『魔法』の果て
あるいはそれは予定通り、と言えるのか。
そして私の予測通り、クリスはあの日からぴったり五日後に帰ってきた。
クリスは陛下への報告よりも先に百合宮に訪れると、僅かに赤く濁った目を向ける。
「ああ……ルシエ。なんとか無事に帰れたぞ」
「…………」
「なるほど。あれが、『森』か」
興味深い体験だった、そう言うクリスには、特になにかを得た様子もない。
それがどうしても、私を不安にさせる。
「クリス様。……おかえりを、お待ちしておりました」
「うむ」
「その左腕の包帯はどうされましたの?」
「ああ……これは、少しな」
怪我ではない。
血の匂いはしないし、それ以外の怪我をしているにしては腕があまりにもスムーズに動きすぎている。
何かを『得た』のだとしたら、それは恐らく、そこなのだろう。
……そして、クリスは赤い目のまま、私を見て笑う。
第一段階は通り過ぎている。
第二段階も……恐らくは、もうすぐそこで。
「湯浴みを成されますか」
「そうだな。少ししたらしよう」
「ルーイ、タオルを」
「かしこまりました」
ルーイがそそくさと去って行く……クリスはそれに反応しなかった。
「ルシエ。お前達が何を考えていたのかは、正直、俺にはわからん」
けれどな、とクリスは続ける。
「それでもお前が、何かを成そうとしていたってことは気付いたんだ。……俺がそれを手伝えないことも。そして、アレを消そうとしてることも」
だめよ。
それは、だめなのよ。
「ルシエ。お前は……お前がやる必要は無い。俺がやろう。幸い――俺は、手に入れた。誰にも気付かれることなく、成すための手段を」
「……魔法。ですのね」
「ああ。森で手に入れた」
そうか。
クリスは、あの光の森の子供達から、魔法を得たのか。
……ルーイの予想通りに、予想から外れることなく、ただ、最悪を走っているのか。
「ルシエ様、タオルをお持ちしました」
「ありがとう」
戻ってきたルーイからタオルを受け取り、私はそのまま腕を振り抜く。
空気を切り裂く様な音がして、タオルはさも当然のように、クリスの胸元を貫いていた。
「…………、か、ふっ」
クリスはただ。
口から赤い血を吐き出している。
「クリス様。あなたが魔法を使えてしまう以上……私には、こうするしかないのです」
「……な、ぜ。お前の、代わり、に、俺……は、」
その気持ちはとても嬉しいものだった。
私のことを愛してくれている――だから私を手伝ってくれようとしている。
こうも熱狂的な愛情表現を、私は他に思いつかない。
けれど、だからこそ私は、彼を殺さなければならない。
それが私がつけるべきケジメだ。
「魔法という技術が何故、使われていないのか。それには思い至らなかったのですか?」
「…………」
魔法。
本来あり得ないことを引き起こすという、途方もない技術。
そしてそれは本来あり得ないことだから、証拠というものは意味を成さない。
完全犯罪以前の問題として、そもそも犯罪として成立させないほどの力がそれにはある。
けれど――その魔法の行使には、対価として己の存在を消耗する他に手段がない。
既にクリスの目は赤かった。
包帯を巻いている腕にも、外見的な変化が現れたのだろう。
「魔法はとても強烈で、強大な力でした。……王国が出来て間もない頃は、まだ多くの人々が使っていたと。そういう『記録』が確かにあるほどに」
けれどそれは昔の話。
数百年も昔の話――その頃には既に、魔法は危険なものであるという認識が大多数を占め、そしてとある術式を最後に魔法は事実上、封印された。
「魔法は行使者の存在を消耗する……消耗した分は、別のものに置き換えられてゆくのです。今はもはや御伽噺にしか出てきませんが、『魔物』とはそれの結果なのです。……人間が、魔法という力を使った後に、その存在が置き換えられた後の存在なのです」
「……魔物? あの、伝承の――」
「ええ。伝承の、魔物です。クリス様。あなたは……もう。あなたはもう、魔物になりつつあるのです」
魔物という存在が完成したら……もう、どうしようもない。
もはや魔物に対抗するべき手段が、人間には存在しないのだから。
なぜなら魔物は死なない。
魔法の対価を取り立て終えるまで、その存在をもって暴れ続けるだけ……どのような対処も対応も、そこには不可能なのだ。
だから魔物になる前に。
まだ人間として殺せる間に、私はクリスを殺さなければならなかった。
「ああ……、はは。実は……」
クリスは、虚ろな目でどこかを見て言う。
焦点は既に合っていない。けれど多分、クリスは私を見ようとしていて、……ただ穏やかに、笑っていた。
「……お前が泣くのを、初めて……見……、」
目の前の気配はそこで途切れて。
呼吸も何もかも、すべてが途切れ。
「ルーイ」
「……ルシエ」
「計画を変更するわ」
「…………」
「……リザとテオの手を汚させずに、全てを終わらせましょう」
私の決意に。
ただ、ルーイはクリスの遺体からタオルを抜き取り、あたりにこぼれた血を見て呟いた。
「クリスの思いは、逆だろうけど」
それでも私は。
間違っていても、ただ人間として進むしかないのだ。
◇
「私にはヒントが与えられていたのよ。アカシ・ロの警告以前にも、それ以降にも……クリスがあるいは魔法を手に入れてしまう可能性を、私は考慮できたはずなの。でも、結局は気付けなかった。だから最悪の一歩手前を見せつけられたとき、せめて最悪にはならないように手を打たなければならなかった……」
「けれど、私たちにせめて相談をしてくれていれば」
「……リザ。ルシエ一人が手を汚すのと、我々が皆で手を汚すのでは意味が違うのだよ」
「テオ様」
窘めるようにリザはテオの名前を呼ぶ。
それでもテオは揺るがない。
「確かにその時点でルシエが我々に相談をしていれば、あるいは我々はクリスの死を罪無くできたのかもしれない。けれどそうなれば、我々はいつまでたっても父上を殺せなかった。計画はどのみち、破綻していた」
「……けれどなにも、ルシエが一人で悪者になる必要はなかった!」
「あったのさ。……ルシエが一人でクリスを殺したならば、そのまま父上を殺してくれたならば、我々はただ一人、ルシエという犯人を断罪するだけで正義になれる。余計な手を掛けるまでもなく、計画を立てるまでもなく」
そう。計画を必要とせずに、ただ私が殺すのを待てば良い。
そして実際に殺した後、こうやって断罪すればそれだけで、全ての片を付けられる。
私を悪として裁き。
テオは正義の王子として、次の国王としてその地位を確約されるだけじゃない。
民からの人気も、一気に上がるだろう。
「それに犯人がルシエであるならば、『逃げられても仕方が無い』。この国でルシエを捕らえることができるものなど、誰も居ない。……だから、我々はルシエをなにも殺さなくても良い。処刑せずとも、逃げられても、むしろ我々の正当性はある意味補強される」
「そうね」
「だからこそ改めて聞きたい。なぜルシエ、君は今も尚、逃げようとしないんだ?」
隙ならばいくらでも見いだせるだろう、とテオは言う。
グェン様もそれに同調していて――だから、見逃すから早いところ国外に逃げろと言ってきている。
それがせめてもの報酬なのだと。
「まさか、ここでただ死ぬ気か?」
そんな事を考えるルシエではないだろう、そうテオは鋭く私を見据えた。
その通り。ただ死ぬなんて、私の性に合うわけが無い。
合うわけが無いのに……ね。
沈黙を星空が照らし出す。
長い長い沈黙の帳を、こじ開けたのは――リザだった。
「……ルーイくん、ですか?」
「…………」
そう。
「そもそも、お前にとってあの小僧は……あのルーイという少年は、何だったんだ? あの時のお前の取り乱す様は、……今でも、信じられないのだ。だからこそ、何かとても強い感情があったことは分かる。だが、我々はあまりにも、彼のことを知らなすぎる」
当然よ。
私もルーイも、一度も他人に喋ったことがないのだから。
「……そうね。どうせ死ぬならば、せめて想いを告白しても良いか。もはや不義密通とか、そういう罪が付加されても何も変わらないものね」
実際はもうちょっと複雑で、そんな罪にはあたらないはずだけど。
「けれどそのためにも、少し昔話に付き合って貰うわ。……十年前」
それは、クリスも辿り着いたあの森に、私が辿り着いたその時――