第2話
エミルは馬車の窓から、故郷の山村を見つめていた。初めての上都の際は心地よい胸の高鳴りを感じながらこの景色を眺めていたが、今は全く真逆だ。
大司祭ジャン「先に言っておきますと、私は何も答えられません。答え自体を持ち合わせていないということです。」
エミルは大司祭に先手を打たれた。馬車は長旅になる。色々詮索をされては道中身が持たないと、大司祭は考えたのだろう。ただ、その言葉には真実の響きがあった。そもそも彼の役目は、密書の立会人というだけなのだ。
となると気が気でないのはエミルの方である。彼の中では良い方の想像と、悪い方の想像が交互に去来していた。ただ、笑顔で送り出してきた母の顔に、秘めきれない寂しさが浮かんでいたことは彼の胸を酷く締め付けた。
エミル(今あれこれ考えても仕方がないな。そもそも俺にはあの故郷がある。王子の気まぐれにお付き合いし、気が乗らなければ仮病でも使って故郷へ帰らせていただこう。)
あれこれ考えているうちに馬車は宿場へ着いた。すでに日は落ち始めていたので、ジャンたちはこのまま宿に向かうとエミルに告げた。そういえば昼食がまだだったと思い出したエミルは、宿の場所を聞き、小腹を満たすため町の市場に向かうことにした。
町は思いのほか、活気にあふれていた。どうやら大道芸の一味が来ていたらしく、広場ではジャグリングや軽技などが喝采を浴びていた。エミルは遠目に曲芸を眺めているうちに、くよくよしている自分がちっぽけなものに思えてきてしまった。
どうやら終演間際だったらしい。お辞儀をする一団を讃え、エミルは銅銭を1枚、木箱に投げ込んだ。そして市場へ歩みを進めた。
すでに市場は店じまいを始めていた。干し肉、野菜の売れ残りを、それぞれの店主が手早くまとめているところだった。ぱっと目に留まった青果店にうまそうなリンゴが並べてあったので、エミルは急いで1つ買うことにした。
店の主人「はいよ、お兄ちゃん!」
エミル「どうも。うまそうなリンゴだったんで、一目惚れしてしまいましたよ。」
店の主人「兄ちゃんお目が高いね! こいつはシュデール村のリンゴだよ。俺が直接買い付けたのさ!」
店の主人は他のリンゴを麻袋にしまうと、汗をかきながら世間話を始めた。
店の主人「でもなあ、このリンゴたちともしばらくお別れかもな。商売あがったりだぜ。」
エミル「……何かあったのですか?」
店の主人は、よくぞ聞いてくれたと言わんばかりに話を続けた。
店の主人「あのガストンさまが、ルシアン王子に持ってかれちまうんだよ!近衛隊長にするって話だぜ。」
エミルはぎくりとした。危うくリンゴを落としかけたが、ゆっくりと呼吸を整えて平静を装った。
エミル「……ガストン千人長が……ルシアン王子に?」
ガストンと言えば、この国に住むものならよく知っている英雄だ。若い頃から各地を練り歩き、獣という獣。賊という賊を打ち払った護国の士。伝説的な防衛隊長だ。
店の主人「そうなんだよ! ガストンさまがいなくなるってんで、喜んでるのは狼や賊どもだけさ。王様はいったいこの国をどうしたいんだかね!」
エミル「……。」
エミルの頭の中は、またぐちゃぐちゃになってしまった。あの英雄ガストンが王子の配下に加わることも驚きなのだが、それ以上に話の筋が全く見えないからだ。一体何が始まろうとしているのだろうか。
結局、エミルは買ったリンゴを懐にしまったまま宿に向かったのだった。ふと空を見上げると、今にも降りそうな曇天だった。なんとも言えない、湿った風がやけに気持ち悪かった。
そこから3日間は、ごくごく平凡な馬車の旅だった。山の風景は次第に平地へと姿を変えていき、木々や鳥の鳴き声。畑に植っている作物から、土地の色合いの移り変わりが感じ取れた。
5日目は雨だった。ジャンから「お暇でしょうし」と貸してもらった本を、馬車の中で読み耽った。外からは雨音と泥水の跳ね返る音しかしなかったが、うっすらと林を横切っている事だけはわかった。
しばらく経ったあたりで、馬車が大きく揺れた。ぬかるみに車輪を取られてしまったらしい。エミルが窓から身を乗り出すと、御者が困った様子で立ち往生していた。どうやらこの馬車だけ止まってしまったようだ。
そうこうしているうちに、先を走る何台かの馬車は気づかず行ってしまった。後ろの馬車たちは気づいて停車をし、何人かの護衛隊士が雨や泥を物ともせず駆けよってきた。
だが状況は好転しなかった。大の大人が数人がかりで動かそうとしているようだが、大司祭の馬車は完全に片側の車輪が泥に飲み込まれてしまっていたのだ。
大司祭ジャン「……エミル殿。大変申し訳ないのだが、魔法でどうにかできませぬか。」
焦った様子のジャンが、藁にもすがる思いで聞いてきたようだった。エミルはここ数年で、人前では数えるほどしか魔法を使わなかった。宮廷を追い出されて以来、魔法という言葉に苦味を覚えるようになってしまったからであった。
エミル「……やってみましょう。」
エミルは迷いながら馬車を降りて、気持ちを落ち着かせた。だが、それとは裏腹に魔法は澱みなく流れた。左手をかざしてぬかるみの泥をせりあげ、馬車を持ち上げる。同時に右手をそっと動かし、雨と泥水を導いて沈下を防いだ。あっという間に、馬車は走れるようになった。
ジャン「……いやいや、お見事です! 華麗な魔法さばきですな。」
エミル「……恐縮です。」
エミルは照れ臭くなり、目線を外して馬車へ戻った。そして雨で濡れた自分の手をじっと見つめ、握りしめた。
その日は何とか予定通りに次の宿場に着くことができた。御者から改めて礼を言われたエミルは、この日はさっさと自室に引き上げてしまった。
6日目。一行は朝日が昇る前に宿場を後にした。運良く晴天だったので、昼頃には王都に着くでしょうと御者が安心して声を弾ませていた。窓から見える景色も平地と草原が多くなり、王都に近づいていることを実感させた。
いくつかの小川を越え、丘と林道を走り抜けた。そうしてしばらく馬車にゆられると、高い石壁と尖塔が見えてきた。王都レオニアである。側には大きな川が流れており、この川は上流にある鉱山都市と王都を結びつけ、王都に軍事力と経済力を与えている。そして西から王都を目指してくる者を、王国最大の石橋で迎え入れるのである。
エミル(この橋を渡ると、なんだか感慨深くなってしまうな。)
複雑な思いも、数々の辛酸も。この荘厳な石橋を渡っている最中に、なぜか純粋な少年の時の心で上書きされてしまっていた。馬車の長旅にあてられて、いい加減悩み疲れてしまったのかもしれない。
そうこうしているうちに、馬車は大きな厩舎の前で停車した。ほどなく、別の馬車が横付けされ御者同士が挨拶を交わし始めた。ジャンはそれを確認すると、改めてエミルに話しかけた。
大司祭ジャン「では、エミル殿。長旅ご苦労であった。お互い忙しい身であるゆえ、次はいつお会いできるか分からぬが……。」
大司祭は右手を差し出した。数十人規模の司祭を管轄する高位職にあるものが、下位の者に手を差し出すことなど異例である。
エミル「……数々のお取り計らい、深く感謝申し上げます。」
大司祭ジャン「なに、尻の痛くならん馬車の乗り方ぐらいはいつでも教えて進ぜよう。困ったことがあったら、西部大神殿のジャン・ドールダムを訪ねると良い。」
エミルは深く礼をしながら、別の馬車へ乗り換える大司祭と従者を見送った。
一人きりの馬車は、とにかく静かだった。ただ、その時間でエミルはいよいよ覚悟を決めることができた。彼の瞼の裏には、石造りの一軒家と一面の畑がありありと映し出されていた。
王都の街並みは、進むほど次第に整然と並んだ邸宅へ変わっていった。ちらほらと豪邸が目につくようになると、いよいよ王都の中心部である。エミルを乗せた馬車は、その中にあって一際大きな豪邸、いや宮殿に近づいていく。第3王子ルシアンの宮殿である。大きな門が畏って開かれると、馬車は中庭へ進んでいった。
馬車が止まると、エミルは下車した。ちょうどそこへ使用人が現れた。
使用人「お待ちしておりました。書状をお見せいただけますでしょうか。」
エミルは召喚状を差し出した。使用人は書面を丁寧に眺めると、ハキハキと喋り続けた。
使用人「エミル・ジオーテ様でございますね。控えの間にご案内させていただきます。お荷物は引き続き馬車でお預かりいたします。」
エミルは使用人に案内されるがまま、宮殿の中に通された。宮殿の中は恐ろしく静かであった。広さの割に、使用人の数が圧倒的に少ないのだ。エミルにはそれが、いまルシアン王子の置かれた立場を暗示しているような……そんな意味に思えたのだった。
使用人「ご到着を殿下にお伝えしてまいります。場合によってはすぐのお呼び出しになることもございますので、ご準備をお願いいたします。」
エミル「は、はい。」
宮廷魔術師として働いていたエミルも、さすがに王族の私邸へ招かれることなど初めてであった。いよいよここにきて、現実味を増してきた自分の状況に実感というものが湧いてくると、口が渇き、手が震え始めた。
つまり、エミルは緊張してきていた。
ここで王子に気に入られれば、また王都で研究に没頭できるかもしれない。一度は諦めた夢。魔法の真奥に触れたい、真理を解き明かしたいという思い。諦めかけていた淡い夢が卑しくも蘇ってきてしまっていたのである。
使用人「お待たせいたしました、エミル様。ルシアン殿下がお呼びです。」
エミル「……はい。」
エミルにとっては、そこからの時間は極めて短い刹那のように感じられた。もはや宮殿の豪華さなどの邪念が入る余地はなく、使用人の背中のみを追い続けていた。次にエミルの目に飛び込んできたものは、大きく、重厚なダークブラウンの扉である。
使用人「殿下。エミル様をお連れしました。」
使用人は力強くノックすると、端的に報告した。
ルシアン「……入れ。」
その声は、エミルと同じ年頃の、しかし落ち着いた色を帯びていた。扉を開くと、きちんと整理され壁一面に敷き詰められた書物が目に飛び込んできた。
正面には、素朴な服を着た金髪の青年が堂々と座っていた。忙しなく書物と書面に視線を交互させていた表情は真剣そのものであった。手にはペンが握られており、すごい勢いで執務を行なっているように察せられた。
襟足が綺麗に刈り上げられ、短くも綺麗に流された髪が高貴さを感じさせる出で立ちは、まさに王子と呼ぶにふさわしいものであった。不意にその栗色の目がエミルを捉えると一瞬の間があったが、それはエミルに吸い込まれるような緊張感を与えた。
使用人はその青年の座る机を挟んで、イスを1脚用意した。そして、エミルに着座を促した。エミルが緊張しながらイスに座ると、使用人は深くお辞儀をし、退室していった。
間をおかずして金髪の青年がペンを置き、口を開いた。
ルシアン「余が、ルシアン・ヴァルドールである。」
エミルはその迫力に、思わず固唾を呑んだ。
ルシアン「エミル・ジオーテに間違いないな?」
エミル「……はい。この度、殿下の勅令を賜り、恐れ多くも推参いたしました。」
ルシアン「すまんが、余は堅苦しい挨拶は苦手だ。早速本題に入る。」
エミルは完全に気圧されていた。
ルシアン「これから基本的な質問をいくつかする。お前を魔法の専門家と見込んでのものである。簡潔に答えるように。」
エミルは背筋を伸ばした。見られている。観察されている。きっと、答えではなく答え方を見られるのだ。それこそ魔法の専門家として、恥をかくわけにはいかない。
ルシアン「……炎魔法はもちろん貴殿もお手のものと思うが……。」
エミルは土壇場にあって落ち着きを取り戻し始めていた。
ルシアン「では、”炎が燃える”とはどういうことか。説明せよ。」
そして、一気に凍りついた。炎が燃えるとはどういうことか? 考えたことなど一度もなかった。炎魔法についてはどれだけの時間を費やしたか分からなかったが、”燃える”という現象については1秒たりとも時間を割いたことなどなかったのだ。
ルシアン「……どうした。簡潔に説明せよ。」
ルシアンの瞳が、鋭さを増していった。
エミル「……わ。」
エミルの口は勝手に開いてしまっていた。
エミル「わかりません。」
その時、ルシアンの眉毛が微かに動いた。
ルシアン「……そうか。では次の質問だ。」
ルシアンは開いていた本を閉じた。
ルシアン「空に雲が満ちると雨が降る。では、雨とはなんだ。説明せよ。」
エミルの表情はみるみるうちに変わっていった。それはもちろん悪い方にである。彼は気づいてしまった。炎魔法を知るのならば、火を研究せねばならなかった。水魔法を知りたいのならば、水を研究せねばならなかった。それこそが真理への道だったのだ。
エミル「……わかりません。」
エミルは愕然としていた。それは、自分の研究が出発地点から根本的に間違っていたことを、まざまざと実感したからであった。魔法を研究する前に、まず世界を研究する必要があった。世界がどう動いているのか知らずに、世界をどうやって動かすというのだ。
エミル「……わかりません。」
エミル「……わかりません。」
エミル「……それもわかりません。」
エミルは途中から拳を握りしめていた。彼がこの時抱いた感情は、失意ではなく怒りだった。どこかで驕り高ぶっていた。何が魔法の真実だ。何が真理だ。王子は”基本的なこと”と言った。まさにその通りだ。こんなことにすら、自分は疑問を抱くことができなかったのか。
ルシアン「……以上だ。足労、大義であった。」
エミル「……申し訳ございませんでした。」
ルシアン「……。」
執務室には、重苦しい空気が流れていた。エミルは指先が真っ赤になるまで拳を握りつぶしていた。あまりの事に、イスから立ち上がることすらできないでいた。
ルシアン「……エミル・ジオーテよ。」
エミル「……はい。」
エミルは、王子が話しかけているのにも関わらず、顔を上げることができなかった。やはり自分には、故郷の山村がお似合いだったのだ。そんな思いをめぐらせていた。
ルシアン「余は、共に魔法の深淵を覗き見る同志を探していた。長く険しい道になるが……ついてきてくれるな?」
エミル「……え?」
エミルは、そこで初めて顔を上げた。そこには、自分と同じ瞳の輝きを持ったルシアンが立っていた。そしてエミルをまっすぐ、まっすぐ見つめていた。
気づけば、執務室の外から見える空はすっかり日が暮れていた。どうやらルシアンの質問は数時間続いていたらしい。
ルシアン「貴殿へ王室特命隊の任を与える。今日からここで暮らすが良い。寝室と書斎の二部屋を貸し与えよう。」
エミル「……は? え?」
エミルは唖然としていた。
ルシアン「余はこの度、父上から領土を賜ることになっている。新たな国を作るため余の直属の臣下として働いてもらうぞ。肩書は……そういえば考えていなかったな。まあ後々決めるとしよう。」
エミル「……。」
ルシアンは机のベルをチリン、と鳴らした。そして、エミルの方を振り返ると腕組みをした。少しむすっとした表情で。
ルシアン「……そろそろ返事が欲しいのだが。」
そこでエミルは、はっと正気に戻った。
エミル「……つ、謹んでお受けいたします!」
ルシアン「そうだな。それでよい。」
ルシアンは初めて微笑んだ。エミルはその中に、少年のような純粋さを感じずにいられなかった。




