異世界の新生活は知らないことが多すぎる件6
「ロブ」
「……ちぇー」
私の祈りが通じたようで、サラフ総長は赤い人を遠ざけてくれた。ありがとう総長。やっぱり持つべきものは権力のようだ。
のしかかっていた重みがパッと消えたので、私の体幹はちょっと揺れた。花を抱え直しつつ、横歩きに2歩赤い人から遠ざかる。いやもう一歩。位置的にサラフさんの方へと近付いてしまったわけだが、この2択だったら絶対こっちの方がいい。
「さっさと行って警備を強化しろ。来るぞ」
「えーめんどくさァ〜」
ブーブー文句を言いながらも、赤い人は上司に逆らう気はないようだった。じゃーねと手を振りながら出て行ってしまう。あの人、そもそもここに何しにきたんだろう。ただ私を無駄におびやかしただけだった気がする。
「……あの、ありがとうございました」
「近付くなって言っといただろうが」
「スイマセン」
私が仕事してるところに向こうから近付いてこられただけなので少々理不尽に感じたけれど、素直に謝っておく。逃げ出してカイさんにでも助けを求めた方がよかったのだろうか。でもあの人はあの人で「仕事もできないとは」とか言いそうな気もする。
そのままサラフさんが黙ってしまったので、私は花瓶に花を活ける仕事に戻ることにした。カスミソウのような細くてポワポワした花を、高さを考えつつ花瓶に入れていく。私がテーブルの周りを回ったり、ピッチャーから切った茎を出して水を入れ替えたり、桶から花を取り出したりと動き回っても、総長はドア近くの棚に軽く体重を預けて腕を組んだまま動かなかった。
気まずい。
「あの、総長さん」
「おい」
「スミマセンサラフさん、水場をお使いになりますか?」
用事があるならすませちゃってお部屋にお帰りいただいて大丈夫ですよ〜という気持ちを込めながら流し台を開けてみるけれど、表情も動きも変えずにこっちを見ているだけだった。
「あの……外から帰ってきたらあの……手とか洗わないといけないかもしれないかなーって……健康のために……」
マフィアのボス相手に私は何を言っているのか。幼稚園児じゃないんだぞ。
へへへ……とその場を取り繕うための笑いを浮かべて状況を誤魔化そうとしていると、サラフさんが組んでいた腕を解いてこっちに来た。
やばい制裁される。
思わず抱えている花を楯にしてみたけれど、サラフさんが手を伸ばしたのは私ではなくて流し台の方だった。蛇口を見てからこっちを見る。
「おい」
「アッ今やります」
図らずもレバーを背にして立っていた。今の「おい」が「邪魔」でなくて「水を出せ」という意味であった場合のために、私は慌てて花を置いてレバーを上下させる。ジャバジャバ出てきた水でサラフさんが手を洗い始めた。置いてあった石鹸を手に取ってちゃんと泡立てている。
マフィアも手を洗うんだな。
この空気を気まずいと思ったりはしてないだろうけれど、もしかしたら、私が言ったから手を洗おうと思ったのかもしれない。提案を無碍にするのはしのびないと気を使ってくれたというのは、流石に主観が入り過ぎているだろうか。
「おい、もういい」
「ハイッ」
充分過ぎるほどに泡を洗い流したサラフさんが、レバーを上下し続ける私に眉を寄せながら声をかけた。慌てて止めると、ポケットからハンカチを取り出して手を拭いている。丁寧だな、と眺めていて気がついた。
「あのっ、昨日のハンカチ、ちゃんと綺麗に洗ってから返します」
「いらねえ」
「えっ、えっと、じゃああの弁償とか」
「いらねえっつってんだろ。使っとけ」
「ハイッ」
マフィアともなると、ハンカチなんて捨てるほどあるという意味だろうか。結構高そうに見えたけれど、てめえの鼻水が付いたハンカチなんかいらん的なアレだろうか。反論できない。
いつかお給料が貰えたらそれで弁償できたらいいな……お給料貰えるのかな……貰えたらいいな……
そっと未来に思いを馳せつつ、再び花を花瓶に入れていく。仕事の手を止めたままでいるのもよくないのはわかっているものの、手を拭き終わったサラフさんがそのまま私の仕事を観察し始めたので、気まずさはさっきよりもアップしてしまっていた。
花を均等に入れていくと、花瓶の大きさによってまだ余裕があるものと、茎で口が狭くなったものが出てきた。小さい花瓶に入らないものは大きい花瓶の方へ回すけれど、バランスが変わってくるのでちょっと悩みどころだ。明るい色の花瓶には派手な花を多めにしたり、柔らかい色彩のものには小さめの花を増やしたりと考えながら活ける。
あれこれ悩みつつ花を選んでいくのは結構楽しい。うっかりしていると、マフィアの総長に見張られながらやっていることを忘れそうになるほどだった。ハッと存在を思い出して見上げると、サラフさんは気を逸らすことなくこちらを見ていた。
「え……えーと、この花瓶、サラフさんの部屋にも飾るんですか……ね」
「だろうな」
「へぇー……あの、どの花瓶とか決まってるんでしょうか?」
「いや。カイが適当に置いてるんだろ。この辺の花瓶は見たことあるな」
サラフさんが指したのは、最も大きいサイズの花瓶3つだった。どれも細かい柄が描いてある陶器の花瓶である。やっぱり豪華な部屋なので豪華な花瓶が似合うのだろう。
「何か入れてほしい花はありますか」
「特にない」
「そ、そうですか」
花にはあまり興味がないようだ。どんなものが置いてあっても気にしなさそうだけれど、一応その3つの花瓶の花は可愛らしくなり過ぎないようにしておくことにした。色味の統一したシンプルなものと、あの豪華な部屋に見合った派手なもの、それから置いてあった花が全種類入っているものを作っておく。これでカイさんがいい感じに選んでおいてくれるだろう。
桶に入っていた花を大体活け終わり、出来栄えを確認しているとサラフさんが口を開いた。
「ところでユキ、それはいいのか」
「はい?」
「さっきからずっと付いてるが」
長くてしっかりした指が、私の手を指した。右腕の方だ。
なんのことかと思いつつ指された部分を見る。
捲って折った袖のところに、小さい青虫がくっついていた。




