/INSERT COIN.
カチカチガチャガチャと、懐かしい音がする。
やみくもに登り切った階段の先、旧校舎三階の廊下で日野りうは思わず足を止めた。
――この音……。
音は廊下の奥、つきあたりの教室から聞こえる。子供のころよく耳にした音だ。
りうは手にしたプリントを見やすい位置に持ってくると、折り目を開いて中身を確認する。見開きには部室棟として利用されている旧校舎の見取り図と、それぞれの教室を利用する部活動の名前が記載されていた。
肩に下げた鞄の位置を気にしながら、りうは見取り図から音のする三階廊下奥の教室を見つけ出すと、太字で書かれた文字を口に出して読み上げてみる。
「2D対戦格闘ゲーム部、か……」
――そういえば、そんな部活もあった気が……。
今朝の集会は部活の説明会を兼ねていて、部の代表者が壇上に立って活動内容を紹介する時間があった。りうのような新入生に向けたアピール活動だ。その中には2D対戦格闘ゲーム部も含まれていた――ような気がする。
部活動の紹介用に用意されたプリントにこうして記載があるのだから間違いなく説明はあったはずなのだが、正直よく覚えていなかった。りうの通う香風高校は部活動が盛んで、中学の時とは比べ物にならない数の部活があったから、きっとその多彩さに印象が埋もれてしまったのだろう。デジタルゲームによる競技――エレクトロニックスポーツの部活動というのもそれほど珍しいわけではなく、それだけで興味を引く様なこともなかった。
――けど……。
こうしてレバーとボタンの生み出す音を聞いていると、そそられるものがある。
「…………」
賑やかなその音はさっきからずっと、途切れることなく続いていた。気がつけば音の発生源である教室へとりうの体は引き寄せられていた。
廊下を進み目的の教室に近づく。すると扉に貼られた見学自由の張り紙が目に入った。貼り紙のには角の丸っこい手書きの文字で『格ゲ部部員募集中。気軽に声をかけてね』という文章と、猫らしきイラストが添えられていた。よく見れば猫には吹き出しが用意されていて『楽しいニャー』という台詞を発している。ただし、丸と直線の組み合わせで記号的に表現された猫の表情からは楽しいどころかなんの感情も読み取ることは出来ない。無だけがそこにはあった。
――虚無猫だ……。
りうはその猫のイラストが少しだけ気に入った。
教室の扉は明け放しで、中の様子を覗くことができた。狭い教室の中には六つの机が二つ一組になるようにして並べられ、それぞれ机の上にはひとつずつ、型の古い標準的なサイズのモニターが置かれている。教室の照明は点いていなかった。かわりにカーテンの開いた窓から射す午後の明かりがボンヤリと室内を照らしていた。
窓際の席にはふたりの生徒がモニターを挟んで向かいあうようにして座っている。制服から女子だということはすぐに解るが、その他の細かい部分は逆光の影になっていて良く見えない。ただ教室の中にいるのはふたりだけで、彼女たちが音の発生源で間違いないようだ。
ふたりはりうに気づく様子もなく、目の前のモニターを見ながら手だけを忙しく動かしている。彼女たちの手元にあるのは、教科書ほどの大きさをした特殊なコントローラーだった。
りうの頭の中には選択肢が二つ、浮かんでいた。
中に入るか、それとも引き返すか。
教室の中には張り詰めたような空気が満ちていて、侵入するには少しばかり勇気がいる。一方で引き返すのはじつにたやすかった。ただ回れ右をして来た廊下を戻ればいいだけだ。
「…………」
少し悩んで、りうは教室に入った。
――せっかくだから画面くらいは見ておきたいよね。
そんなことを思う。虚無猫のイラストに感じた好意もりうの背中を押していた。
教室の中に入ると、コントローラーを操作する音以外にもゲーム自体のBGMや効果音も聞き取れるようになった。BGMは単純で覚えやすく印象的な、ときどき不意に脳内で鳴りだして止まらなくなる類のメロディーで、口ずさんだのは一度や二度のことではない。そんな馴染みのBGMにつられて、りうは徐々に気分が高揚していくのを感じた。自分でも単純だとは思うが子供の頃にしみついてしまった感覚は、少し年を重ねた程度では抜けないものだ。
りうはノロノロとした速度で教室の中を移動し、ふたりのいる窓際に近づく。自分の立ち位置が変わったからか、それとも薄明かりに慣れたからか、逆光の中で影絵のようだったふたりの姿が徐々にはっきりと見え始めた。
りうから見て奥にいるのはゆるくウェーブのかかった髪を後ろで束ねた生徒で、胸元のリボンの色から察するに二年生のようだ。そしてもうひとり、手前にいる長い真っ直ぐな髪の生徒で、リボンの色を見るとこちらはりうと同じ一年生らしい。
ここまで近づいても、ふたりは気にする素振りを見せない。かなり集中しているみたいだ。りうは邪魔にならないよう出来るだけ静かに移動して同学年の少女の後ろに回り込んだ。
背中側に立つと、少女の艶やかな髪が上から下へと一筋の乱れもなく揃い、流れ落ちているのが目に入った。癖っ毛で長い髪の似合わないりうはその素直な髪質をうらやましく感じた。
――シャンプーとかトリートメントとか、何使ってるんだろ……。
そんな風にゲームから離れかけていたりうの思考が、不意にモニターから聞こえてきた音声によって引き戻される。慌てて視線をやると、ゲーム画面の中央に大きく映し出された『ROUND2』の文字が消え、今まさに開始の宣言がなされたところだった。
りうが子供の頃から慣れ親しんだそのゲーム画面はシンプルな構成をしていた。画面上部には細長い長方形の棒状をした体力の残量を示す『体力バー』が制限時間を示す数字を挟んで並び、画面下部の左右には必殺技を強化したり、超必殺技をだしたりするのに利用されるエネルギーの残量を示す『ゲージ』がそれぞれ置かれている。そんな画面の中央で向かい合うのがふたりの操作するキャラクターだ。
白い道着に身を包んだ赤いハチマキの少女、ホシ。
迷彩のジャケットを羽織った軍人の女性、キャロル。
始めのうち、りうには目の前のふたりがそれぞれどのキャラクターを操っているのか解らなかった。が、試合が進んでいくにつれコントローラーを操作する動きと画面上のキャラクターがとる行動の同調具合でなんとなく判別をつけることが出来るようになった。
奥にいる先輩がキャロルを、そして手前の一年生がホシを操っているようだ。
勝利した試合の数を示す表示を見るに、どうやら一年生のほうが一セット目を制して試合を優勢に進めているらしい。同じ一年生、それにホシはむかし自分が使っていたキャラクターということもあって、気がつけばりうはホシを操る一年生に感情移入して試合を眺めていた。
試合内容はほとんど互角。ホシの激しい攻めをしのいでキャロルが反撃に転じたかと思えば、その反撃をしっかりと防御で受け止めたホシがさらに状況をひっくり返す。目まぐるしい展開の中で繰り出される攻撃にはりうが子供のころいくら練習しても出来なかった難易度の高い連続技の組み合わせがさりげなく使われていたりもした。
最初、素朴な懐かしさで試合を眺めていたりうだったが、観戦を続けているうちにそんな気持ちはどこかへ吹き飛んでいた。目の前の試合は幼いころ自分が遊んでいた対戦格闘ゲームとはあまりにもレベルが違っている。比較するのもばからしいくらいだ。
キャラクターを操る技術が違うのは当然として、対戦するふたりの行動には一つ一つに意味があるように見えた。前に出るのも後ろに下がるのも、技を使うのも使わないのも、ただ何となくで行われてはいない。正確な意味を理解することは出来ないが、間違いなくそこには意思があった。
それはまるでりうが子供のころに憧れて見ていたプロプレイヤーたちの試合のようだ。
――こんな風に、出来るんだ……。
予想外の感動にりうが痺れている間にも試合は進んでいた。序盤はホシが攻める展開が続いていたのだが、途中から逆転されて今では体力に随分と差がついてしまっている。主導権を握っているのはキャロルで、ホシは体力も残り少なく、一つでも攻撃を当てられてしまえば終わりというところまで追いつめられていた。
ホシには強力な必殺技――超必殺技を撃てるだけのゲージがたまっているものの、それだけで逆転するのは難しい。
――ああ……。
りうはホシの敗北を予感する。
間違いなく状況は一年生に不利だ。
画面の中で地面に倒れていたホシが起き上がる。そこにキャロルが下段からの攻撃を重ねるようにして放った。その攻撃をホシがしゃがんだ状態で防御すると、次にキャロルが繰り出したのは上から打ち下ろすような右ストレート――しゃがんだままでは防ぐことのできない中段技と呼ばれる攻撃だった。
のめりこむように試合を観戦していたりうは、当然のようにその中段にまったく反応できなかった。しかしホシを操る一年生は冷静だった。しっかりと立ち上がって攻撃を受け止めると、反撃の投げを仕掛けていく。が、その反撃はキャロルが投げを抜けることで防がれてしまう。
一瞬の間。まるで演武のような淀みのないやり取りに、りうは呼吸を忘れて見いった。
投げを抜けた後の状況は互いにとってほぼ互角。僅かな硬直時間を経て先に動いたのはキャロルだった。キャロルは長い脚をコンパクトに動かして、鋭く差し込むような下段攻撃を繰り出す。それはキャロルの持つ最速の攻撃だった。
防御するのでも精一杯の攻撃。
それを、ホシは拳を地面から掬い上げる様な必殺技によって刈り取った。
「……なんで、出せるの?」
思わずりうはつぶやいていた。
ホシが放ったのは攻防一体の必殺技だ。確かに相手の攻撃をつぶすことが出来る。しかし相手に当たらず外れてしまえば反撃が確定してしまう。この状況では、きわめてハイリスクな選択だ。それをこの土壇場で選択する一年生の読みと度胸に、りうの背筋がゾクゾクと震えた。
――すごい。
ハイリスクな選択を通したご褒美は、確かなリターンだった。キャロルが地面に倒れたのを見てホシが動き出す。攻守が入れ替わって、先ほどと似た状況。思ってもみなかった展開に動揺したのか、起き上がったキャロルは勢いのついたホシの攻撃を防ぎきることが出来ず一気に体力を減らしていった。
それまで互角の展開だったのが嘘みたいに、一方的な展開。
気が付けばキャロルの不用意に放った一撃の隙に、ホシの繰り出したフック気味の右こぶしが突き刺さっていた。間髪入れず突き上げるような左こぶしが後に続く。さらに甲高くも小気味いい効果音と共に背景が暗転したかと思うと、ホシの体が雷光のようなまばゆい輝きを放った。
その演出は、ゲージをすべて使った超必殺技が繰り出されたことを意味していた。
りうの頬が自然と持ち上がる。
――勝った……!
いまの体力ではキャロルがホシの超必殺技を耐えきることは出来ない。この時点で一年生の勝利は確定していた。目まぐるしい攻防、絶体絶命からの逆転。目の前で起きた出来事に、りうは自分の細胞がシェイクされるような気分を感じていた。
――すごい! すごい!
ホシの超必殺技によってキャロルの残った体力がみるみる奪われていく。後は勝利のアナウンスを待つばかり。
と――音を立てて一年生が勢いよく立ち上がった。
腰をあげた少女はかなり身長が高く、その背中に遮られてりうの視界からモニターがすっかりと隠されてしまう。勝利の瞬間を見逃したくない気持ちと、少女への興味との狭間に置かれたりうは、咄嗟にうまく反応することが出来なかった。
空白を抱えて硬直したりうの前で少女が鋭く方向を変えて振りむく。真っ直ぐな黒髪が扇上に広がって、窓からの光を反射してチカチカと瞬いた。
――あ。
綺麗な女の子だった。
色白で、華奢で、儚げなのに背が高く手足も長い。東洋と西洋の人形から良いところばかりを集めたような印象に、意志の強そうな眉と大きな瞳がよく似合っていた。
そんな少女の姿に、りうは思わず見とれてしまう。
「……ッ!」
目があった。
少女は背後にりうがいたことに驚いたようだったが、それで動きを止めるようなことはせず、無言でりうの脇をすり抜け、それから徐々に歩く速度を上げて――最後は駆け足になって教室を出ていった。パタパタと遠ざかっていく足音。
「……あ」
りうは我に返ると、少女のあとを追った。考えがあっての行動ではなかった。ただ咄嗟にそうするべきだと思い、気が付いたら反射的に体が動いていた。しかし廊下を進み階段へとたどり着いたころにはもう、少女の姿はどこにも見えなくなっていた。
「…………」
踊り場にひとり取り残されたりうは立ち止まって動けず、ただ呆然としていた。残光のように焼き付いた記憶が、自分の意思とは関係なくりうの頭の中で何度も繰り返し再生される。
――どうして。
記憶の中で、りうは振り返った少女と何度も目を合わせ、そしてそのたびに気づく。
――どうしてあの子、
少女の眼は充血して赤く、長いまつ毛は水滴を捕まえて潤んでいた。
――泣いてたんだろう。