花腐し
1.招待
「ここが私の家です。散らかってますが、どうぞ中へ」
玄関扉を開いて、藍は男を屋内へと招き入れた。
どこにでも居るようなスーツを着た小太りの中年男だった。最近、出会い系サイトで知り合った、新しいパパ。三回目のデートで、ようやく自宅に連れ込むことが出来た。
男は雨で濡れた服や鞄を拭いながら、暫し藍の……若い女が一人暮らすマンションの部屋を興奮気味に眺め回していたが、ふと何かに気付いたように鼻に皺を寄せた。
「何か変な臭いしない? 饐えたような臭いっていうか」
藍は一瞬唇を引き結ぶと、困ったようにはにかんで答えた。
「ああ、最近雨続きで、つい生ゴミを溜めてしまっていて……ごめんなさい。気になりますか?」
「ああね、この天気じゃあね」
男はそれ以上の追及はしなかった。藍は内心安堵しつつ、男をダイニングへと促した。
「すっかり身体が冷えちゃいましたよね。温かいコーヒーを淹れますね」
「シャワー直でも良いよ」
「その前に少しお話がしたいので」
藍の言葉に、男は満更でもなさそうに鼻を膨らませた。
それから、二人でテーブルを囲み、各々藍の用意したコーヒーを啜った。男の喉仏が嚥下の度に動くのを、藍はじっと観察していた。
会話が途絶えると、雨音が屋内にまで聞こえてくる。それに触発されてか、男は思い付いたように語り出した。
「雨といえば、今時分みたいなのを〝花腐し〟というんだそうだよ。花を腐らせてしまうような雨って意味なんだ」
「へぇ、そうなんですね」
「過ぎた養分は毒になるってね。俺にも君くらいの歳の娘が居るんだがね、女房が甘やかし過ぎて、すっかり引きこもりになっちまった。困ったもんだよ」
「はぁ」
「君は逆に、親御さんの愛情が足りなかったタイプかな? こんなことをしているくらいだから」
――こんなこと。
男の言に、藍は儚げに微笑んだ。
「親は居ません。元々母子家庭で父を知りませんが、母も私が幼い頃に事故で亡くなりました」
「そう……」
「でも、寂しくはありませんでした。私には、姉が居ましたから」
藍は自身のカップに目線を落とした。黒い水面には彼女の姿が映っている。少し窶れた頬に、姉の面影が重なった。
「姉は五つ歳の離れた妹の私を、母のように慈しみ、大切にしてくれました。だから、私にとって姉は姉である以前に、母のような存在でもあったんです。その姉が、病に罹ってしまって……お金が要るんです」
「成程ねぇ、そういう理由かぁ」
男はしたり顔で頷いた。藍は曖昧に笑み返して、その後も男の話に調子を合わせて相槌を打っていた。
やがて、男が一杯のコーヒーを飲み干したのを見計らうと、藍は改めて切り出した。
「そろそろ、シャワーをお願いします。私は――さんの後に入りますから」
すると、男はにたにたと厭らしい笑みを浮かべ、
「今更だけど、大丈夫? シャワーを浴びてる間に財布を盗んで逃げる娘が多いって聞くよ」
「まさか。逃げるも何も、私はここに住んでるんですよ」
「それもそうだね」
面白い冗談でも言ったつもりなのか、男は声を立てて笑った。藍は何も言わずに男を浴室へと案内し、一人リビングで待った。
壁掛け時計が十五分の経過を示す頃合に、藍は浴室の扉をノックした。
「――さん?」
呼び掛けに返答は無い。シャワーの水音だけが依然として屋外の雨音に被せるように響いていた。
「――さん、入りますよ」
尚も呼び掛けながら、開扉する。
ぶわりとぬるい湯気が舞い上がった。男は水浸しのタイルの上に目を閉じて横たわっていた。
「――さん、眠っちゃったんですか?」
特に感慨もなく見下ろして、藍は出しっぱなしになっていたシャワーの湯を止めた。
屈み込んで、男の様子を確かめる。規則的に胸が上下しているので、呼吸はあるようだった。しかし、一向に目覚める気配は無い。
――相変わらず、よく効く薬だ。
後ろ手に隠し持っていた包丁を取り出すや、藍は男の喉元に突き立てた。
窓の外では、五月雨が降り続けていた。
2.秘密
姉の部屋の扉を開くと、鼻を刺す酸っぱい臭いが強くなった。
ベッドのパイプに手錠で片腕を繋がれた姉は、妹の来室に気が付くと、獣のように唸り声を上げて飛びかかってきた。しかし、すぐに鎖に阻まれ、藍にまでは届かない。
異様に興奮状態なのは、藍が手にした物のせいだろう。藍が運んできたのは、皿に盛り付けられた生肉だった。捌いたばかりで、新鮮な血を滴らせている。
「お姉ちゃん、ご飯だよ」
藍は噛みつかれないよう注意しながら、皿ごとそれを姉の前に置いた。姉は手も使わずに猛然と肉にかぶりつく。
「美味しい? 良かった。いつもよりちょっと脂身が多かったけど、かえって柔らかくていいのかもね」
言葉の通じない姉に、一方的に喋りかける藍。
先程の男に姉のことを話したせいだろうか、食事する姉を眺めていると、不意に感傷が湧き上がった。
――お姉ちゃん。
あんなにサラサラで綺麗だった長い黒髪が、今ではボサボサの鳥の巣のよう。
白かった肌もくすんで黒ずみ、理知的で凛とした表情も佇まいも、今ではすっかり見る影も無い。
もう長いことこのままお風呂にも入れていないから、体臭もキツくなってきていた。消臭剤を沢山置いているが、さすがにもう誤魔化せそうにない。壁を隔てた藍の部屋にまで臭いが来てしまい、先程の男にも怪しまれてしまった。
藍が身体を拭いてあげられればいいのだが、噛まれたらどうなるか分からないので、不用意に近寄ることも出来ない。
「ごめんね、お姉ちゃん。きっと、もう少しの辛抱だから」
あと少し――きっと、もう少しで、姉は元通りになるのだ。
†
ある日、突然姉が死んだ。
前日の深夜、藍が眠っている時間帯に姉から携帯に連絡があった。メッセージアプリで『ごめんね』と、ただ一言。
翌朝、胸騒ぎを覚えた藍が、姉が一人暮らすマンションへ様子を見に行くと、姉は自室のドアノブで首を吊って亡くなっていた。
机には藍宛の遺書が残されていた。それを読んで知った事実に、藍は足元が崩れ落ちるような感覚に陥った。
『藍へ。勝手なことをしてごめんなさい。でも、もう生きていかれないと思ったから。
私は許されないことをしました。人を殺してしまいました。
殺したのは、叔父です。秘密にしていたけれど、私は叔父から性的な暴力を受けていました。小さい頃から、ずっと。
嫌だった。辛かった。でも私が拒むと、叔父の家から追い出される。金銭的な援助が得られなくなる。それに、妹の藍に手を出すと脅されてもいました。
藍が高校で寮に入って、私が就職して叔父の家を出た後も、私と叔父との関係は続きました。
叔父は私の写真や動画を持っていて、逆らえませんでした。
幹人さんのことは藍にも話していたよね。私の恋人。
藍が高校を卒業して一人前になったら、私は幹人さんと結婚する予定でした。
だから、叔父との関係を終わりにしたいと、叔父の家に相談に行きました。
だけど、叔父は認めてくれず、幹人さんにバラすと言いました。
さもなければ、今まで通り関係を続けるか、やっぱり藍を代わりに差し出せと。
そんなの、絶対に許せなかった。
揉めて、弾みで私は叔父の生命を奪ってしまいました。
人殺しになってしまいました。
こんなんじゃもう、幹人さんの元には行けない。人殺しの姉が居たんじゃ、藍にも迷惑をかけてしまう。
だから、私は責任を取って死ぬことにしました。
幹人さんには何も言わずに一方的に別れを告げました。出来れば、幹人さんには叔父とのことは知られたくない。
でも、さすがに無理かな。警察に知られたら、幹人さんにも伝わっちゃうかな。
ごめんなさい。藍にだけは、全部話しておきたかったの。
傷付けてしまうかもしれないけど、藍には私のことを知っておいて欲しかった。
だって、たった一人の家族だから。
許してくれとは言わない。許さなくていい。
でも、藍にはどうか幸せになって欲しい。それだけが、今の私の望みです』
手紙の最後は、そう締め括られていた。
――知らなかった。
姉が苦悩していたことを、藍は何も。
姉がずっと身を挺して藍を守ってくれていただなんて、何も知らず、これまで呑気に暮らしてきたのだ。
酷く自責の念に駆られた。
今更真実を知ったところで、もう姉を救うことは出来ない。全て手遅れなのだ。
――そう思っていたら、信じられないことが起きた。
死んだはずの姉が、蘇ったのだ。
3.蘇生
蘇ったというより、起き上がったという方が正確かもしれない。再び動き出した姉は、以前の彼女とはまるで別人のようだった。
言葉を理解せず、知性も理性も失い、自我すらも失くしてしまっているようで、獣のように獰猛なその姿は、いわゆるゾンビのそれだった。
姉は、ゾンビになってしまったのだ。
それでも、姉が戻って来てくれて藍は嬉しかった。そうして、誓った。
――姉を人間に戻す。
今度こそ、自分が姉を救う番だと。
その為にも、藍は姉の死を世間に隠すことにした。
幸い姉の部屋はマンションの角部屋で、反対隣も運良く空いていた為、すぐに藍が契約して越してきた。
就職先も蹴って、ずっと姉の傍に居ることを選んだ。
それから、叔父の家にも足を運んだ。高校生になるまで藍も暮らしていた一軒家で、合鍵は持っていた。
叔父は数年前に離婚して独り身だったが、万が一にも死体が誰かに見つかるといけない。その前に処理しておかなければと思った。
それに、叔父は株で一生働かなくても生きていけるくらいの大金を持っていたので、それを期待したのもある。
しかし、叔父の死体は見つからなかった。
――なんと叔父も、姉と同じくゾンビになっていたのだ。
これは僥倖だった。藍は叔父を捕獲して、色々実験してみることにした。
どうすればゾンビを人間に戻せるのか。それを探る必要があったからだ。
もし、何らかのウイルスに感染した状態が今の姉なり叔父なのだとしたら、体内のウイルスを死滅させれば人間に戻せるのではないか。藍はまず、そう考えた。
例えば、何も食料を与えずにいたらどうだろう。ウイルスが寄生虫みたいなものだとしたら、宿主が摂取する栄養から糧を得ているはずだ。
ここで、そもそもゾンビには食事が必要なのかという疑問が浮上した。
試しに普通の食料を姉に与えてみたが、姉は一切口にすることはなかった。様々な食材を調理したり生で与えたり、色々してみたが結局駄目だった。
もしやと思って藍の血を与えてみたら、姉はこれまでとは全く違う反応を示した。喜び勇んでそれを飲んだのだ。
ゾンビの食事は、やっぱり人間の血肉らしい。
ちなみに、叔父の腕を切り落として与えてもみたが、姉は普通の食料と同じく、そちらには全く見向きもしなかった。元人間とはいえ、ゾンビの血肉は食べないようだ。
ともかく、姉には藍の血を定期的に与えておいて、叔父には何も与えずに様子を見ることにした。
すると、一週間ほどで叔父は動かぬ死体へと逆戻りしてしまった。
その状態の叔父のもう片方の腕も切り落として姉に与えてみたら、姉は今度はちゃんと食らった。つまり、叔父はゾンビから人間に戻ったのだといえる。
ある意味藍の推測は当たっていたのかもしれないが、その結果が元通りの死体では意味が無い。何とか本体は生きたまま、ウイルスだけを殺す方法は無いものか……。
行き詰まったかに思えたが、この頃、ある変化があった。
姉が時折、自我を取り戻す瞬間があったのだ。それは本当に一時で、すぐにまた獰猛な獣のようになってしまうのだが、明らかに良い兆候だった。
叔父の死体を全て平らげた後からだろうか。
そういえば、藍はテレビでこんな話を聞いたことがある。
壁を食べてしまう異食症の子供が居たが、実は鉄欠乏性貧血で、壁に含まれる物質から不足した鉄分を補っていたのだとか。
他にも、やたら昆布を好んで食していた女が実はバセドウ病で、昆布から摂れるヨウ素がその症状を抑えるのに役立っていたのだとか。
つまり、生物は本能的に自分に不足した必要なものを摂取したがる傾向があるということだ。
姉に必要なのは、人間の血肉だ。
それを沢山与え続ければ、いずれ姉は元通りの人間に戻れるに違いない。
藍は確信した。
ならば、藍がすることは、ただ一つ。姉の為に食料の調達を続けることだ。
藍の血だけでは足りない。やはり、肉もなければならない。
そこで藍は、出会い系サイトで引っ掛けた男を家に誘い、姉の餌にする計画を立てた。叔父と同じ、女を食い物にするような連中だ。この世から消えた方が良い。
この頃姉は、大分正気で居る時間が長くなってきたように思う。
――もうすぐだ。
きっと、もうすぐ、姉は人間に戻れるに違いない。元通り、藍の大好きな姉に。
だから、藍は――。
「こんな雨の中、来てくれてありがとうございます。温かいコーヒーはいかがですか?」
今日も新たな男を巣へと誘い込む。蕩けるように甘い、極上の笑みを添えて。
4.姉妹
重い身体を引きずって、藍は姉の元へと向かった。呼吸は荒い。激痛が苛む。傷口から溢れ出す血が止まらない。
――もう、あまり猶予は無い。
「お姉ちゃん」
掠れた声で、姉を呼んだ。
姉はいつものように、ベッドに繋がれたまま藍を見た。
「お姉ちゃん……ごめんね。失敗、しちゃった」
失敗した。いつものように連れ込んだ男に睡眠薬を与えて殺害するつもりが、今度の男は薬の効きが悪く、途中で目覚めて反撃されてしまった。
揉み合いになり、何とか男の息の根を止めたが、藍まで深手を負ってしまったのだ。
藍は己の死が間近に迫っていることを悟り、最後に一目、姉に会いに来たのだった。
「私、もう……駄目みたい」
だから――。
姉を拘束する枷を外す。不思議と、姉はいつものように唸ることはせず、藍が近付いても大人しくされるがままになっていた。
手錠を外して姉を解放すると、藍は姉に向けて両腕を広げた。
「私を食べて」
せめて、最期は姉と一緒に――姉の中で、一つになろう。
藍は想像した。この身が姉に食いちぎられて、消化される。姉の中で、溶けて混ざり合い、新たな血となり肉となり、永遠に共に在り続けるのだ。
――それは、とても幸福なことのように思えた。
そうなった時、初めて自分が赦されるような気がした。
覚悟を決めて目を瞑ったが、予想した衝撃がいつになっても訪れなかった為、藍は怪訝に思って目を開けた。
――そこには、信じられない光景があった。
姉が、悲しげに微笑んでいた。
その澄んだ瞳には、確かな知性が感じられる。姿も在りし日の美しい姉のままだ。
「……もういいの」
桜色の唇を割って、姉が厳かに言葉を紡いだ。
「もういいのよ、藍」
「……お姉、ちゃん?」
――お姉ちゃんだ。
間違いない。ゾンビになってしまう前の、藍がよく知る大好きな姉だ。
「元に……人間に戻ったの!?」
「藍が頑張ってくれたからね」
姉は柔和な笑みを刻み、藍を優しく見つめた。
「藍が私の為にしてくれたこと……ちゃんと覚えてるよ。あんな風になっていた時も、意識はあったの」
「ありがとう」と、姉は告げた。
「ありがとう、藍。苦労をかけて、ごめんね」
瞠られた藍の瞳が、潤んで揺れる。しかし、それを振り切るように、藍は首を左右に振った。
――違う。
「違うの。私はお姉ちゃんにお礼を言われるような資格は無い」
「藍?」
「苦労をかけてきたのは、私の方だよ。私、ずっと謝りたかったの。私の存在が、お姉ちゃんの負担になってること、知ってて何も出来なかった」
「そんなこと……」
「それだけじゃない。私……本当は、知ってたの。叔父が、お姉ちゃんにしてること」
沈黙が降りた。
急な静寂に、今日も降り注ぐ外の雨音が微かなノイズとなる。
藍は知っていた。
叔父の家で共に暮らしていた幼い頃、夜中にふと目が覚めてトイレに立つと、叔父の部屋から姉の声が聞こえてきたことがあった。
その扉の向こうで、何が行われているのか――好奇心に負けて、覗いてしまった。
「私、知ってたのに……っ」
恐ろしくて、忌まわしくて、藍はその記憶を自ら封じ込めた。――無かったことにしてしまった。
しかし、叔父を見ると嫌な気分になるし、時折見たことのない、あるはずのない光景が脳内でフラッシュバックすることがあった。
それが、実際の記憶だとは、思いもせず――いや、違う。本当はずっと、分かっていた。分かっていて、知らんふりをしていたのだ。
「ごめなさい、お姉ちゃん」
あの時、逃げてしまって……弱い妹で、ごめんなさい。
ずっと、謝りたかった。――なのに、姉は死んでしまった。
謝ることも、救うことも出来ないまま。
「ごめんなさい……っ」
絞り出すように告げ、藍は頭を下げた。姉の顔が見られなかった。きっと、失望された。嫌われた――そう思っていたのに。
不意に、柔らかな感触に包まれる。息を呑んで目を開くと、藍は姉の腕の中に居た。――温かい。ちゃんと体温がある。息をしている。
生きている。姉が、生きている!
「私も藍が知ってたこと……知ってたよ」
姉の告白に、藍は身を固くした。しかし、姉は変わらぬ優しい声音で、藍の耳元に囁いた。
「でも、いいんだよ。藍が自分を責める必要は無い。悪いのは、全部アイツなんだから。藍は何も悪くない」
何も悪くない――。
ずっと、そう言って欲しかったのかもしれない。
藍は今度こそ涙を堪えることが出来なくなった。次から次から、溢れ出しては止まらなくなる。
嬉しいのか、悲しいのか、分からない。けれど、ずっと抱えていた重たい十字架を一つ、下ろしたような気分だった。
滲んだ視界が徐々に狭まり、暗くなる。音が、世界が、遠ざかる。
いつの間にか痛みは感じなくなっていた。安堵したせいか、異様に眠気も襲ってきている。
――ああ、そうか。もう終わりなんだ。
この生命の灯火が、尽きようとしている。
だけど、怖くない。思い残すこともない。姉はもう大丈夫だ。姉に見送られながら、姉の腕の中で逝けるのなら、最高の人生だ。
「おねぇ、ちゃん……」
動かない唇から、ぽつりと零す。
「だいすきだよ」
見えない視界の中、姉が微笑ってくれた気がした。
5.露見
酷い臭いだった。爛熟した腐敗臭。玄関先から既に漂っていたが、屋内に入るとより一層強烈になった。
ハンカチで鼻を押さえながら、笠松 昌吾は絶え間なく襲い来る嘔気と闘っていた。
「ひでぇ顔色だな。そんなんで大丈夫か? 現場で吐くなよ?」
上司にしてバディの御子柴 大地が、呆れたように言う。
捜査一課の刑事になって初めての現場にしては些か重過ぎやしないかと、昌吾は内心不平を漏らした。
昨夜、警察に通報があった。このマンションの一〇二号室で、男女の争うような物音がしたという。
それだけでなく、隣の一〇一号室の辺りから、この所異様な臭いがするのだとか。しかし、管理人に苦情を入れても面倒くさがって取り合って貰えず、ずっと放置されたままだったのだそうだ。
どうにもきな臭いと捜査員が駆けつけてみると、死体が見つかった。それも、一つや二つではない。
一〇二号室で見つかった男性の遺体は、遺留品などから都内で営業職を務めている柳葉 数俊(42)と判明した。
柳葉は何者かと揉み合いになった末、現場に落ちていた凶器の包丁で刺殺されたものと見られるが、となると怪しいのはこの部屋の住人だ。
一〇二号室の借主は、この春都内の高校を卒業して、現在無職の女性、雨宮 藍(19)。
柳葉の遺体が発見された浴室から外へと向かう血痕を辿ったところ、彼女は隣室の一〇一号室で発見された。
自身も遺体となって――新たな別の遺体と共に。
「うぐっ……!」
その部屋の扉が開かれると、凄まじい臭気が鼻を衝いた。これまでで一番濃度の高い、最早痛みすら感じるレベルの悪臭だ。
――臭いの元が、そこにあった。
ドス黒い、ヘドロのような粘性の液体がベッドの上に染みを作っている。
液体の中心には、ゴツゴツとした石のようなものが存在していた。――人骨。
死後、数ヶ月。腐敗して液状化した女性の遺体だった。
「げほっ、えほっ」
「おいおい、本当に吐くなよ。気持ちは分かるが」
激しく咳き込む昌吾に、笠松が声を掛けた。
二人は先程一〇二号室に立ち寄り、柳葉の死体を見てきたが、一〇一号室の様相はそれとは比べ物にならない酷さだった。
「一回、外の空気吸っとくか?」
「……いえ、もう大丈夫です」
胃の中身がひっくり返りそうになるのを何とか堪え、昌吾は改めてその部屋の惨状に目を向けた。
寝室だった。ベッドのパイプには、何故か外れた手錠。周囲には沢山の消臭剤が置かれているが、あまりの悪臭に全く用を成していない。
それでも、虫の姿があまりないのは、もしかしたら雨宮 藍が掃除をしていたからかもしれない。
雨宮 藍の遺体は、液状化した遺体のすぐ傍にあった。腹部に負った刺し傷から、死因は失血死だろう。
状況を見るに、おそらく一〇二号室で柳葉 数俊と揉み合いになり、柳葉を殺害した後に、自身も深手を負った雨宮 藍が一〇一号室に逃げ込んだものと思われる。
そこで、最期を迎えた……。
「それにしても、この溶けた遺体は誰なんでしょう」
「雨宮 藍の姉の、雨宮 碧の線が濃厚だな。この部屋の借主だ」
昌吾の呟きを拾って、御子柴が述べた。
「雨宮 碧は三ヶ月前、急に職を辞していたらしい。その後、彼女の姿を見た者が居ない」
「お姉さん……」
瀕死の雨宮 藍が、今際の際に会いに来た相手――そう考えると、それが正しいような気がした。
「けど、何で彼女は死んだんでしょう。それも、三ヶ月も経っていて……雨宮 藍は知っていたのなら、どうして警察に届けなかったんでしょう」
「さぁな。それを調べるのが俺らの仕事だろ。そもそも雨宮 藍が姉を殺して、その事実を隠していた可能性もある」
「そうでしょうか……」
昌吾には、どうもそうは思えなかった。何故なら、雨宮 藍の遺体は、とても安らかな表情をしていたからだ。口元には微かに笑みさえ携えて、幸福感に満ち溢れている。
自分がこれから死ぬというのに、そんな表情が出来るだろうか。増してや、自分が殺した相手を前にして……後悔と苦痛に塗れて死を迎えた者の表情では、決して有り得ない。
もしかしたら彼女は、大好きな姉の傍で最期を迎えられて、幸せだったのかもしれない。
「御子柴警部! 雨宮 藍の寝室の机から、こんなものが!」
その時、隣室から捜査員が駆け込んできた。
彼が掲げたのは、綺麗な花の模様が描かれた封筒――雨宮 碧の遺書だった。
†
警察は雨宮 碧の遺書から知った事実を元に彼女の叔父の家を訪ねてみたが、不思議なことに叔父の遺体はどこからも発見されなかった。
また、その後の捜査で雨宮 藍の部屋からは彼女自身と柳葉以外にも多数の血痕が検出されているが、そのいずれもが遺体や遺留品などは見つかっていない。
ただ、雨宮 藍の携帯端末に残されたマッチングアプリの履歴から、彼女とやり取りをしていた男性が複数人、行方不明になっていることが知れた。
警察は、彼らも柳葉同様、雨宮 藍に殺害されている可能性が高いとした。
また、キッチンの食器や俎板などにも同様の血痕が付着していた事実から、雨宮 藍は被害者の遺体を食していたのではないかと思われる。
一片の骨も残さず、眼球や内蔵に至るまで、綺麗に食べ尽くしていたのだとしたら――遺体が見つからない理由。その推測の悍ましさに、世間は震撼した。
そして、彼女の動機は正にそれだったのではないかという見解が広まった。――すなわち、食べる為に。
雨宮 藍の殺人の本当の動機を知る者は、誰も居ない。
〈了〉
※ミステリー要素有ります。ゾンビものと銘打ってますが、果たしてこれは本当にゾンビものでしょうか?




