難しいのは仕事だけじゃない件5
どれほど体を動かしても短期間で私の運動神経が飛躍的に向上することは見込めなさそうなので、私の練習には新しいものが加えられた。
夕方の小休憩の時間、1階にある小窓のついた小さめの部屋。そこが教室となった。
「感覚を掴みさえすれば、呪力で物を移動させることは火を点けるよりも簡単ですよ」
先生はカイさんである。机に向かって話を聞く私に説明をしながら、片手に持っているカップからおもむろに手を離した。普通なら落ちるはずのカップは重力に従うことなく、手のひらを上に向けたカイさんの動きに応じるように、その手の上でくるりと回った。
「ただし必要とされる呪力が大きいので、動かせるものや時間はどうしても限られてしまいます」
「あの、呪力を使い切ったらどうなるんですか?」
「死にます」
「エッ?!」
「冗談です。貧血のようになりますね。度合いによっては倒れることもありますが、よほど無茶をしない限りは死に繋がることは稀です」
カイさんは真顔で冗談を言うので判別がつきにくくて大変困る。真面目できっちりした見た目に反して冗談が好きだったりフリフリ趣味だったり、なかなかギャップのある人だ。
「あの、一昨日階段から落ちそうになったときに、ガヨさんとサラフさんが持ち上げてくれたんですけど、呪力をいっぱい使うならあれってすごく大変なことだったんですか? 何か体調悪くなったりしてたりするんですか」
「総長とガヨは呪力が多いので。そうですね。ガヨだけであなたを持ち上げれば、数秒が限界でしょうか。総長ならそこそこ長い時間は大丈夫だと思いますよ」
「ちなみに、それってどれくらいすごいんですか」
「普通は人ひとり完全に持ち上げようとすると倒れます。呪力の多い異世界人でも持ち上げられるのは一瞬でしょうか」
「なるほど……」
私が無傷でいられたのは、本当に運が良かったようだ。サラフさんとガヨさんには感謝しかない。
「そこまで大掛かりに呪力を使わなくても役に立ちますよ。例えば小石を操って遠くに投げることができれば、音で敵を誘導することもできますし、相手の武器を一瞬持ち上げてその隙に倒すこともできます」
「上級編すぎるのですが」
「そうですねえ……地下牢に閉じ込められても、鍵が見える場所にあれば、手元に移動させて脱走することもできるでしょうね」
「それは便利そうですね」
子供の頃に見た映画では、主人公を助けるためにペットの犬が鍵を盗んでいたけれど、自分でできるならより手っ取り早い。
「他にも逃走に使うなら、物を投げて相手を怯ませて逃げるだとか、手で投げても届かない場所に縄を投げることもできますね。身を隠した布を膨らませてわかりにくくしたり、風除けに被った布を少し動かして顔を隠したりもできます」
「割と万能ですね」
「そうでしょう? コツを掴むのが難しいので届出に行くまでに習得できるかはわかりませんが、練習をしていて損はない」
追いかけられたら足の速さだけで逃げられる自信がない私にとっては、捕まりそうになったら走るよりは隠れたり、捕まった後に逃げたりする方が助かる確率は高そうだ。地下牢に入れられたときのように重たくて鎖のついた手錠なら持ち上げたり壊したりするのは難しいかもしれないけれど、鍵のありかがわかれば外せるかもしれない。縄で縛られたならそのまま結び目を緩めて解けるかもしれない。
また捕まったらとか地下牢に逆戻りしたらというのはあんまり想像したくないけれど、実際に体験したからこそ対策を知っておくのは大事だと思った。もうあんな生活はしたくない。
というわけで早速、私はカップと睨み合うことになった。
テーブルの上に置かれた空のカップに両手を近付け、凝視しつつ念じる。
「……フンッ!」
「体に力を入れる必要はありませんよ」
「でもなんかそうした方がやりやすいような」
「気のせいです。無駄に体力を使わない練習もした方がよさそうですね」
呪力を使うという感覚がいまいちわかっていないので、ついつい力を込めてしまう。カイさんのアドバイスに従ってなるべく力を抜いてやってみたけれど、力を込めようが込めまいがカップが動くことはなかった。ロウソクに火をつけるときのような、手のひらに感じるムズムズの気配もない。
「まあ、呪力を使ってこなかったのなら、今までの人生でやろうとも思わなかったことでしょうからね。抑制が効きやすいのでしょう。毎日地道に練習するしかありません」
「ありがとうございました……」
私の中の常識は、カップが物理的な干渉なしに動くことを受け入れていないようだ。空中浮遊マジックを仕掛けがあると冷めた目で見ていたツケがこんなところに現れるとは。
ちょっと落ち込みながら初回の練習は終わり、私は若干落ち込みながらお屋敷の廊下にあるランプに灯りをいれに行く仕事に戻ったのだった。
この時点では、ガッカリしながらもさほど悲観はしていなかった。
呪力についてよくわかっていないながらも、サラフさんとガヨさんに分けてもらった呪力が左手にあるというのはなんとなくわかっていた。トイレドアの開閉やロウソク点火などができるからだ。手のひらにムズムズがくるのも感じていたし、よく考えたら抑制が働きそうなロウソク点火だってマスターするのにそう時間はかからなかった。
だからなんだかんだでこの念力系能力も身に付けられるのではないかと思っていたのだけれども。
「……難しい……」
「まだ5日目ですからね」
私が持ち上げようと試みる対象は、カップからスプーンへとハードルが下がっていた。小さいティースプーンである。手を使えばかるーく持ち上げられるやつである。
今日もカイさんとこの部屋に来るなりひとしきりムムムムと念じていたものの、1ミクロンも動かなかった。テーブルを挟んで向かいに座ったカイさんも、本を読みながら横目で私の様子を見ていた。カイさんからできるアドバイスは大体聞き終わったので、私が出来るようになるのを待っているだけなのである。なんか申し訳ない。
「唸っていればできるものでもないですし、少し深呼吸でもしてはどうです?」
「はい……」
背もたれに体を預けて、大きく息を吸いながら腕を上に伸ばす。カイさんはパタンと本を閉じた。一緒に休憩してくれるようだ。私はしばらく迷ってから、思い切って話を切り出してみることにした。
「……あの、カイさん、聞きたいことがあるんですけど」
「総長が追い続けている相手についてですか?」
「エッなんでわかったんですか」
サラフさんには異世界人を狙う集団の中でずっと追っている相手がいて、その人だか人たちだかを捕まえるために私を囮にしたらいい、とロベルタさんは言っていた。サラフさんが「忘れろ」と念を押したので、ガヨさんは詳細を教えてくれなかったのである。
私も一応は忘れようと努力してみたのだけれど、やっぱり気になってしまうのだ。ロベルタさんが私を囮にすれば捕まると思った理由はなんなのか。サラフさんとその相手には何か関係があるのか。
「サラフさんって、呪力がとても多くて強いんですよね。それでも捕まえられないって、すごく大変なことなんじゃないかと思って。で、その捕まえられない人たちが異世界人を狙い続けるなら……」
「自分のように攫われて売られるような異世界人がこれからも出ると思うと胸が痛むので、囮になってでも捜査に参加したいと?」
「い、イエ、そこまでは考えてないというか私では無理な気がするというか」
「そうでしょうね。自分の能力の低さを適度に評価できているようで大変よろしい」
微妙な部分で褒められた。
「総長、いや我々が長年追い続けている組織は、この国の根幹に深く結びついている」
「エッ?!」
「素っ頓狂な声を出すのはやめなさい」
「スミマセン。あの、教えてくれるんですか?」
「聞きたいのでしょう?」
半分ダメもとだったので、カイさんがお説教したり渋々だったりせずに話し始めたことに驚いてしまった。たぶんサラフさんから「忘れろ」と言われたあたりはガヨさんが報告しているだろうから、カイさんも忘れなさいで話を終わらせるかと思っていたのに。
カイさんが、予想外の反応にうろたえる私を見て軽く息を吐く。
「事情を知ろうが知るまいが、このことでいずれあなたの身に危険が及ぶ可能性があります。ならば知っておけば何かの役に立つかもしれません」




