ふと思う。物事を簡潔にすると恐ろしいほど見落としが発生しているのではないかと。
古くから新聞やTVといったメディアがそうであるように、現代のSNSやYoutubeなどの媒体も簡潔にわかりやすく、そしてインパクトのある情報を発信することがマストになっている。
これはマスメディアと一緒で、人が集中できる時間内にインパクトがあり、簡潔である方が伝える側も、伝えられる側も様々な意味で都合がいいからである。
これの究極系がレッテル張りであり、いわゆる『左翼』『右翼』『~主義者』『ナチス』などの属性だろう。
これを悪用すると偏向報道などになる訳だが、私は、私も含め、人は意図せずに偏った知識を発信してしまうのだと考えている。
発信側がわかりやすく伝えようと簡潔にすればするほど、情報というのものは抜け落ちていく。でもそれは致し方ないことでもあると思う。
人間に無限の時間があれば批判されるべきは簡潔な情報を求めてばかりの側になるが、私たちには時間がない。仕事などで疲れた後に面白くないものや、気分が落ち込むものを読んだり、見たりするのは苦痛なのだ。そんなものに対して時間をかけたくないというのも道理だろう。
だからこそ間違えるのだ。発信側も、見る側も、抜け落ちた情報を拾うことなく、どうしようもなく間違ってしまうことがあるのだ。
けれど、そもそも間違いを間違えだと認識しなかったり、言葉足らずだっただけで間違えではないとする人がいる。
また、内心認めたとしても、恐ろしいことに間違いを認め難い状況というものが多く存在する。特に公共の場で発言した内容というものは一般人であっても間違いを認め難い。
なぜなら今まで気づいてきた立場が壊れたり、一方的にレッテル張りされたものが正しいと認識されたりするからだ。
あるいは間違いを否定されることが自分自身のすべてを否定されたと捉えてしまう人間もいたりと、本当に様々な事情で認め難いことが多々あるのだ。
もちろん間違いを認め頭を下げられる人間もいる。
いるのだが、それで許されるかと言えばそうではないことはSNSなどを見れば一目瞭然だろう。
そして次への期待や改善を求める声ももちろんあるだろうが、もっとネガティブな意見が自然と目に入ってしまうのもので、だからこそもっと罰するべきだという声も大きく聞こえてくるのだ。
恐ろしいことだが、こうした抜け落ちたいたり、誤った情報を拾って突き付けてくるのは、突きつけれた側からすると『敵対者』が大半だったりする。何故なら主張している側からすると第三者とは、興味がなく見てすらいない者を指すからだ。
AともBとも違うCの意見者が出たしてもそれは第三勢力であって第三者ではないのだ。
ここに愉快犯だったり、相手の間違えを必要以上になじったりしてストレス発散したりする勢力が入ってきたりと、私たち人間社会はどんな場所にも限らずカオスである。
果たしてこんな世界で間違いを簡単に認められる人がどれだけいるだろうか。
ましてや政治、経済など国の中枢は複雑怪奇になってしかるべきである。何せ間違えを認めると外国の利になり、自国の不利になりかねないし、単純に間違えだと断ずることの出来る問題がどれほどあるのかという事情もあるだろう。
悲しいかな、日本という国は技術はあれど、現在はほとんど輸入に頼っている資源貧困国である。例え複数の国と友好を結ぼうと大国が制裁を下せば恐ろしいほどの効果があるだろう。
そんな状況下で国民の顔色を見ながら、外国に頭を下げ、かつ日本の利益になるよう、コウモリのように立ち回らなければならない中の正解とはいったどんなものなのだろうか。
こうして考えると政治や経済など、複雑に絡み合った答えの見えないことにさえ『簡潔な答え』を私たちは安易に求めてしまうが、そうではないのではないかと思えてくる。
成功者が千差万別であるように、同じことをしても成功者になれないように。世界は複雑に絡まり合い、時に相互に作用したかと思えばしなかったり、反発したりしなかったりと、私たちの求める正解はその時々でうつろうあやふやなものだったりする。
生きているだけで大変な労力を必要とする、私のような学もなければ根性もない人間からすると、恐ろしすぎて触れたくない世界である。
だからこそ考えてしまうのだ。
『明確で簡潔な正しい答え』って何か見落としてない? と。
何がいけないのか、自分の思考の何が問題なのかとか、堂々巡りする思考をしているとどんどんわき道にそれて話がまとまらないんだけど、あるあるだよね?
最近SNS上で物事の考え方が簡潔かつ極端な気がするんだけど、前からかな……。やる人が増えれば増えるほど群集心理で過激化していきそうで、どんな所属とか関係なく怖くなる今日この頃。
感想はレッテル張りや誹謗中傷でなければご自由にどうぞ。