競う人
外へ出ないでくれとテレビが言う。
もう振り回される自分にうんざり。周年を前にスナックを閉めると決めたのは、キシモトなりの意地であった。
天井が雨を防ぎ、壁は風を通さない。田舎から送られてくる米は尽きることがなく、分厚いカーテンを閉めた部屋にあっては衣服も不要だ。
完成された生活。面倒な他人との交流も、汚らしい視線もない。言葉を聞きたいときはテレビを観れば済む。扉の向こうの世界に戻る理由はない。
この生活を始めてからわかったのは、我が身の造形的な美しさ。
負けず嫌いでストイックなキシモトは、持ち物のランクも一気に駆け上った。だけど、かつての勲章を眺めた心に浮かぶのは、その思い出だけ。バッグもセットアップも、それ自体に目を奪われる時間はほんの一瞬。
なのに、うっすらと見える血管の美しさは違う。弾力を失いつつある肌も、他人の目を意識しないで見ると、創造主の美意識に驚かされるばかりであった。膝をたたんだときに現れる影の濃淡は、どれだけ時間をかけて眺めても飽きることがない。
皮膚を撫でる指先がもたらす感覚はくすぐったくもあり、肩甲骨のストレッチは本来の体を取り戻させてくれる。部屋から出ない時間のほとんどを、キシモトは体遊びに費やした。
店を閉じる。10年間かけて叶った念願は、同じ長さの時を経て終わる。従業員への支払いと退去費用、その他もろもろ。義理を欠く振る舞いなしでいけば、貯金はあまり残らない。でも、それがいいと思うキシモトであった。
思い返せば、この感染症は、他国のニュースとして耳に入ってきた。いつも世界のどこかで起こっている不幸な出来事と同じで、自分の人生には関係のないこと。前の冬、キシモトはそう思っていた。しかし、春のテレビが伝える不幸話は、徒歩圏内の映像と共にあった。
昼の散歩の目印だった店が閉まり、夜の賑わいはない。生気を失う街中で考えていたのは終焉のこと。自分のミスでその時を迎えるのではないと言い聞かせながら、役所をまわり、金策をし、サムライ業に電話をかけた。
休業要請期間が明けても店は寂しく、資金は減っていく。でも、流行病はいつか終わる。それまで耐えるための、赤字を小さくするための戦い。夜の店への風当たりは強かったが、少しずつ売上は戻りつつあった。
年末が近づき、夜の店に行くなとテレビが言う。まず出てきた感情は怒りであった。テレビを消した。
仕事は食べていくためのお金を稼ぐこと。どんな仕事でも誰かの助けになっている。その証拠が対価だ。人のために働いて、人は生きている。みんな、世の中のためになっている。職業に貴賎はない。
でも……夜の街が感染を広げている。死人も出てるし、病院もパンクしそう。お金よりも大切な人命がかかっている。迷惑だから、お金を稼ぐな。
怒りの次に出てきた感情は、混乱であった。世の中のために稼ぐことが、世の中のためにならない。お金がないと食べていけない。みんなのために飢えて死ねということ。
ここまで考えて、思い至った。
私には米がある。米と水さえあれば、飢えて死ぬことはない。この部屋は自分のものだし、塩や卵を買い続けるくらいの蓄えはある。だけど、従業員たちは……。
テレビをONにした。
病院が大変だと言っている。キシモトも従業員も、病院にお世話になったことがある。
しばらく休業することにした。
「ねえ、少し、店を休もうと思うのよ」
「……店を、ですか」
「ごめんね」
「時短営業じゃなくてですか」
「うん、お客様、いない日も多いし」
「店は……続けるんですよね」
「そのつもりではいる」
年末年始、そしてその後の周年イベント。そこで勝負をするために休むべきだと説得した。店を休んで好印象を得て、お祝いムードを盛り上げる布石にするのだと。歩合は無理だが、休んでいる間の時給分は払う。だから、お願い。テレビ電話越しに頭を下げた。
臨時休業の貼り紙を見て、2軒隣のガールズバーの店主が笑う。前の店での後輩だ。その細くなった目は、同情などでなく、勝ち誇る笑みであった。
部屋から出ない8日間。キシモトは筋トレなどの体遊びに没頭し、ひたすらに米を食べた。テレビからは不要不急の外出をしないでくれとのメッセージ。「一歩も出ていませんよ」と声に出して言う。
当然、キシモト個人の忍ぶ姿には、世界を変えるパワーはない。感染者の数は増え続け、年末の営業再開も厳しそう。
年末年始と周年、そこで稼げないなら話は違う。もう終わりにする。
夜の営業をやめてくれとテレビが言う。
「わかりました」とキシモトは応じた。
こうなることは、実のところ、春から感じていた。やれるだけのことをやった。自分自身にそう言うためだけに、煩雑な手続きをこなし、耐えてきたのだ。このことを自覚した時、彼女は自身のエゴを感じて恥じた。
キシモトには引き際の美学がある。
バスケットボールの腕を買われて高校に進んだ彼女には、中学生の頃からずっと憧れてきた上級生がいた。そのプレイだけでなく、口調や振る舞い、そして持ち物、すべてを真似てきた。
先輩のような人、いや、先輩そのものになりたがった。
夜の自主練習を終えた後には先輩のプレイを思い出し、その意図を考え、日記に書き留める。ベッドに入る前には前月と前週の分を読み返し、これを反芻しながら眠りに落ちる。毎日は幸福であった。
最終学年に上がる直前、キシモトはついに超えた。先輩と一緒に練習する最後の日。パスを受け取ってフェイントを2つ。憧れの対象が視界から消え、ボールは高い放物線を描いてネットを通過した。
憧れていた人よりも高いレベルにいる。この思いは、その後、フォワードとしての働きを十分にできないときの支えとなった。最終学年である、しかもチームの得点源でもあるキシモトは、自身が憧れの対象になったことを徐々に自覚する。そして、先輩への想いは薄らいでいった。
トーナメント準決勝で敗退した翌日、次の代との最後の練習を行ったキシモトは、1on1で相手にほとんど何もさせないまま、完全な勝利を果たす。バスケットボール選手としての時間を終えた瞬間、目の前にあったのは、後輩の悔しさや寂しさではなく、不安な表情であった。
引退の余韻に浸ることはなかった。「やってしまった」という悔悟の思い。そして、同時に、やはり先輩にはほど遠いと感じたのだ。
キシモトは決めた。これからの人生において、身を引くときには決して勝ち逃げしないということを。ボロボロになるまで、最後までみっともなく足掻き、敗北者となる。その姿を次の人に見てもらう。
とはいえ、高校卒業後の美容部員時代は、そもそも勝てなかった。華はあったが、知識と教養が足りなかった。見た目だけで頭が悪い。1つ下の新人の陰口を聞いたとき、不思議と悔しくなかった。むしろ、これで辞められると安堵した。男相手の仕事がお似合いよ。なるほどと思い、ホステスに転職した。
しかしながら、結局のところ、同じであった。見た目だけでどうにかなる期間はとても短い。キシモトは覚悟を決めた。
まず新聞を読もうとしたものの、まったくわからない。店の客に相談して、中学時代に使っていた国語と社会の教科書を実家から送ってもらった。それでも経済面はわからない。同僚ホステスの女子大生が読んでいた中小企業診断士の参考書を本屋で買った。1つも資格試験を受けなかったが、たくさんの資格の参考書を読み続けた。
可愛げたっぷりに教えてもらう。その資質に同僚の誰よりも優れていたキシモトは、どんどん指名客を増やしていく。来週までの宿題にしてもらうことで常連客も増えた。独立するまでの2年間、彼女は不動のナンバーワンであった。
キシモトは理解している。心底憧れた人から学ぶのに必死だった過去。これが自分の強みだということを。
今でも先輩が私の支えになってくれている。
こう思うと、どれほど競争に疲れていても、心の中に安らげる場所を見つけることができた。
店を閉じることを決めたキシモトが最初にしたのは、念入りなメイク。白地に青紫の小さな花が浮かぶ着物。誰に会うわけでもないが、ヘアセットを予約した。
華美な格好で向かったのは、かつて負け続けた百貨店。その地下にあるタマゴサンドはキシモトにとっての都会の象徴であり、パートナーであり、敗北の味であった。蝶としての最期にふさわしい買い物だと少し笑う。
店の照明をすべて点け、明るい中でアイラウイスキーを飲む。開店準備や営業初日の光景がよみがえると思っていたのだが、そのようなことは一切なかった。
「思い出に浸るためのグラスだったのにな」
一気に飲み干し、掃除を始めた。
髪を乱し、着物は汚れる。汗でメイクは崩れていく。背のあたりが蒸れ、キシモトは、アルコールと一緒にこれまでの20年間が流れていくのを感じた。
成人してすぐに入ったこの世界。切長の大きな目と贅肉のない168センチのスタイルは、5年目で、若さが売りでなくなった。
最初から、キシモトは自分の店を持つことを希望していた。かつてのチームメイトに遊びに来てもらいたかったのだ。しかしながら、学生時代の仲間が夢中で読んでいたバスケットボール漫画を揃えて店に置いていたものの、結局、一度も開くことなく捨てる。
ゴミ袋行きはすべて入れ終え、酒類の処分に悩む。とてもじゃないが一人で飲める量ではなく、店先で売ってしまおうかとも思ったが、未開栓のものを売る免許がない。考えるのも面倒になって、買取専門店に電話した。
さて、残るは、この姿を次の人に見せること。
近くでガールズバーを開かれた日、キシモトは初めての強い怒りを覚えた。ナンバースリーにもなったことのない色恋が……。だけど、今、キシモトは、その後輩をリスペクトしている。
私は負けたんだ。二人の従業員に仕事を探させてしまう。
タマゴサンドをかじり、水を飲む。乱れた髪を両手で整え、メイクを少し。着物についた塵芥をパンパンと払う。
鍵をかけ、通りを見渡す。鳩も鴉もいない。深呼吸を1つ。準備中のガールズバーの扉を3回ノックした。
「おつかれさま、少し時間をくださらない」
「あら、珍しい」
「そうね、開店以来かしら」
「お姉さん、お茶とコーヒーのどちらのご気分で」
「ありがとう、でも、すぐ帰るから」
「残念、せっかく美味しい茶葉が入ったのに」
「お気遣いなく、まだ女の子は来てないのね」
「うちはみんなギリギリ、遅れてくるのもしょっちゅうですよ」
「あなたにそっくりね」と出かかった嫌味を抑え、キシモトは後輩の目を見てから、ゆっくりと瞑目した。深く頭を下げる。
「どうしたんですか、やめてくださいよ」
「お願いしたいことがあるの」
「顔を上げてください」
身構える後輩の不安をなくすため、さっさと本題に入ろうと決めた。
「店を閉じることにしたの、今日はキープボトルの相談を」
「え……あの、ちょっと」
「こういう時勢だから、しばらく休んでみて考えたの、もういいかなって」
「最終日はいつですか」
「もうこのまま閉店する」
「周年、近いじゃないですか」
「いいの、閉めると決めた後で、お客様と楽しくお喋りなんてできそうもないし」
「でも……」
「こうなってから分かったのだけど、お酒の処分って大変ね、ほとんどは業者さんにお願いして、でもキープボトルはそういうわけにもいかないから」
「なおさら、急いで店をたたむ必要はないじゃないですか、お姉さんと飲むために入れてくださったボトルでしょ、せめて最後に一緒に飲む日を……」
「それを、あなたのお店でお願いしたいの」
「……どういうこと、ですか」
「それほど多くはないの、持って帰っていただくか、最後の一杯をうちの女の子と飲んでいただくか、あなたのお店で、お願い」
キシモトは、うなじを見せるように深く頭を下げた。「やめてください」の声を無視し続けるうちに涙が床を濡らした。
これから先、これでよかったのだろうかと自問する日が続くだろう。従業員の一人でも後輩の店で採用されれば、少しは気が楽になるのかもしれないが、過度な期待をしてよい立場ではない。負けを受け入れたキシモトは、キープボトルの持ち主に連絡する。
「勝手を申しまして恐縮ですが、当日、私は不在となります、長らくのご愛顧ありがとうございました、どうかお元気で」
帰り支度の店内、閉店の貼り紙をしていないことに気づく。
ーー長い間のご愛顧、まことにありがとうございました。厚く御礼申し上げます。
10年間、いやこの業界に入って20年間。その中で経験したさまざまな感情とお別れをする。
私には何が残るのだろう。地元にはずっと帰っていない。チームメイトには今の生活があって、彼女たちの人生に私の居場所はない……先輩、幸せだといいなあ。
リュック姿の女子高生とすれ違った時、キシモトは、日記をつけるのが好きだったことを思い出した。
そうだ、日記帳を買おう。10年日記を見かけたのは、どこだっけ。
キシモトはアイスブルーのジーンズに穿き替えてから出かけようと決めた。