アッヘル一族
結局、身支度を整えるのに、一時間もかかった。風呂場で肌をきれいにし、金銀の糸で縫われた繊細なドレスに身体を通した。ご丁寧にもマーガレットは侍女を傍につかせ、化粧までさせた。要するに、ターシャを大切に扱っていることを父に示したいのだ。
お父様が、なぜわたしを?
最後に父に会ったのは、五年前だ。二人で食事をした。その次の年に、マーガレットと再婚したのだから、よく覚えている。以降は、父の仕事の忙しさと、マーガレットの妨害で会っていない。
「ターシャお嬢様、こちらへ」
侍女に案内されながら、ドレスの裾につまずきそうになる。久しぶりに着た高品質のドレス。勘を取り戻すのに時間がかかる。
長い廊下が三手に分かれる。侍女は左の通路を選んだ。
「あの、お父様の書斎は右の通路よ?」
「いいえ、旦那さまは会議室で待っておられます」
ターシャの顔が強張った。昨日の晩餐会に使ったお皿を洗ったとき、量がいつもの倍はあった。そして、会議室は大勢の人が入れる。ということは――。
お父様が屋敷に招待する者は大体が親戚一同…。では、昨日から一族会議が?
ターシャの父の名は、正式にはレギル・アッヘル。アッヘル家は代々続く名門伯爵家で、父は本家に近い分家筋の人間だった。
でも、なぜその一族会議にわたしが?
急に心臓がばくばくする。思考に気を取られて、本当に転びそうになる。そうこうしているうちに、会議室の扉前に来ていた。案内を終えた侍女はさっさと帰っていく。
息を整え、コンコンとノックする。
「お父様?ターシャです」
「…入りなさい」
中に入ると、やはり親戚一同が集まっていた。
「久しぶりだね、ターシャ」
「お久しぶり」
「元気だったかい?」
形式的な挨拶が四方八方から飛び出す。ターシャはぎこちない笑みを浮かべつつ、父の姿を探した。
「…ターシャ、こちらへ来なさい」
一番奥の席の隣に、父が座っていた。五年ぶりに見たレギルの顔は、緊張で強張り、少し老けたように感じた。
「はい」
レギルの方へ歩み寄り、一番奥の席――最も高位の人間が座る場所――を見て、はっとした。
ミヒャエル。アッヘル伯爵。現アッヘル伯爵家当主だった。肖像画でのみしか拝見していなかったが、身に纏うオーラでわかる。
「君が、ターシャ・アッヘルか」
会議室に響く低音の声。威圧するような言い方だった。
「お初にお目にかかります、ミヒャエル様」
とっさに作法の辞書を頭の中で引っ張り出し、頭を下げる。ドレスの裾を扇形に開き、腰を折るようなお辞儀。実母に作法はきっちり叩き込まれた。先程まで洗濯していたとは、想像もつかない優雅さだ。
ターシャの姿を見て、ミヒャエルは満足気な表情を浮かべた。
「なるほど。よく礼儀を学んだようだ。わたしの人選は間違ってなさそうだな」
隣で父がとんでもないと言った。
「これだけでは、とてもじゃありませんが『候補』にすることはできません」
「いや、十分だ」
何の話をしているのだろう?候補?
「しかし、娘をあんな恐ろしいところには…」
「我が一族の権力で守る」
「しかし――」
「レギル、これはもう決定事項だ。ターシャが一番ふさわしい」
ターシャは黙って、二人の会話を聞いていた。どうやら、父は「反対」で、ミヒャエルは乗り気なようだ。そこに自分が関わっているらしい。
「レギル、そこまでだ」
なおも食い下がろうとする父を年輩の男性が止めた。
「君の娘が困惑しているぞ」
レギルがターシャの方を向いた。一瞬視線が交わって、すぐミヒャエルの方へと戻る。
「…ターシャが決めることです。この子に最後の決定権を」
吐き出すような言い方で、ぽつりと言った。
我が意を得たりとミヒャエルが笑う。
「もちろん。君の娘にも選択肢がある。――ターシャ」
「…はい」
緊張でテンポが遅れる。若干声が上ずっていたかもしれない。
「三日前に、わたしのところに、ラトヴィア帝国皇帝からの使いが来た。用件は、『第一皇子の中継ぎ婚約者の候補をアッヘル家からも差し出すように』という命令だった。候補に選ばれるのは大変名誉なことだが、一族に未婚の娘が数名しかいなかった。その中でも、血筋が良く、皇族の前でも恥じぬ程度の作法を身につけている者が必要だ」
そこまで聞いて、ターシャにも察しがついた。
――まさか。
「そこで、我が一族からは、ターシャ、君を差し出すことにしようと思う」