衣食住環境の落差がすごいことになってる件8
力一杯、頭を下げて10秒後。
「顔上げろ」
「や、雇ってもらうまでは……」
「いいから顔上げろ」
「ウギッ」
声が急に近付いて、頬を温かいものに触られたので思わず顔を上げてしまった。そのまま顔を下げないように指で顎を持ち上げられて、ちょっと背中が攣りそうになった。
青い目が盛大に呆れたような、変なものを見るような視線を私に注いでいた。
「女がンな簡単に跪くんじゃねえ」
「か、簡単じゃなくて……働かせてもらえたらいいなって……」
「だからいいっつってんだろうが」
「エッ」
「立て、おら」
チッと舌打ちしながら指示されて、私は立ち上がった。迫力ある声で怒られるとめっちゃ怖いので、私レベルでは反抗することは無理だ。顎で座れと言われたので、大人しくソファに戻る。
「あの……いいんですか? 雇ってくれるんですか?」
「何度も言わせんじゃねえよ」
「スイマセンッ」
怒られたのに、私は笑顔になってしまった。
総長、雇ってくれるらしい。
土下座が効いたのか、やっぱりいいマフィアなのか、よくわからないけれど、とりあえず競売にかけられることはないようだ。……たぶん。
いい人すぎて人相の悪い顔が天使のように見えてきた。いやそれは嘘。でもいい人に見えてきた。見かけほど怖くない。
「ありがとうございます、総長さん! 精一杯頑張ります!」
「おい、その総長さんってのやめろ」
「あっごめんなさい! 総長さまですよね!」
「違う」
真顔で否定された。なぜ。
総長御大とか、神とか呼ぶべきだろうか。それとも働くからには下っ端の下っ端になったわけであり、呼びかけることなど論外ということだろうか。
悩んでいると、溜息を吐かれた。
「俺の名はサラフ・ユージグリフ・イル・ダイード4世だ」
「えっ……サラ……? アノすみません、覚えられませんでした」
「サラフ」
「さ、サラフさん」
マフィアのボスこと総長ことサラフさん、名前めっちゃ長い。石油王とか言われても頷けるレベル。
なんか長かったけれど、一番最初のサラフが名前のようだ。私が繰り返すと、サラフさんは眉を寄せたまま頷いた。アホだから全部覚えられないと察してくれたようだ。
「もう遅い。戻って寝ろ」
「ハイッ」
あんまりしつこくして「やっぱクビ」と言われても困るので、私はまた立ち上がった。
「……色々、ありがとうございました。これからよろしくお願いします」
「早く戻れ」
「はい」
お辞儀をすると、シッシッと追い払われた。フカフカのカーペットを歩いて廊下に続くドアまで近付き、もう一度頭を下げておく。
「サラフさん、おやすみなさい」
「ああ」
きちんと挨拶をして、ドアも丁寧に閉める。使える人材だとアピールしておかねば。
そっとドアノブから手を離してから、自分でも不思議なほどにウキウキした気持ちになっていることに気が付いた。もう帰れないことを考えるとやっばり悲しいけれど、私の足はきちんと床を踏み締めて廊下をまっすぐ歩いていく。
自分の部屋のドアを開けるときに、うっかりサラフさんのハンカチを持ってきてしまったことに気が付いた。涙やら鼻水やらで思いっきりしっとりしてるし、握ったまま土下座もしてしまったものだ。洗ってから返そう。
コップから水を飲んで、洗面台で顔を洗ってからベッドに潜り込む。
ただトイレを探していただけのはずが、勤め先まで見つけてしまうとは。異世界にやって来てからようやく、運が向いてきた気がする。
いつになく楽しい気持ちで枕を抱きしめ、ふと思った。
さっき、サラフさんが言った名前、やけに長かったな。
本名全部言った……ってことはさすがにないよね。本名知られると危ないとか言ってたし。
サラフさんの苗字はどれだけ長いんだろうなーと考えているうちに、私は再びぐっすりと眠りに落ちてしまっていた。




