第2話:春と秋の世界
「ただいまぁ」
送渦から現れたアリスの声は、がらんとした室内に響いた。背中には気を失っているらしい青年――レニー・トゥメイが背負われている。
アリスも、後ろから現れたアーロンも、先程住宅地に降り立った時とは異なり、リラックスした様子だ。
「あれ? 誰もいないのか……」
アリスはそう呟いて室内をぐるりと見渡した。
おおよそ正方形の広い部屋にはいくつかのテーブルと、それを囲む簡素な椅子が置かれ、隅の方には酒のボトルやコーヒーメーカーが置かれたバーカウンターもある。バーカウンターの対面には上階に続く階段と、地下へと降りる階段が伸びており、そのまま左に視線を移していくと大きめの扉が据え付けられている。
カウンターから見て右側の壁にも、同じように大きな扉があり、その上には『練習場』と書かれた古い板が打ち付けられている。
アーロンたちが出てきたのは、部屋のほぼ真ん中だった。
「マスター、いる? ってかアイラもいないじゃん」
「……珍しい」
「本当にそうね。アイラがいない事なんて滅多にないのに……買い物かな?」
アリスとアーロンがそう話していると、二階へ続く階段から少女が軽やかに降りてきた。
一段降りる度に弾けるように揺れるオレンジ色のウェーブした髪の毛や淡い水色のワンピースが、新鮮な柑橘類のような瑞々しい印象を与える。最後の一段を両足で着地すると、部屋の真ん中にいるアリスたちに視線を向けた。
「アリス、アーロン、おかえり!」
少女は人懐っこい笑顔を浮かべて言った。ややあどけなさの残る丸顔や、左頬にだけ出来た小さな笑窪が愛らしい。
「なんだアイラ、上にいたのか」
「ちょっと掃除しててね! その後ろのは?」
アイラはアリスの後ろを指さした。無論、指し示す先には気絶したままのレニーがいる。
「要人らしいの。任務で連れ帰ってきたんだけど……マスターはいない?」
アリスはレニーを椅子に座らせながら言った。
「多分じきに帰ってくると思うな……。あ! 今コーヒーでもいれるね」
「……ありがとう」
アイラは跳ねるようにカウンターの中に入っていき、コーヒーメーカーを操作し始めた。慣れた手つきでコーヒーを作っているのだが、どうにも幼い外見のせいか危なっかしく思えてしまう。
彼女は、今日はこっちにしようかな、なんて呟きながらミルと豆を机に並べ、手動で豆を挽き始めた。そのふっくらとした手がハンドルを一定のリズムで回すと、ゴリゴリと豆の挽ける小気味の良い音が鳴る。
アリスとアーロンは、適当な椅子に座ってその様子をぼんやり眺めていた。
「う……ん」
気絶していたレニーが声を上げたことで、二人は我に返って同時に振り返った。
「ここは……? そうだ、確か家に変な人が来て……」
「お目覚めかしら?」
「う、うわあっ!?」
アリスが声をかけると、レニーは驚いて椅子から転げ落ちた。カウンターの方から、アイラが心配そうに覗き込んでいる。
レニーは相当怯えているようで、床に尻餅をついたまま後ろに下がった。
「君たちは一体誰なの? ここはどこ? 家に返してよ」
「そうね、暇だから少し話しておきましょうか」
アリスはすっと立ち上がると、恭しく礼をした。
「私の名前はアリス・キーオン。急に連れてきてごめんね」
「……アーロン。アーロン・ホッグ」
愛想よく挨拶したアリスとは対照的に、アーロンは椅子に座ったまま簡素な自己紹介をした。
「色々言いたいことはあると思うけど、とりあえず大まかに私が解説するわ。別に取って食いはしないから、そこに座って」
そう言いながら、アリスはレニーが倒した椅子を立て直して、座面をトントンと叩いた。レニーはおそるおそるといったように彼女らに近づき、少し距離を離して席に座った。
「まず、ここはあなたのいた世界とは違う世界……と言っても信じてもらえないかもしれないわね」
アリスがちらりと目配せをすると、アーロンは右手の平を上に向けて胸のあたりに出した。
「……ベリアルによる魔法書第一章。リトルフレイム」
アーロンがゆったりと唱えると、右手の平の少し上あたりにオレンジ色のぼんやりとした光が灯り、それが消えたと思うと代わりに人魂のような小さな炎が浮かんだ。
「うわ……え……?」
レニーの戸惑う声をよそに、アーロンが右手をさっと振ると、炎は煽られて消えた。
「これで、信じてもらえるわよね?」
レニーはまだ食い入るようにアーロンの右手を見ていた。アーロンは、種も仕掛けもありません、と言わんばかりに手首を返したり、握ったり開いたりと手を動かしてみせる。薬指に指輪をしたアーロンの手には、これといった仕掛けは確かに見られない。
「あなたのいた世界は四つある世界のうち一つ。魔法や異能と隔絶された世界、ヴェンサね。春界ってよんだりもするわ。一方ここは、魔法や異能が存在する世界、シリトゥ。通称秋界」
「なんだよそれ……」
アーロンの仕掛け探しを諦めたレニーは、呆然と呟いた。
「私たちは、ここ秋界で魔法や異能を使う者……アーベルズと呼ばれてるわ。そして、この建物はアーベルズの同業者組合の一つ」
勿体ぶるように少し間を置いて、アリスは続けた。
「blanumakfaよ。ここまでで、質問ある?」
レニーはとうとう頭を抱えてしまった。彼はそのまま暫くそうしていたが、やがてゆっくりと顔を上げた。
表情から察するに、どうやら少し開き直ってみたらしい。
「……百万歩譲って、ここが異世界だとする。それで、僕は元の世界に帰れるの?」
アリスはうーんと唸って答える。
「実は今回ここに連れてきたのは、うちのマスターから任された仕事だからなのよね。勿論帰る方法はあるけど、マスターに聞いてみないと……」
「そういえば、マスター遅いね?」
四人分のコーヒーをお盆に乗せたアイラがいつの間にやら三人のところへ来ていた。彼女が机にコーヒーを置くと、ペーパードリップで淹れたコーヒーの芳醇な香りがふわりと漂う。その香りに少し緊張が緩んだらしいレニーが問うた。
「マスター……?」
「うちのギルドで一番偉い人さ」
「……帰ってきた」
アーロンがそう言って部屋の端に視線をやると、その先にある大きな扉が開いた。
そこから入って来たのは、六十代くらいだと思われる男だった。
少し白が混じった黒い髪は短めに整えられており、清潔な印象を与える。クリーム色のパーカーに黒っぽいカーゴパンツというラフな格好や目尻のシワは、一ギルドのマスターという肩書きが与える緊張感を相殺してなお余りある程に優しい暖かさを感じさせる。
「ただいま、変わりはないかい? アイラ」
「あい! おかえりなさい、マスター」
アイラは敬礼のポーズをしてみせた。ピシッとした所作が逆に冗談っぽい。
マスターと呼ばれた男はアイラの近くにいた三人に視線を移動させて、おどけたように笑ってみせた。
「やあ、仲良しリア充爆発ペア。任務はどうだった?」
アリスは呆れたようにため息をついた。
「連れてきたわよ、この子でしょ?」
「おお、ありがとう」
マスターは背負っていたリュックをその辺の机に放り置いて、レニーの近くに来た。少しかがんでレニーと目を合わせると、柔和に微笑んでみせ、自己紹介を始めた。
「私がこのギルドのマスター、ザック・ジンデルです。急に連れてきしまってすみません」
「あの、ジンデルさん。僕は元の世界にもどれるのでしょうか?」
レニーはやや控えめに問うた。
「マスターで構わないよ。そうだね……君にはもう少しだけこちらの世界にいてほしいが、帰ること自体は簡単だ。安心して欲しい」
マスターはレニーの肩に手を置いてゆっくり言った。深みのある優しい声は、突如非日常に叩き込まれた不安を払拭するようだった。
「大したもてなしは出来ないかもしれないが、こっちにいる間、君はゲストだ。ゆっくりして行ってくれ」
この時はまだ、これから大きな事件が起ころうとは誰一人考えもしなかった。
平穏な時間を惜しむように、コーヒーの残り香が異世界の空気に溶けて消えた。