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「――なんだ、じゃあ部室には行こうと思ってたんだ」
「……昨日は、変な感じで、出て行っちゃったから……謝り、たくて」
「ならどうして、あんなふうに隠れてたの?」
「気持ちの整理が……つかなかった、から」
「あー、あるよね! 緊張のスイッチって一回入っちゃうとなかなか自分ではオフに出来ないもんね!」
「まぁ、そんな感じ……か、な」
ところで、とメアリが立ち止まる。りうは歩みを止めて振り返った。
「――あの……、いつまで手……」
「ああー……」
先行するりうの右手は後から来るメアリの左手を掴んだままだった。りうがメアリを柱の影から引っ張り出し歩き始めた時から今まで、ずっとそれはそうなっていた。
「なんかほら、手を放したら逃げ出しちゃうかもー、とか思って」
冗談交じりのおどけた調子ではあったが、本気だった。りうの脳裏には昨日の光景が浮かぶ。
「剣崎さん、結構足速いから」
それを聞いてメアリは困ったような口調で応えた。
「別に……、逃げ出したりしないし、足も速くないから大丈夫、……だよ」
剣崎の言葉を疑っていないことを示すためにりうは頷いて見せる。と同時に、ふと疑問が湧いた。
「じゃあ、足が速く感じたのって歩幅が広いからなのかな? 身長ってどれくらい?」
「歩幅は関係ないと、思うけど……身長は、一六八……かな。たしか」
百七十には届いていなかったようだが、それでも十分だ。
「いーなー。モデルさんだ。スタイルもいいもんね」
近くで見たメアリは思っていたより肉感があって決して痩せているわけではなかったが、それは裏を返せば女性らしい量感を備えているということだ。メリハリのついた体型に憧れるりうからすれば、それは理想的といっていいプロポーションだった。
「そんな……、別に……」
「手もさ、指長いもんね。……やっぱりあれかな? 指が長いのってゲームするのに有利だったりとか? ボタン押しやすいとかある?」
「どう、だろ……。わかんないけど」
「そっか、いいなー」
心の底からりうはそう思う。
ついでに、妹のうきが剣崎のことを知ったらどうなるかを考えた。おそらくメアリの圧倒的な外見力に一発でファンになるのではないだろうか。もっとも、こだわりが強く流行至上主義のうきのことだからメアリの服装や髪型、その他もろもろ全体の雰囲気に関しては多少の文句も出るかもしれないが。
「そういえば、今日は眼鏡なんだね」
「……コンタクト、あわない、みたいで……」
「そうなんだ」
――じゃあ、昨日はそれで、泣いてたのかな?
そんな単純な感じではなかったが、そんなこともあるかもしれない。一番いいのは本人に訊ねることだが、ズケズケといけるタイプのりうでもそこに踏み込むのはやはりまずい気がした。
「日野さん」
不意にメアリがりうを呼ぶ。
「あ、うん?」
「手」
メアリは繋がれたままの手をじれったそうに左右に動かした。
「ああ、そうだね……」
頷いたりうは「じゃあ部室まで」と再びメアリの手を引いて歩きだす。
「え? あの――」
手を離すものだと思っていたらしいメアリはそんなりうの選択に驚いたようで、何か言いたげに口をモゴモゴと動かしていたが、最後は諦めたのか口をつぐんだ。
我ながらかなり強引だと思う。けど、
――離したら、逃げちゃいそうなんだもん……。
短い距離を歩いてたどり着いた格ゲ部部室のドアは昨日と同じように解放されていた。
来客を歓迎するポスターも、虚無顔の猫のイラストもそのままだ。りうは猫の存在を目で確認していちいち満足すると部室の入り口に立った。
「米倉先輩!」
りうが声をかけると部室の奥の方に立っていた女生徒がこちらを振り向く。女生徒は、昨日剣崎と対戦した二年生だった。昨日とは違って今日はゆるくうねった髪を結ばずそのままにしている。おっとりとした優しそうな雰囲気をたたえた彼女こそがこの格ゲ部の部長で、名前を米倉絵里といった。
絵里はりうの姿を確認すると嬉しそうにほほ笑んだ。
「日野さん。いらっしゃい」
「今日も、お邪魔します」
絵里につられてりうはニヘニヘと笑った。
「大歓迎だよ――、うん?」
途中までいいかけたところで絵里はりうの後ろに半分ほど隠れた影に気づいたようだった。
「日野さん、その人――」
「そうなんですよ、ここに来る途中で偶然あったんです。ね?」
りうが横にずれてスペースを作ると、引っ張り出されたメアリがそこに収まった。
「ど、どうも……」
メアリは頭を下げる。なんだか体全体が斜めに傾いだような不格好な挨拶だった。
「あ、あの……昨日は、その――」
頭を元の位置に戻したメアリは顔にかかる前髪を片手で撫でつけるようにしながら、空いたほうの手でズレた眼鏡の位置をなおす。昨日の姿とは全く違ったメアリの冴えない様子を、しかし絵里は気にした様子ひとつ見せずに笑顔で迎える。
「とりあえずほら、ふたりとも入って」
「はーい」
りうは絵里に言われるままに入り口を抜け部室の中へと進む。硬直しかけていたメアリもそのあとに続いた。
「日野さんは体験入部だよね」
「はい!」
「それで――、その……」
「け、剣崎、メアリ、です」言いよどんだ絵里の様子に気付いてメアリが名乗る。「昨日は、あの――、色々、すいません……でした」
そういわれて絵里は微笑む。
「ちょっとびっくりしたけど気にしてないよ」
「そ、そうですか……」
「もしかして、そのことでわざわざ来てくれたの?」
「あ、いえ……はい、その――」
メアリは体を細かに揺する。その振動がりうにも伝わってきた。どうやらかなり緊張しているようだ。りうとの会話では戸惑っていても緊張した様子は見せなかったと思うが、どういう判断基準なのだろうか。
メアリからの返答を待っていた絵里がふと思いついたように口を開く。
「あれかな? もしかして、剣崎さんも体験入部とか?」
「……はい」
メアリは肯定の返事をするが、それが本心かどうかりうにはわからなかった。雰囲気に流されただけのような気もするが、最初からそのつもりだったとしてもおかしくはない。
どちらにせよ、りうにとってはありがたいことだった。
「ところで」と絵里が言う。
「ふたりともすごい仲良しだったんだね」
「え? あっ……」
絵里に指摘されてりうは自分がメアリといまだに手を繋いだままだったことに気が付いた。
「あははは、何だかんだと事情がありまして」
人から指摘されて初めてりうは手を繋いでいることに気恥ずかしさを感じ始める。メアリを逃がさないつもりで初めて、後はなんとなく妹の手を引くような感覚でこうしてたが、メアリは妹でもなければ肉親でもなく、それどころか友人でもない。良くて知人、それも限りなく他人に近い。
――もしかして、嫌だったりしてるかな……。
今さらながらそのことに思い至ったりうは、チラリと横目でメアリの様子を覗う。メアリは嫌がるというよりも、自分の取るべき反応に困っているようだった。
「えっと……手、はなすね」
「あ、うん……」
とりあえず怒った様子がないことに安心しながら、りうはそっと指を開いた。つないだ時は勢いだったが、はなすときは自覚的なのでりうはなんだか変に緊張してしまった。
空になった掌に相手の体温が残っていて、りうはそれをむずがゆく感じる。どうもメアリも同じ気分だったらしく、ふたりは互いにモジモジしてしまう。
そんな奇妙な距離感を微笑んで眺める絵里の頭上には大きな疑問符が回転していた。
「……なんだかよくわからないけど、今日は来客が多くてうれしいな。三人も来てくれて、招き猫効果あったかも」
「招き猫って……」
――もしかして、あの虚無猫のことかな?
あの猫のイラストには猫であることのほかに招き猫の要素は一切ないと思ったが、思い返してみればりうはあのイラストに背中を押されたわけで、そう考えればたしかに効果は出ているといえた。
「招き猫?」
メアリはどうもピンときていないようだ。
「ほら、入り口の張り紙に描いてあるイラスト。見なかった?」
「見た、けど……。あれ、猫、だったんだ。もっとゾッとする……、何かだと思ってた」
「ゾッとって……、なに?」
「妖怪……、とか?」
「妖怪ッ!」
メアリの発言に絵里はショックを受けたようだ。どうやらあのイラストを描いたのは絵里であるらしい。
「妖怪でも、可愛いやつだよね?」
りうは慌ててフォローするが、メアリにはその理由がわからない様子で首をかしげる。
「……どこが?」
絵里が「がびーん」と古めかしいリアクションをとる。絵里なりの冗談のつもりなのか、あるいはただの本気なのか、りうにはイマイチ判断がつかなかった。
りうは場の空気が変にならないよう、正しい反応を模索しているうちにふと、気が付くことがあった。
――あれ?
「――あの、三人、ですか?」
たしか絵里は来客が三人いると言った。しかし部室にいるのはりうとメアリ、絵里を数えれば三人だがふつう家主を来客とは呼ばない。
となるともうひとり来客がいることになるが――。
「あ」
と声をあげたのはメアリだった。
「え?」
りうはメアリの視線を追ってみる。すると絵里のすぐ近く、机の上に置かれたモニターの後ろに隠れるように、小柄な人物が座っているのに気が付いた。
一度その存在に気がつくと、むしろなぜ今までその人物の存在を見逃していたのかがむしろ疑問になってくる。それほどに、その人物は人目を引く特徴を備えていた。
窓からの光を直接反射するような黄金色の長い髪。小さく繊細な作りの顔にはめ込まれた、濁りのない翡翠色の瞳。りうたちと同じ制服を着ているのでかろうじてこの学校の生徒で一年生だとわかるが、そうでなければもっと幼く見える。そこにいたのはまるで物語の中の妖精をそのまま取りだしてきたような少女だった。
非現実的な印象を持ったその少女のことをりうは知っていた。というか入学式からまだ一週間ほどしかたっていないが、おそらく彼女のことはこの学校にいる生徒のほとんどが知っていた。
それぐらい彼女は目立つ生徒だった。
「たしか一組の……」
「空上露です。はじめまして」
椅子から立ち上がった金髪碧眼の少女は姿勢よく頭を下げた。りうは外国人然とした容姿の露が見せた態度や、慣れた様子に新鮮な驚きを感じていた。
――でもそれって、失礼だよね。
見た目で何かを決めつけるのは賢いやりかたとはいえない。りうは内心反省する。そして先走って英語なんかで話しかけたりして変な空気にしなくてよかったと、ホッとしたりもした。
なんてことを考えていると、
「ぐ、ぐーてん、もるげんっ!」
メアリが盛大にやらかしていた。それもなぜかドイツ語で。何がどうしてそうなったのか、正確なところは解らないが、そこに露に対しての過度な緊張が影響しているのは間違いなかった。そんなメアリを露は苦笑いで優しく迎え入れる。
「ごめんなさい、わたし日本語しか喋れません。でもでも、祖母はロシア生まれなので、ロシア語の挨拶なら少し出来ますよ。オーチンプリヤートナ」
そういって露はメアリに向かって手を振って見せる。メアリの暴発にも対応した素晴らしい返しだった。
「あ、ああ……」
自分の過ちに気づいたメアリがパクパクと口を開け閉めしながら、静かに混乱していると、その混乱を断ち切るようにパチンと何かがはじけるような音が鳴った。その音を鳴らしたのは絵里だった。
両手を合わせて皆の注目を集めた絵里は先輩らしい態度で言う。
「それじゃあ、せっかくだから自己紹介も兼ねて、この辺で一旦お茶にしましょうか」
突然の提案に、呆気にとられた一年生三人に向かって絵里はにっこりと笑顔を浮かべた。
それから数分後、机を四つ使って作った即席のテーブルに、人数分のエナジードリンクが正方形を描くようにおかれていた。
「去年卒業した先輩たちからの差し入れなんだけど、わたしひとりじゃ飲み切れなくて。これ、嫌な人は言ってね」
椅子に座った絵里はエナジードリンクの缶を持ち上げる。掌より少しだけ大きい飲みきりサイズのそれは、多くのプロゲーマーが宣伝していることでもおなじみの有名な商品だった。
「大丈夫です! ありがとうございます!」
「……どうも、です」
「わたしこれ、飲んだことないですね」
四人は等間隔の間を空けて、机を囲む席に腰を下ろしていた。
「えっと、とりあえず改めて自己紹介をしておきたいんだけど、みんなはいいかな?」
三人の一年生は揃ってうなずく。正確にはメアリだけ頷くのが少し遅れた。
「――じゃあ、わたしから」絵里が立ち上がる。「えっと、二年の米倉絵里です。私がこの対戦格闘ゲーム部の部長です。というか、唯一の正式な部員、かな。去年の春に二学年上の先輩たちが部を卒業して、それからは一人で活動してました。現状ラスト格ゲ部員です。よろしくっ」
絵里は最後のセリフと共に両手でピースサインを決めた。しかしすぐにこれは違うと思ったのか咳払いと共になかったことにした。
「じゃあ、ここから左回りで順番にお願いしようかな」
少し頬を赤く染めた絵里は着席しながら左隣に座っていた露に水を向ける。左回りとなると露の次がりうで最後がメアリだった。おそらくその順番のほうが何かと安心だと考えたのだろう。安定感のある采配だった。
「では」
露は背筋の伸びた美しい所作で立ち上がると、先ほどのように姿勢のよいお辞儀をして見せる。さらさらと砂が落ちるときのように金色の髪が形を変えて流れた。
「一年一組の空上露です。先ほども話に出ましたが、祖母がロシア出身で、クォーターです。対戦格闘ゲームに興味があって体験入部をお願いしに来ました。全くの初心者ですが、よろしくお願いします」
もう一度礼をして、空上は席についた。どこからともなく拍手が沸く。お手本のような自己紹介だった。
「子供のころに格ゲー、しなかったんだね」
「はい。あまり機会に恵まれなくて……」
絵里の質問に露はコクリと頷く。りうたちの年代でまったくの格ゲー初心者というのはなかなか珍しかった。続けるかどうかはともかく、幼いころに少なくとも一度は経験しているものだと思っていたのだが、そうでない人もいるらしい。
――けど空上さんなら、納得かも……。
露の普通とは言い難い特徴的な容姿を見ていると、その程度の例外は当然のような気がした。
「さて、それじゃあ次は――」
絵里に促され、りうはその場に立ち上がった。先に高得点を出されると委縮してしまう人もいるが、りうはその手の感情とは無縁だった。特に気負いもなく自然に自己紹介を始める。
「一年五組の日野りうです! 昨日の米倉先輩と剣崎さんの対戦を見学して刺激を受けました。一応、小学校卒業するくらいまでは格ゲー遊んでました。たぶん初心者と中級者の間、くらいかな? 体験入部希望です。よろしくお願いします!」
りうは元気よく頭を下げてシメる。拍手を送られながら腰を下ろすと露が声をかけてきた。
「米倉先輩と剣崎さん、対戦――したんですか?」
「うん。すごかったよ」
「剣崎さん、経験者なんですね」
「しかもその時は米倉先輩に勝ったんだよ」
そのことを露に告げるときりうはなんだか少し誇らしい気分になった。
「それ、きっとすごいんですよね」
「うん!」
りうは深く頷く。ソレを受けて露が驚嘆を混ぜた視線を向ける中、メアリは無言のままヌルリと立ち上がった。
腰を上げたメアリは立ち上がるまでの間にズレた眼鏡の位置を慌ただしい手つきで元の位置に戻すと、うつむき加減になって長い前髪で顔を隠すように何度か手で押さえる。それから右に傾いていた姿勢を左に傾け直し、最後に開き直ったかのように背筋をただし胸を張った。
「一年二組の剣崎メアリです。どうしてここにいるのかは――わかりません」
はっきりと強く言い切ったメアリに、他の三人はどう反応していいものか解らず、揃って黙したまま次の言葉を待つ。
「…………」
「…………」
「…………」
もしかしたら次の言葉はないのかもしれない。三人がそう思い始めるだけの長い間を空けて、ようやくメアリが口を開いた。
「……でも、あの今はたぶん――」メアリはチラリとりうを見る。「――ゲームがしたい……です。よろしくお願いしましゅ」
頭を下げ、その姿のままメアリはふにゃりと椅子に体を落とした。その姿はまるで持てる力を全て使い果たしてしまったかのようだった。
そんなメアリに向かって、りうは精一杯の拍手を送る。
りうはただ素直に喜んでいた。
――剣崎さんと、ゲームできるんだ!
たったそれだけのことに感動できてしまうくらい、りうにとって昨日の剣崎がみせたプレイは衝撃的なものだった。
「うんうん! ゲーム、しようね!」
りうが声をかけると、メアリは恥ずかしそうに顔を伏せた。
「じゃあ、乾杯しましょうか」
一通りの自己紹介が済んだところで、絵里がエナジードリンクを手にとるよう勧める。
「それでは、三人の体験入部に! 出来れば正式な部員になってほしいなー、なんて気持ちをさりげなーく込めまして、カンパーイ」
持ち上げられた四つの容器が、慎ましい小さな音を立てて重なった。