第3話:面倒な仕事の香り
夜になるにつれ、何人かのメンバーがギルドに帰ってきた。ひとりで帰ってくる者、数人で帰ってくる者、中には酒くさいまま帰ってくる者もいた。各々が仕事を終えて来たらしく、適当に手続きを済ませてはそのへんに座ってくつろいでいる。
昼はゆっくりコーヒーを淹れていたアイラは、今はお酒を作ったり料理を作ったりと、せわしなく動き回っている。ウェーブのかかったオレンジ色の髪は後ろで束ねられ、彼女がソテーパンを振るうのに合わせてふわりと揺れる。そうして作られた料理の皿はひとりでにフワリと浮いてはギルドメンバーの座る卓に届けられていく。
今しがた火からあげられて盛り付けられた肉料理も、アイラがカウンターに置いた途端、当たり前のように浮かび上がった。わずかに上下しながら湯気を引いて宙を漂っている皿は、まるで透明なウェイターが料理を運んでいるかのようにも見える。ホカホカと熱いままの料理は、アリスとアーロン、それにレニーの座る卓に着地した。
「ほら、レニー。あんたも食べなよ」
アリスは右手で自分の目の前にあるパスタを巻きながら、左手で今しがた到着した料理をすすめた。霜降りの柔らかそうな肉が、鉄板の上でじゅうじゅうと美味しそうな音を立てている。
「……お腹空いてるはず」
「うん……ありがとう」
対面にいるアーロンの言葉にアリスはうんうんとオーバーに頷いてみせる。どうやら少し酔っているらしい。彼女はパスタを咀嚼して飲み込み、グラスに入ったワインらしいものをグッと呷った。
夜になるまでの時間である程度アリスたちと打ち解けたレニーであったが、正直なところまだ呑気に食事をとる気分ではなかった。
アーロンやアリスをはじめとして、これまでに出会った人たちは皆優しくて、少なくとも敵意を感じることはない。見知らぬ世界に来たからには、彼らの厚意に甘えるのが得策であろうということは明らかだ。
それでもやはり、見知らぬ世界に突然放り込まれたことによる不安が、もやもやと霧のように腸に取り憑いて、食欲を減衰させる。
そんなレニーの様子を見て、アーロンは優しく僅かに笑った。
「……お腹が空くと胃痛もひどくなるよ。とりあえず、少しでも食べておいた方が良い」
「うん……そうだよね」
「アイラの料理は絶品よ! 毎日食べても飽きないからね」
レニーは、ステーキのように豪快に焼かれた肉を小さく切り分けようと、ナイフを入れた。ほとんど抵抗を感じずに切られた肉に封じられていた肉汁は、まるでそこから湧いているかのようにしっとりと断面を濡らしている。焼き加減は見事なレアで、その色を表すなら薔薇色か、海棠色とでも言うのだろうか。アイラの特製だというソースを絡めて、魅惑的な香りに誘われるままに口へ運ぶと、レニーは思わず頬を緩ませた。
「本当に、美味しい……!」
「でしょっ?」
アリスはまるで自分のことのように嬉しそうに笑ってみせた。見ればアーロンまで少し嬉しそうにしている。もしかしたら彼も少し酒に酔っているのかもしれない。
とりあえず少しでも胃袋に入れておこうと思っていたはずなのに、レニーの手はいつの間にか止まらなくなっていた。温かい食事がお腹を満たしていくにつれて、彼の全身を支配していた先の不安が、少しずつ蕩けて消えていくようだった。
「こんな料理を毎日食べられるなんて幸せだろうな……」
「そうね、それどころか私たちは住み込み組だから日によっては朝昼晩三食食べられちゃうのよ」
思わず口走ったレニーに、アリスは無邪気なウインクをした。
その後ろからふらりと白い影がやってくるのがレニーの視界に入る。
「失礼、君が例の魔法が効かない春界の一般人かい?」
「あら、ハカセ。そうよ、彼が例の子」
アリスは声のした方へ振り返って反応した。
現れたのは、白衣を着た眼鏡の青年だった。見た目はまだ若いように見えるが、他のギルドメンバーに比べると身長は低く、体つきも少し頼りない。そんなハカセという呼称にピッタリの容姿の彼は、丸眼鏡の奥にある小さめの瞳を好奇心で輝かせて、しげしげとレニーを観察し始めた。
自己紹介もろくにせずに観察に没頭するハカセを見て、アリスはやれやれというジェスチャーをした。
「彼はロッコ・ホーカーよ。ハカセっていうのはあだ名ね。勉強と研究が大好きで、夢中になるとすぐこうなるのよ」
「は、はぁ……」
かなりギルドに馴染んできたレニーも、流石に困惑しているのが表情から明らかだ。
時折何か難解な言葉を呟いては、ふむとかほうとか言っていたハカセは、やがてレニーに声をかけた。
「試してみてもいいかな?」
「えっ?」
呆気に取られるレニーを横目に、ハカセはレニーの頭に右手をかざし、何やら文言を唱え始めた。
「大丈夫、痛くないから。ロッコによる魔法書第二章! ヘアトトノール!」
ハカセの声に、レニーはぴくりと震えた。しかし、いくら待てども何か魔法の効果らしい変異は起きない。ハカセは魔法が不発に終わったらしいことを確認して、かざしていた手を下ろした。
「い、今のは……?」
「ハカセのオリジナル魔法よ」
アリスはいつの間にか届けられた唐揚げを頬張りながら解説をつけた。レモンはしぼらない派らしい。
「この世界の魔法は、魔力を持っている人なら基本的に誰でも使うことが出来るの。でもほとんどの人は、元々ある方法に則って魔法を使うのよ」
「元々ある方法……?」
レニーの問に、今度はアーロンが口を開いた。彼の方は枝豆をぷちぷちと食べていた。
「……昔の偉大な魔法使いが開発したテンプレートのやり方。魔法書っていう本にまとめてある」
「例えばさっき、アーロンはベリアルによる魔法書にあるやり方を使って炎の魔法を使ったでしょ? ベリアルっていうのは大昔にいた炎の魔法使いよ」
レニーはアリスの食べていた唐揚げを一つもらって咀嚼しながら、大昔にいたという炎の大魔法使いを想像した。
鳶色の長いローブを来たヒゲもじゃのおじいさまが、お約束のように大きな樫の杖を振りかざすと、大きな轟きとともに杖の先から炎が吹き出るのだ。きっとそうに違いない。
「ほとんどの魔法使いがそうやってテンプレートを使う理由は大きく分けて二つ。一つは新しい方法で魔法を使うためには具体的なイメージと精密なコントロールが必要で、とても難しいから」
「……ハカセは元々研究者志望だったから、どちらも優れてる上に独自の理論で不足気味な魔力をも補う」
レニーはちらりとハカセの方を見やった。しばらく喋っていないと思ったら、しゃがみ込んで一心不乱にノートをとっていた。どうやら魔法が効かないことに関するレポートらしい。この様子では何も聞こえていないだろう。
「二つ目に、元々あるテンプレートが優秀すぎて、わざわざ新しく作る理由がないから。その点ハカセの魔法は面白いのよ!」
優れた能力と大魔法使いをも凌ぐアイデアを兼ね備えたオリジナル魔法使いだと言われると、レニーにはハカセがとんでもない人のように思えた。
「……ちなみにさっきの魔法は、一瞬でヘアセットができる魔法」
「……え?」
拍子抜け。レニーは思わずズッコケそうになった。
「他にも洗濯物がすぐに乾く魔法とか、必ず店員さんが呼べる魔法とか、ハカセの魔法は主婦層に大人気なの」
「は、はあ……」
ということは、ヘアトトノールというのは「髪整える」から来ているのだろうか。独創的な発想だが、なかなか壊滅的なネーミングセンスだ。
すると、おもむろにハカセが顔を上げて、レニーに向き直った。
「よし、次はこっちを試させて……」
「ちょっとどいてよ」
言いかけたハカセは、脇から現れた女の子によって押しのけられた。ハカセはその拍子にバランスを崩して転びそうになり、アリスがそれを片手で支える。
「……エマ、あぶないよ」
「だってジャマだったんだもん」
エマと呼ばれた女の子は、アーロンの咎めに少しも悪びれた素振りを見せず、ぷいっと胸を反らして反抗的な態度をとった。
年は小学校高学年くらいだろうか。キッチンで切り盛りしているアイラとは違って幼く見えるのではなくて、本当に幼いのだろうといった印象を与える子だった。甘い赤ワインを思わせるような赤みの強いブラウンの短髪や、少し乱暴な仕草や言葉遣いからは気の強さが伝わってくる。ただ、年相応の脆さを兼ね備えた幼さが残る顔つきや、アリスの胸くらいまでしかない身長がその強気とミスマッチして憎めないかわいさを作っている。
「あんたが新入りね?」
研究対象を横取りされて恨めしそうにしているハカセを気にもとめない様子でエマはレニーに話しかけた。
「いや、新入りってわけじゃ……」
「何だっていいけど、このあたし、エマ・マリエールに挨拶がないのは気に入らないわ」
「は、はぁ……レニー・トゥメイです。どうもよろしく」
訳も分からず困惑顔でお辞儀するレニーを見て、アリスがおかしそうに笑った。
「エマ、今日はルイと一緒じゃないのね?」
「もう寝ちゃった。明日あたしたちと討伐依頼に出るから早く寝るって」
エマはあっ、そうだと言って手を叩いた。
「あんたも明日あたしたちと一緒に来る? 仕事のやり方を教えたげる」
「えっ? いやだから新入りじゃ……」
「面白いかもしれないね」
レニーが言い終わる前に、いつの間にか近くにいたマスターが言った。
「マスター!?」
相変わらずニコニコ顔のマスターにレニーがつっこむ。
「ちょうど明日は会議があるから、レニーをアイラとふたりでギルドに残すのはちょっと心配だし、どうしようかと思っていたんだよね」
「あたしに任せといてよマスター!」
エマが満足そうに無い胸を張ってみせた。
「期待してるよ、エマ」
マスターは優しい笑みを浮かべたままエマの頭を撫でた。満更でもなさそうなエマを横目に、マスターはアリスとアーロンに視線を向けて、ウィンクをした。どうやら一緒に行ってやってくれという意味らしい。
「明日も大変そうね……」
「……そうだね」
アリスとアーロンは小さくやり取りして、とんとん拍子で決まった厄介ごとにため息をついたのだった。