第1話:発端
夜の帳が下りた街の中。辺りはしんと静まり返っており、風すらも無い。立ち並ぶ家々の電灯はとうに消えており、光といえばぽつりぽつりと佇む街路灯の明かりくらいだ。
人間はおろか、野良猫の気配すらも感じないこの辺りにいると、街ごと眠ってしまったかのような錯覚すら覚える。都会からは少し外れた中規模の街みたいだ。
ふと、この閑静な住宅街の路地の風景が、音もなくぐにゃりとゆがんだ。
渦巻くように風景が歪んでできた円盤状の穴から、一人の女が静かに現れ、道路に降り立った。
首元の緩い白いシャツに黒の薄手のジャケットを羽織り、スキニージーンズをロングブーツの中に入れた服装が、端正で整った目鼻立ちと相まってすっきりした印象を与えるやや長身の女性だ。
彼女は辺りをそっと見渡すと、肩まである髪の毛を左手でさっと後ろにやり、未だ路地に浮かんでいる渦に向かって話しかけた。
「大丈夫よ。出てきて」
すると、渦の中からもう一人、今度は男が出てきた。
白のニットに濃紺のスキニーパンツというシンプルな服装からは純朴さが何となくうかがえる。精悍ながらも少々あどけなさの残る顔立ちに似合わず、背丈はロングブーツの女性よりも更に少し高い。
青年は先に出てきた女性と同じように周囲を少し警戒して、何も無いと分かると彼女の方に向き直った。
「……アーロン、あんたってば本当に無愛想ね……。いくら私の方が接近戦が得意とはいえ、先に乗り込んでやったんだから、『アリス、ありがとう』くらいは言ってくれてもいいんじゃない?」
「……ありがとう」
「うん、よし」
アリスはそれを聞いて満足そうに顎を引くと、ジャケットからスマートフォンのような端末を取り出して、地面と平行になるように持ち、右に左に回し始めた。
どうやら地図を画面に出して、現在地と方角を確認しているようだ。その間、アーロンはぼんやりとその様子を眺めている。やがて、アリスはうんうんと頷き、画面を見ながら歩き出した。
「目的地は……こっちね。たぶん、ここから数分としないで着くわ」
「……うん」
時折画面を見て現在地と目的地を確認しているらしいアリスの後ろから、アーロンが着いていく形で、二人は物静かな町の中を歩いていく。
アリスのブーツがコツリコツリとアスファルトの地面を踏む音。それだけが、静黙とした路地にある唯一の音だった。
「にしても珍しいわね。こんなところまで人探しなんて」
「……かなり久しぶり」
「何年か前に来た以来かもしれないわね……っと、着いたわ。ここね」
10分ほど歩いたところで、画面を見ながら話していたアリスは歩みを止めた。
何の前触れもなく急に止まったアリスの背中にぶつかりそうになったアーロンは、すんでのところで何とか踏みとどまった。
そこは、少し古びたアパートの前だった。外装は少し剥げて白い破片が床に散っており、むき出しの蛍光灯はちらちらと瞬きをしながら無機質な白い光を廊下に落としている。鉄製の外階段の手すりは、見るだけでザラりとした手応えが思い浮かぶようだ。
「んーと、部屋番は202だってさ」
二人は2階を見上げ、3つある部屋のうち真ん中の部屋に視線を向けた。
窓には黒っぽい色のカーテンが引かれているが、その端から白い光が漏れているのが分かる。
「……夜ふかしさん」
「さっさと“ターゲット”確保して帰りましょ」
つかつかと外階段を上ってしまうアリスに続いて、アーロンも2階の廊下へ向かった。
真ん中の部屋のドアに、薄く『202』と書かれていることを確認し、アーロンは扉の前に立って、鍵穴のついた丸いドアノブに手を翳した。
「……インプによる魔法書第三章。アンロッカイズ」
彼がそう言うと、手のひらとドアノブの間に淡い黄色の光が灯った。そのまま手首をゆっくり捻るようにすると、カチリと控えめな音が聞こえる。
「……開いたよ」
「ありがと」
一歩引いたアーロンに代わって、アリスはドアノブに手をかけ、さっと開いた。
家の中はドアから真っ直ぐ廊下のようなスペースがのびており、その奥にはさらにドアがたてつけてある。アリスは靴を脱がずに躊躇いなく中へ侵入し、奥のドアを開けた。
中はリビングだったようで、八畳ほどのスペースの隅にある学習机に向き合うようにして、青年が一人本を読んでいた。
少しクセっ毛な栗色の髪をしたその青年は、大体20歳より手前くらいだろうか。やや丸めの顔と、平均より若干大きく見える目の他にこれといった特徴はないが、何故だか全体的に人の良さが滲み出ているように感じる。
彼は突然開いたドアといきなり入ってきた靴を履いたままの女性に驚愕するあまり、目を見開いたまま言葉も出ないようだった。
アリスは無駄のない動きでサッと青年に近づきながら、ジャケットのポケットから化粧水の瓶らしきものを取り出した。
「悪いけど、ちょっと眠っててね」
彼女は瓶の蓋を開け、まだ脳の処理が追いついていない青年の顔に向かって、シュッとひと吹き液体をかけた。青年は防ぐ間もなく、まともにそれを食らってしまう。
「……アリス、送渦の準備できたよ」
青年の家の廊下で待機していたアーロンが、リビングに顔を出してぼそりと報告した。
その後ろには、彼らが入ってきた時と同じように風景が歪んでできた渦が浮かんでいる。 どうやら彼らの移動手段となる装置らしい。
アリスはリビングの入口に顔を向けて答える。
「ありがと。こっちもちょうど眠らせたとこだから」
「眠らせた……?」
アリスは驚いて再び青年の方を見た。
青年は顔にかかった液体を袖で拭いながら、怯えきった目でアリスを見上げている。
「あなたたち、誰ですか? 眠らせたって? そのスプレーなんですか?」
「あれ……おかしいな……こんだけ濃く睡眠魔法が付加した水なんか吹きかけられたら普通は1発KOなのに……」
何やら物騒なものが入っていたらしい瓶を見ながら、アリスは首をかしげた。
青年の方は、訳の分からないことを言い出した訳の分からない不審な女性のせいで、更に混乱しているようだ。
「仕方ない。アーロン、無理やり運ぶから手伝って……」
そうアリスが言ったその時、リビングの風景の一部が歪んだ。
「!?」
全く事態が飲み込めない青年を含む3人の視線が新しく現れた渦に向けられる。彼らが移動手段に用いているらしいそれと同じものだ。
不測の事態に、アーロンもアリスも腰を落とし、緊張感を高めて臨戦態勢に入った。
触れれば切れそうなくらいに張り詰めた空気の中、渦から現れたのは大柄のヒゲ男だった。
「先客か……?」
のっそりとそう言った男は、片手に1メートルはあろうかという刃の大きな斧を持っている。アーロンよりもさらに背は高く、隆々とした筋肉のついた腕や脚は大樹の幹のようだ。大斧の男は部屋にいる3人へ順に視線を向け、やがて口を開いた。
「お前がレニー・トゥメイだな?」
「ひっ……!」
地鳴りのような低い声で名前を呼ばれて、部屋の隅で目を閉じ、震えていた青年が小さく悲鳴を上げた。
刹那。アリスが部屋の床を蹴って一気にヒゲ男との距離を詰めた。
まるで瞬間移動したかのような爆発的な勢いのまま、右手でヒゲ男の胸の辺りに掌底を打ち込もうとする。
ヒゲ男は咄嗟に斧を持っていない方の腕でそれを受けるが、予想外の衝撃に少し後ろにバランスを崩した。
すかさずアリスは右足を軸に小さく回転し、膝元に後ろ回し蹴りを食らわせた。ヒゲ男は苦痛に顔を歪めたが、ワンステップで体制を整え、斧を持つ手に力を込める。
アリスは前腕の動きでそれを察し、バックステップで距離を取り、青年の近くに着地した。
「おかしい……こんなところに妨害が来ることなんてないはずなのに」
一言呟いたアリスは、青年の方を一瞥した。青年はかわいそうな事に混乱しきって、怯えた表情のまま硬直している。
その隙を見て、今度はヒゲ男がアリスと距離を詰めようと足を踏み出そうとする。
「……インプによる魔法書第十一章。ストッピング」
しかしそれは叶わなかった。アーロンが言い終わると同時に、ヒゲ男の挙げた脚が地面に着かずに止まったのだ。
「うおっ! しまった魔法も使えるか……!」
「……アリス、今のうちに」
「ナイス!」
アーロンに一声かけて、アリスは再び青年の方を見た。
「ちょっとごめんねっ!」
アリスは腰を抜かしている青年をお姫様抱っこの要領で素早く抱えた。青年はもう泣きそうになっており、暴れる気力も残っていないようだった。
腕の中に男一人抱えているとは思えない、脱兎のごとき軽やかなステップでアリスが部屋を出て、渦の中に入り込んだ。続いてアーロンがヒゲ男を牽制しながら渦に飛び込む。
三人を飲み込んだ穴は、出来た時と反対に渦巻いて元の風景に戻った。
一気に静寂を取り戻したアパートの一室で、ヒゲ男は低い声で空気を震わせた。
「レニー・トゥメイ……やはり噂は本当だったか……」