衣食住環境の落差がすごいことになってる件6
洗面所を出て右側、カーテンが開けられたままの窓の下で、総長が寛いでいらっしゃった。大きなソファに悠々と背を預け、足を組んで、手にはなんかウィスキー的なグラスを持っていらっしゃる。そして目は確実に私の方を見ていた。
夜中に遭遇していきなりトイレを所望したという恥ずかしさが吹っ飛ぶほどの迫力である。クロヒョウとかと同じくらいのオーラ。
「……お、お手洗いありがとうございました……」
感謝を示しつつ、私はソファから離れるようにじわじわと横歩きをして、ドアを目指す。背を向けて無礼とか言われても困るのでそうしていたのだけれど、それを眺めていた総長が「おい」と私に声を掛けてきたあと、グラスを持ってない手を持ち上げてクイクイと指を動かした。
あの動作は地球的には「こっち来いや」というジェスチャーである。異世界ではどうなんだろう。はよ帰れ的な意味じゃないかなー。だったらいいのになー。
止まりながらそう思っているともう一度クイクイされたので、私は進行方向を変えた。どうやら異世界でも同じ意味を持つジェスチャーだったようだ。
正面に立つのは怖いので、ソファーの横、棚に近い位置で立ち止まる。
「あの、夜中に申し訳……」
「座れ」
?????
座れって何? どこに? 床? 廊下?
フリーズしていると、総長が眉を寄せてから自分の左隣、開いている座面を叩いた。
どゆこと。
「また便所に行きてえのか?」
「イエ大丈夫デス座リマス」
総長がじろっと睨みながら「下水に流されてえのか」的ないみのことを言ってきたので、私は素早い動きでソファに座った。浅く座るつもりだったけど、座面が思いの外フカフカしていたせいでバランスを崩し、コケるくらいの勢いで背中を凭せかけてしまう。
やべ、死。
思わず固まったけれど、隣に座っていらっしゃるお方は特に動じず、小さなテーブルの上でボトルを注いでいらっしゃった。その隙に腹筋を駆使して姿勢を立て直す。どうしても凭れるしかない仕様のフカフカだったので、せめて失礼にならないよう深く座り直した。
「飲むか?」
褐色の手が、こちらにグラスを近付けてきた。
これはどう見てもお酒。
こないだハタチ超えました、と心の中で返事をしつつ頷くと、そうかとグラスを渡されたので受け取る。
短くて大きいグラスの中に半分くらい入っている薄い黄色の液体を眺めながら、私は思った。
えー、ここのマフィアの人、商品にお酒とかくれるの? 景気良すぎない?
私を攫った人たちが景気悪すぎただけなの?
この世界の標準的な生活ってどんななの?
グラスを顔に近付けると、ふんわりとレモンのような香りがした。甘さの中のスッとした柑橘系の匂い。
思っていたよりも随分と甘そうなお酒だ。もしかして総長、甘党なんですか。
マフィアも人だもんね……と思いながらひと口飲んで、私は思いっきり咽せた。
「?!」
普通のジュースだこれ。
爽やかな酸味が先立ち、くどくない甘さがすっきりとした味わいをもたらしている。ふんわりと香る匂いから、複数の果汁を混ぜているような感じがした。
マフィアさまのお部屋を汚してはいけないという一心で口を押さえて飲み込んだけれど、まさかマフィアのボスがジュース飲んでるとは思わなくてそのギャップに心と喉がついていけてない。
「おい、」
「ダッ大丈夫でフッ」
咳をなんとか抑えて、フーと息を吐く。
「気に入らねえなら他のを出すが」
滅相もございません、という気持ちを表して私は手と首を一生懸命横に振った。
涙目でチラッと見ると、総長のグラスに入っている液体は赤っぽいものだった。私のは黄色。どうやら、私のためにジュースを出してくれたらしい。
なんかいい人なんですけど。このジュースちょっと冷えてるし。
私が堪えきれなかった咳をすると、総長がもう一度尋ねた。
「酒にしとくか? てめえには強いと思うが」
「イエイエ結構です」
気遣いはありがたいけれど、私にはジュースで十分だった。
ちなみに総長は、強いらしいお酒を軽ーく飲み干していた。マフィアって心だけでなく消化器官も鉄でできてるの?
心を落ち着かせてからもうひと口飲んだジュースは、美味しかった。
甘いものなんて、どれくらい口にしてなかったっけ。
日本にいるときはダイエットしてたから、我慢してた。あ、週末に作った甘さを限りなく控えた手作りおからケーキが最後かな。
ぼんやり考えていると急に涙がぼろっと出て、私は慌てて顔を棚の方に背けた。
なんで急に涙が。まさか催涙性のジュースだったのか。
鼻の奥がツンとして、堪えようとしているのにじわじわ涙が溢れる。フリフリの袖で拭うけれど、なんかうまいこと止まってくれない。人前で泣くとか。しかもマフィアのボス。ついでに棚からは頭蓋骨さまが見てる。
「誰も見てねえよ」
隣から言われて思わず振り向くと、総長はグラスを傾けながら私とは反対の方を向いてグラスにお酒を注いでいた。シャンデリアの明かりで金髪がキラキラしている。後ろ髪は結構長いんだな。シャツが薄いから、肩も腕もしっかりしてるのが分かる。グラスを持った左手の甲に筋がまっすぐ浮いていて、中指のでっかい宝石がついた指輪に負けないほど存在感があった。
私はなんで、涙を拭きながら怖い人の観察をしているのか。ちょっと冷静になっていると、不意に総長がこっちを向いた。じっと私を見たあと、ポケットに手を入れる。
ハンカチだ。
「……さすがに鼻水は拭け」
「ウッ」
冷静に指摘されて胸が痛い。私はハンカチを受け取って顔に押し付けた。なんかお香っぽい甘い匂いがする。オシャレ。
「そのままでいいから聞け」
ちょっと落ち着いてきた精神でハンカチに涙を吸わせていると、また声がかかった。




