―観測者と、歴史の陰で剣を振るった侍―
放課後の教室、帰宅途中の商店街、そして夜空に舞う桜――
そんな日常のすぐそばに、別の世界の扉があるとしたら。
ゲームのようでいて、ゲームではない。
日常のすぐ隣にある“不思議”を、どうぞ楽しんでください。
放課後の家は、静かだった。
玄関で靴を脱ぎ、リビングを覗くと、妹がソファに寝転がり、空中に指を滑らせていた。半透明のウィンドウが、彼女の指の動きに合わせて軽やかに切り替わっていく。
「おかえり」
「ただいま」
それだけのやり取り。特別なことは何もない。
「今日からだっけ、電脳ネット」
妹は画面から目を離さずに言った。
「……うん」
「遅いよ。もうクラスの半分は入ってるって」
責める口調ではない。
ただの事実として告げられただけだった。
電脳ネット。
肉体を電子化し、ネットワークの中へと“移動”する技術。
娯楽、仕事、教育、医療。
あらゆる分野に浸透しすぎて、もはや使わない理由の方が思いつかない。
それでも、ハヤテは一歩踏み出せずにいた。
便利すぎるものは、どこか信用できない。
理由はうまく説明できないが、そんな感覚だけが残っていた。
「夕飯までには戻ってきなよ」
「分かってる」
自室に入り、ドアを閉める。
部屋の隅に設置されたログインユニットの前に立ち、しばらく動けずにいた。
――ゲームだ。
死んでも、戻ってくる。
そう、自分に言い聞かせる。
この装置は、単なる娯楽用ではない。
正式には NEXUS(Neural EXperience Universal System)――
人間の意識を完全に電子化し、広大なネットワーク空間へ転送するための高度なシステムだ。
娯楽や教育、医療、仕事。あらゆる分野に利用され、現実生活とほとんど区別がつかない。
起動操作を行う。
視界が、ほどけた。
重さが消え、身体の境界が曖昧になる。
浮いているような、沈んでいるような感覚。
次の瞬間、足裏に確かな感触が戻った。
石畳。
ひんやりとした感覚。
顔を上げると、夜空から桜の花びらが舞っていた。
風に揺れる提灯の灯り。
木造の建物が連なる通り。
遠くから聞こえる、笑い声と足音。
「……すごいな」
思わず、口から漏れる。
作り物だ。
データだ。
分かっているはずなのに、あまりにも“そこに在る”。
そして気づく。
これは単なるゲームの仮想世界ではない――
AETHER(Advanced Electronic Tele-Realities)の中に存在する、別の“現実”なのだ。
「旅の方?」
声をかけられ、振り返る。
年配の男が、自然な笑みを浮かべて立っていた。
「え、あ……はい」
「桜都は初めてかい」
「はい。今日、来たばかりで」
「そうか。夜は魔物が出る。外に出るなら気をつけな」
NPC――のはずだった。
だが、目の動きも、声の間も、人間そのものだった。
街を歩きながら、ハヤテは何度も同じ違和感を覚えた。
誰もが当たり前のように話し、反応し、生活している。
――ここ、ゲームだよな。
そう思った瞬間、自分がその前提を忘れかけていたことに気づき、背筋が少し冷えた。
街の外に出て、弱そうな魔物を探す。
見よう見まねの戦闘。
操作はぎこちないが、相手の動きを見て、距離を取る。
魔物はその場に倒れ伏した。
次の瞬間、視界の端でノイズが走る。
倒れたはずの肉体が、光に滲むように輪郭を失った――
「……本当に、ゲームだ」
そう呟きながらも、胸の奥に小さな違和感が残る。
倒れた感触は、確かに“生き物”だったはずなのに、視界はそれを認めない。
少しだけ安心した。
ふと気づけば夜は深くなっていた。
森の奥で、空気が変わる。
低く、重い気配。
視界の向こうから現れたのは、これまでの相手とは明らかに違う魔物だった。
「……やば」
逃げようとした瞬間、足がもつれる。
次の一撃で、武器が折れた。
殺意――明確に、こちらを消そうとする意志。
ゲームのはずなのに、喉が鳴る。
――死んでも戻れる。
そう思おうとしても、身体が動かない。
その時だった。
風が、斬れた。
一瞬遅れて、魔物の動きが止まる。
そして、静かに崩れ落ちた。
月明かりの下、男が立っていた。
和装。
腰に刀。
静かな佇まい。
「……大丈夫か」
低く、落ち着いた声。
ハヤテは、しばらく言葉を失ったまま、その背中を見つめていた。
この世界が、
ゲームだということを――
また少しだけ忘れかけながら。
第一話を読んでくださり、ありがとうございます。
ハヤテにとっては初めての冒険、読者の皆さんにとっても未知の世界への第一歩だったかと思います。
最後まで読んでくださったことに心から感謝します。
次回もどうぞよろしくお願いいたします。




