番外編1:フィリス・モアの優雅な休日
フィリス・モアお嬢様のスピンオフです。
読み飛ばしても本編はお楽しみ頂けるようになっているので、本編だけ読みたい方は次話へお進み下さいっ!
フィリス・モアの朝は早い。
東の空から太陽が顔を出して、街並みを照らす頃、銀髪の淑女はゆっくりと起き上がった。
「……ふあぁ……」
両の腕をぐっと上方に伸ばし、欠伸をする。そんな寝起きの姿でさえ、気品のようなものを漂わせている。
布団から抜け出し、天蓋のついたベッドから降り立つ姿は、お嬢様という言葉を絵に表したような様相だ。
彼女は部屋を移動しながら、淡い桃色のネグリジェの袖から伸びる、透き通るような白い腕を振った。すると、カーテンが独りでに開き、台所ではパンがトースターに飛び込み、コーヒーメーカーのスイッチが勝手に入った。
無論、彼女の魔法によるものだ。彼女が顔を洗い、朝の支度をして新聞を手に戻ってくると、陽光の入る明るい食卓には温かいコーヒーとパンが用意されるのだ。
「いただきます」
席についたフィリスは、そう言って新聞を読みながら朝食を取り始めた。真のお嬢様は時事的な話題や流行にも精通しているものだ。
「……あら?」
パンを半分ほど食べた時、彼女は机の上に置いてあったジャムに気がついた。昨日、美味しそうだったので朝食に使おうと買ってきたブルーベリーのジャムだった。
「……どうりで少し物足りないわけですね」
決してジャムの存在をすっかり忘れており、しかも味音痴だから気が付かなかった訳では無い。真のお嬢様はジャムの有無など細かい事は気にしないのだ。
すっかり朝食を食べ終えると、食器を軽く洗って身支度に入る。
今日はネイビーのギンガムチェックシャツにホワイトのショートパンツの爽やかな装いだ。シンプルで涼しげでありながら、甘すぎず上品さが残る服装は、整った目鼻立ちと相まって誰もが振り向く麗しさを醸し出している。
誰に見せるでもなく、姿見の前でくるりとターンをしてみせると、今度はメイクに入る。
手早く、それでいて丁寧な手際で施されるのは、淡色を用いて色白な肌を活かしたナチュラル系のメイクだ。目元はダークすぎないブラウン系で優しい印象で、チークは自然な薄いコーラル。
真のお嬢様たるもの、メイクやおしゃれも嗜むべきなのだ。
櫛で髪を整えて、仕上げにお気に入りの香水を腰につけたら準備完了。鼻歌交じりに玄関の収納を開くと、数多ある上質な日傘のコレクションから、白いレースのついたものを一本抜き取り、軽やかに外へ出ていく。
今日はギルドの仕事はおやすみ。よく晴れた休日の街へお出かけするのだ。
フィリスの所属するギルドがある小さな町、カスタントルフから汽車で南東へ少し行ったところに、プラーヌスという大きな街がある。港町として古くから発展してきたこの街には、今尚連日多くの船が入ってきて、国内国外問わず様々な品が溢れている。
街角には、色んな店が軒を連ね、それらの店先には、この辺りでは珍しい果物や雑貨が競うように並んでいる。休日ともなれば、そういった品々を目当てに多くの人が街に集まってくる。
我らがフィリス・モアも、その1人という訳だ。日傘をさし、賑わう街を歩く彼女の姿は、まさに白く可憐な百合の花のようである。
彼女がまず向かったのは、メイン通りから少し外れた路地に佇む小さな店だ。外装はフランドル積みのレンガで、華やかとは言えないが、小綺麗な風情がある。出入口の脇に置かれた看板には、かわいらしいパラソルのマークが描かれている。どうやら、傘の専門店らしい。
店内には所狭しとカラフルな傘が置かれており、目玉商品らしきいくつかは、開かれて壁にかけられている。
「ごめんください」
フィリスが声をかけると、店の奥から1人の老夫が現れた。カーキ色のキャスケットをかぶったその老夫は、下がった目尻や頬に優しい穏やかさをたたえており、温かい印象だ。ゆっくりと歩く所作は、体のどこかが不調だからというよりは、ただ余裕を持ってゆっくり歩きたいからというような感じで、むしろ身体は年の割に引き締まっているように見える。
「こんにちは、オットーおじさま」
「おぉ、嬢ちゃんか。元気にしとったかえ?」
「えぇ、お陰様で」
オットーと呼ばれた老夫は、言葉通り元気そうなフィリスの姿を見て、目を細めて笑った。2人の落ち着いた話し方が、小綺麗な傘屋の雰囲気をより穏やかなものにしていく。
「そや。この前な、新しい傘が入ったんよ」
そう言って翁は店の奥へと消えていき、しばらくすると何本かの傘を持ってきた。どれもしっかりとした作りで、ハンドルと呼ばれる柄の部分や傘布に個性的なセンスが光る。
「これなんかはハンドルが珍しい竹じ出来ちょるに。こげぇに立派な竹はこの辺じゃよう見らん」
「ええ、確かに味のある色味と質感ですね。加工も素晴らしいです」
「じゃろう? 傘布もええ糸を使っちょるし、織り方も高級なヤツじゃ」
フィリスは真剣な目つきで藍色の傘を調べながら、自慢げに語るオットーの言葉に深く頷く。
「経糸はブライト、緯糸はセミダルでサテンになっているのですね」
「その通り。相変わらず嬢ちゃんはお目が高いわ」
「恐れ入ります」
フィリスはオットーと視線を合わせ、ふわりと微笑んで言ったが、またすぐに2人は傘に視線を戻した。その目つきは鑑定士さながらの鋭さだが、対照的に口元は傘の素晴らしさを堪能するように緩んでおり、時折うっとりするような嘆息が漏れる。素人目には普通の少し高級そうな紺色の傘にも見えるが、傘に情熱を注ぐ彼女らにとっては、非常に興味深い品なのであろう。
染め方がどうであるとか、骨組みがどうなっている、といったような話を続け、オットーが持ってきた数本の傘を吟味し終える頃には、お昼時を大きく過ぎていた。
「あら、いけない。もうこんなお時間ですのね」
店に置かれた時計で時間に気がついたフィリスがそう言うと、オットーも時計を見て驚いた表情になった。
「おお、傘に熱中し過ぎて気付かんかったわ。嬢ちゃんと話しよると、あっちゅう間に時間が過ぎちょるわ」
「まだお昼も召し上がっていないところに長居をしてしまって申し訳ございません」
「ええんよ、ワシもつい楽しゅうて話し過ぎちまう。何本か買うてくかえ?」
「ええ。こちらのと、先ほどの竹でできたものと……あちらの小豆色のを頂きます」
フィリスは優雅に微笑んで言った。真のお嬢様は、趣味も洒落ているのだ。
昼下がりの港町を、フィリスは機嫌良さげにそぞろ歩いていた。前々から気になっていた海沿いのシックなカフェで遅めのランチを楽しんだ後、香水作りの原料や翌日の朝食の買い物を済ませておき、賑わいの中を散策する。
「……あら?」
大通りを歩いていたフィリスは、向こうの方に人だかりが出来ているのを見つけた。街の中央にある広場の辺りだ。人々が何に群がっているのかは見えないが、なんとなく不穏な雰囲気が漂っている。
何かに困っている人がいるかもしれないと近寄ってみると、群衆のざわめきが具体的なセリフになってフィリスの耳に入ってくる。
「なぁおい、誰か止めてやれよ」
「そうは言ってもよ……あれ、リーヴァーズだろ? 腕っぷしじゃ叶わねえよ」
「それに、下手に奴らに手を出したら報復されるかもしれないしな……」
リーヴァーズ……。フィリスはその名前に覚えがあった。確か、この辺りを拠点に悪事を働くならず者の集団だ。
肩に彫られた刺青はグループに所属している証で、街の人たちの間ではそのマークを見たらすぐに逃げ出せと言われているくらい有名だ。
人混みをかき分けてみると、中には4人の男がいた。うち3人の肩には、アルファベットのRを模した刺青が入っており、残る1人はならず者3人に囲まれて狼狽えていた。
「か、返してください……っ!」
囲まれている少年は、見るからに気が弱そうだ。
「やーなこったね」
答えた男はやや小柄だが、目つきは鋭く、身体も引き締まっているようだ。手には銀色の首飾りがある。
「あんなに大事そうに持ってたんだ、大層なお宝なんだろ?」
そう言った男は首飾りを吟味するように眺めた。陽の光を浴びて、キラリと光る。
「母さんの形見なんだ……それだけは……っ!」
「おっと」
囲まれていた少年が飛び付くようにして首飾りを奪還しようとするが、不良男は軽い身のこなしでそれを躱した。
「そんなに大事なら、しっかり守って見せろよ」
そう言い放つと、ならず者たちは嘲るように笑った。
「およしになって」
フィリスは思わず声を出していた。群衆の目が一斉に彼女に向けられる。
ならず者たちも、突然現れた銀髪の淑女に不機嫌そうな睨みをきかせた。
「なんだてめぇ」
「通りすがりの他所者です」
威嚇するような態度に対しても、フィリスは怯まずに凛とした声色で答えた。
「兄貴、こいつフィリス・モアですよ! "馥郁たる死"のフィリス・モアです!」
これまで黙っていた刺青男の一人が言った。フィリスと対峙していた男は、それを聞いて片眉をあげた。
「ほう……てめぇが有名な……」
「首飾り、返して差し上げて」
フィリスは毅然とした対応を貫いたが、男たちは不敵な笑みを浮かべた。そのままゆっくり、威圧するように目の前まで近寄って来る。
「取り返せるもんなら取り返してみろよ、お嬢ちゃん」
「……っ! ジールさまによる魔法書……」
「させるか!」
後ろに間合いをとって魔法を使おうとした彼女だったが、男はそれを追い、平手打ちをしようと腕を振るった。
フィリスはさらに一歩引いて間一髪で躱したものの、集中が切れて魔法の発動は中断してしまった。それを見て、男はニヤリと得意気に笑った。
「魔法使いは、発動までの間が一番の隙になる」
追い詰めるようにさらに間合いを詰めて、男は拳骨でフィリスの顔面を狙う。
「……仕方ないですね」
フィリスは畳んでいた日傘を構え、正拳突きをしゃがんで躱すと、踏み出した男の右足首を傘の柄で引っ掛けて勢いよく引いた。
「うおっ!?」
それによって男の右足は前方に滑り、足払いをされたようにバランスを崩した。フィリスはそのまま傘を振り上げ、傘の柄を男の急所に打ち込む。
「ぐっ……!? うお……」
あまりの痛みに、男は股を押さえてうずくまってしまう。フィリスは他2人の追撃に備えて、傘を構え直した。
今度は柄の辺りを左手で持ち、その少し先を右手で押さえている。
「てめっ……この野郎!」
彼女の左前方から、刺青男の1人が殴りかかってくる。彼もやや細身だが、喧嘩慣れしているからか、鋭い身のこなしだ。
「はっ!」
フィリスは傘でその右腕を払い、返しの手で彼の右側頭部に一撃叩き込んだ。頭への一撃に怯んだ一瞬の隙に、今度は傘の先で鳩尾に突きを入れる。
「ぐえっ」
「くそっ、こうなったら!」
残る1人はポケットからナイフを取り出した。フィリスは視界の右端にそれを認めると、素早く傘に手を当てて流れのままに傘を開き、ナイフの男に突き出すように投げた。
「むっ!?」
布で視界を急に遮られた男は焦って傘を振り払うが、次の瞬間男が見たのは、魔法を使おうとしているフィリスの姿だった。
「しまった!」
「トールさまによる魔法書第二章。シャテーニュフラッシュ」
彼女が発声とともに人差し指をスッと振ると、バチッという音がして電流が走り、魔法を受けた男が膝から崩れ落ちる。
敵を全員行動不能にしたことを確認したフィリスは、未だ悶えている男に近寄り、首飾りを奪うと、先程まで囲まれていた少年に渡した。
その瞬間、群衆が大きく盛り上がり、拍手で銀髪の淑女の勝利を称えた。彼女は上品なお辞儀でそれに応える。
「何ですか……今の……」
「傘術です。ステッキ術の応用ですの。護身術として学んでおいて正解でしたわ」
少年の問いに、フィリスはしれっと答えた。
「でも……その傘……」
「少し折れてしまいましたね」
「それ、いい傘なんじゃ……」
「人を1人救ったと思えば、何ということはありません」
彼女はそう言い切ると、ふわりと微笑んでみせた。まるで野に吹く夕風に揺れるジャスミンのように優雅な笑顔であった。
今日も今日とて、フィリス・モアの朝は早い。
薄紫色の空から朝日が現れて、陽光が窓から差し込む頃、銀髪の淑女はむくりと起き上がった。
「……ふあぁ……」
右手を口の前に当てて欠伸をしながら、左腕をぐっと上方に伸ばす。そんな起き抜けの姿でさえ、エレガントさを漂わせている。
布団から抜け出し、天蓋のついたベッドから降り立つ姿は、お嬢様という言葉を絵に表したような様相だ。
彼女は部屋を移動しながら、淡い空色のネグリジェの袖から伸びる、雪のような白い腕を振った。すると、カーテンが独りでに開き、台所ではパンがトースターに飛び込み、コーヒーメーカーのスイッチが勝手に入った。
無論、いつもの彼女の魔法によるものだ。彼女が顔を洗い、朝の支度をして新聞を手に戻ってくると、朝の日差しで明るい食卓には温かいコーヒーとパンが用意されるのだ。
「いただきます」
席についたフィリスは、そう言って新聞を読みながら朝食を取り始めた。真のお嬢様は時事的な話題や流行にも精通しているものだ。
「……あら?」
フィリスは新聞の端に小さな写真を見つけた。そこには、あの広場で微笑むフィリス自身の姿が掲載されていた。
その記事には「銀髪お嬢様、優雅にお手柄」という見出しがつけられて、昨日の顛末が詳細に書かれている。
「……仕方がないですね」
当のお嬢様はフッとため息を漏らして、パンをかじった。しかし、その顔はなんとなく満更でもないように見える。
小綺麗なテーブルの上には、今日もブルーベリーのジャムが開かないままに乗っていた。