一場の春夢
長い夢を見ている。
視界に広がるのは、一面の花畑。
赤い花、黄色い花、白い花。鮮やかな色を身につけた花々が、まるで自らの美しさを誇示するように、溢れんばかりに咲いていた。
そんな風景をじっくりと見ていると、やがて僕は目の前にひとりの女性が佇んでいることに気が付いた。
「こんにちは」
立っていたのは、雪のように白い肌が特徴的な、美しい女性だった。
彼女の纏う美しさは、人間の美醜という尺度では表せないような、どことなく神秘的な美しさだった。
「こんにちは。あなたは誰ですか?」と僕は少し緊張しながら尋ねる。
「私は蝶です。学名はありますが―ヒトの名前に相当するような個体名はありません」と、彼女は澄んだ声で答えた。
僕は彼女の言葉を疑わなかった。
なぜなら、これは夢だということに僕はもう気づいていたからだ。
現実での彼女の言葉は、突拍子で奇妙なものとしか受け入れられないだろう。けれど、この夢の世界では、私は人間ですと言われるよりも、私は蝶ですと言われたほうがずっと納得できたし、何よりも夢想的だった。
「蝶はとても綺麗な生き物ですよね」と僕は言った。
「そうですか?」
「はい。宙をひらひらと舞うところとか。翅を丁寧に折りたたんで、花の蜜を吸うところとか。人間なんかよりもずっと綺麗で、僕は好きです」
「ありがとうございます」
彼女は嬉しそうに微笑む。それを見て、彼女の笑った顔は、美しいというよりも可憐という言葉の方が似合うなと僕は思った。
「蝶のあなたは、人間は好きですか?」
「好きですよ。ヒトは、蝶にとても優しいから」
「優しい、ですか」
「ええ」
ヒトは優しい。
彼女のその言葉を、僕はすんなりと飲み込むことが出来なかった。心臓を握られて締め付けられているような、そんな感覚を覚える。
「僕はさっき、蝶はとても綺麗な生き物だと言いましたけど」
「はい」
「僕たち人間は、『美しい』という理由であなたたちを殺すことがあります」
花々から漂う甘い香りと、青い草木の匂いをつんと鼻に感じながら、僕は言葉を続ける。
「胴体や翅が崩れないように、慎重にあなたたちの命を奪います。そして、見栄えを良くするために展翅してから、あなたたちの身体に針を突き刺す。その標本は研究を目的として使われることもあるでしょうけれど、多くはただ鑑賞するためだけです。――それでも、僕たち人間のことを優しいと思いますか?」
僕の問いかけに、彼女は目を伏せた。
黒く、そして艶やかな長い睫毛が、ゆっくりと彼女の瞼を隠す。
「蝶の一生は、とても短く、そして儚いんです。ヒトとは比べ物にならないくらいに」
そして、彼女は言った。
「ヒトは、私たちの身体を傷つけず、美しい姿のまま残そうとする。そのおかげで私たちは、死して尚、生きている姿そのままに世界に存在することを許される。それは儚い命を燃やすように生きる私たちにとって、生きていることと同じです」
彼女は顔を上げて、僕の目を見つめる。穏やかな瞳だった。
「――だから、私はヒトのことを優しい生き物だと思います。もちろん、あなたのことも」
ありがとうございます、と僕は言った。
僕たちの命は、他の生命の死の上に成り立っている。
命を奪いながら生きている。
僕がずっと抱いていたその罪悪感から、少しだけ救われた気がした。
「僕も蝶になりたいです」
僕の言葉に、彼女は可笑しそうに言う。
「なれますよ。この夢の世界なら」
細く澄んだ彼女の声が、僕の耳に響く。
願わくば、このままずっと彼女と言葉を交わしていたいと思った。でも、それは叶わない。これは夢だからだ。
彼女と話していると、どことなく眠くなる。退屈な眠気なんかではなく、今すぐにでも堕ちてしまいそうな、心地よい眠気だった。
僕は花を潰してしまわないよう慎重に、ゆっくりと仰向けに寝転んだ。草花で覆われた地面はとても柔らかく、布団のように僕の身体を包んでくれた。
僕は目を閉じる。
「蝶も夢を見るんですか?」
「はい」
夢はいつか覚めて終わる。覚めなければ、それは夢ではない。
けれど、この夢から覚めるまでは。
「胡蝶の夢、という言葉をご存知ですか?」
彼女の隣にいたいと、そう思った。