじゃない。レイジの足りない脳と目を動かしながら必死に探すが、人混みを掻き分けて足元を見渡しても銀塊は見当たらない。薄橙色に染まった太陽はもうすぐ終わりを告げる。日没になればきっと一生見つからない。見つからなかったら───。
焦りが思考を掻き乱し、鼓動と呼吸はシンクロして秒針を刻む。
一旦、落ち着かないと。冷静さを取り戻すため深く深く呼吸を整える。回転し続けていた脳はヒートアップする寸前で冷却されたことにより、やっとまともな思考が出来るようになった。
───ふいに、ある考えが頭をよぎる。ポケットの位置と自分の場所、落ちた方向を推測するといくら探しても人混みの中には無いのは路地裏に転がったからではないかということに。
「この中に入るのか……?」
ゴクリ、と喉が鳴った。レイジが立つ左側にパックリと待ち構えている異空間が存在する。その存在を見ないように、考えないように、意識しないようにしてきた。異様で異質で異界な空間は視界に入れたら呪われそうなほど不気味な路地裏だった。少しだけ顔をのぞかせて見た世界は光が一切差し込まず、暗闇だけが覆いかぶさっている。
「気、持ち悪い……」
他の路地裏なら食料調達で何度も入っているが、この場所は見ただけでもムカムカとした不快感と嫌悪感が押し寄せた。
カラスがこちらを見下ろして嘲笑うかのように鳴き始める。こんなとこで指輪なんて絶対に見つからないだろう。手探りで探すしか他ないが、それでも───、
「俺の生活がかかってんだ、メリットの方がデカい」
パンっと気合いと覚悟の意を込めて手のひらを打ちつけたレイジの頬は手形をつけて赤く染まる。何時間かかるか分からないがやるしかない。
込み上げる悪寒を喉に抑え込み、歩みを止めずに進んでいく。靴を履いているにもかかわらず、足の裏から凍えるような地面の冷たさを感じてレイジは身震いする。震えた手を地面に付けてゆっくり、ゆっくり手探りで床を撫でた。路地裏は二十メートル程の距離だがこのペースだと一向に終わる気配が見えない。
排気口からのガスの匂い、まだ骨になる前の猫の死骸。路地裏ではよくある光景なのに、目眩がして視界が滲む。
「───線……?」
不自然な線が引かれている。誰かがイタズラで描いたのだろう。それは地面から一直線に両端の建物の最上階の壁まで続いていて暗くても分かる程水色に光っていた。
───なぜ、今まで気づかなかったのだろうか。
暗闇の中で光なんてなかったのに。
「あ、あった」
光線の向こう側にキラリと自分の存在する居場所を伝えている指輪を見つけた。の蛍光に光る水色の線が照らしてくれたおかげで、思っていたよりも早く見つけることが出来たのだ。レイジはうつ伏せで見逃さんとしていた身体を起こし、線を大股で跨ぎ指輪の方へ歩いて───、
「おぇええ、あがぁえ!」
───瞬間、強烈な目眩と吐き気、無数の針を皮膚の奥まで刺されたかのような痛みがレイジの体内を駆け巡る。肌は粟立ち破裂しそうな胃はキリキリと音を立てて叫んだ。脳が、血管が、細胞が一斉に警告音を放つ。この線を越えてはならないと。
「な……んなん、だよ」
後ろ髪を引かれる感覚を己の体幹だけを頼りに反抗していく。食いしばった歯にはヒビが入り、歯茎からは血が吹き出す。血が地面に滴り落ちる。否、線の上に落ちた。大股で踏み込んだ右足が線を越えようと奮起している。靴の裏と地面の距離、残り二センチメートル。レイジは指輪を持ってこの場所を出なければならない。指輪が欲しい。指輪を、指輪が、アレは、あれに───。
頭が悲鳴をあげる。というよりも脳は機能を停止し、五感が拒絶反応を起こしているのだ。あと一歩、踏み込むだけなのに、身体が絶対にそれを許さない。路地裏に入ろうとした時の悪寒なんて比にならない程の痛みが、苦痛が、嗚咽が響く。脳は耳から零れ落ち、考える力が、言葉が失われていく。ただの線なのに何故、なんでどうしてここまで拒絶するのか。
おかしい、おかしいおかしいありえないないな、ななな。
「おい神様ァ! もう、俺はどうなったっていいから、早く……指輪寄越せッ……!」
天秤にかけた。レイジは昔から物事を損得で考えている人間だ。言うなれば自己中心的な性格。自分にとって得がある方を選ぶし、損になる事は決してやらない主義だ。究極的な自己中で、人に好かれたことなどない。それがレイジだ。
今の選択も自分か指輪かを選んだに過ぎない。一時的な苦痛を味わうことよりも指輪を売って稼ぐ金の方が大事だからだ。もとより存在が不確定で笑いものにしてきた神に今生のお願いと言わんばかりに大声で頼み込んでいるのだが。
「ふ、ぇ?」
───右足が地面に着いた。
あまりに突然の事で身体がついて行けず、レイジは前に転げる。あれだけ拒絶していた五感も今は正常になり、拍動が細かく震え始めた。いつの間にか青線も越えていた。
「本当になんだったんだよ…」
さっさと指輪を拾ってこの気持ち悪いところから出よう、そう胸に刻み指輪を掴んで来た道を引き返す───、
「───?」
クチャクチャという音を響かせ目の前にふと、人影が現れた。あまりにも唐突に、突然に。否、それは人影なんかじゃなく、
「ば、バケモノ……」
突如現れたソレを見てレイジは腰が抜けて尻もちをついた。意図せぬ衝撃が加わり腰の骨がピキピキと音を立てる。
バケモノはレイジなんかより何倍も大きなドロドロに溶けた四肢と飛び出た赤黒い目玉がギョロリとこちらを見下ろす。壁には頭の潰れた人が横たわっているのが暗闇でもわかってしまった。バケモノの口らしき形の周りには皮と血糊と髪の毛がこびりついていた。
レイジは心の臓が握り潰されるような感覚を味わいながら、生まれて初めて死を自覚した。呼吸が鼓動が瞬きすらも忘れて時が止まったかのように体が動かない。意識さえも、吸い取られていく。
「おぇえ、ぅええっ」
きっと悪い夢なんだ。夢で、夢でこれは悪夢で空想で幻想でまやかしなんだ。現実のはずは無いのだが───。
あまりにも無惨な光景で、人の頭部が丸呑みにされて喰われているということが衝撃的なトラウマで胃の中のものは食道を通り口から吐き出てしまった。胃酸が舌にこびりついた気持ち悪さも相まって嘔吐は止まらない。
今日はなんて最悪な日だろう。あぁ、もう帰ったら寝よう。いやこれが夢なのか。脳内にノイズが走りグチャグチャの思考がさらに混ざる。
「キェエエエァァアアッ」
自分の捕食している所を見られたからか、怒り狂ったような奇声と生臭い息を荒らげながらバケモノは皮が伸びきった腕のようなものを伸ばしてくる。腕から飛び散るドロドロと溶けた液体が建物の壁に付着しただけで、そこは削られ、白煙を纏い穴を開け建物を侵食していく。鉄も、コンクリートも溶けて、融けて熔けてしまった。あれに捕まればレイジも───、
「胸糞悪ぃ悪夢だなァ、おい……」
自分の成れの果てを一瞬想像してしまい、猛烈な電流がビリリと肌の上を走る。
───その姿を想像するのはあまりにも簡単でよく出来すぎたものだった。
嫌な悪寒が背筋を撫で優しく包み込む。先程の吐き気も伴って気分は最高に最悪だ。運命を変えるためにも今はこいつから逃げる他ない。
悲鳴をあげる腰を持ち上げ震えた足に意識を集中させた。瞬間、レイジはバケモノに背を向け走り出す。爪先に力が上手く入らず、よろけて避けて酔ってしまう。涙が胃酸が涎も鼻水も全て吐き出して逃げなければならない。呼吸を忘れて音も遠のく。背後には奇声を上げながら触手をしならせて伸ばすバケモノがいるのだ。構ってなんか居られない。
───今思えば身体中の警告音はこの未来を予知していたのだろうか。だとしたら、あの線はやはり越えるべきではなかったと苦虫を噛み潰したように歯ぎしりを立てて後悔する。咄嗟に引き返せばよかったのだ。端々に妙に現実的なところがあり、現実と絡み合った悪夢を見ている気分で胸糞が悪い。
「最高じゃねえか、クソったれ」
先程の願いの代償なのか、見たことすらない神に最低な皮肉を届ける。はやく、はやくはやくこの悪夢から目覚めてくれ。
───足元の青い線はいつの間にか消えていた。
若輩者ですが頑張ります!
感想、レビュー、ブクマお待ちしております!!