1章1話 運命の出会い
「智溜ー、いい加減起きなさーい。早くしないと遅れるわよー」
母さんの呼ぶ声がして、俺は覚醒しきらない頭でベッド脇の目覚まし時計を手に取る。母さんがの口調からしてまだ六時四〇分くらいだろうと思っていたが、短針は七、長針は二を指し示していた。
俺は素っ頓狂な声を上げる暇もなくベッドから飛び退き、荷物や学校の制服を抱えて階段を駆け下り、すぐに食卓に着く。朝ごはんは普段通り用意されていたが、若干冷めていた。
「いただきます。ってか母さん、何でもっと早く起こしてくれなかたんだよ!」
「私もさっき気づいたけど、リビングの時計がずれてたみたいで…。危うく仕事に遅刻するところだったわよ」
「今まさに息子が学校に遅刻しそうになってるけどな!?」
「そんなことはいいから、朝ごはん食べ終わったら早く行きなさいよ。今から駅に急げばいつもの時間に電車乗れるでしょ?」
俺は母さんとの会話を手短にし、流し込むように朝ごはんを平らげ、歯磨きも簡潔にし、着替えを済ませて荷物を肩に背負った。
「それじゃ、行ってきます」
「行ってらっしゃい。くれぐれも人にぶつかったりしないようにねー」
ゴールデンウイーク明け直後の五月七日、およそ五日ぶりの登校は、その前と比べてうんざりするほど暑く、五月病真っ只中なのと相まって学校へ行くことを余計に面倒だと思わせた。
自宅から徒歩七分、走れば三分前後で到着する駅には人が溢れていて、心なしかいつもより空気が重たいような気がした。ここ近年、ゴールデンウイークに休暇が設けられる企業が急増した所為かもしれない。
いつもの便が発進してしまうまであと二分、これに乗り損ねれば確実に遅刻してしまう。人波をかき分けながら慌ててホームに到着し、さぁ電車に乗り込もう、というところで何者かと正面衝突してしまった。
扉の閉まる合図がホームに鳴り響き、電車は俺が絶望に駆られている間に残響だけを残して消え去っていた。
気まずい。学校に行くのが非常に気まずい。ゴールデンウイーク明け早々遅刻するとは考えもしていなかった。こうなったら、体調が悪くなったことにでもして家に引き返すか…。
「あの、大丈夫ですか?」
柔らかい声がした。心地よいと感じられる優しい声。俺は思わず周りを見回し、そして自分が人と衝突して尻餅をついたままだったことを思い出し、思わず俯いた。
床を見ているはずだった目線の先には、手が差し伸べられていた。血色よく、艶やかで、傷やマメの一切ない綺麗で少し自分のものより小さな手のひらに、俺はつい見とれてしまった。
「あの、本当に大丈夫ですか?頭打ったりして気持ち悪くなったり…とかですか?」
声のする方を見上げて、俺は本当に調子が悪いのではないかと疑った。
目の前の、黒髪ロングで俺より少し背が低め、胸はそこそこで素顔から可愛いその少女は、俺が漫画やアニメ、ゲームの中で求めてきた理想形の美少女そのものだった。
いや、俺はさっき誰かと衝突したタイミングで運悪く電車とホームの間に落下して、死んだのかもしれない。そう考えれば目の前の少女は天使で、俺の理想形そのものであることにも納得がいく。そんなわけはないだろうけど。
俺は有難く差し出された腕を借りて立ち上がった。手は程よく温かくて、スクイーズ級に柔らかい。
「俺は大丈夫だが…。ゴメン、俺がぶつかった所為で電車に乗り遅れて遅刻する羽目になって。どこの高校の生徒かは知らないがこの通り、何でもするから許してくれ」
俺はほぼ九十度のお辞儀をしたが、その娘の方から返事がない。もしかすると、相当怒っているのかもしれない。
「その制服、あなたも東明正高校の生徒ですか?」
「ああ、そうだが」
あなたも、とその娘が口にしてから気がついたが、彼女も俺と同じ高校らしかった。スカートの刺繍の色からして同学年だが、こんな美少女がいたら既に気づけているはずだ。何故今まで気づかなかったのだろう。
「それじゃあ、学校まで案内してもらえますか?」
「え?どういうこと?」
「私、今日から転入なのでまだ通学路のこととかよく分かってないんですよ。なので私を案内していたことを言い訳にすれば遅刻の指導は免れると思いますよ」
「え?そんなことでいいのか?しかも初対面の俺を庇ってくれるってことか!?ありがとうな」
俺はつい少し前まで五月病だの暑さだので今日は学校をサボろうと考えていたけど、理想の美少女をエスコートできるなら嫌でも行くしかないと思った。
もしかすると、彼女は本当に天使なのかもしれない。
警笛が鳴り響き、目の前に滑り込んできた電車に乗り込みつつ話を続行した。
「いえ、私も今一番困っていたことは誰も頼れそうな人がいなかったことですし、それにあなたからは同族の匂いがします」
「同族の匂い?やめてくれよ。俺、自分が汗っかきなのが嫌で仕方ないんだ」
「そういう意味じゃないですよ」
彼女は俺の耳元に顔を寄せてきた。囁く為と分かっていながら、俺はどうしてもドキドキしてしまう。その声を味わい、息遣いを感じるべく全神経を耳に集中させた。
「あなたも魔法、使えますよね?」
予想すらしていなかった言葉を囁かれ、身震いせざるをえなかった。
日本では天下統一が果たされ江戸時代に突入し、江戸幕府による政治が執り行われるようになってから譜代大名にして徳川家の最重要側近とされていた宮坂家による武家諸法度の中の『魔術並妖術禁止令』により、いかなる場合の魔法の行使も禁止され、日本の魔法技術は衰退していった。
更に、戦後に国際連合によって『世界魔法禁止条約』が定められ、全ての国家に批准が強制されたことで魔法を使う者は急激に減少していった。無論、今でも魔法を独自に編み出し犯罪に走る者も多く、それらの防止などの為に本家宮坂家や、イギリスのヴァーラシュ家などは代々魔法を教育し、受け継がれている。
そんな世界でイレギュラーな存在である僕を一目見ただけで見透かすことができるということは、この娘も異常者というわけだ。ただ、俺の〈魔力感知〉には反応がない。
異常者同士の会話になるならば、俺も小声で対応するしかない。
「い、一体何者だ?!俺は他人に危害を加える魔法なんか一切使えないぞ」
「前の学校はお仲間がいなかったので寂しかったんですよ。これから楽しくなりそうです。私は長谷川ルナ、よろしくお願いします」
「お、おう。俺は西島智溜、よろしく。あ、もう駅着いたぞ」
「ならすぐに降りましょう。私たち、一応遅刻しているんですから」
その少女――ルナに腕を引かれ、俺は電車を降りる。長谷川の両腕が俺の左腕に絡めていたで所為、左膝がその胸に当たる。距離が近くて、いい匂いがする。
そんな誘惑ごときで、俺を味方につけようだなんて甘いぞ。毛頭、敵対するつもりも一切ないが。
「もう学校に着きますね。あなたは何系の二年何組ですか?」
「文系で一組だ」
「一組ということは、特進クラスですね?私も文系なんですよ。同じクラスになればいいですね。私、去年一度だけ現代国語の定期テストで学年一位を取ったことがあるんですよ。多分、いえ、ほぼ確実に同じクラスになれますね」
「お、おう…」
俺はこの先、面倒ごとに巻き込まれるのではないか、という不安しか感じられなかった。