3本の髪に語りかける
彼は世間一般でいうところの中年だった。かなりがつくほどに典型的な中年男性。妻と娘と一緒に千葉と東京の県境にあるマンションで暮らしていた。平均的な年収を稼ぐサラリーマンだ。彼のあごは長年の重力にさからいきれずに垂れているし、おなかには贅肉が立派に蓄えられている。そして何よりも彼の頭は禿げていた。いや、正確には禿げているとはいえない。彼の頭には髪が3本だけ残っていた。ちょうど頭の頂点に3本、きれいに残っていた。
彼はその髪を宝物のように扱った。シャンプーとコンディショナーは毎日欠かさなかったし、ドライヤーも使った。もちろん、慎重に。
ただ、櫛でとかすことだけはしなかった。万が一にでもからまって抜けてしまっては悔やんでも悔やみきれない。
彼の頭のてっぺんに髪が3本しがみつくように残っていることに気づく人は誰もいなかった。人々にとっては、彼の髪が3本残っていようが2本抜けて1本になろうが大した違いではない。髪が10本に増えても誰も気づかないだろう。彼は禿げであり、それ以上でも以下でもないのだ。それでも彼は何とかしてその3本の髪を守りたいと思った。
彼は残った3本の髪に名前をつけた。より愛着がわくと考えたからだ。鏡に向かって左の1本を「ボブ」、右の1本を「サリー」と名付けた。そして、真ん中の1本には、彼自身の名前を付けた。それは彼に意外なほどの満足感を与えた。
それから毎日、お風呂上がりに髪に話しかけた。
「シャンプーの力加減は大丈夫だったか?」
「今日は風が強くて大変だっただろ?なるべく風の強い日は外出しないようにするからな」
「今日も俺についててくれてありがとな」
それからちょうど一週間後の木曜日、仕事から帰って鏡に向かった彼はうなりをあげた。「ボブ」がいなくなっていた。自分の目が信じられなかった。一度目をつぶり、そしてもう一度鏡を見た。
1本、2本・・・
1本、2本・・・
やはり2本しかない。ボブは抜け落ちてしまったのだ。
彼はそれまでにも増して、残った2本の髪に愛情を注いだ。これまでの倍以上の神経を使って、髪をケアした。それでも一週間後に同じことが起こった。仕事から帰ると「サリー」がいなくなっていたのだ。彼は先週よりも大きくうなり声をあげた。彼の頭には、1本の髪の毛が頼りなさそうに残っているだけになってしまった。
それから一週間後。彼は覚悟を決めて帰って来た。先々週の木曜、先週の木曜とたて続けに髪の毛をなくしてしまった。魔の木曜日だ。彼は鏡を覗き込んだ。半ばあきらめていたが、髪はまだそこについていた。力強いとはとてもいえないし、今にも飛んでいきそうなくらいの細い髪の毛ではあるが、確かにまだ彼の頭についている。彼は思わず小さくガッツポーズをしていた。彼は喜んでシャワーをした。よかった、もうだめかと思った、今日もがんばってくれてありがとう、と心の中で叫びながらシャンプーをしていた時、一瞬の痛みとともに、ぷちっという不吉な音が聞こえた。彼の左手の人差し指の爪が小さくかけており、そこに髪の毛がひっかかって抜けてしまっていた。
彼は暗い気持ちでシャワーを出た。もうドライヤーを使う必要もない。
リビングに行くと、妻と娘がテーブルを挟んで座っていた。
「今学校で、シラミがはやってるらしいの」と妻が言った。
「お父さんは楽でいいね。シラミの心配しなくてよくて」と娘が冗談まじりに言った。
「そうね、うらやましい」と妻が楽しそうに笑った。