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掌編

屋根裏の貴婦人

作者: 土井留ポウ

「深窓の佳人とはまさにああいうことなんだな……」

 狩野がこう感慨深げに呟いた。

 われわれの視線の先には出窓がありそこにぞっとするほど凄艶な女が佇んでいる。切り妻屋根の矢切の部分に作られた出窓だった。それは古びた二階屋である。彼女の妖艶な白い顔は真っ直ぐと狩野の方を見下ろしている。

「俺を見ているぞ!」

 狩野は叫んだ。

「待て」

 私は狩野を押しとどめた。というのも彼はその場から一歩踏み出し、その古びた民家の少し開いた引き戸まで歩きかけたからだ。

「放せ!下条!」

 狩野はまるで幻惑されたように私の手を振り解こうとする。出窓を見上げると女は手招きをしているのだった。

「手招きしているじゃないか!」

 狩野はまるで有頂天になって私の手を乱暴に振り解くと、真っ直ぐと民家のその少し開いた引き戸に向かって歩き出した。

「仕事はどうするんだ?」

 私は言った。私と狩野はとある建材会社に勤めており、新規顧客開拓のセールスの為にこの区域の住民の挨拶回りをしている最中だったのだ。

「課長の方にはお前が言っておいてくれ!」

 彼は一瞬振り返ってこう叫ぶと少し開いた引き戸を開け、中に入るとピッタリと引き戸を閉めた。私が出窓を見上げると女もピシャッと音が聞こえそうな勢いでカーテンを閉めた。

「全く呆れたやつだ」

 私は仕方がなく狩野を抜きにして午後の仕事をこなしたのであった。


 社に帰ると当然課長から狩野はどうしたと疑問を投げかけられる。

 私は狩野を庇う気持ちから、本質をそらして、課長には急な腹痛で早退したと伝えた。

 心配そうな顔で課長はその時の状況や狩野の具合を聞こうとしたが、本当は屋根裏部屋の貴婦人と真昼のランデブーと洒落込んでいるなんてとても言えない、とても痛そうにしてましたと言う他になかった。

 しかし、私がこうフォローしたにも関わらず次の日、彼は出社しなかった。大丈夫であろうか、課長は不安そうな顔で、すぐさま彼の携帯に電話を掛けた。何度か電話を掛けたが狩野は受話することもなく、そのうち向こうの方で電源を切ったらしかった。

 どうなっているんだ、課長は頭を何度も傾けて視線を宙空に走らした。私は全く呆れかえって淫靡な世界に浸っている狩野を恨めしく思ったが、逆にここで借りを作っておいてもよかろうとも思い、腹痛から重病がこじらせたのでは、と素朴な見解を述べるにとどまった。

「下条、今日は帰り道に狩野の様子を見に行ってくれ」

 課長は私にそう指示した。


 夕方、私は帰り道に狩野のアパートに寄った。何度か呼び鈴を鳴らしたが彼は出て来なかった。留守である。きっと狩野はあの屋根裏部屋の貴婦人とあの古びた民家で未だにお楽しみの最中なのだろう。私は全く呆れかえって無駄足を使わせた狩野を恨めしく思った。

 翌日も狩野は出社しなかった。

 私は課長に昨日が無駄足だったことを告げた。何か事件に巻き込まれたのだろうか、課長は心配そうにこう言ったが、私は鼻で笑った。何がおかしいのだ、課長は私に詰め寄った。私は、彼のプライベートのことですが、と前置きしたのだが、屋根裏部屋の貴婦人と昼夜にわたるお楽しみの事の次第を語った。課長は目を丸くしてそれを聞いていた。何、三日もすれば帰ってくるでしょう、私はこう付け加えた。課長はお手上げというように両手を差し上げ、首を振った。何故、我が社にはもっとまともな人材がいないのか、と嘆いていた。人材が昔と違って劣化しているな、などと言って天を仰いでいた。
















 その日、私が帰宅すると、ドアのところに奇妙な紙のようなものが差し挟まれていた。紙のようなものと言ったのは、それがあるいは何かの皮のようにも思えたからだ。非常に粘着質な汁が付着し、不快な臭いを放つので、服の襟で鼻を覆わざるを得なかった。そこまでして何故この紙のようなものを持たなければならなかったのかは、そこに書いてある文章のためであった。宛名や差出人の記載はなかったがそれは明らかな狩野の字体で、確実に私に宛てた手紙だったからなのだ。そこにはこう書かれてあった。


【下条。俺だ。分かるだろう。俺だ。俺がしばらく会社に出社していないことをお前も心配しているだろうと思ってこんな手紙を差し上げた次第さ。

 下条!案ずるな。それはお前の杞憂というものだ。

 下条。俺はこの世の極楽にいるということをお前に伝えておこう。

 彼女は(お前も知っているだろうあの女だ)俺にありとあらゆる奉仕をしてくれているんだぜ。毎日毎日俺のものをくわえて(会ってすぐにしてくれたのだ)その粘着質の舌を使って俺に最高の至福を与えてくれている(あんまり嫉妬するなよ)。

 その緑色の体液を俺の身体中に万遍なく塗りつけてくれるのもこの上なく嬉しい限りだ。(全くこの世はなんて極楽なんだろう!)その六つの乳房から垂れる青汁(とても青いのだぞ)の何と甘いこと。彼女の背中を破って生えた羽根の鱗粉の何と芳しいこと(悪いがお前にこの至上の悦楽を味合わせてやれないのが残念に思うが、お前はこの文面からもたらされる妙味で一人でやってくれ。俺はそれを憐れむしかないのだ)。

 下条!

 俺はこれから彼女の親御さんに挨拶をしに行く仕儀となった。先方も喜んで俺を家族の一員として迎え入れてくれるようだ。

 もはや会えそうにないな。お前とは。

 彼女の実家は非常に遠いところにあるのだそうだ。

 そういうわけだ。下条。お前に幸あらんことを願う(俺のようにな)。】


 私はこの手紙をすぐに近くのどぶ川に投げ捨てた。私はそれから夜通し洗面所でその手紙の付着した汁を洗い流すために手を洗い続けた。石鹸で何度も何度も。

 私はあまりの恐怖に記憶から消したい気持ちから、本質をそらして、課長には狩野は「女と駆け落ちした。もう二度と帰って来ないだろう」とだけ伝えた。その後はもはや一切を語ることをやめた。課長は人材の枯渇を嘆いた。


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