閑話:闇狼、町への道のりを急ぐ
『――――不覚だ。俺ともあろう者が何たる様だ』
そう、モンスター言語でぼやきながら、サイファートの町を目指して、森の中を一直線に疾駆する存在がひとつ。
大きさは現実でいうところの大型バスぐらいの巨躯。
その全身に闇を纏った狼が、彼という存在である。
『闇狼』のウーヴ・ドレスネグロ。
この辺りでは、知らぬ者がいないほど存在で、その脅威……いや、暴威についてはわざわざ説明をするまでもないほど、である。
曰く、『災害』。
曰く、『歩く理不尽』。
冒険者ギルドが掲げる危険度レベルでも、文句なしで最上位のAクラスに位置し、他の土地であれば、間違いなく討伐部隊が組まれるか、あるいはあえて刺激せず、ただただ、その暴威が去るのを身を潜めて待つか、悩ましい決断にギルドが苦しめられる。
それが『闇狼』という種なのだ。
そんな彼が、なぜか今は己の不覚を恥じていた。
おそらく、人間であれば、はっきりと赤面しているであろうほどの羞恥に身を焦がしながら、彼はただ町へと向かっていた。
その背にはひとりの少女が乗せられている。
疾走しつつも、大切なものが壊れないような丁寧さを伴った走り。
それは、ひとえに彼女を背中から落とさないためでもあった。
己にとっては『弱き者』に過ぎない少女。
だが、その少女は『弱き者』であるにもかかわらず、己の誇りに傷を付けた、と。
そう、彼自身が感じていたからだ。
『産まれたての赤子のような存在が、俺を不覚に陥らせた、か』
少女との遭遇から今に至るまでの経緯を思い出し、何が起きたのか思考する。
『弱きモンスター』に襲われていた『弱き者』を助けたのは、『町』と交わした約定に則ってのことだ。
なので、ウーヴにとって、それは当たり前のことで日常の一コマに過ぎない――――はずだったのだが。
次の瞬間、何か起こったのか。
今となっては、何が起きたのか、ウーヴ自身もはっきりと理解していた。
『状態異常……だな』
間違いない。
少女が『魔法』らしきもので生み出した、黒くて小さな欠片。
その匂いを嗅いでしまった瞬間から、自制が利かなくなってしまったことを振り返る。
まるで、高レベルの『夢魔種』が使ってくる魅了のような。
だが、とそこまで考えて、ウーヴは首を捻る。
『『魅了系』の能力とて、俺であれば、それと気付けば退けることができる』
にも関わらず、少女の出した黒い欠片。
その誘惑には抗し切ることができなかった。
あれは、ウーヴにとっては、甘くかぐわしい危険な毒だ。
欠片自身が『自分を食せ』と言わんばかりの強制力。
嗅覚には自信があっただけに――――いや、だからこそ、か?
『ふむ……狼種の弱点とも言える能力か?』
幸いというか、大量に降ってきた黒い液体、それをウーヴが食したことで我に返ることができたのだが、時すでに遅く。
護るべき『弱き者』は、ウーヴの目の前で倒れ果てていた。
『……思い起こしても、恥以外の何物でもないな』
最低レベルの者に状態異常を引き起こされた不覚。
危険信号が脳裏によぎったにもかかわらず、抵抗することができなかった不覚。
そして何より、我を忘れて、護るべき『弱き者』に襲い掛かってしまったことへの不覚。
それらが、ウーヴの自尊心をえぐる。
そんな感情の中で、ひとつだけ確かなことがある。
『この『弱き者』は認めてやらねばならないだろうな』
偶然。
あるいは、単なる相性の問題であったかもしれないが、この少女は確かに『最強種』の一角であるウーヴに対して、傷を与えたのだ。
それも、最弱のレベルの状態で。
それがどれほどありえないことであるかは、この世界に馴染んでいる者ほど、よくわかる。
おもちゃの剣で『竜種』の鱗を切り裂くような。
そんな荒唐無稽な出来事。
それが、ウーヴの身の上に起きたのだから。
『少し癪ではあるが、報告せねばならぬだろうな』
そうつぶやいて、ウーヴが頭に浮かべるのは軽薄な態度を崩さない当代の王。
魔王たるが、そのような体たらくでどうするのか。
威厳の欠片もないその姿はウーヴの好みではないので、好き好んで従う義理もなければ、恩義もない。
そんな男のことを想像の中で、ふん、と鼻で笑って。
『俺としたことが柄でもないな。このような雑事は他の者に任すとしよう。まあ、もっとも――――』
そこまで口にして、思わず、ごくりと喉を鳴らして。
『先程の黒い欠片。それが毒であれ、何であれ。また機会があれば、味わってみたいものだな。今、思い出しても、あれは間違いなく美味かった』
下手をすれば、今、ウーヴが約定と引き換えに受け取っている食べ物よりも。
それを生み出せるのが、この少女というのであれば。
それはつまり。
『この娘が個人として、俺と約定を結ぶだけの理由がある、ということだな』
ふふん、とウーヴが笑う。
そうして、まずはこの娘を『町』まで送り届けることが先決だと思って。
そのまま、ウーヴにとっては安全運転のつもりの高速移動で『サイファートの町』への道のりを急ぐのだった。